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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津川下り、最後の桜が散る姿に・・・

2010-04-15 09:18:45 | 船頭の目・・・雑感・雑記
保津川下りの乗船場を華やかに彩った桜も、いよいよ‘散る’ときを迎えたようです。

川沿いに連なる桜並木から舞い落ちた花びらが、辺りをピンク一色に染め、
歩みにあわせて舞い上がる姿は美しくもあり、寂しくもあります。

今年は近年にない、寒い日が多く、なんとなく桜の季節が短く感じられましたが、
乗船場の桜たちは今年もかわることなく、優美に咲き誇り、訪れる多くの
観光客の目を楽しませてくれました。

華やかで賑やかな‘宴のあと’のような寂しさは、桜が散っていく姿だけではありません。

長年、我々の春の象徴であった保津川下り乗船場の桜並木は、
今年を最後に切り倒される運命にあり、その寂しさが一層、哀愁を誘うのです。

京都府が推進する「桂川河川改修工事」計画により、現在の保津川遊船事務所が移転、
乗船場および堤防も新たに造り直され、その工事にともない桜並木も切り倒される
運命にあるというわけです。

保津川下り乗船場の桜並木は、乗船場事務所と待合室・売店の前・堤防沿い約20m間に
ソメイヨシノやしだれ桜など約10数本が植えてあります。
これらの桜並木は、今の「保津川遊船企業組合」が大手資本から独立し「自主運航」を
果たした昭和45年に、当時の先輩組合員達が記念に植えたもので、樹齢にして39歳ともいわれています。

毎年、満開時には可憐で優美な花をたくさん咲かせ、全国からお越し下さった観光客の人たちの目を癒し、楽しませてくれました。

桜たち船頭にとっても‘春’の訪れとともに観光シーズンの到来を教えてくれる象徴でもあり、
また時は、昼ごはんを食べたり、出航を待つ間の休憩場として。
また、桜木の股をテコにして船頭が使う竿の曲がりを直したり、
櫂の紐を作る時の作業台ともなり、いつも船頭とともにあった桜でした。


この桜並木に見送られ、この39年間、数え切れないほどの舟が嵐山へ向かって出航して行きました。

そんな桜たちと来年はもう、会うことができません・・・誠にさびしい気持ちでいっぱいです。

だいたい「桜の寿命は100年」といわれています。

ならば保津川下りの桜たちはまだ青年期といえます。本当に無念なことでありましょう。

桜が育つまで約40年という長い歳月を費やしました。
しかし切り倒すのはわずか10分もあれば終わることでしょう。
「桜守」16代目佐野藤右衛門さんの話によると「桜は人の心がわかる」とのこと。
懸命に咲き誇る保津川の桜たちは、自分の存在を、そしてその意義を‘いのち’を
かけて私たち人間に訴えかけているように感じました。

まぶしい春の日差しを幹や枝、花にいっぱい浴び、美しく輝いていた桜たち。
「美しい」その姿を私はしっかり記憶にとどめていたい。

最後の‘いのち’の灯火を燃やしながら、散りゆく保津川乗船場の‘桜’。

切り倒される最後の時は「ごくろうさま」とねぎらいの気持ちを込めて、見送ってやりたいと思っています。

《保津川下り乗船場の桜並木、最後の満開 動画》
       ↓
http://www.youtube.com/watch?v=gKxvb3Rfo68

過疎化集落は対岸の問題ではない!府の推計を受けて。

2010-03-17 00:37:14 | 船頭の目・・・雑感・雑記
京都府の農山村集落での過疎化がとまらない!

府の推計によると、府下の農山村で65歳以上の人口が50%を超える集落、いわゆる
「限界集落」は329集落あり、2015年度には614集落に達するであろうという
見解を示しています。

これまで集落の生活基盤を支えてきた農業や林業などの第一次産業の衰退に加え、
財政難による公共事業の先細りも相まって今、これらの農山村で生計を立てること
は極めて困難な状況なってきています。

地元に仕事がない状況は、働き手となる若年層を中心に、都市部への人口流出を加速させ、
農地の休耕地や山の荒廃を招き、益々、農山村の過疎化は生存の観点からも深刻度を増してきています。

そして、私もこれらと同様の集落をルーツに持つ者です。

14日深夜に放送されたMBS毎日放送の「映像’10」で紹介された「心つないで 杖ヶ藪」の
紹介文にも書きましたが、これまで農林水産物の供給地として、この国を支えててきた農山村の集落を
「限界集落」などという名称をつけて「対岸の火事」と、のんきに構えていていいのでしょうか?

食料自給率が50%を切るこの国で、海産物を中心に海外との食料摩擦は激化する一方です。

また、バイオエタノールという食料を燃料に転化する、国際的な思惑が交差する穀物戦略も
進む厳しい状勢の中、生存の基盤の脆弱な我が国の進んでいる方向は正しいのでしょうか?

とはいえ、集落では「村おこしをしようにも、みんな年寄りでリーダーすらない」のが現状です。

人もモノはもちろん教育、情報などあらゆる分野で都市と農山村の生活格差は広がる一方です。

安全な食・水の供給地は、過去も将来も国の生存を支える最も大事な基盤です。
その上、自然環境の保全や価値の再認識や地域文化の継承などを果たす役割として
農山村の重要性は強調して強調し過ぎることはないと思います。
そのためにも、都市と農山村との人的交流を深め、生活基盤の再生を見据えた、
活性化へ向けた組織づくりなども一考だと思います。

都市と農山村は支えあって共存していかねばなりません。
それにはまず、人が行き来し、お互いを知ることから始めることが
その一歩になると信じます。

少子化と高齢化が進むこの国では、この過疎の集落で起こっている現実が、けして
対岸の問題ではなく、この先にある‘危機’だという認識を、都市の人も持つ必要があるでしょう。

過疎化の問題は、個々の地域だけで解決できる問題ではなく、都市部も含む地域間の視点に立った意識の広がりが必要不可欠だと考えます。

複雑な要因が絡み合った過疎集落の問題は、確かに簡単ではなく、速攻性のある特効薬が
あるわけではないですが、都市も農山村も、お互いの立場を理解しあい、ともに助け合う‘勇み心’があればきっと、暗闇の中に一すじの光を見つけることが出来るのと信じます。

最後にモノをいう「人徳」。果たして平成の龍馬はいかに?

2010-03-16 00:45:49 | 船頭の目・・・雑感・雑記
「私は平成の坂本龍馬になる!」と豪語して今日、自民党に離党届を提出した
現首相の実弟・鳩山邦夫元総務相。

自身の思いでは今、自民党の執行部批判の2大勢力である与謝野馨氏と舛添要一氏を
幕末期の薩摩と長州に名添えて、自分が龍馬よろしく、この2人を結びつける役割を
買って出たというわけです。

さて、この顛末いかなものとなるこやら・・・・それはともかくNHKの大河ドラマでも
「龍馬伝」が放映され、高い視聴率を挙げています。
日本人の龍馬人気は凄いですね。

龍馬の魅力といえば「人徳」を挙げる方が多いです。
ただの素浪人という身分の者が、薩長同盟を締結させ、大政奉還のあらすじを書き、
江戸幕府を終焉へと向かわせる立役者となる、この奇跡の裏には「人をひきつける力」
「人徳」があったといわれています。
「龍馬なら協力できる気がする」「龍馬のためなら、人肌脱ごう」という者が多くいた様です。
では人徳とは一体何なのでしょう?また、どうすれば「徳」は身に付くのでしょう?


陽明学者の安岡正篤氏は「徳、才に勝る君子という」という言葉を残されております。
才は大事なものなれど、才に頼り溺れる者より、まず徳を身につけることの大切さを説かれています。
才に長けていても徳分のない君子は国民に見限られやがて滅んでいくという歴史が教えてく
れる教訓といえます。

徳とは目先の損得勘定にとらわれず、自分以外の者のため、つまり世の中や他者の為に
汗をかき、苦労し、努力するところに生まれています。
その尽くした行いこそが「徳」を積むことへつながり、人格を磐石なものとします。

また、徳を積んだ人は、同じものを見ても、喜べる人でもあります。
バラの花の美しさを見るか、トゲを見て不足や文句を言うか、ここのところの差でもあります。

人を見るときでも、相手の長所を見て伸ばすのか、欠点ばかりを挙げつらね腐すのか、
同じ人を見ていてもこの視点の違いは大きいのです。
この両者の視点の差こそ、徳分の差です。
徳のある人物はよい視点を持ち、どんなことに遭遇しても喜びにかえられる人だと思います。
企業でも「働くとは はたはたを楽にすること」とも聞かせて頂きます。
この前向きで勇んだ精神こそ、ホスピタリティ(おもてなしの心)に通ずるもので、
これからの観光業は欠かすことができない、大切な心の向きだといわれています。

「金がものをいう世の中」と言った経営者もいたけれど、金はそれほど確かなアテにならないことは、
今の彼らの姿をみれば一目瞭然です。
金、財産、地位、名誉などいくら積み上げていっても、それらは移ろいやすいもので
「徳」のように磐石なものではなく、また人を幸せに導くものではないこともわかります。

人生の幸せとは・・・・
「自分以外のどれだけ多くの人々の人生と運命に、どれだけ多くの良き影響を与えることができたか、どうか」
というをある財界人の方が話されていたことを思いだします。

自分が本当に望むこと、成し遂げようとする時、最後にものをいうのはやはり「徳」です。

さあ、超お坊ちゃま家族出身の現総理の弟さんの「徳」、いかほどのものか?

じっくり拝見することに致しましょう。

音楽の神様がくれた奇‘キセキ’ 22分50秒・・・

2010-03-09 14:08:41 | 船頭の目・・・雑感・雑記
みなさんは、昨年末に放送された小田和正さん「クリスマスの約束」をご覧になっただろうか?
そう、あの‘22分50秒’の奇跡を。
雪が降るこの日、クリスマスを思い出し再度、録画を巻き戻してみました。

この作品は、何度みても、感動して、必ず涙が出てとまらなくなります。

歌のジャンルも、年代も異なる21人のアーチストが集結し、それぞれの代表曲を、
ワンコーラスづつ歌い、メドレーでつなぎ「ひとつの曲」を生んだ「クリスマスの一夜限りの‘夢’」
その夢の曲の名は「22‘50」

「同じ時代に音楽を作ってきたアーチストが一同に会し、スポーツの団体戦のように歌いまくる、
そんなクリスマスナイトがあったらきっと‘楽しい’はず!」
そんな小田さんの願いからはじまったこの企画だったが、実現までの道のりはそう平坦ではありませんでした。

毎年、多くのアーチストに呼び掛け、誰も賛同者が現れなかったこの企画。
それでもあきらめず「音楽が大好きな者が集まれば必ず出きる」という小田さんの強い気持ちは、
若いアーチストを中心に伝わり出し、徐々に賛同者は集まります。
そして今年、9年越しの夢は現実へと変わったのです。

「大義名分もない、確かな答えもない、何が伝わるのかさえわからない。ただ、言葉を超えたもの、想像を超えたものを作り上げたい」
といしか語れない小田さんに、戸惑う賛同者たち。言葉にできない、ならない思いは果たして彼らに届くのか?

それぞれが代表曲をソロで歌っている間、他アーチストはコーラスを入れ、ともに歌う。
しかし「なんの為に? 皆で歌う意味がわからない?」・・・歌う理由を求める
アーチストやスタッフたちとの間に深い溝を感じる小田さん。

個性はアーチストの命。その一番大切な個性を殺してまで、なぜ皆に合わして歌う理由は何なんだ?
メンバーたちは何度も集まり、何度も議論を重ね、その意味と‘かたち’を求めていく。

「やってみないと答えがでない!」小田さん。
「そんなことじゃ、のれない!」アーチストたち。
言葉にできないジレンマと勝手な自分の思いで、多くの人を巻き込んだ責任感に押し潰されそうになる小田さん。
「簡単なことじゃなかった・・・・」とつぶやく。

疑問と戸惑い、不安を抱えながらも、とりあえずリハーサルが始まります。
必死で他人の曲を覚え、練習し、自分のものにしていく作業の過程で、少しづつだが
‘思い’が‘かたち’に変わっていく実感をつかむアーチストたち。
「いろんな不安や疑問もたしかにある。でもみんなが集まって唄ってみて、伝えたかったものはこれなのでは?」
言葉にできない、何かを超えた、その先にあるものを見据える力が、理屈や議論を超えていく
展開に、現場の人間が持つ鋭い感性をみました。

お互いが個性を出し合いながらも、みんなに合わせいく心。この心が揃った時、声は
想像を超えた力を生み、歌う者、聴く者双方に感動の輪を広げていく。

夢が現実のものになったステージ。
ワンフレーズにすべての思いを込めて歌い上げるアーチストたち。
曲は途切れることなく、次のアーチストの歌へとつながっていく。
もはやこれは、ひとつの曲をつなぎ合わせたものではなく、22分50秒あるひとつの曲です。
22分50秒の曲が歌い終えられたとき、会場のオーディエンスからいつまでもやまない拍手が。
出演者たちも満面の笑顔で抱き合っています。

自分だけの成功を望むのではなく、ヒットチャートのランキングに一喜一憂する感動でもない別の感動。
そう、幼き頃、音楽と出会ったあの時の‘楽しいから’‘好きだから’という純真な
心のときめきが甦り、沸き起こる感動です。

小田さんが本当に伝えたかったことは、同じ時代を生きた者同士が、認め、尊敬し合い、
そして、今も音楽ができる幸せと楽しさ、だったのかも知れません。
アーチストと会場の3000人のオーデエンス、それぞれがそれぞれの感じ方で、音楽の素晴らしさを
心で味わっていると感じました。もちろん、テレビの前の私自身も。
でも、感じ方は違っても、この歌声が生み出した、感動の‘心’に違いはありません。
このとてつもない‘大きさ’‘広さ’こそが音楽の魅力です。
みんなの笑顔なのに、目に流れる涙がとまりません。

最後は音を入れず会場、舞台が一体となって‘声’を合わせ斉唱です。
うまいも下手もない。音楽が好き、歌が好き、それだけで、人と人の心がつながっていく世界。
もう、言葉はいりませんね。

アーチストたちが気持ちをつなぎ、心をひとつにして歌った22分50秒。

これはまさに、歌の持つ力強さとやさしさを教えてくれる「音楽の神様」がくれた‘キセキ’でした。

♪来てくれてありがとう、嬉しかった震えるくらい。
 同じ時を生きてきた、別々の場所で、
 聞かせて君の歌を、その声であの歌を・・・・♪
                      *小田和正「この日のこと」

☆出演者
藤井フミヤ 「TRUE LOVE」スターダスト・レビュー(根本要) 「今夜だけきっと」
広瀬香美 「ロマンスの神様」JUJU「明日がくるなら」松たか子 「明日、春が来たら」
中村中「友達の詩」Sing Like Talking(佐藤竹善)「LaLaLa」Crystal Kay 「恋におちたら」
AI「Story」ラッツ&スター(鈴木雅之)「夢で逢えたら」一青窈 「ハナミズキ」
赤い鳥(山本潤子)「翼をください」清水翔太「HOME」オフコース(小田和正)「YES-YES-YES」
キマグレン 「LIFE」Aqua Timez(太志)「虹」スキマスイッチ「全力少年」
平原綾香 「Jupiter」夏川りみ 「涙そうそう」
チューリップ(財津和夫)「青春の影」
いきものがかり(吉岡聖恵) 「帰りたくなったよ」

Voice on Touchのライブで、15年目のspecial・day。

2010-03-06 22:44:48 | 船頭の目・・・雑感・雑記
昨日は私達・夫婦にとってspecial・day。

我がワイフとは、早いもので、もう15年のお付き合いをさせて頂いております。

ということで、昨夜は二人して、京都市中京区にあるライブハウス「ネガポジ」で
行われた「Voice on Touch 」というバンドのナイトライブに行って参りました。

今夜だけは子供たちにも遠慮してもらって、二人だけのお出かけです。

「Voice on Touch」さんとは、ワイフが歌っているゴスペルグループのバンドメンバーさんのつながりで、お知り合いになりました。
また、偶然にも、リーダーでピアノ担当のサトティーさんと私の弟が、中・高、通じて
同級生だったということが、後に判明し、今ではマイミクの仲に。


「Voice on Touch」さんは、ボーカルのChubby(みーさん)とパーカッションのhase-yan、
トランペットのseisky、そしてピアノのSatoTの4人グループ。
ギターなど電子音を入れず、ブラックなナンバーをアコースティクに演奏するグループです。

昨夜はspecial guestとして女性ボーカルリスト・ユキナさんとのジョイトもあり、
しっとりした‘大人のムード’漂う、すてきなライブでした。


ライブ終了後は、メンバーさんたちが私達のテーブルに集結し、私達のspecial・dayを
お祝いして下さいました。
お酒と美味しい料理、そして楽しいお話に花が咲き、気がつけば、閉店前まで、
ワイワイと盛り上がっていたのでした。

音楽はいろんな垣根を越えて、共感と感動を共有でき、人と人の縁をつないでいけるのですね。

あらためて、音楽は素晴らしと感じます。

私達の15年目のspecial・dayは、音楽と人の温かさに包まれ、
生涯忘れることのできない、素晴らしい日になりました。

シリーズ‘水’が教えてくれること。掃除での一番の功労者は?

2010-03-04 13:19:27 | 船頭の目・・・雑感・雑記
春が近づき、季節の変わり目を感じだす今日この頃。
我が家では、冬から春へと模様替えを兼ねたお部屋の大掃除を行いました。

大掃除に欠かせないもの、それは水です。

掃除機や近代的な掃除グッズも役に立ちますが、やはり、たんすや床、窓ガラスについた
ホコリやごみは、水による雑巾がけが一番有効です。

掃除は子供たちも手伝ってくれます。

さあ、掃除のスタートです。
きれいな水をバケツ一杯に汲み、乾いた雑巾に浸したあと、一箇所、一箇所、丹念に拭き掃除を行います。

ふき取ったほこりで汚れた雑巾はバケツの水で絞り取ります。
普段は、散らかしていても気にならない性質ですが、一旦、やりだすと熱中してしまう性格の私。
隅々まできれいにしないと気がすみません。
すぐにバケツの水はにごり、どろどろな水へと変化していきます。
その分、部屋は本当にきれいになりました。

子供たちも頑張ってくれました。
掃除が終了して、「みんな、よくがんばったな。お疲れさま。おかげできれいになった。」
と労い、ほめることも忘れません。

「この汚れたバケツの水、どうする?」子供が聞きました。
「庭へ流してきて」と私。
庭に流された水は、乾いた庭の土の中に浸み込み、草木を潤わせます。

さあ、ここで問題。この掃除の主人公は誰でしょう?
部屋の掃除を思いつき掛かった私でしょうか?それとも、一生懸命手伝ってくれた子供たちでしょうか?

もう、お気づきでしょう。そう、一番の主人公は水です!

たしかに、私も頑張ったし、子供たちをほめ、お礼を言うのも当たり前ですが、
部屋にたまったホコリをきれいに掃除した一番の功労者は水なのです。

水がこの世にないと、いくら掃き掃除や吸い込み掃除をしても、
表面にたまったほこりや汚れをきれいに掃除することはできないでしょう。

まして、最初、バケツに汲まれた水は、きれいな澄んだ水です。
その水の生命ともいえる「清らかさ」を投げ打って、部屋の汚れたホコリやごみを引き受けた水。
自らを汚し、どろどろになり、誰にもお礼を言われず、挙句、汚い水とまで言われて捨てられる。
それでも、恨み言ひとつ言わず、庭を潤わす役目をも引き受け、捨てた者が快適に暮らせるようにと働く。

なんという気高さ!なんという尊さでしょう!

水は大地とともに人の心も潤わせながら、多くの教訓をさずけてくれます。

食を育む大きな海、川、そして体内の水分の働き、なにひとつ欠けても、人は生きていくことができません。
なんと豊かな恵みでしょう!
この大いなる恵みに比べたら、私たちが日頃、豊かさを感じる車やテレビ、PC類などの
‘もの’なんて、生きる上では付録以外のなにものでもないことに気づきます。

水が教えてくれる様に、そろそろ、私たちもこの混沌とした物、金など至上主義の価値観を離れ、
人間が生存する為に、本当に必要なものに目を向けて、感謝する心を育むことが
これからの時代に大切だと気づかせてくれる出来事でした。

水が教える‘潤い’の大切さとは。

2010-03-02 23:44:08 | 船頭の目・・・雑感・雑記
人間の体は60%が水分でできているといいます。

水分つまり潤いほど、人間が生きていく上で必要なものはありません。

体力の水分が消耗されると、耐え難い‘渇き’に襲われる経験は、誰でもお持ちだと思います。
その体を甦らせるのが‘水’です。
でも、これは身体的な話だけではありません。
人の心にも水の潤いが必要なのです。

人は、庭の花や草、木がしおれていたら、迷わず水を与えるでしょう。
この行為は、水が枯れかかった草木を甦らせる力を持つと信じているからです。

しかし、これが人間だったらどうでしょう?しかも他人。
人間関係をつくるのが下手で、傷つき倒れそうな人、引きこもり、前を向けず、うずくまっている人、
懸命に生きているのに報われない人など。

これらの人々の様に、運命に翻弄され、自分の力では立ちあがれない弱い人に出会った時、
あなたはどの様に接しますか?

草木に水をあげるように、それらの人々の心に水を差し出し、潤いを与えることができるでしょうか?

事実は決してそうでない場合が多いのです。

わざわざ、その人の短所を指摘して、とがめ、自己責任と突き放すことも少なくない。
ひどくなると「こんなことになったのも、全部、あなたが悪い」と、今にも倒れそうな
弱っている者に、自身の性格や行動について、みんなして糾弾することすらあるのです。

自分の論理での正当性と正義という名のもとに。

そして行き着く先は、生きる力さえ奪うところまでいき、「やっぱり、弱い人間だったな」
などと言い、納得して論理は完璧なものとなります。

しかし、この世に絶対に正しい人間などいるはずはありません。
いいところもあれば悪いところもあるのが人間。当たり前にみんな両面を持っているものです。お互い様なのです。
なのに、悪いところばかりを指摘し、改善せよ、と迫る、この滑稽さよ。

そんなことにすら、気がつない、鈍感な感性しか持ち合わせていない人ばかり
の寄り合い所帯がこの世なら、いくら美しい言葉を並べても、お互いに相手を貶めあい、
最後は破滅へと向かうでしょう。

枯れかかった草花も、水という潤いを与えてやることで、生きるエネルギーを
蘇生させることを自然は教えてくれています。
そして、違いは違いとして受け入れ、共生しながら生きているからこそ、
それぞれの特性と役割を果たし、永遠に続いていくのです。

人にも水という潤いが必要です。
そんな潤いのある水を与えられる、そんな人間に私はなりたい。

マザーテレサはいいます。
「貧しい人たちを能無しと非難する前に、自分の心の中を見つめる義務が私たち一人ひとりにあります」と。

与えてください。心が痛むほどに・・・


長雨に春を感じて・・・心、うきたつ季節、近し。

2010-03-01 23:58:48 | 船頭の目・・・雑感・雑記
春先の長雨・・・という言葉があるのか、どうかは知りませんが、
お空のご機嫌ななめで、4日連続の雨模様。

この雨の影響で保津川下りは、昨日から河川水位の増水により、
舟の運航を停止する「川止め」を余儀なくされています。

この時期の雨、実はよくあることで、恒例の「保津川下り春の開幕」行事が催される
3月10日を控え、行事が開催できるかヒヤヒヤする年も多いのです。

しかし、自然は人の都合、まして一個人の都合で左右されるものではありません。
毎日、自然の中で、自然に自らを合わし、共生して生きる暮らしを
15年以上続けてきた昨今、そのことを幾度となく教えられました。

この時期の雨にも、自然の意味ある‘はからい’があるはず。

愛宕山を始め、丹波の奥深い山間部を縫う様に流れる上流域を持つ保津川。

この時期に降る雨は、今年の冬、この丹波山地に降り積もった雪を解かし、
山を潤わせ、川を満たします。
雪が解けた大地からは、冬の間、地中という母胎の中ですくすくと育った、
新たな‘いのち’が外界に生み出されるように‘芽’を出します。

絶えることなく繰り返される、この偉大なる天然自然の営みに、大いなるものの
秩序ある働きを感じずにはいられません。

雨をうっとうしいものと捉えず、偉大なる自然の営み、いのちの真実にまで
思いを馳せれば、雨を見る眼差しもどこか、優しくなれる気がします。


今年も保津川、渓谷の山々といった‘いのちの舞台’で演じられる自然の饗宴。

さあ、いよいよ、その幕が上がり「心、うきたつ春」がはじまります。

一夜で移り変わる街の風景を眺めながら・・・

2009-12-27 00:09:20 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今年最後のビックイベントだったクリスマスも終り、いよいよ年の瀬が押し迫ってきました。

街中をキラキラ美しく飾ったクリスマス・イルミーションの灯も落ち、
一気に街はお正月へ‘和’の装い一色へ移ってきました。

ショッピングセンターの飾りも「ツリーから門松へ」模様替えがはじまり、
ディスプレイ屋さんも大忙しいといったところでしょうか。

ワクワク、華やいだクリスマスムードから、年の瀬へ向かう、
あわただしさの中に去りゆく年の姿を感じさせられます。

一年の中でこの時ほど、一夜で街の雰囲気が一変し、気持ちが
切り替わる季節はないと思います。

一夜にして‘洋’風から‘和’風へと街の風景を変化させるだけではなく、
神様も‘イエス様’から‘八百万の神々’へと変えても全く違和感なしに
受け入れてしてしまうの日本人独特の宗教観並びに精神構造を見る思いがします。

でもこのような精神構造を根底に持つ国民性だからこそ、日本人は有史以来、
中国や欧米などの最先端の科学技術や政治体制を謙虚に学び取り入れる姿勢が
生まれ、明治以降はアジアで最初の経済発展・技術的進歩を図ることが
可能だったのでしょう。
他国の宗教や文化であっても、いいものや楽しいもの、興味を引くものなら
こだわることなくすんなり受け入れ、自らの文化と融合させ独自のアレンジ文化を
創造してきたことは異論のないところであり、またいい所取りでいい加減な中途半端なものを
創るのではなく、世界に通用する完成度の高いものに創造していく
そのテクニックには脱帽さされます。

そういえば、
「その人種の歴史的に受け継がれた思考も遺伝情報に組み込まれ、今の人の心の動き作用する」
と遺伝子の専門家の方に聞いたことがあります。

日本という国は、古代国創りの時から‘八百万の神々’によって建国された
神話を持つくらいですから、色んな神様がその時代、場面に登場しても、よい
作用を起こすものなら、何の違和感もなく受け入れる「DNA」が組み込まれて
いるのかもしれませんね。

「精神的な支柱となる神聖であるべき‘祈る対象’をコロコロと
変えるのはいい加減な人種の表れ」という批判も確かによく耳にします。
しかし、この柔軟さとバランス感覚が健全である限り、世界中の不幸や悲劇の
原因となっている原理的な宗教紛争や狭少なナショナリズムも日本には育ちにくく、
常に広い視野で共通点を見つけ出し、その中から新しい感性や発想を生み出す
土壌が根づく精神は、これからの国際社会で最も求めれらる‘モデル’
となるのではないでしょうか?
現にキリスト教の聖地・バチカンにあるローマ法王庁では
「カトリックによる他宗教のとの対話」が積極的に行われていますし、
民族の壁を取り払う活動も世界的規模で広がりを見せています。

地球が迎える「新時代の主軸」となるひとつの精神モデルを、日本は
明確に示していける立場にあると考えるのは私だけではないはず・・・

街の装いがめまぐるしく移り変わる姿を眺めながら、日本人の持つ伝統的な
精神構造の‘コア’な部分を探るという、なんとも大げさな思考展開
となりましたが、慌しいこんな時でも、少し立ち止まり‘自分のアイデンティティ’
という、暇な思考遊びにふけるゆとりを持つのもまんざら悪くないと
感じるのでした。

「秋桜」?コスモスの花を眺めながら思う・・・

2009-10-28 16:06:01 | 船頭の目・・・雑感・雑記
日に日に秋の深まりを感じる季節です。

初秋から保津川下りにお越しになる観光客をお出迎えしてきた
駅前の「コスモス園」の花たちもいよいよ終焉の時が近づいてきました。

「保津川下り」の下車駅である「JR亀岡駅」周辺の農地では毎年、
観光に来られる方々を気持ちよくおもてなしする為、地元農事組合で
休耕中の農地を利用して「コスモス園」を整備されていて、例年
大勢の見物客が訪れる人気スポット。

しかし、今年はすこし様子が違うようです。

開園間もなくして襲ってきた台風18号の直撃を受け、花の茎がすべて倒れ寝てしまういう事態に陥り、
荒れてしまった園には例年の賑わいはなく人影もまばら・・・

そして終園(終焉)の時を迎えようとしております。

訪れる人の姿もない・・・そんな園内ですが、コスモスはそのいのちの限り
一生懸命に咲き誇り生きています。

「秋」の「桜」と書いてコスモス・・・なぜ、そのように書くのかは
定かではないそうですが、一説によると桜と花びらの形や色が
似ていることから「秋桜」と書かれるようになったともいわれています。

桜のように華やかでもなく、潔く散る花でもない。
小道や山の中にポッと咲く、なんとも素朴な花です。

元は外来種で、たくさん集まってこそ美しさを際立たせる花。

私が感じる桜のイメージとは少し異なるようの思うのです。

秋風に吹かれる細い茎は今にも飛ばされそうな弱々しさを感じさせ、
見ている者を心配を誘い、琴線にふれる哀愁を漂わせています。

しかし本当の姿は少し違うようです。
日当たりと水はけがよければ痩せた土地にでも根を付けることが
できる逞しさを持ち、しかも根が強いのです。

台風の大風を受けても剥がされることなく大地にしっかりと根を張り、
茎は倒されても折れることなく花を咲かせ続けます。

コスモス・・・なんと強い花なのでしょう。

儚く弱そうに見えるものが実は強く、華やかで強そうに見えるものが実は弱い。

この自然界が現す‘逆説’の真理は、私たち人間に
多くの示唆を与えてくれているように感じてなりません。

季節の主役は燃え滾る錦絵のような紅葉へと移り、人々の関心も移ってゆきます

台風で倒れたコスモスの群れを見ながら
「今年のコスモスは美しくないな~」「これでは見に来る人もいないよ~」
などとため息交じりで嘆く関係者。

しかし、コスモスは茎を倒され、荒れながらも枯れることなく、しっかりと咲き、
昨年の花と何も変わっていません。変わったのは観る人の目の方です。

私達の勝手な価値観に関係なく、コスモスは‘終焉’のその時まで、
強く咲き誇っています。

素朴にしてこの芯の強い気高さ。

コスモスやはり「秋桜」なのかもしれませんね。