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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

美の京都遺産で「角倉了以」が特集されます!

2014-05-23 10:37:26 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
これは必見!!

保津川下りの創業者・角倉了以翁がMBS毎日放送の「美の京都遺産」で特集されます!

放送日時は25日(日)午前6時15分から。

毎回、京都の社寺仏閣や祭、伝統文化などをハイビジョンによる高画質映像と
味のある描写ナレーションをステレオ放送で紹介する「京都通」に絶大な人気がある番組です。

そのクオリティの高さで「映像美術館」ともいわれ、様々な京都紹介番組でも群を抜いています。

友人の力添えにも感謝です!

関西地域の皆様、ぜひ、ご覧下されば嬉しいです。



☆「美の京都遺産」 5月25日(日)早朝午前6:15~ MBS毎日放送

そうだ 京都 行こう!のHPで保津川イベントが紹介!

2013-12-18 21:44:32 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
11月に行われたJR東海「そうだ 京都 行こう!」のスペシャルイベント
「水運の父角倉了以没後400年・もみじの渓谷をゆく保津川下り」の模様が、
同社のHPで紹介されました!

東海道新幹線を利用し、京都へ旅する「そうだ 京都 行こう!」は、
東京や関東地域の京都ファンに絶大な人気を誇る企画ですが、
この秋、保津川下りと嵐山にある大悲閣千光寺を訪ねる、
角倉了以ゆかりの地をゆくツアーイベントを実施して下さいました。

ツアーは発売わずか2時間で完売で「募集定員の倍以上のキャンセル待ちが出る」
という人気ぶりだと主催者のJR東海産から報告があり、当日も盛況のうちに
イベントを終えることができました。

当日は遊船から歴史に精通した精鋭船頭を揃え、皆様をご案内。
私も下る前の座学として「角倉了以とその子素庵」についてミニ講演をさせて貰いました。

大悲閣でも少し時間があったので、参加者からの質問に答える機会もあり
かなり歴史旅としてはかなり内容の濃いイベントになったと思います。

参加者からは「角倉了以を初めて知った」「了以は知っているが素庵について知らなかった」
「船頭さんも案内も最高!」という嬉しい声が多く聞きました。
さらに、「来年以降も『角倉と京都、保津川・嵐山・嵯峨』をテーマに様々な企画をしてほしいとの
感想が、同社へ多く寄せられたそうです。

私としては、京都はもとより、近世日本の産業発展に大きな影響を与えた角倉了以、素庵の功績の一端を、
関東地域の方々に少しでもお伝えできたことが何より嬉しいことです。

JR東海さんでは、来年以降も同様のツアーをドンドン企画し、新たな京都の魅力を創出したいとの事。
期待が膨らみます。

角倉了以没400年記念企画「了以伝」・其の参 「土倉業としての角倉家」

2013-06-24 17:22:36 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
了以の父・宗桂は二度、明に渡り医学を極めた、京の都に聞こえた名医だったが、
生来、医師の家風が肌に合わないと感じていた了以は、成人すると
吉田(角倉)家のもう一つの家業であった土倉の仕事に関わるようになる。
父も可愛げのない無骨な性格でわんぱく小僧だった了以には医師を継がせる気はなく、
土倉をやらせる心つもりだったようだ。

ここで土倉という事業について説明する必要があるだろう。
土倉とは、今でいうと金融業で、質屋である。
質物を保管する蔵を持っていたところからその名が付いた。
お金の貸主は貧しい農民庶民から武士、公家までの広い範囲におよび、
当時の足利幕府の経済基盤を左右するほどの力があった。
また、応仁の乱以後、幕府の租税が減少したため、土倉と酒屋からの課税収入が重要になり、
幕府末期は将軍家の生計も支えるほどにまでなっていた。
まさに室町幕府の維持に欠かせない存在にまで影響力を増していた。
さらに土倉はたいてい酒屋も兼業しており、その酒の製造販売は京都でも相当の数量に迄び、
その売上を活用して金融業の資金としていた。

了以が住んでいた嵯峨では当時16軒もの土倉があり、天龍寺から臨川寺付近に多く軒を連ねていた。
角倉(吉田家)の土倉は嵯峨の大覚寺の境内で営まれていた。
創業は了以の祖父・宗忠だといわれる。寺は土倉の賃貸料を徴収し、寺の維持に当てていた。

日本は南北朝の時代から、物々交換経済から貨幣経済に移行する時期に入り、
自給自足していた農民も金銭の必要に迫られることが多くなり、田畑を抵当に入れ、
土倉からお金を借りなければならなくなってきた。
また武家も物価高や政治動乱で資金が不足し、武具など私財を質入れる者も増えた。
さらに社寺も荘園制度の崩壊から年貢が上がらず困窮する事態が起こっていた。

田畑を失い作物も収穫できなくなった農民は生活の困窮に陥り、集団化して
一揆を起こす事件が増えだす。暴徒と化した農民集団は土倉に借金を棒引きするよう、
幕府に迫り、徳政令を無理やり出させ、過激な者は土倉を襲撃する武力行使にも出たりもしていた。

幕府にはこの一揆を鎮圧する力はすでになく、また武士も自分の借財も帳消しにできるので、
一揆をけしかける者も少なくなかった。
その結果、多くの土層業者が多大な損害を受け、商売を廃業するところも出てきた。
土層からの課税を頼りにする幕府の財政も打撃を受け、衰退の一途をたどることとなる。

土倉業者は自身で店を防衛する必要性に迫られていた。
了以の父、宗忠は防衛策として、嵯峨で信仰を集めていた愛宕神社との関係強化を図る。、
進んで寄進や灯明費を負担するなど神社との関係を深めることで、徳政令から除外される特別待遇を得る策だ。

当時の嵯峨では、いかに愛宕神社の山岳信仰は畏怖され、神威が強かったということがわかる。
神社も強力なスポンサーとなる角倉家との関係強化は願ってもないことだった。

こうして愛宕神社の威光を背景に、室町末期の動乱を生き抜いた角倉家の土倉業は
大覚寺境内だけでとどまらず、次々に一族系列の店舗を増やし、嵯峨で独占的な勢力となる。
吉田本家宗忠の子・与左衛門からその子の栄可へと引き継がれる。
そして、了以は、この栄可8従兄弟)の娘と結婚することで、
土倉角倉の中心的人物に成長し、歴史の表舞台に姿を現すのである。


角倉了以翁没400周年記念企画「了以伝」其の弐 「了以の少年時代」

2013-05-27 12:15:48 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「保津峡開削は、わしの子供の頃からの夢だった」

保津川の開削を決意した了以は周囲の者にそう語ったという。

了以にとって保津川開削は悲願だった。

当時、保津峡は何人たりとも寄せ付けない自然の要害で知られ、開削工事の発想はあっても
実際に工事を実行するなど、常人の考え及ぶものではなかった。

しかし、了以はそんな保津川の開削に夢を描き、実行に移していく

この強い信念は、彼が育った「嵯峨嵐山」という地に起因するところが大きい。

了以が少年時代を過ごした嵯峨嵐山は、目前に奥深い丹波山地の水を集め流れ込む保津川(大堰川)、
東に広沢池、西に愛宕山麓を臨む幽邃の地で、平安初期から都人の行楽・隠居の地として
社寺旧跡の多い閑寂な土地柄だった。
その反面、古くは帰化人の秦氏が堰をつくり、洪水を防ぐとともに荒地にかんがい用水を引き込み、
緑地と水田を発達させた渡来の技術が施された先進的な地でもあった。

この秦氏の堰造りという大工事と排水路整備は伝説となり、嵐山の人々の心に深く浸透し、
誰もがその話を聞いて育った。
また、川上流の丹波国も昔、一大湖水で、松尾の神様が鍬で山を切り、岩を砕いて
湖水を山城国に流し国を誕生させたという伝説話も浸透していた。
この伝説により生まれた川が保津川である。

了以もおそらくこれらの伝説を聞いて育ち、丹波とその国へつながる保津川に、
強い好奇心と冒険心を涵養して育っていたのだろう。

了以には他に、侶庵、宗恂という兄弟がいた。
他の兄弟たちが父・宗桂の血統を受け継ぎ、医術や学問に興味を持って育ったのとは逆に、
了以少年は学者肌な家風にあわず、家を飛び出しては野や山,川など外遊びを好んだ。
名医との誉れ高い父とその父を慕い訪れる人々も格式ばった公家や知識人にも馴染めず、
堅苦しい作法も性にあわないと感じていた。

ある日、了以は遊びに出たまま、夕刻になっても帰らなかった。
家人たちは一家総出で探しまわる。
「神隠しにあったのでは?」「もしかしたら、愛宕山の天狗にさらわれたのでは?」と
口々に話すものだから、騒動は益々大きくなっていった。

すると決まって、嵯峨鳥居元の愛宕一の鳥居からひょっこり姿を現したり、
小倉山の山中から下山してきたところを発見されるのが常だった。

「どこに行っていたのか?」と問いただす家人たちに了以は「それがまったく覚えていないや~」
「どこか山の中をさまよっていた様な気がする」などという曖昧な返事を繰り返すばかり。
そして翌日は、ぼんやり気が抜けたような表情で、何もせずにゴロゴロしていた。
その様を見た家人は「やっぱり、あいつは神隠しにあったのだ、いや、天狗にさらわれた」
という話に、信ぴょう性を持たせるに十分な不思議で奇怪な雰囲気を醸し出していたという。

ぼ~っとっ天井を眺めながら昨日のことを思い出していた。

その日、家の前を流れる保津川(大堰川)の上流から、なんともまぶしい光が射す風景に気がついた。

「この光を辿り、深い山々に囲まれた川岸を上って行けば、どんな世界が広がっているか?」
好奇心が胸に沸きあがる。

とはいえ、保津川岸は人が歩ける道などなく、断崖絶壁の足場もないような危険な
岩場を進んでいかねばならなかった。

当時、保津峡は「大人でも遡れない」「行くと命がないほどの危険なところ」と
大人でも恐る場所だった。
大人たちがそういえばそういうほど「行ってみたい!」
「丹波の国を見てみたい!」という気持ちに駆り立てられた。

了以少年は、その日から保津峡冒険への挑戦を始めた。

途中、前途を遮られれ、引き返す時も多く、また支流の清滝川を遡ることもあった。
愛宕一の鳥居脇で見つかった時などはおそらく、保津峡をさかのぼり、
途中で合流する清滝川をさかのぼり、愛宕修験の水垢離場であった神秘の里・清滝に入ったのだろう。

このように嵯峨嵐山という、神秘性を持つ地域や雄大な自然環境が、子供心の冒険心と挑戦心を育み、
先人の伝説と相まって、後に「この川を制してみたい!」という激しい衝動と信念を涵養し
保津川開削という一大事業を成功へと導く、動機の精神的基盤となっていたといえる。

角倉了以翁没400周年記念企画「了以伝」其の一

2013-05-10 16:51:38 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に活躍した豪商・角倉了以。
その技術力と財力、そしてスケールの大きなビジネスセンスは、
当時活躍していた他の豪商の中でも際立つ存在である。

だが、了以の活躍が世に注目され出すのは、彼が50歳になってからという晩年である。

では、それまでの了以はどのような生活、また人生を歩んでいたのかは、あまり知られていない。
了以はどこに生まれ、どんな環境で育ったのか?

稀代の実業家・角倉了以が誕生までの土壌と足跡を追いたいと思う。

角倉了以は天文22年(1554年)に京都の嵯峨に生まれる。
世は室町幕府末期で、各地で群雄割拠する殺伐した時代。
日本はまさに中世の終焉から近世が始まろうとする頃。

了以の本姓は吉田で、幼名を与七といい、光好とも称したが後に剃髪して了以と名乗た。

父吉田宗桂は室町幕府お抱えの有名な医師で、母は中村姓であること以外わかっていない。
宗桂は遣明団の一員として明に渡り、当時、最先端の医療知識を持つ医術者であったが、
その一方で土倉(金融業や質業、倉庫業など)も営んでいた。
宗桂には了以のほかに侶庵と宗恂という兄弟がいた。
系図では了以を長男と記するものもあるが、宗桂43歳の子である了以が長男である可能性は低く、次男説も強い。

了以長男説は、後に角倉の家督継ぎ、有名になった了以を中心に家系図作られたものと思われる。

吉田一族は近江国愛知郡日枝村の吉田の庄出身で、祖先は宇多源氏・佐々木家で、
源平合戦で活躍した佐々木定綱、盛綱の6番目の弟六郎厳秀が当地に住み着いて、
吉田性を名乗るようになったといわれる。

室町時代に入り、厳秀から9代目にあたる徳春が、足利義満に仕えるため、
吉田庄を離れ、京都へ移り住んだ。
そのころから医術者として迎られ、しばらくして嵯峨に居を構えた。
嵯峨吉田家のおこりは、この徳春から始まってといわれている。

では、角倉という土倉の事業はいつからはじめられたのか?

土倉業は、了以の祖父宗忠の父宗臨が興したとされ、宗臨の頃に「角倉」の屋号が記録に残っている。

角倉の商いは土倉だけではなく、酒造、帯、医薬などのあらゆる分野の品物を扱っていた。
吉田の一族の者は大なり小なり、この土倉をそれぞれが興し、一族協力体制のもと、商いの幅を広げてきた。

一族での経営は、当時、混乱する世情を背景に公家や武士への貸付額が増えていくリスクを一族で分け合う、
極めて合理的な思考に基づいている。

吉田家の土倉集団を角倉という屋号で呼び、本拠を大覚寺境内で営んだ。

この土倉角倉を大きく発展させたのが祖父宗忠で、その繁栄は孫の栄可へと引き継がれる。

了以が、歳の離れた従兄弟である栄可のもとに預けられたのが14歳の時。
さらに栄可の娘・君と結婚し、了以は名実ともに栄可の片腕として
角倉土倉事業を手伝い、商売のノウハウを身につけていくことになる。



角倉了以没400年記念企画「了以伝」序章

2013-05-10 09:32:04 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業

時は慶長19年、京都・鴨川の水を引き、洛中の二条から伏見までの舟運疎通工事を完成したその男は、
完成祝いにわく幕府の役人や工事関係者、見物に来た京都の町衆を見渡しながら、静かにつぶやいた。

「すぐにこの運河を誰が造ったなどは忘れてしまうやろう。それでいい。」
「この運河で便利になり潤う人々が増えれば、それで充分、本望や。」 

あれから約400年、その男の言葉通り、彼の功績を知り、語る京都人は少ない。

この男とは?・・・角倉了以。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけて京都を拠点に活躍した豪商だ。
そして、我々保津川下りの創設者・初代社長ともいえる存在なのだ。

先日、フランスで発売された世界的に権威があるといわれる観光ガイドブック・ミシュラングリーンガイドにも
「一つ☆」で掲載されるなど、観光川下りとして世界的に有名な保津川下りだが、
この舟運を開いたのも角倉了以であることを知る人も少ない。

近世の江戸初期に、私財と投じて丹波と京都嵯峨、また二条と伏見の産業水路を開削し、
京都~大坂間の水運流通路を開き、京都はもとより関西経済や文化の発展に大きく貢献したはずの
角倉了以の功績は、日本近代史の片隅に押しやられ、正当に評価されているとは言い難い。

だが、了以の事業を検証する研究者の見方は大きく異なる。
元東京大学の五味文彦教授は「中世から近世にかけて商業のシステムをつくりあげた人物」だといい、
大阪大学の山崎正和教授に至っては「日本の企業家精神をきづいた、いわば日本近代化の元祖」
とまで言わしめているほどだ。
それはただの商人像ではなく、また優れた技術者像だけではない。

実業家として近代的経営の思想からシステムまでつくりあげた人物として高い評価を示している。


了以から続く角倉一族が近世日本の発展に与えた影響はけして小さくない。

歴史の片隅に追いやれ、語られることなく忘れ去られようとする了以の功績を、
今一度、掘り起こし検証、研究することで、その価値を正当に、
現代日本へ問いかけることは、了以の遺産で生きる
我々保津川下りに従事する者の使命だと感じる。

これまで続けてきた「江戸近世における角倉一族の文化力と技術力の研究」をもとに
角倉了以、そして息子素庵から続く一族の功績をこれから明らかにしていきたい。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第6話 伊藤仁斎の巻

2012-07-25 16:27:36 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
江戸時代前期の儒学者に伊藤仁斎という人物がいる。
仁斎は京都の堀川に「古義堂」という私塾を創設した市井の学者で、
林家の朱子学に異を唱え、独自の儒学理論を構築し、その後の旧儒学批判の
基礎となる古義学派(堀川学派)の祖となった人物。

この伊藤仁斎が角倉一族の人間であることを、知る人は少ないのではないでしょうか。


伊藤仁斎は寛永4年7月20日(1627年8月30日)京都で誕生した。

保津川を開削した角倉了以の姪の子(那倍の子)に当たり、了以の子素庵にとっては従妹の子に当たる。
1662年 京都の堀川に古義堂を開く。市井の儒学者である。
 宝永2年3月12日(1705年4月5日) 死没。

仁斎は、徳川幕府の官学であった林家が論ずる「論語」「孟子」「中国古典」を含む「朱子学」の
体系的な解釈学問に対して異論を唱え、仁義について独自の論理を構築し「論語」を読み込むことで
新しい学問的境地を開いた儒学者で、終生いずれの藩にも仕官せず、町の学者として
その生涯を全うした。(1705年3月12日没)

1662年に京都堀川に「古義堂」という私塾を開き、全国各地から集まった門弟たちを指導した。
直接指導したその数、45年間で延べ3000人ともいわれ、この塾は仁斎死後も明治後期の1905年まで続いた。

仁斎は俗説となってきた天道、地道といった高邁で客観的な宇宙論を説く朱子学に疑問を呈し、
論語や孟子の原典を読み込み、その言葉が本来秘める真意を把握することに努めた。

理論だけでなく「人道」つまり人として正しく生きる為に学問が必要との思想から
日常生活の上で、主観的に実践する学問の重要性を説いた。

また、孟子の教えの核心部は「人間にとって最も大切なことは、学問と教育によって善へ導ける」
ということであり、階層の隔てなく「学問と教育の重要性」を強調した。

「人間は善に生きることが本来困難であり、誘惑の道が常にあることを自覚し、学問、勉強を怠ると堕落する」
と説く、実践主義と自由な校風が町衆に支持され、塾の門弟はどんどん増えていった。

また、仁斎は古義堂と同時に「同志会」も創設している。
俗説として流行している、禅学や老荘思想とごっちゃ混ぜにした、非儒学的な思想を介入させた
「儒学の日本化」についた研究する集まりで、月に2~3回例会を開いている。

例会ではお茶とお菓子を各自が持ち寄り、仁斎がまとめ役となり、研究者が指南役を輪番制で務めていく。

基本を音読として全員で唱和し、刷り込んでいく。
更に、指南役に当たっている者は論題を事前に作成をし、問題提起をしながら、参加者が回答する方式で
進めていく。指南役はその議論から感じたところをレポートにまとめ提出する決まりとなっていた。

「教わる者も、教える側に回ることで学ぶ」という実践授業も行っていたのだ。

その中から多くの優秀な門人を数多く配し、古義堂の学問は全国へ広がっていった。

後に流行する荻生徂徠の護国学派や石田梅岩の心学も、仁斎の思想の影響を受け誕生したともいわれる。
また、忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助は漢学を仁斎から学んでいたといわれる。


日本思想史にその足跡を大きく残した市井の学者・伊藤仁斎が、
角倉家から出ているとこに私は注目したい。

了以の子、素庵は日本儒学の祖といわれる藤原惺窩の門下生だった。
その友人に江戸幕府お抱えに儒学者で、朱子学の祖・林羅山がいる。

後に、その羅山が唱えた朱子学に異をとなえる仁斎だが、晩年、学者としての活動を
再開した素庵の影響を受けたことは容易に想像でき、少年期から儒学の学問的風土の
中で育ったといえる。

素庵が惺窩に頼んで作成した「舟中規約」の思想にも、強い刺激を受けていたのではないか。

了以、素庵親子の事業から生まれた思想が、その後、仁斎により
さらに実践的思想にまで昇華し、日本思想史に大きな影響を与えている。

産業、技術の分野だけでなく、道徳、生き方という思想の分野まで
近代日本に影響を与えた角倉一族の活躍。

明治維新後の歴史から封印された角倉一族の検証の必要性を強く感じずにはいられない。

仁斎の墓は、了以たち角倉一族と同じ小倉山・二尊院に眠っている。

私の「角倉プロジェクト」~これからの時代の保津川下りを問う~

2012-03-22 15:42:27 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
今、時代は大転換期にある。

リーマンショックに端を発した国際金融不安、ギリシャの財政破たんによるEU経済崩壊の危機、
アメリカ国力低下が招く中東動乱や中国の台頭などこれまでの国際秩序の崩壊など、
現在、世界で起こっている政治や経済等の様々な現状は、まさに激動期と呼ぶにふさわしい。

そんな中で、我が日本も昨年の「3・11」で、未曽有の自然被害が東北地方を襲い、
近代日本の高度科学文明と産業技術をけん引する象徴的存在であった
原子力発電所の安全神話崩壊を目の当たりにした。
まさに我が祖国も第二次大戦以来の国難期に見舞われている。

私たちが生きる‘今’は、間違いなく将来、世界史上に
記録されるであろう大きな時代の転換期にあることは間違いがない。

転換期には、これまで慣習化されていたシステムや制度の多くが瓦解され、
新たな秩序構築による制度や仕組みが改革がなされてきたことは
歴史が語りかけてくるところだ。

我が祖国、そして我々日本人もこの新たな国際秩序が模索されようとする現在に
生きねばならない。

果たして、どのような思考構築により、どのような選択と挑戦をしていかねばならないのか?
まさに国民ひとりひとりの‘生き方’が問われる時代に突入していると実感する。

国の進むべきに道については、多くの識者が諸子百家よろしく様々な視点に立ち、
真剣で熱のこもった議論が闘わされている昨今にあって、私という個人は、
また私の所属する企業はどのように生きていくのか?否、生きていかねばならないのか?
時代を読み、先を見据えた迅速で具体的な思考に基づき、戦略を練る必要性が
あることは論を待たないだろう。

「保津川下りとは何か?」「経営を支える‘力’と‘魅力’とは何か?」
その本質をもう一度しっかりと掘り起し企業価値としての視点での
「保津川下り」を検証し、従事する者の自覚が求められる。 

これまで保津川の川舟は、幾多の時代変革の大波に晒されながらも、
406年という長きにわたり、転覆することなく生き抜いてきた川舟だ。
その根底にある潜在力とは何だったのか?そこを明確化し、我々船士が再認識すること
そして、その力となるものの再構築を図り、これからの時代における
「保津川下りの企業価値」を創造していきたい。

その一つの方法を、まず歴史に求めたい。
保津川下りの元一日である「角倉了以・素庵親子」の発想とセンス、
またそれを生み出した精神を訪ね、学ぶことだ。

創業の原点を辿ることから始め、時代背景下での存在価値を明確化したい。
そして、その価値創造に活かされた先人の知恵に学ぶことで、
現在の企業戦略の立案から実践行動につなげ、総合的な企業力に厚みを
加え、己の誇りとして価値と魅力を広く世界に問いかけていきたいと思う。


この研究と事業を進めていくことこそ、私の「角倉プロジェクト」なのである。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第5話 高瀬川開削の巻

2012-01-14 02:25:00 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以と素庵親子が,近世の京都の町づくりに寄与した事業に
洛中の中に開削した運河・高瀬川があります。

高瀬川は鴨川の水を導き整備された人口河川で今も京都有数の繁華街・木屋町に流れを残しています。

文豪・森鴎外が小説「高瀬舟」を書いて一躍、全国的に有名になった川なので、
御存じの方も多いと思います。
開削工事は慶長16年(1611)に幕府の許可を得て着手、同年19年(1614)に完成しています。

今の二条木屋町から伏見港を結ぶ延長1.5㎞で、保津川を下る舟のように一方通行ではなく、
船頭が下流から綱で舟を曳き上げる「登り舟」もあり、回航型で舟が行き来したのです。
川筋は二条から東九条の西南でいったん鴨川と合流させ、再び竹田から伏見港へ入り、
宇治川と合流するルートで付けられましたが、大きな川との合流は水位調整が
必要となることから、かなり高度な土木技術が施されたことがわかります。

工事は3区間に分けて進められ、川幅の平均四間(約7m余り)の運河であった為、
荷物の積み下ろし場や舟の方向転換の場として「舟入」という浜を9か所整備、
また方向転換専門の舟廻しを2か所設置されました。
この姿が今、二条木屋町西詰にある「一ノ舟入」(史跡指定)だけが現存しています。

工事総費用は総額七万五千両(150億円以上)で、そのすべてを
了以・素庵親子の角倉家が出資しました。
完成後は「角倉申請書」や「京都御役向大概覚え書」などの古い資料によると
「全舟数百五九隻を回航させ、舟一隻一回に二貫五百文を取った」と書かれ、
うち一貫文は幕府へ、二百五十文は舟加工代へ、残りの一貫二百五十文が角倉家の利益でした。
単純計算して一日二百貫文(五十両)の収益があり、当時の平均年間所得が四両と
いわれていたことを考えると、相当、おいしい商売だったことがわかります。(京都の歴史4巻を参照)

登り舟には主に米が運ばれ、高瀬舟一隻に三十俵から四十五俵の米が積まれたそうです。
あとは酒や醤油、油、塩、砂糖といった食品からたばこや薬品などの物資も積まれていました。
また、下り舟には大八車や大長持、たんす、持仏堂など大きな荷物と
筆や竹皮などの物産が多くかったようです。

高瀬川沿いにはこれらの商品をあつかう商店が立ち並び、
近世京都の経済発展に大きく貢献する事業を起こしたのでした。

高瀬川を開削工事にも了以の豪胆な男気が見て取れる話があります。

開削工事に着手することを聞いた沿岸住民は開削で田地が損失する
不安や用水欠乏などを懸念する声が上がると「そのすべての責任は私が取る!」
と誓約書までかわし、なんともし事業が休止した時の補償まで行うと誓い、
住民を納得させています。

今の時代に一番求められる人物像ではないでしょうか?
角倉家は明治政府に移行するまで、この高瀬川と保津川の権利を持ち、
さらに淀川の通行管理も幕府から請け負うなど、
子々孫々が潤う経営基盤を確立していったのです。


君は角倉了以・素庵親子を知っているか?第四話 角倉素庵の巻

2012-01-11 14:27:00 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
桃山時代から江戸時代初期の角倉家の台頭をみるとき、当主だった了以にばかり
スポットが当たりますが、当時の角倉家の事業に子・素庵の存在を無視することはできません。

角倉素庵・・・本名・与一(よいち)
了以の17歳の時の子で、元亀2年(1571)に生まれていますから、
父と年の差がない上、了以が朱印船貿易に乗り出した年齢が50歳で
あったことを考えると、実際に現場を仕切っていたのは素庵であることは
想像に難くないと思います。

事実、保津川開削工事の許可を江戸にもらいに行くのも、また富士川などの
開削工事を依頼される窓口はすべて素庵が行っています。
こうしてみると、事業の実働は素庵が取り仕切り、了以は
陰で総合的な指揮をとっていたのではないでしょうか?

まさに、二人三脚で時代の変動期を生き抜いた角倉了以・素庵親子ですが、
最初からすんなりこの親子関係が出来ていたというわけではないようです。

剛毅闊達な了以の性格に比べ、素庵は母親似だったのか、おとなしく体の弱い体質で、
学問をこよなく愛し、朱子学の大家・藤原惺窩(せいか)や
書家で芸術家の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に入門していました。

自分の事業の跡を素庵に継がせようと思っていた了以は、学問にふける素庵を叱り飛ばし、
学者になる夢を絶たせて実業の世界へ引っ張ったのです。
了以自身も医者だった父の跡を継ぐのを拒み、実業の世界を歩んでいたので、
その心中は複雑なものがあったのではないでしょうか?

しかし、保津川の開削工事の際の許可申請時にみられるように、
その学問で培った人脈と教養はその後、実業の世界に大いに生かされました。

師匠・藤原惺窩にお願いしてまとめてもらった「舟中規約」は
異国人や芸術・芸能家など多種な人種が乗り込んでいた角倉朱印船の
乗船者に遵守させる規則で、長い航海での船内秩序を維持するのに役立ちましたし、
角倉家商売の精神ともいえる「人を捐(す)てて己を益するに非ず」という
「他人に損失を与えて、自分の利益を得ようとしない」という商道徳を掲げ、
近代的な企業モラルの確立により、明治期まで盤石の企業体をつくりあげたのでした。

その後、素庵は伏見港から淀、枚方を経て大阪までの淀川の水運事業を管理する
過書奉行を幕府より任命され、淀川を運航する川船の運上銀の徴収や役船の調達などの
業務を代々世襲にて行い、一族の子々孫々まで盤石な経済基盤を気付いたのでした。

また、素庵は琵琶湖を大坂と結ぶ水運ルートを企画した最初の人物でもあります!
慶長19年(16141)9月23日付の幕府(林羅山・儒学者)から角倉素庵に宛てた書状によると
「瀬田川、宇治川を利用し瀬田~宇治間の舟運を開きたいという計画を徳川家康に言上した」
という内容で、素庵の計画を聞いた家康は上機嫌で
「舟が上下できれば良く、もし出来なくても湖水の低下で6、7万石の上田が生まれる
湖水が2、3尺も引き下がれば近江で20万石の新田開拓が可能である」と
計画実現を期待するものだったといいます。

さらに、北国などの物貨を琵琶湖から瀬田川、宇治川経由で伏見へ送り、
開削した高瀬川を利用すれば、京へ運び込める舟運ルートもでき、また
舟の運航のみでなく工事で、琵琶湖の水位低下で広大な新田開発もできるという
一石二鳥という壮大な事業計画だったのです。
海外貿易で有した財力と河川工事の高い技術力を持つ、角倉家が本気で着工すれば、
実現も不可能ではなかったかも?しれません。
しかし、同計画に関わる史料はこの書状だけで、その後に着工された
形跡も残されていないのは少し残念な気がします。

時は経て、明治時代、琵琶湖疏水開削事業の立役者である工学者・田辺朔朗氏と
角倉一族とのゆかりもあるのですが、その話は後日に回すとして、
スケールの大きさという点でも、父了以に匹敵する気質を持っていたことがわかります。

素庵は隠居後、生来、希望していた学問・芸術の世界へ戻ったらしく、
嵯峨を拠点に出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵谷宗達らの協力を得て
史記や方丈記、徒然草などを編集した「嵯峨本」といわれる書籍群を創刊しました。
手書きの味わいを最大限に引き出した活版印刷で、装飾にも芸術性を重視した、
日本印刷史上、有数の美しさを持つ本といわれています。

角倉了以の陰に隠れ、知る人ぞ知る、存在の素庵ですが、父了以同様、
日本の産業経済史に残る実業家であり、且つ当時の最高峰の教養人たちと
交流し、自らも芸術・文化などの面でも優れた美意識と高い教養を有する
日本芸術文化史に残る一流の教養人であったという点では、
父了以をも凌ぐ、稀代の経済人だったといえるのではないでしょうか。