保津川下りの船頭さん

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我がルーツをたずねて・・・福田理兵衛の巻

2013-12-10 21:00:52 | 船頭の目・・・雑感・雑記
大堰川(保津川)が流れる嵯峨嵐山から三条通りを東へ向かうと、太秦までの間に『車折神社」があります。
芸能の神様を祀る事で多くの有名芸能人が訪れる賑やかな境内の角に、さほど注目されることなく
ひっそり佇む小さな祠があります。
この祠は幕末の動乱の中で翻弄されたひとりの人物を祀っています。
その人物とは『福田理兵衛(ふくだりへい)』
江戸時代末期、下嵯峨の大きな材木問屋の長男として生まれ、下嵯峨の庄屋や総年寄、村吏を勤め名士でもありました。
材木問屋業者として、保津川、清滝川から流れて来る筏や舟運の蒔、炭、柴など河川物資を、
荷揚げから洛中への流通までの取りまとめ役で、淀川過書船支配をしていた角倉家とも
深い関係にあったといいます。
また、嘉永年間、大堰川から加茂川をつなぐ運河を計画し、開削に奔走するなど嵯峨地域の経済産業発展に尽くしました。
しかし、時は幕末、尊皇攘夷運動が活発化すると長州藩との関係を深め、藩ご用達となり、
天竜寺の借用の便宜を図ったり、物資、経理全般まで任されるほど支援していきます。
元治年間、禁門の変の際、天竜寺に立てこもる長州軍を薩摩の軍勢が攻め込み、天龍寺は全焼、長州軍は敗北。
兵糧米など調達して長州軍に加担していた理兵衛も命の危機を感じ、嵯峨を追われ大阪へ逃亡します。
理兵衛は戦火に巻き込んだしまった嵯峨の人たちへお詫びの気持ちから、
自らの嵯峨に所有する土地や財産を全て分け与え、一文無しとなり長州へと落ちていきました。

この福田理兵衛の分家・福田家から嵯峨清滝へ嫁いできたのが、私の大祖母です。

我がルーツを辿っていくと、今、こうして保津川で舟運事業に携わり、角倉家に興味を持ち関わっている
もの、なにか必然性があり因縁めいたものを感じずにはいられません。

明治後期、伊藤博文など長州出身者が政府の要職を務めるようになると、
理兵衛は「長州の恩人」としてその名誉を回復され、京都へ帰ってきた家族の手によって、
旧邸宅近くの車折神社に葵忠社(きちゅうしゃ)という祠を建て祀られました。

維新の実現に貢献した勤皇家として、理兵衛の命日にあたる4月13日には毎年、祭典が執行されています。

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