永禄4年に庄田定賢が死去した後の庄田氏を見ていく。ちなみに河田長親に関する文書が多く出てくるが、当時河田長親は所領、家臣団などの栖吉長尾氏権力を継承していた。
1>庄田惣左衛門
[史料1]永禄12年11月16日庄田惣左衛門宛河田長親宛行状(『上越市史』別編1、834号)
河田長親が「恩料所」として庄田惣左衛門に越中布施保の蛇田村を与えている。
[史料2]元亀3年閏1月22日庄田惣左衛門宛河田長親宛行状(『上越市史』別編1、1086号)
長親から惣左衛門へさらに魚津近辺において所領を与えられている。
庄田定賢の死後にも庄田惣左衛門が見える。その名乗りから定賢の後継者と考えられ、実際『庄田甚五右衛門由緒』(以下『由緒』、前記事で詳解)では定賢の子と伝えられている。便宜上、二代目惣左衛門と呼びたい。上記の文書より栖吉衆として河田長親に属する存在であったことがわかる。謙信の旗本としての活動は見られない。旗本として活躍した定賢の政治的地位をそのまま継承したわけではないようだ。
二代目惣左衛門は[史料2]以降所見がない。『由緒』によれば、越中砺波郡「柴野五郎左衛門」の拠点を攻めた際に戦死したという。その年次は不詳である。
2>庄田鍋丸
[史料3]天正6年7月16日庄田鍋丸宛河田禅忠宛行状(『上越市史』別編2、1581号)
古志替地として「四百(俵カ)所」を宛行われている。魚津を拠点としていた河田氏勢力が御館の乱の混乱で古志郡の所領の維持が困難となったと考えらえる。
[史料4]天正6年7月16日下条源四郎宛河田禅忠知行小日記(『上越市史』別編2、1582号)
越中入善金沢之内五郎右衛門前64.5俵を「庄田なへ丸」が下条源四郎と相給
天正6年以降は庄田鍋丸の所見が見られるようになる。史料から河田長親の傘下であることが明らかであるから、栖吉衆庄田氏を継承した二代目惣左衛門の系統であると考えられる。『由緒』に見える、二代目惣左衛門の孫「惣左衛門」にあたる人物と考えられる。この「惣左衛門」は、上杉景勝に従い天正18年豊臣秀吉の小田原征伐のために18歳で関東出陣したとあり、天正6年時には6歳となる。幼名鍋丸を名乗っていたとすれば、妥当である。『由緒』は二代目惣左衛門と鍋丸の間の人物を「右京」とし、越中今泉で戦死したと伝えている。二代目惣左衛門が戦死したのちその次代右京も間もなく戦死してしまったため、右京の子鍋丸が幼くして跡を継ぐことになったのだろう。『由緒』には、庄田惣左衛門を名乗った鍋丸は小田原征伐、奥州出陣、大坂の陣など豊臣政権、江戸幕府下における上杉氏の軍事行動に従い、その後死去したことが伝えられている。『由緒』として伝えられていることからも、この血筋が米沢藩庄田氏の系統ということになる。
文書上河田長親との関係が目立ち、知行宛行を受けておりその関係は気になるところである。河田長親の研究は栗原修氏(*1)に詳しい。栗原氏によると栖吉衆に対する知行宛行は長親の自身の知行地支配の一環と考えられ、庄田惣左衛門、鍋丸との主従関係が見えるという。[史料4]には「諸役等之儀者可為如前々」とあり、そういった関係性が以前より続いていたことがわかる。これは長親が栖吉長尾氏を継承してから続いていたと想定でき、鍋丸の系統は栖吉長尾氏の家臣として存在していたことがわかる。
3>庄田越中守
[史料5]元亀3年9月18日山吉豊守等宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1、1122号)
越中で活発に活動していた一向一揆勢力と本格的な戦闘が生じていた頃の文書。越中国境の守備について言及しているが、根地城へ黒滝衆、本庄清七郎、開発氏は春日山へ帰還させ、庄田越中守を不動山城へ派遣するとある。
[史料6]天正6年5月23日吉益伯耆守宛上杉景勝感状(『上越市史』別編2、1513号)
同年5月初頭に勃発した御館の乱にあたり、景勝が吉益氏へ「庄田越中守跡職」を約束している。越中守がこの時までに死去していたか、上杉景虎に味方し没落した事態が想定される。
[史料5]の内容は謙信の旗本の動向に関する記述であり、庄田越中守も旗本に属する武将であったと想定される。二代目惣左衛門の所見と同時期であり、この頃栖吉衆庄田惣左衛門と旗本庄田越中守の二系統の庄田氏が存在したことがわかる。推測にすぎないが、定賢権力は定賢の死後に二代目惣左衛門が栖吉衆、越中守が旗本として分割して継承された可能性を考える。
3>庄田隼人佑
[史料7]元亀4年4月20日上条政繁等宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1、1149号)
武田氏との緊張に伴い「人留」が実施され、通行には「約束之判」を必要とした。前線の重臣と上杉謙信とのやり取りを庄田隼人が担当した。
[史料8]元亀4年5月14日庄田隼人佑宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1、1158号)
越後・越中国境の海岸線で椎名氏牢人が海賊行為を働き問題になっていたため、謙信は庄田隼人佑らに鉄砲装備して警備を厳重にするよう命じた。宛名は「殿」敬称であり、旗本河隅忠清と併記される。
[史料9]天正10年7月29日岩舟入道宛上杉景勝補任状(『上越市史』別編2、2494号)
岩舟氏へ境料所代官職を「庄田隼人佐」の策配のように申しつけている。さらに、「隼人佐」の知行、被官以下も与えるとのこと。「佐」は佑の誤りで、[史料8.9]に見える庄田隼人佑のことだろう。隼人佑が境料所という直轄地の代官であったことがわかり、そのような背景のもとで「境料所」の警備にあたっていたのであろう。隼人佑は料所つまり上杉氏直轄領の管理にあたっていたのであり、その立場はやはり旗本、直臣とみてよいだろう。ここで知行、被官が岩船氏に引き継がれていることから、この時までに死去、没落していた可能性が高い。
[史料10]天正10年7月29日岩舟一策斎宛直江兼続条書(『上越市史』別編2、2495号)
庄田氏らの足軽の代飯分として出しおかれていた領地に検地を入れ、足軽分に代飯を調整することを岩船氏へ命じる。[史料9]関連した文書であることがわかる。
文書の内容から庄田隼人佑も旗本として活動した庄田氏と考えられる。 [史料6]、[史料9、10]を見ると没落した天正6年以降も越中守と隼人佑が区別されていることから、同一人物が名乗りを変えたわけではなく、それぞれ別人であったと推測できる。文書から見ると、元亀年間を境に旗本庄田氏の活動主体が越中守から隼人佑へ移行した可能性が窺える。推測にすぎないが、庄田定賢の次世代に旗本系統の越中守が位置し、その立場をさらに次代の隼人佑が継承したと考えられるのではないか。
上杉景勝より所領やその利権が没収されていることから、御館の乱を契機に没落したと考えられる。興味深い所見として『山田庄左衛門由緒』がある。それによると、御館の乱のとき上杉景勝方の山田彦右衛門が上杉景虎方の「庄田彦六兄弟」を討取ったという。彦六なる人物は文書上で確認できないが、越中守・隼人佑の系統は御館の乱において景虎方に味方し没落した可能性が想定される。
>その他
[参考]天正9年11月晦日上杉景勝朱印状(『上越市史』別編1、2211号)
別山之内、「庄田勘解由分」などが直海氏へ与えられている。庄田勘解由については不明である。所領を没収されていることから既に死去、没落が想定される。
ここまで、庄田定賢死後の庄田氏の動向について確認した。その結果、定賢権力は栖吉衆としての庄田氏、旗本・直臣としての庄田氏の二系統に分岐して継承された可能性が想定された。前者はその後米沢藩庄田氏として存続、後者は御館の乱において没落したことが推測された。
*1)栗原修氏「上杉氏の隣国計略と河田長親」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)