鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

『越後過去名簿』から見た和田黒川氏

2020-11-08 17:20:23 | 和田黒川氏
当ブログでは越後奥山庄和田黒川氏についていくつか考察を加えてきたが、高野山清浄心院『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)についての検討が欠けていた。今回は『名簿』の中に見られる黒川氏関係者について考える。『名簿』は中世越後に関する多くの情報を与えてくれるが、その史料的性格についてはさらなる検討を重ねる必要があるともされ(*2)、その点に留意しながらも考察を進めていきたい。


以下は、『名簿』中に見られる黒川氏関係者を年別に分けてまとめたものである。

大永2年
1、4月13日「□窓貞椿大姉 エチコ黒河トノ上様母上立之」(□は糸偏に長)
2、7月13日「道秀 黒川内 金次郎右衛門」

大永5年
3、8月7日「應泉 ヲク山ノ庄落合又三良」

黒川盛実の活動時期にあたる大永年間には上記が確認できる。1にある「黒川トノ」は黒川盛実であろう。よって、供養依頼者は盛実の妻の母親ということになる。

3にみられる落合氏については、『色部年中行事』(*3)に「落合主馬丞、かの方黒川より罷り出でられ候」「黒川においても親類に被渡候」とあることから、黒川氏の親類であるとわかる。文明12年に落合大炊助実秀が見られるから(*4)、落合又三郎はその後裔にあたる。

佐藤博信氏の研究(*5)によって、落合氏は少なくとも『色部年中行事』の成立した天正期頃までに黒川氏の支配を脱して色部氏に従属する存在であることが指摘されている。『色部氏家中覚』において「落合彦四郎」が見られることもそれを示している。


享禄2年
4、1月27日「祐貞 黒川宝光院為母義」
5、1月27日「玉峰 黒川小山家中」
6、6月13日「舜通 黒川壽高庵立」(同行に「金芳四月十六日 光久二月廿四日」とある)
7、6月16日「洗心松公大姉 越後黒川トノ上サマ」
8、6月25日「應貞舜叟庵主 逆 黒川但州」(「貞」の横に「真」と書かれる)
9、7月1日「香林磐公 黒川御料人立之」
10、8月8日「花窓 黒川宝光院母義タメ 落合後家 霊」
11、8月10日「宗舜上座 黒川小山内義」
12、9月16日「量宝壽公 黒川但州立之」

享禄年間は黒川盛実と清実の代替わりの頃である。享禄4年には清実の活動が所見される。4、10では、黒川宝光院なる人物の母が供養されている。重複している理由は不明である。供養者は「落合後家」である。推測すれば、落合氏に嫁ぐも未亡人となっていた黒川宝光院の同腹姉妹がその母を供養したということになる。ここに3でも見た落合氏と黒川氏の親類関係が確認できる。3と時期が近いことからこの後家の夫は落合又三郎の可能性がある。

5、11は黒川氏の被官小山氏の関係者である。小山氏は文明12年に小山八木丸が(*6)、永正16年には小山実繁がみえる(*7)。11は小山氏の妻を供養していることがわかる。時期的にみて実繁かその次代の妻であろう。

6は供養依頼者として黒川壽高庵という人物が確認される。4、10でみえる黒川宝光院と共に他に所見のない人物であり、『名簿』により黒川氏一族の構成の一端を見ることができると言えよう。

7は1でみられた盛実の妻である。

8は黒川但馬守なる人物の逆修依頼である。逆修は生前供養を意味する。12では但馬守が供養依頼者となっている。「黒川但馬守」は永禄11年上杉輝虎書状(*8)の宛名に確認できる。ただ、享禄2年とは約40年離れているから両者は別人であろう。黒川氏に但馬守家と言うべき庶家が存在していたことがわかる。

9は黒川御料人すなわち黒川氏の娘が供養依頼者となっている。清実の初見される前の時期であるから、盛実の娘である。ただ、「香林磐公」は19に見られるように天文16年に供養された記録もあり、何かしら誤りがありそうである。


天文5年
13、3月1日「芳春 黒川 ハマサキ左京亮立」

13に供養依頼者として見られる浜崎左京亮は黒川氏被官である。文明12年に浜崎美作守助儀が(*6)、永正16年には浜崎実広が所見される(*7)。左京亮は実広本人もしくはその関係者であろう。


天文7年
14、6月8日「芳室 黒河内 ヒクニ立之」
15、6月15日「道善 黒河ハマサキ左京亮立之」
16、6月15日「實英秀公 黒河片野三良左衛門」
17、6月18日「道階 黒河濱崎トノ子息与七郎」

14は「内」が内儀を表すのであれば供養された者は黒川清実の妻ということになる。ただ単に22、23で見られるような黒川家中を表す語である可能性もある。16は詳細不明である。

15、17は浜崎左京亮に関する供養依頼である。左京亮の子与七郎が死去したことがわかる。


天文16年
18、2月28日「徳厳宗円居士 黒河右兵衛尉立之」
19、7月1日「香林磐公 カンハラ郡黒河右兵衛尉立 御息四郎殿立之」
20、7月21日「潮鴇應調査庵主 黒河右兵衛尉トノ 直立之 逆」
21、7月21日「平實 黒河四郎次良トノ 直立之 逆」
22、7月21日「芳春 黒河之内前嶋玄蕃助 逆」
23、11月4日「了徳 黒河内前嶋玄蕃助」
24、12月13日「珎綱尼 黒河右兵衛尉立 霊」

18、19、24で供養依頼をしているのは黒川右兵衛尉清実である。20において逆修依頼をしている。

22、23は黒川家中の前嶋玄蕃助に関係したものである。


19、21にみられる黒川四郎次郎は清実の次代として天文から弘治にかけて所見される武将である。清実の実子であることが19から確実となる。さて、この四郎次郎は天文21年黒川実氏書状案(*9)で知られる人物であり、実名「実氏」はその書状案にある後世の張紙を根拠としているに過ぎない。ただ、他に実名を確認できないため当ブログでも「黒川実氏」と考えてきた。

そこで注目したいのが、四郎次郎が逆修を依頼している21「平實 黒河四郎次良トノ 直立之 逆」である。通常、戒名が記載されその下に俗名や供養依頼者が記されるが例外も存在する。例えば、享禄4年5月3日の日付をもつ「家綱 新左衛門尉 逆 水原木野」と言う記載は、戒名ではなく新左衛門尉家綱という俗名で逆修が依頼され、天文22年10月には上条上杉頼房が俗名で供養されていることが確認される。

その上で、黒川四郎次郎の記載21を見てみると、「平實(平実)」が実名である可能性があると考えられる。もちろん「実」字は黒川氏の通字であり、それを後方に置く実名は「実氏」よりもふさわしい。盛実、清実らの活動時期から推定して天文16年当時、四郎次郎は20歳前後の若者であったと思われ、俗名で記された理由であろう。

確実な史料において実名が確認されない天文~弘治期の黒川四郎次郎について、その名が「黒川四郎次郎 平実」であったのではないか、という仮説を提示しておきたい。


ここまで、供養の記録を個別にみてきたが、次ぎにその記録が特定の年次に偏っている点について考察したい。

前嶋敏氏(*2)は、「とくに供養依頼が集中している年に複数の供養依頼を行っている武将は権力中枢に近いことが想定される。」としている。天文16年は全体としても供養依頼が多い年であった。さらに前嶋氏は、黒川氏の場合は府内長尾氏の元で活動していた直江氏との関係が背景にあると想定している(*11)。

よって、黒川氏が天文後期に府内長尾氏と協調関係にあり大きな影響力を持っていたことが推測される。その契機となったのは、伊達入嗣問題から続く揚北衆の混乱、であろう。享禄・天文の乱において揚北衆の中心的存在は和田中条氏であった。しかし、中条氏は天文10年前後における伊達入嗣問題とそれによる紛争において府内長尾氏と対立、結果居城鳥坂城を攻撃されるに至る。天文10年の長尾為景の死去後、長尾晴景の支配が本格的に開始される時点で中条氏は府内長尾氏体制から脱落していたと考えられ、実際『名簿』に和田中条氏の記載はほとんどない(*12)。

天文後期に中条氏に代わり揚北衆の中で存在感を強めたのが、黒川清実だったと想定できる。清実は伊達入嗣問題前後の混乱期において一貫して府内長尾氏派であったと推定され、黒川実氏案文(*8)からは黒川氏が他家の問題に介入していく様子も窺われる。後世の所伝類が清実の名ばかり伝えているのも、清実の代における黒川氏の隆盛が著しかったことが理由の一つにあるかもしれない(*13)。

長尾晴景期において、黒川氏は親長尾氏派としてその影響力を強めていたと考えられる。為景期、謙信期に比して史料の少ない晴景期において、『名簿』から黒川氏の当時の勢力を知ることができると言えるだろう。


以下は和田黒川氏と関係する寺社の人々を供養している記録を抜粋したものである。参考として掲載する。
永正16年
11月2日「宗仲 ヲク山庄キノトノ地蔵院」
奥山庄乙(キノト)地蔵院を意味する。
大永3年
7月15日「秀海 貞菊 黒川羽黒別当少弐立」
大永6年
5月21日「芳椿 カンハラ郡女川 十地院 長橋大上」
5月21日「妙心 中条ツツミヲカ十地院」
「ツツミオカ」は鼓岡である。
大永8年
6月15日「妙光 乙宝寺吉祥坊内」
乙宝寺には大永4年に黒川盛実が華鬘を寄進している。
享禄2年
5月12日「法印権大僧都宗鑁 乙宝寺報恩寺立之」
享禄4年
3月21日「権大僧都法印 宗雅 越後黒河蔵王堂別当立之」
現在黒川城近くに蔵王権現遺跡がある。
天文21年
日付無「快敬秀導 乙宝寺学頭菩提」
天正14年
10月14日「月はい俊憲 越後国ノッタリ郡キノト住僧」
ノッタリは沼垂のことである。乙(キノト)の地蔵院関係者か。


*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要第9号』)
*2)前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(『上杉謙信』高志書院)
*3)『新潟県史』資料編4、2361号
*4)同上、1332号山之庵喜栄等五名連署起請文、ここに「可奉仰惣領候」ともありその関係がうかがわれる。
*5)佐藤博信氏「『色部年中行事』について」(『越後中世史の世界』岩田書院)
*6)同上、1337号黒川氏実家中諸士連署起請文
*7)同上、1858号
*8)同上、2324号
*9)同上、1482号
*11)前嶋氏は(*2)において直江氏と黒川氏の関係について直江氏を主、黒川氏を従とする主従関係としているが、これは首肯できない。直江氏は黒川氏と府内長尾氏の間を繋ぐ「取次」としての役割であろう。これは、永禄12年の中条氏との相論に際して、直江景綱が「黒川方被申事候、惣而拙夫彼方取告をも致之付」と述べていることからもわかる(『新潟県史』資料編4、1901号)。
*12)『名簿』に「中条」の記載は多々あるが、「ツマリ中条」とあるように妻有を拠点とする別系統の中条氏である割合が高い。
*13)これは中条氏にも同様のことが言える。景資や房資は見過ごされ、藤資の事績ということにされることが多い。他にも桃井義孝や加地春綱などでもそれは言える。共通点として享禄4年の越後衆軍陣壁書に署名していることが挙げられるから、史料残存の偏差という点も見過ごせない。


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