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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

永禄4年以降における庄田氏の動向

2025-08-31 14:29:45 | 庄田氏
永禄4年に庄田定賢が死去した後の庄田氏を見ていく。ちなみに河田長親に関する文書が多く出てくるが、当時河田長親は所領、家臣団などの栖吉長尾氏権力を継承していた。


1>庄田惣左衛門
[史料1]永禄12年11月16日庄田惣左衛門宛河田長親宛行状(『上越市史』別編1、834号)
河田長親が「恩料所」として庄田惣左衛門に越中布施保の蛇田村を与えている。

[史料2]元亀3年閏1月22日庄田惣左衛門宛河田長親宛行状(『上越市史』別編1、1086号)
長親から惣左衛門へさらに魚津近辺において所領を与えられている。

庄田定賢の死後にも庄田惣左衛門が見える。その名乗りから定賢の後継者と考えられ、実際『庄田甚五右衛門由緒』(以下『由緒』、前記事で詳解)では定賢の子と伝えられている。便宜上、二代目惣左衛門と呼びたい。上記の文書より栖吉衆として河田長親に属する存在であったことがわかる。謙信の旗本としての活動は見られない。旗本として活躍した定賢の政治的地位をそのまま継承したわけではないようだ。

二代目惣左衛門は[史料2]以降所見がない。『由緒』によれば、越中砺波郡「柴野五郎左衛門」の拠点を攻めた際に戦死したという。その年次は不詳である。

2>庄田鍋丸
[史料3]天正6年7月16日庄田鍋丸宛河田禅忠宛行状(『上越市史』別編2、1581号)
古志替地として「四百(俵カ)所」を宛行われている。魚津を拠点としていた河田氏勢力が御館の乱の混乱で古志郡の所領の維持が困難となったと考えらえる。

[史料4]天正6年7月16日下条源四郎宛河田禅忠知行小日記(『上越市史』別編2、1582号)
越中入善金沢之内五郎右衛門前64.5俵を「庄田なへ丸」が下条源四郎と相給


天正6年以降は庄田鍋丸の所見が見られるようになる。史料から河田長親の傘下であることが明らかであるから、栖吉衆庄田氏を継承した二代目惣左衛門の系統であると考えられる。『由緒』に見える、二代目惣左衛門の孫「惣左衛門」にあたる人物と考えられる。この「惣左衛門」は、上杉景勝に従い天正18年豊臣秀吉の小田原征伐のために18歳で関東出陣したとあり、天正6年時には6歳となる。幼名鍋丸を名乗っていたとすれば、妥当である。『由緒』は二代目惣左衛門と鍋丸の間の人物を「右京」とし、越中今泉で戦死したと伝えている。二代目惣左衛門が戦死したのちその次代右京も間もなく戦死してしまったため、右京の子鍋丸が幼くして跡を継ぐことになったのだろう。『由緒』には、庄田惣左衛門を名乗った鍋丸は小田原征伐、奥州出陣、大坂の陣など豊臣政権、江戸幕府下における上杉氏の軍事行動に従い、その後死去したことが伝えられている。『由緒』として伝えられていることからも、この血筋が米沢藩庄田氏の系統ということになる。

文書上河田長親との関係が目立ち、知行宛行を受けておりその関係は気になるところである。河田長親の研究は栗原修氏(*1)に詳しい。栗原氏によると栖吉衆に対する知行宛行は長親の自身の知行地支配の一環と考えられ、庄田惣左衛門、鍋丸との主従関係が見えるという。[史料4]には「諸役等之儀者可為如前々」とあり、そういった関係性が以前より続いていたことがわかる。これは長親が栖吉長尾氏を継承してから続いていたと想定でき、鍋丸の系統は栖吉長尾氏の家臣として存在していたことがわかる。

3>庄田越中守
[史料5]元亀3年9月18日山吉豊守等宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1、1122号)
越中で活発に活動していた一向一揆勢力と本格的な戦闘が生じていた頃の文書。越中国境の守備について言及しているが、根地城へ黒滝衆、本庄清七郎、開発氏は春日山へ帰還させ、庄田越中守を不動山城へ派遣するとある。

[史料6]天正6年5月23日吉益伯耆守宛上杉景勝感状(『上越市史』別編2、1513号)
同年5月初頭に勃発した御館の乱にあたり、景勝が吉益氏へ「庄田越中守跡職」を約束している。越中守がこの時までに死去していたか、上杉景虎に味方し没落した事態が想定される。

[史料5]の内容は謙信の旗本の動向に関する記述であり、庄田越中守も旗本に属する武将であったと想定される。二代目惣左衛門の所見と同時期であり、この頃栖吉衆庄田惣左衛門と旗本庄田越中守の二系統の庄田氏が存在したことがわかる。推測にすぎないが、定賢権力は定賢の死後に二代目惣左衛門が栖吉衆、越中守が旗本として分割して継承された可能性を考える。

3>庄田隼人佑
[史料7]元亀4年4月20日上条政繁等宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1、1149号) 
武田氏との緊張に伴い「人留」が実施され、通行には「約束之判」を必要とした。前線の重臣と上杉謙信とのやり取りを庄田隼人が担当した。

[史料8]元亀4年5月14日庄田隼人佑宛上杉謙信書状(『上越市史』別編1、1158号) 
越後・越中国境の海岸線で椎名氏牢人が海賊行為を働き問題になっていたため、謙信は庄田隼人佑らに鉄砲装備して警備を厳重にするよう命じた。宛名は「殿」敬称であり、旗本河隅忠清と併記される。

[史料9]天正10年7月29日岩舟入道宛上杉景勝補任状(『上越市史』別編2、2494号) 
岩舟氏へ境料所代官職を「庄田隼人佐」の策配のように申しつけている。さらに、「隼人佐」の知行、被官以下も与えるとのこと。「佐」は佑の誤りで、[史料8.9]に見える庄田隼人佑のことだろう。隼人佑が境料所という直轄地の代官であったことがわかり、そのような背景のもとで「境料所」の警備にあたっていたのであろう。隼人佑は料所つまり上杉氏直轄領の管理にあたっていたのであり、その立場はやはり旗本、直臣とみてよいだろう。ここで知行、被官が岩船氏に引き継がれていることから、この時までに死去、没落していた可能性が高い。

[史料10]天正10年7月29日岩舟一策斎宛直江兼続条書(『上越市史』別編2、2495号)
庄田氏らの足軽の代飯分として出しおかれていた領地に検地を入れ、足軽分に代飯を調整することを岩船氏へ命じる。[史料9]関連した文書であることがわかる。

文書の内容から庄田隼人佑も旗本として活動した庄田氏と考えられる。 [史料6]、[史料9、10]を見ると没落した天正6年以降も越中守と隼人佑が区別されていることから、同一人物が名乗りを変えたわけではなく、それぞれ別人であったと推測できる。文書から見ると、元亀年間を境に旗本庄田氏の活動主体が越中守から隼人佑へ移行した可能性が窺える。推測にすぎないが、庄田定賢の次世代に旗本系統の越中守が位置し、その立場をさらに次代の隼人佑が継承したと考えられるのではないか。

上杉景勝より所領やその利権が没収されていることから、御館の乱を契機に没落したと考えられる。興味深い所見として『山田庄左衛門由緒』がある。それによると、御館の乱のとき上杉景勝方の山田彦右衛門が上杉景虎方の「庄田彦六兄弟」を討取ったという。彦六なる人物は文書上で確認できないが、越中守・隼人佑の系統は御館の乱において景虎方に味方し没落した可能性が想定される。

>その他
[参考]天正9年11月晦日上杉景勝朱印状(『上越市史』別編1、2211号)
別山之内、「庄田勘解由分」などが直海氏へ与えられている。庄田勘解由については不明である。所領を没収されていることから既に死去、没落が想定される。


ここまで、庄田定賢死後の庄田氏の動向について確認した。その結果、定賢権力は栖吉衆としての庄田氏、旗本・直臣としての庄田氏の二系統に分岐して継承された可能性が想定された。前者はその後米沢藩庄田氏として存続、後者は御館の乱において没落したことが推測された。


*1)栗原修氏「上杉氏の隣国計略と河田長親」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』岩田書院)

庄田定賢の動向

2025-06-22 19:38:52 | 庄田氏
戦国期越後における庄田氏において、庄田内匠助の次代に現れる人物が庄田惣左衛門尉定賢である。今回は、定賢について検討したい。

1>文書
[史料1]天文17年9月9日庄田惣左衛門尉等宛長尾景虎書状(『上越市史』別編1、237号) 
小越平左衛門尉と共に栃尾城を守備するように長尾景虎より指示されている。当時、栖吉長尾氏を継承し栃尾城を本拠として長尾景虎の重臣として活動していたと推測される。また、私は同時期の庄田定賢の動向は上田長尾政景との抗争に関連していると推定している。詳細は以前の記事参照(上田長尾政景の乱 再考 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。

[参考1]天文17年9月23日福王寺氏等宛長尾景虎書状(『上越市史』別編1、36号)
上田長尾政景との対立にあたり、下倉城将福王寺氏らへ栃尾城の庄田らとの連携し守備するように指示している。

[史料2]
天文18年2月21日庄田惣左衛門尉宛長尾景虎書状(『上越市史』別編1、231号 )
上田長尾政景の乱による抗争に対応して、庄田定賢は真板倉城に在城しており景虎が固く守備するよう指示している。

[参考2] 天文18年12月12日宇佐美定満書状(『上越市史』別編1、100号)
文中「庄田方」が取次として対応している。平子氏と宇佐美氏の所領問題にあたり、宇佐美氏は定賢を通して長尾景虎中枢へ訴えていたことがわかる。

[史料3]天文21年10月22日庄田惣左衛門尉宛長尾景虎書状(『上越市史』別編1、97号)
景虎が関東出陣における定賢の活躍を賞している。

[史料4]天文21年10月22日庄田惣左衛門尉宛本庄実乃等三名連署状(『上越市史』別編1、98号)
[史料3]と同様の内容。

[史料5]天文23年3月13日本誓寺宛庄田定賢等連署状(『上越市史』別編1、112号)
前年長尾景虎の上洛に関連して、通行の便宜を図ってくれた加賀本誓寺に謝意を表している。本庄宗緩との連署であり、定賢が景虎政権の政治中枢を担う存在でもあったことが示唆される。当文書で実名「定賢」が明らかになる。

[史料6]弘治2年8月14日庄田惣左衛門尉宛長尾景虎書状(『上越市史』別編1、135号)
大熊朝秀の乱にあたり、景虎が鎮圧のため出陣した定賢に対応を指示している。

[史料7]弘治2年9月1日庄田定賢等三名連署段銭請取状(『上越市史』別編1、138号)
定賢が蔵田秀家、某貞盛と共に段銭請取状に署名している。

[史料8]永禄元年10月晦日庄田定賢等三名連署段銭請取状(『上越市史』別編1、160号)
定賢が某景資、某貞盛と共に署名している。

[史料9]永禄2年2月23日庄田定賢等三名連署段銭請取状(『上越市史』別編1、162号)
定賢が某長資、某貞盛と共に署名している。

[参考3]天文18年石田惣左衛門尉宛長尾景虎安堵状(『上越市史』別編1、16号)
「石田」を庄田の誤記とされることもあるが、実際に石田惣左衛門尉という定賢とは異なる人物であると考えられる。伝来も他の関連文書との共通点はなく、低い宛名の位置や「候也、仍如件」という表現は定賢宛とするには薄礼であるように思える。『越後過去名簿』には府内の「石田宗左衛門」という人物が天文23年に生前供養を行っている記録があり、時期から見ても宛名の人物はこの府内の有力者石田氏であると見られる。

[参考4]庄田甚五右衛門由緒
一、謙信様より先祖江被下置候御書四通、于今所持候、
一、先祖惣左衛門、於信州河中嶋御一戦之時、馬を入候而討死仕申候事
一、謙信様加州江御出陣之砌、惣左衛門子庄田惣左衛門、越中となミ之郡内柴野五郎左衛門城御責之時、是も討死仕候事
一、惣左衛門子右京、越中太田之庄今泉之城主ニ被差置、其地ニ而是も討死仕候事
右京子惣左衛門十八歳、関東御陣ニ罷立、其後奧州御陣、大阪両御陣御供仕御奉公申上、其後惣左衛門死去仕、惣領市兵衛跡式被 仰付候而、市兵衛相果、実子無御座ニ付而、弟弥次兵衛ニ名跡被 仰付、御奉公仕相果申候、実子無御座候付、私儀五十騎之内志賀善左衛門世倅ニ御座候、養子ニ仕付而、弥次兵衛跡式被仰付十三ヶ年御奉公申上候、以上

江戸初期に米沢藩が編纂した先祖書によると「庄田惣左衛門」が信濃川中島合戦で戦死したとあり、定賢のことと考えられる。『上杉御年譜』にも永禄4年9月の川中島合戦で戦死した者の中に庄田惣左衛門の記載がある。永禄4年以降定賢の所見がないことを見ても、定賢は永禄4年9月の川中島合戦で戦死したと見られる。ちなみに、先祖書に見える四通の伝来文書とは米沢藩庄田氏に伝わる [史料1,2,3,6]のことであろう。

2>その存在形態
定賢で興味深いことは、栖吉長尾氏家臣でありながら景虎が守護代長尾氏を継承した後も直臣として所見される点である。定賢宛文書では全て「殿」敬称である一方、[史料1]で栖吉長尾氏家臣として並んで見えた小越氏はその後「との」敬称で見え陪臣扱いとなっている。

しかも定賢は単なる一家臣ではなく、本庄宗緩と連署し外交文書を発給したり、段銭徴収など財政面にも関わるなど、その政治中枢において重要な立場を担っていたことがわかる。もちろん、長尾政景の乱や関東出陣、大熊朝秀の乱、川中島合戦など主要な軍事イベントでの活躍も見過ごせない。のちに河田長親や直江景綱などが長尾景虎(上杉謙信)を軍事外交両面で支える側近的存在として台頭してくるが、景虎と栖吉長尾氏時代からの主従で信頼もあったであろう定賢は景虎政権初期においてそれに近い存在であったといえるのではないか。

もちろん、[史料6]では出陣した定賢へ「小越・平林ニも可申へく候事」と栖吉長尾氏時代の同僚小越平左衛門尉らとのつながりも示す文書も残っている。定賢以降に庄田氏が栖吉衆河田長親の傘下として見えることからも、定賢が栖吉長尾氏家臣時代の基盤も維持しながら景虎の重臣として活動していたことが類推されよう。

庄田内匠助の動向

2025-06-15 11:48:57 | 庄田氏
戦国期越後において、主に栖吉長尾氏の家臣として庄田氏が見える。

庄田氏の初見は庄田内匠助である。実名は不明。年次が確実な史料では大永3年閏3月10日大熊政秀書状[史料1]、享禄2年2月21日大熊政秀書状[史料2]がある。年不詳12月10日大熊政秀書状[史料9]からは永正期からの活動が推測される。年不詳三宅政家書状[史料7]では古志の在地勢力である三宅氏が「房景様之御家風同前に可走」ことを望み、内匠助へ「貴所の御しなんひとへにたのミ入候」と栖吉長尾氏への取次を依頼している。このことからこの時既に庄田氏は栖吉長尾氏の有力な被官として存在したことがわかる。これは年不詳伊予部顕資書状[参考3]に「従郡内いろいゆめゝ不可有之由、大関・庄田・只見両三人はうへ、御一札を被成候はゝ、忝可奉存候」=古志郡内に綺がないように大関・庄田・只見の三人に伝えてほしいとあり、古志郡司栖吉長尾氏の重臣として大関氏・只見氏と並んで庄田氏が挙げられていることからも理解される。時期的に伊予部氏書状における「庄田」も内匠助で間違いないだろう。以下、庄田内匠助に関連する書状を示しておく。

[史料1]大永3年閏3月10日庄田内匠助宛大熊政秀書状(『新潟県史』資料編3、459号)
「御家風屋敷」について内匠助と越後上杉氏家臣大熊氏がやり取り。越後上杉氏と栖吉長尾氏との何らかの交渉に関する文書であろう。

[史料2]享禄2年2月21日庄田内匠助宛大熊政秀書状(同上、457号)
「御合宿中」なる集団を「当地」(=越後府中か)へ召し寄せるよう内匠助が求められている。これも栖吉長尾氏の家臣統制について越後上杉氏家臣が交渉している様子が窺える。

[史料3]年不詳2月27日庄田内匠助宛山吉政久書状(同上454号)
「人頭雑物」を返還しさらに「長谷川」を成敗したことについて、山吉氏から感謝されている。そのまま捉えれば、山吉氏領内で横領に及んだ長谷川氏が隣接する栖吉長尾氏領内へ逃亡したが、山吉氏に協力する栖吉長尾氏により解決したと考えらえられる。文中から栖吉長尾氏家臣として山吉氏との交渉に、大関氏と共に内匠助があったたことがわかる。

[史料4]年不詳4月8日庄田内匠助宛大熊政秀書状(同上458) 
蜷川氏の名跡について栖吉長尾氏、越後上杉氏間で交渉があったようで内匠助が担当している。

[史料5]年不詳5月25日庄田内匠助宛河上久能書状(同上461)
栖吉長尾氏領近辺の小領主と思われる河上氏が「御近所義」により「御扶助」がもらえれば栖吉長尾氏へ「奉公」する意思を示している。栖吉長尾氏側の取次として内匠助が交渉をしていると考えられる。いわゆる国衆レベルの領主が近隣の小領主を庇護する形で内包し増大していく過程がよく表れているといえる。

[史料6]年不詳9月5日庄田内匠助宛三宅政家書状(同上455号)
古志郡の小領主と思われる三宅氏が栖吉長尾氏へ、「御扶助」を受け「御家風同前ニ可走廻候」ことを伝えている。[史料5]の河上氏と同様のケースと思われる。栖吉長尾氏側の取次として内匠助が交渉している。

[史料7]年不詳9月5日庄田内匠助宛三宅政家書状(同上456号)
三宅氏が庄田氏へ「御しなん」=取次を重ねて頼み込んでいる。

[史料8] 年不詳11月29日安吉資忠書状(同上462) 
内匠助が安吉氏へ小向村の年貢収納するよう要請したことに対しての応答。不作や村人の抵抗などもあってか収納は困難な状況があったという。これについては阿部洋輔氏の研究(*1)に詳しい。

[史料9]年不詳12月10日庄田内匠助宛大熊政秀書状(同上460号)
内匠助宛に栖吉長尾氏が御料所へ年貢を催促し収納するように越後上杉氏より要請されている。大熊政秀が新左衛門尉を名乗っており、永正期から大永3年までの文書とされる。

[参考1]年不詳安吉氏宛鳥羽政資請状(同上581号)
[史料8]で難航していた小向村の年貢収納を同村の年貢負担者でもあった鳥羽氏が請け負ったことが伝えられた。その中で鳥羽氏の息子が庄田内匠助を通じて栖吉長尾氏に出仕し、今後軍役等の怠慢があれば改易を受け入れることを明言しており、小向村の有力者であった鳥羽氏が栖吉長尾氏に被官化したことがわかる。

[参考2]年不詳大関五郎左衛門宛五十嵐惟秀申状(同上449号)
栖吉長尾氏領内における所領問題について、庄田氏や只見氏、大関氏らがその解決に努めていた様子がある。

[参考3]年不詳大熊政秀宛伊予部顕資書状(同上471号)
古志郡の小領主伊予部氏が「従郡内いろいゆめゆめ不可有之由、大関、庄田、只見両三人ほうへ、御一札を被成候ハゝ、忝可奉存候」とあり、栖吉長尾氏の窓口として大関氏、只見氏と並んで内匠助が存在していたことが示される。

[参考4]年不詳宛名不明庄田小二郎申状(新463)
庄田小二郎が「本所」=五貫文を失い「三年無足」で軍役を果たし、その活躍を記し本所の返還を主張している。本所には屋敷があり困っているという。内匠助の一族であろうか。


ここまで、庄田内匠助の文書を見てきた。只見氏、大関氏らと共に栖吉長尾氏の三重臣としてその所領支配や外交に重要な立場を担っていたことが推測された。この庄田氏の立場は、のちに栖吉長尾氏を継承する長尾景虎のもとでも維持されている。次回は、景虎の家臣として活動した庄田定賢についても見ていきたい。


*1)阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)