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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第三話 角倉朱印船の巻

2012-01-09 15:15:43 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
今回は少し原点に戻って、角倉了以・素庵親子の朱印船について目を向けてみましょう。

代々医師家系で名医を父に持つ了以でしたが、生来、腕白で手に負えない子供だったことから、
父も医師にすることをあきらめ、もう一つの家業であった土倉業(金融、質屋)を
継がせることにしました。了以も真面目で堅苦しい父を避けて、土倉業に専念します。
その屋号として「角倉」を名乗ったのでした。

しかし、父の影響を全く避けていたか?といえばそうではなく、
宗桂が明に留学で渡航した際に持ち帰った交易品を売りさばく事業を
了以が請け負うという関係でした。
宗桂が乗り込んだ船は嵯峨の天龍寺が仕立てた船でその名も「天龍寺船」といい、
渡航費や積荷の交易品は角倉一族で受け持っていたというから、
了以たち角倉の貿易事業はもう、その頃から始まっていたといってもいいと思います。

そして正式に角倉船を仕立て、貿易事業に乗り出したのは文禄元年、
豊臣秀吉の許可により始められました。

船は長崎から出航するのが常で、冬の北風を活かし安南(ベトナム)やカンボジア、
ルソン(フィリピン、)シャム(タイ)などアジア諸国をめざし、
翌年の春から夏にかけて南風を受け帰国するコースをとっていました。

朱印船の船体は白色で、長さ20間(約36m)、横幅9間(約16m)で帆は舳先から4枚設置され、
最高乗船人数は397人との記録もあり、推定トン数で700トンという
当時では最大級の規模の船だったといわれています。(天竺徳兵衞物語)

輸出品は銀や銅、硫黄などのほか絹織物、刃物、甲冑、屏風などの工芸品で、
輸入品は薬の原料や漆、生糸、象牙、絨毯、鹿皮など。
輸入品だけで諸経費を引いても10割の利益があった(オランダ商館日記)というからまさにドル箱船ですね!

船員には日本人だけでなく、操縦技術に優れていたヨーロッパ人を先頭に、
黒人やインド人など航海経験豊かな外国人を多数雇用し、国際色豊かな日本の船でした。
了以や素庵たちは、時代を先取り、すでに国際化を進めたのですね。
その先見性には感服いたします。

そして、当時の角倉朱印船の姿を詳しく教えてくれるものに、
清水寺に奉納されている絵馬があります。

この絵馬は角倉了以の子・素庵が江戸時代・寛永11年(1634)に
渡航安全に感謝して角倉船を描いた絵馬を奉納したもので国の重要文化財として、
今も清水寺の賽蔵殿に収蔵されています。

ちなみに清水寺と角倉家のつながりは深く、江戸時代に荒廃していた同寺を
三代将軍・家光が再興を決意、その経済的援助を角倉家などの豪商に依頼して
当時の建物をそのまま造立したといわれています。
歴史家の奈良本辰也氏は「清水寺の桃山風の雅な建築は、御朱印船による海外貿易で、
はるか遠くのジャワやマラッカのあたりまで船を出し、外国人との接触で
自覚した「日本」を意識することになる彼ら豪商の、新時代を担う気概が、桃山のおおらかで、
しかも優雅な世界をつくりあげたものだ」と著書で述べており、京都を象徴する清水寺建築に、
角倉など豪商たちの影響力が相当あったことを強調しています。

海という国境を越えた世界に身を置いた角倉了以・素庵親子は、国に先駆け、国際化を進め、
その利益を、外国人との接触の中で認識した「日本人として自覚」の上から
清水寺など仏閣の再興に還元し、今の京都の風景や文化を構築するのに
大きく寄与した人物なのです!

この偉大な日本人にして、実業家だった角倉了以が創設したもう一つの事業であり文化が
私たちの保津川下りであるということは、この上ない誇りであると思うのです。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第二話 保津川舟運の誕生。

2012-01-08 12:01:29 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以とその子素庵により保津川が開削され舟が通行できるようになったのが
今から406年前の慶長11年(1606)の8月でした。

了以たちの事業にとって海外貿易は一回の渡航で巨額の富が手に入るという点では
魅力的な事業ではあったのですが、リスクの高いものでした。
了以が他の豪商たちと違う点は、その半博打的な事業で満足するのではなく、
子々孫々まで収入が入る商売の仕組みを考えていたとこでしょう。
利益は薄くても長期的に安定した収益があがる事業として目を付けたのが
生まれ育った京都の嵯峨を流れる大堰川(保津川)でした。

大堰川…統一した名称は桂川といい、嵐山から上流の保津峡の間を保津川と呼ぶ。

この保津川では延暦3年(784)から始められた長岡京遷都の造営時に
さらに奥地の京北黒田(現在の京都市右京区京北)から山国庄(南丹市日吉)
保津(現在の亀岡市保津)などを経由して嵐山まで筏に組まれた材木が
流されたと記録されています。この筏探しは、延暦13年(794)平安京の造営時
には、数が増やされ都建築の用材として‘京都’の形成に寄与していました。

嵯峨に住まいをしていた了以は、ひっきりなしに上流から流れてくる筏を
見て知っていたことは想像に易く、おそらく彼のビジネスセンスなら、この川を
使用した物資輸送の重要性を熟知しており、以前から目を付けていたと思われます。

その了以の思いが事業化のイメージとして現れたのは、朱印船の港を視察した
帰りに寄った岡山県北部(美作国)を流れる和気川(現吉井川の支流)を行き来する
高瀬舟を見たことによるといわれています。
嵐山の中腹に建つ角倉了以のゆかりの大悲閣・千光寺にある林羅山(蘭学者)
が書いた「吉田(角倉の本姓)了以碑銘に「凡そ百川、皆以て舟を通すべし」と
保津川へ舟を通す決意が詳しく記録されています。

丹波地域の豊富な木材や薪炭、米や野菜などの物産を、効率よく運ぶには
丹波から京都へ向かって流れている保津川に舟を流すのが最適であり、
そうすれば京都と丹波の双方の利益となるという発想を思い立ったという訳です。

思い立つと行動するのも早いのが、いつの時代もできるビジネスマンに共通するところ。
了以は早速、川の実施調査をして事業化の確信を深め、
息子素庵を徳川家康がいる江戸に派遣して、幕府より
「古より未だ船を通せざるところ、今開通せんと欲す。これ二国(山城・丹波)の幸いなり」
という開削許可を得たのです。

保津川の開削は慶長11年(1606)の春とされ、8月までの約5ヶ月で
完成させるという当時では最も早い工程で仕上げたのです。
とはいえ、保津川が流れる保津峡という渓谷は、巨岩が奇岩がむき出しと
なる狭くて流れが渦巻く複雑な河川形状で、筏流しでも‘自然の要害’と
いわれた場所で、舟を通すのは容易ではないところ。
先の碑文によれば「大石あるところは轆轤(ろくろ)索を以て之を牽(ひ)き、石の水面に
出づるときは則ち烈火にて焼砕す。瀑(たき)の有る所は其上をうがって準平にす」と
記してあり、大石を大勢の人で引き動かし、水面に出て航行の邪魔になる石は焼き砕く
などの難工事を施したのです。

そんな複雑で難しい河川開削工事を繰り返しながら、僅か5ヶ月で丹波から嵐山までの
舟の航路を開き、物資輸送の舟運を整備した技術は、当時の土木技術では最先端のもの
であり、日本土木史に燦然と輝く画期的な工事だったことは間違いありません。

この自然の要害・保津川の開削工事の成功は幕府をも驚かせ、角倉一族の施行技術の
高さを見込み、その後、駿河の富士川や岐阜の天竜川の開削工事を依頼したほどです。
富士川は規模の流れも保津川よりあり、難工事だったが慶長13年(1608)に
完成させ舟運を開いています。この成功には家康自らが現地に視察いくほどの事業でした。

また、慶長16年(1611)了以は京都の洛中に鴨川の水を引いた人工運河として
高瀬川の開削工事に着手し、3年後の慶長19年(1614)に京都二条から伏見の港
まで工事を完成させます。高瀬川開削と舟運開通により、京都二条から伏見、そして
淀川を経由して大坂までの舟運ルートを成立させたのです!
これがどれだけ画期的なことであったか!強調しても強調し過ぎることはないでしょう。

丹波から生活基盤の物資が京の都へと運ばれ、都市機能整備の需要材の調達と
景気、物価の安定を支え、天下の台所・経済の中心地大坂をつなぐことで
最先端技術や異国文化の導入により発展させる、丹波―京都―大坂を結ぶ舟運による
物資流通ルートを整備したことを意味します。
その恩恵を受けることで、政治の中心が江戸に移り、地盤沈下が杞憂された
当時の京都も衰退することなく、文化都市として発展していった、その礎を
角倉家が築いたといっても言い過ぎではないと思います。

多くの京都人がこの了以たちの事業価値をあまりご存じないのは残念なことですが・・・
という京都人だった私も、保津川下りに関わるまでは了以のことを知らなかったのです・・・

角倉了以とその子素庵は朱印船貿易の大商人であり、国内では河川開削の技術集団を
組織し、舟運を開き利益を得るという手法を編み出した初の事業家で、日本産業経済史
の流れからみても極めて重要な人物であることは間違いないと思います。

海外貿易と河川開削による舟運事業という先見性、事業の合理性と計画性の高さ、
そして何より冒険心と志に裏付けられた意志の高さと強さ、スケールの大きさは
現在の企業家たちにも多くのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

現在社会でいえば大手商社と大手ゼネコンを兼ね備える財閥や総合企業グループ
の総帥と呼べるのが角倉了以・素庵親子なのです。

角倉家は、3代将軍・家光の鎖国政策により朱印船貿易が禁止された後も
保津川を通行する舟からの通行料を徴収することで、明治時代まで継続性
のある経済的利潤を確保することに成功し、水利長者として栄えました。

この稀代の人物に創設され、現在も当時の姿を変えることなく現存している保津川下り。

この川には世界文化遺産に匹敵する要素が詰まっていると私自身は確信しています。

新春企画 君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第一話

2012-01-07 02:39:44 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以・・・安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に
活躍した豪商にして私達、保津川下りの創設者・初代社長ともいえる存在。

その志の高さとスケールの大きさでは当時の豪商の中でも、際立つ存在である。

近世初期から活発化した朱印船貿易で活躍する一方、徳川家康の命を受け、
いくつかの河川を切り開いた最先端土木技術を有する技術者の一面も持つ実業家だ。

注目したいのは、そのどちらも「船」という乗り物がキーワードになっているところ。

ここが了以のビジネスセンスをみる時に見逃せないところで、
当時​、台頭してきた他の豪商たちとは大きく異なる点だといえる。

了以の本姓は吉田といい、近江出身の医術者の家系に生まれている​。
吉田家は医術で室町幕府のお抱え専属医である一方、土倉(金融​業も兼業しており、
京の嵯峨を中心に活躍していた。
了以の父・​宗桂も医師で、明(中国)に留学経験を持つ最先端の医療知識を持っていた。

了以は18歳の時に家督を継いでいるが、医術の道には進まず実業の道を選び、
50歳の時に朱印船貿易に着手した。
この発想は父か​ら海外の情報を聞いていたことが大きな起因になったといわれている。

角倉の朱印船貿易の先は、安南国(ベトナム)が中心で
北部のトンキンを渡航先にしており、航海には片道約一ヶ月以上は
かかったといわれている。

航海中に難破したり、海賊船に襲撃されたりする危険もはらんだリスクの大きい事業であったが、
一回の渡航に成功した時の利益は10億円単​位ともいわれ、危険性はあっても
誠に魅力のあるビジネスだったことは間違いない。

時は十六世紀半ば、当時の強国スペインやポルトガル、スペインにオランダなど
世界中が大航海時代を迎えていた頃。その大航海時代の潮流に乗り、
東南アジアという海外に打って出た日本で初めての大貿易商人といっていいだろう。

その冒険心溢れる商魂で、通算航海数17回という
当時では最多の航海に挑んだ稀代の起業家であった。

そんな了以が、息子・素庵と一緒に、次に目を付けたのが保津川だったのある。

(つづ​く)

角倉宗家当主・角倉吾郎さんに了以翁の話を聞く。

2011-03-05 23:22:14 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
保津川下りの‘生みの親’といえば・・・そう、角倉了以(すみのくら・りょうい)翁。

その了以さんの末裔で、今、了以とその息子素案(そあん)の偉業を後世へ伝える
活動をされているのが、角倉宗家17代目にあたる角倉吾郎さんです。

その17代目の講演会が亀岡で開催されると聞き、聴講して参りました。
企画したのは市民有志でつくる「かめおか・まちの元気づくりプロジェクト」さん。

角倉家の業績とその価値を世に問いたい!と一族の当主としての使命感と熱い思いから、
実業界から若くして身を引き、伝承者として全国を行脚して回ってられている吾郎さん。

上品な押し出しと弁舌さわやかな語り口で、わかりやすく、そして詳しく、
お話をされる吾郎さんの講演は、了以さんの話をするのが楽しくてたまらないと
いう雰囲気が聞く者にも伝わるものでした。

講演会では、保津川をはじめ高瀬川、富士川などの河川開削はもちろん、
上嵯峨の山地間に整備した用水トンネル「角倉隧道」のお話など、これまで
あまり語られなかった幾多の事業や事柄についても紹介され、これからの
了以・素案研究にロマンを感じさせてくれる内容でした。


思い起こせば、保津川開削400周年から早、5年。

「了以さんをもっと、世に中の人に知ってもらおう!」とゆるキャラなどが
まだ流行していない頃からキャラクターを作ったり、演劇をしたりと
盛り上げてきましたが、その後、この街は亀山城築城400年を迎えたことで
歴史上の主役が明智光秀さんに変わり、了以の名を聞く機会もめっきり
減っていました。

5年前、この街で燃えかけた了以さんの火を、もう一度、亀岡で再燃させたい!
あの時、了以顕彰事業の中心にいた者として、あらためて強く感じた次第です。
">
2年後には了以没400年祭、そして翌年2014年には洛中の
高瀬川開削400年周年の年がやってくるなど、角倉家ゆかりの
記念年度が控えております。

亀岡はもちろん、京都で「了以ブーム」や角倉旋風を巻き起こすことを
視野に入れた取り組みも考えていきたいですね。


講演会の後、宗家当主と一船頭という、歴史、時代が交差するような絵図ながら、
親しく様々なお話をさせていただきました。当主と私は同年齢でもあり、それぞれの
立場で今後も益々、角倉家と了以・素案の価値を世に問うていく活動に
協力することを約束した次第です。

その点では了以さんが起こされた事業で、今も現存している唯一の企業として
保津川下りをさらに光輝かせていく努力が大切であると強く感じています。

「保津川・木造船」の写真ができあがりました。

2009-03-12 18:39:02 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
10日に行なわれた「保津川下り・春の開幕」で
初めて一般公開された保津川の「木造船」
その勇姿を収めた「写真」が出来上がりました。

蓑と竹笹をかぶり昔の船頭に扮しているのは
前から‘さいたに屋’こと豊田覚司、石田亮太、山内博の3名。

豊田覚司は私はっちんの弟で、mixiでは‘さいたに屋’という
ペンネームで人気の船頭です。

このメンバーで、招待客や開幕半額船12隻の前で、
約60年前まで保津川で行なわれていた「曳き船」の
実演を行い、嵐山まで下って行きました。

当日は終日、マスコミの取材がひっきりなしに
遊船事務所に掛かってくるなど、木造船の注目度
の高さに驚かされました。
数社の新聞紙面には「木造船」の写真が載ってようです。

さて、この木造船、保津川を真剣に世界遺産にしようと
頑張る「保津川の世界遺産登録をめざす会」が資金を出して
復元したもので、今後、保津川川船の歴史と伝統をアピール
する象徴的な船として活躍が期待されるところです。

木造船の操船および関係者の皆様、ご苦労さまでした。

「曳き船」二日目、木造船の乗客になったはっちん。

2009-01-24 19:12:46 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
木造船「曳き船再現プロジェクト」2日目は、前日に
係留しておいた「鵜飼ヶ浜」よりスタートです。

私たち関係者は午前8時にJR亀岡駅に集合し、
嵯峨野線で「鵜飼ヶ浜」へ向います。
川の上に架かる鉄橋を丸ごと駅に使用している
「保津峡駅」の直下の地点が「鵜飼ヶ浜」です。

平安時代の前期に清和天皇(56代)がこの地で
「鵜飼の宴」を催したと伝わる場所です。

木造船の操船と曳き上げ作業を、多くの現役船頭に
経験してもらう目的から初日とメンバーを変えて
出発です。

この日の工程はトロッコ保津峡駅へ架かる「保津の吊り橋」下
で「渡し」と落合赤門での曳き上げ、綱の跡などの
再現を行う予定です。

この日も曳き上げメンバーに漏れた私はっちん。
実は完成してから木造船に一度も乗ってないのです。

「これではあまりにもかわいそう~」だと主催者側が
気を遣って下さり「お客さん役」で初乗船させて下さいました。


真新しいスギの香りが漂う船はまさに「天然の箱舟」
「ギィ~ギィ~」と鳴る櫂を引く音が、棚形で継ぎ足し
作られた両舷側材に反響し、心地よく‘こだま’します。

私たち客は木製の椅子に腰掛けながら、目まぐるしく
変わる川の流れに身をまかせ‘遊び’ます。

激しくうねりをあげ迫ってくる瀬に吸い込まれる木造船。
天然自然の浮力をもつ「箱舟」は、急流と‘調和’しながら
ふわふわと跳ね上がり乗る人を楽しませてくれます。

曳き上げと操船は叶いませんでしたが、乗船客として
木造船を体験できたことは、これからの川下り観光への
貴重なヒントを与えてくれる体験だったと確信した次第です。

この後、ドラマや映画のロケ地として有名な清滝川との
合流地「落合」での曳き上げ風景の再現。
ここでは、曳き船の回りしろ(車でいう内輪幅)がないため
船の舳先にあらかじめ開けてある「目穴」に細いスギで作った
「ハナ棒」を差込み、舳先を押しながら曳き上げるという
保津川独特の曳き上げ技術を再現しました。

その後、順々に下流へ下り「トロッコ列車鉄橋下流の渡し」
や「綱の跡」への綱掛けの様子、「地獄橋」での曳き上げ
を再現、船は無事に嵐山へ到着しすべての工程を
終了しました。


この「曳き船プロジェクト」が企画されて以来、
実現までには、木造船の構造や今の川の形状、
実践する船頭の技術など幾多の難しい課題が
ありましたが「保津川に木造曳き船を再現したい!」
という主催者方の‘熱い’思い、そしてこの熱情に
突き動かされた多くの人たちの思いが一つになり
成功へとつながっていきました。

このプロジェクトにご参加及びはご協力下さった
全ての方々に心より敬意を表したいと思います。


保津川「曳き船」再現プロジェクトに参加してきました。

2009-01-22 23:22:13 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
60年ぶりとなる木造船による「曳き船再現プロジェクト」が
21、22日の二日間、京都の保津峡で行われました。

私はっちんも15名の船頭たちと一緒に、この記念すべき
再現プロジェクトに参加してきました。

午前8時30分、深い霧があたりを覆う寒い朝の中、
出発点の保津川下り乗船場には関係者・スタッフが
集合、まだ「木の香り」漂うできたての木造船を、
スタッフ・関係者乗船用のFRP船2艘が囲み、
曳き船の再現現場となる保津峡を目指します。


木造船には曳き上げを担当する船頭5名が乗り込みます。
私はスタッフ側の船に同乗し出発です。


濃い霧に覆われた渓谷を流れ下る木造船。
船頭が引く櫂の音をこだませながら木造船がこつ然と姿を現す様は、
まるで60年の昔からタイムスリップして来たのでは?
という錯覚に陥るほど幻想的です。

船は最初の現場となる「烏帽子岩」下流で航路からはずれ、
瀬の外れに巻く渦を使いきれいにUターン、船の舳先を
上流方向は向け、スタンバイ状態へ。
流れの強い瀬の下で船を回す技術も、保津川船頭ならでは
の高等テクニック!

さあ、60年ぶりとなる曳き船再現のスタートです!

綱を曳くのは、一番長い綱を曳き先頭を走る先綱、そのすぐ後ろ
に2本目の綱を曳く中綱が続き、短めの綱を操り最後方から
曳き具合の微調整をする後綱の3人で引っ張り、1人が船に残り、
竿で川底の岩をかわしながら、上流へと船を曳き上げるのです。

この4人の息と力が合わないと激しい保津川で
船を上げることはできないのです。

最初の現場となる「烏帽子岩」。
ここには保津川最大の「綱はじき」が施されていた所。
「綱はじき」とは、船を曳き上げる際に川側で綱が
引っ張れない大きな岩がある場合や曳綱の角度がきつく、
岩の後ろを曳き手が通らなければならない状況の所
に設置した竹の工作物のこと。


3人の曳き人が船を降り、それぞれの綱を持ち「綱はじき」
を使い「烏帽子岩を越していく作業が開始です。
「おっ、うまく竹をつたって綱が上がっていくぞ~」
と思った瞬間、「ぐっぐ」綱が岩くぼみに引っかかり失敗…

どうやら、綱を曳き走る場所が間違っていたみたいです。
当時は川岸ではなく、もっと山側の高い道を通っていた
ことが、曳き上げ経験者の上田清さん(89)の指摘で
判明し再度挑戦です。
上田さんは冷たい風が吹く寒い日にもかかわらず、
終日、参加して下さいました。心強い先輩の思いに
ただただ感謝するばかりです。

曳き人は体を前傾にして力の限り引っ張ります。
岩がごろごろして足場は悪かったものの見事成功です!
60年ぶりに曳き船が成功した瞬間です。
しかも曳き船最大の見せ場といわれる「綱はじき」での
成功は関係者・スタッフにこのプロジェクトの成功を
確信した瞬間でもありました。

当時の綱道には一つ一つ「そこを通らなければならない」
理由があるのですね。やはり可能な限り当時を「忠実」に
再現することの大切さを痛感させられました。

関西地域の皆さんが翌日の各紙朝刊でご覧になられた記事の
写真はこの「烏帽子岩の綱はじき」で撮られたものです。

その後、当時の「綱道」が今でもくっきり残る「清水」
の曳き上げや、川の左岸側から右岸側へ移る際に
船頭全員が船に乗り込み移動した「小高瀬の渡し」など
の再現風景の撮影を行いながら船は一日目の予定を
安全にすべて終了。

一日目の係留場所となるJR保津峡駅下の「鵜飼の浜」で
下船し、JR嵯峨野線で出発点の亀岡まで戻りました。

明日、35年ぶりに保津川に‘木造船’が浮かびます!

2009-01-09 17:43:24 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
明日10日、保津川に35年ぶりとなる木造船が浮かぶ
「保津川下り木造船進水式」が開催されます。

同式典は、保津川の世界遺産登録を向けて活動する市民団体
「保津川の世界遺産登録をめざす会」が中心となって取り組んで
いる「保津川下り木造船&曳船(ひきぶね)復活再現プロジェクト」
の先頭をきって行われるもので、木造船を通して「川と人の営み
の歴史」と先人の「木造船製造技術の検証と継承」をはかる
目的で実施されます。

今から403年前、角倉了以が保津川を開削して、木造の
高瀬船を流して始まった保津川の川船水運。

その木造船は、近年の観光大衆化時代の到来を受け、船の強度や
耐久性の低さ、また輸送重量の限界などを理由に、現在の
FRP船(強化プラスチック)が導入されることとなり、
今から35年前に姿を消しました。

同会では木造船の復活を契機に、60年前まで行われていた
嵐山からの曳き上げ作業・曳船も保津川渓谷で再現・検証する
予定で、保津川が担ってきた産業水運の価値を明らかにし
再認識することで世界遺産登録への機運を盛り上げるのがねらい。

明日の「保津川下り木造船進水式」」は、保津大橋の下
(保津川下り係留場)の船溜りで午前10時30分から
行われます。

保津川下りの船や歴史、また川船やカメラ撮影などに
興味のある方は是非、この機会にお越しください。

☆保津川下り木造船進水式
 日時:1月10日(土曜日)午前10時30分~12時30分
 場所:保津大橋(保津川下り船の係留場)
 内容:進水式典後、山本浜(亀岡市篠町)まで初下りを実施。
 交通:JR嵯峨野線にて亀岡駅下車徒歩約15分。

☆今後の事業予定

1月12日の成人の日に「ガレリアかめおか」ロビーギャラリー
に移され「新成人・新たな船出」を祝い、19日まで展示。

1月21、22日に保津川下り現役船頭による
嵐山からの曳船復活再現を行います。

お楽しみに!


了以にであう七夕ささぶね竹灯路2008が行われました。

2008-07-15 16:59:08 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
先週の12日に亀岡・保津町にある養源寺で
「了以にであう七夕ささぶね竹灯路2008」
が開催され、市内外から多くの参加者が
あり盛況のうちに終了しました。

このイベント12日の角倉了以の命日にその遺徳を偲ぶもの
として、開削400年の節目の年にはじめられました。

了以のゆかりの寺である地元の養源寺に了以の位牌が
あるということがわかり、保津川開削400年事業の
市民有志による記念事業として企画、その後は
地元の保津町の行事として受け継がれ、今年で3回目です。

今年は「 - 筏・綱道・木造船 - 」というテーマで、
筏や木造船を操りまた、下った船の曳き上げ作業を
経験された先輩の元船頭さんをゲストに招き、当時の
貴重なお話を‘伺う会’が行われました。

筏については昨年、日吉ダム周辺で行われた天若湖アートプロジェクト
で筏の実物を制作された酒井昭夫をさんも出演、筏の模型を
使いながら、筏の部位の呼び名から構造、操船方法とエピソード
などを交えながら話されたいました。

会場の外ではイベントを盛り上げる各趣向を凝らした飾り付けを
400年事業で舟舞台を制作されたUZU [一級建築士事務所ウーズ]
の松井哲哉さんが担当。

地元の川魚が泳ぐ灯りを入れた桶のを木造船に設置
するなど美しい竹灯路で寺周囲を飾っておられました。

日が落ちると幻想的な光の空間は広がります。

美しく賑やかな法要イベントに了以さんも
さぞかしご満足されているのではないでしょうか。


角倉了以翁の命日直前企画、「了以・その生涯を訪ねて・・・」

2008-07-10 13:54:18 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
保津川下りの生みの親・角倉了以翁の命日である
7月12日が今年も近づいてきた。

命日には、大悲閣など了以に縁のあるお寺や我々保津川遊船
など関係する各種団体で様々な法要や行事が行われる予定だ。

戦国末期から安土桃山時代にかけ、アンナン(ベトナム)
へのご朱印船貿易を通算17回も成功させ、その後保津川
など国内の河川の開削工事に着手、船による河川
交通網を整備するなど貿易・物流の革命児でもあった
‘了以’。

了以は丹波地域と京都を結ぶ保津川の開削した後、
京都鴨川の水を引きいれ洛中と伏見を結ぶ運河・高瀬川
を整備している。
了以が着手した河川産業水路の整備は‘政’の中心が
江戸に移り、衰退の一途を辿っていた京都の経済復興と
その後の経済繁栄に大きく寄与貢献したことは
間違いがない。

しかも、自然の要害といわれた保津川(大堰川)の
難工事や運河という人工的な‘川’を開発するという
1大事業を了以は全て‘自己資金’で賄っている
ところに注目してほしい。

政治家でもない、一民間人であった了以になぜ、
これほどの事業が可能だったのか?
その力を支えた桁外れの‘財力’はどのように
してつくりあげられたのか?


了以の394回忌を前に‘角倉了以’という
奇傑大豪なる人物の生涯を辿りながら、その素顔
に迫り、根底にあった‘精神’に学びたい。

☆生い立ち

角倉了以は1554年(天文23)京都の嵯峨に生まれた。

了以の家系は近江((滋賀県)・犬上郡吉田村の出で、
角倉というのは‘屋号’で本姓は吉田という。
もとは鎌倉・室町期の近江佐々木源氏の流れをくむ
武士だったが、角倉の創祖・吉田徳春が足利三代将軍・義満
に仕え、近江から嵯峨の地へ移り住んだと云われる。
(角倉源流系図稿による)
角倉という名は1517(永正14)の文書(披露条々事)
に‘酒屋’として登場している。どうやら‘倉’というは
酒屋の‘蔵’から出た屋号だと思われる。
また了以の祖父宗忠の代から‘土倉’と呼ばれる
今の金融業を生業していたとの記録もあり、当時、
角倉家が土倉と造り酒屋を兼業していたものと考えられる。

‘蔵’という字を‘倉’と改字したのは了以の息子
素案の頃といわれ、当時の京都所司代・板倉勝重から
与えられたとの説が強い。

了以の父は医術者として名を馳せ、2度も‘明’の国
に渡り、当時最先端医術を習得し、明の皇帝に薬を
献上したといわれる。

こうして見てくると、了以の家系は、近江の侍から
幕府の役人へ、役人から金融業と酒屋へそして医者
また、室町期には帯を扱う帯座の座頭職も兼ねていた
というまさに多様な業種の家に生まれたということが
いえる。

この角倉家の多能な家業環境が、後に日本でも
有数の大実業家として頭角をあらわす‘了以’の
実業的センスの基礎をつくったのではないかと想像できる。

次回からは了以自身の事業展開に注目していきたいと思う。

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