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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

たった今、東京から帰ってきました。

2007-02-18 22:56:07 | 心の旅
先週の金曜日から家族で東京へ行ってました。

たった今、無事に亀岡に帰還!

とてもハードなスケジュールでしたが、いっぱいの
思い出がつくれた楽しい旅でした。


東京でお世話になった皆さん、ありがとうございました。
生涯忘れることのない、いい旅をさせていただきました。

神代からのある日本最古の神社・石上神宮

2007-01-12 21:52:19 | 心の旅
奈良盆地の東端を南北に走る一本の古道、
これが日本最古の国道「山の辺のみち」。

その山辺の道の中間点・天理市龍王山の西の麓、
布留山(標高ニ六六メートル)の北西裾の高台に
鎮座しているのが神代から昔からあるといわれる
石上(いそのかみ)神宮です。

日本最古の神社の一つで、神武天皇が大和征服に
使った天剣(平国之剣)の霊威・布都御魂大神と
素盞鳴尊が八岐大蛇を退治した天十握剣の
霊威・布都斯魂大神を祭神し、武門の棟梁たる
物部氏の総氏神として、古代から健康長寿・病気平癒
除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。


森林に囲まれた静かな参道を登ると、けして広くないが
うっそうと茂った木々や山など周囲の自然とすんなり溶け込だ
境内の姿が古代の雰囲気を醸し出している。

拝殿は平安時代の後期、石上神宮を崇敬された白河天皇が、
宮中の神嘉殿を寄進したものといわれ国宝とされている。
拝殿の陰になって正面からは見えないが、その奥には
剣先状の石端垣に囲まれた禁足地があり、禁足地の中央
には大正2年(1913)になって初めて建立された本殿が
建っています。本殿の西側には大和朝廷の武器庫だった
といわれる神庫(ほくら)があります。

楼門の向かい側の石段を上がると「出雲建雄神社拝殿」があります。
中央に通路があって、一つの建物が左右に分かれている
ユニークな造りになっています。
かつては石上神宮の南、現在の天理市杣之内町にあった
大寺・内山永久寺の鎮守社だったのが、大正3年(1914)
現在地に移築したもの。幻の大寺の唯一の遺構です。

神宮には古代各氏族の王権を象徴する神宝を始め、大和朝廷の
数多くの神宝類が神庫(ほくら)に保管されています
中国の東晋の太和4年(369年)
百済王が倭王に献じた「七支刀」(ななつさやのたち)。
4~5世紀の日本と朝鮮半島との関係の深さを物語る品。

物部氏といえば、天皇家よりも前に天孫降臨したとされる
ニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる古代氏族で、
大和朝廷では兵器の管理を主に行なっていたとされるが、
飛鳥時代、排仏派となり、仏教の推進を図る蘇我氏と対立。
その勢力争いに破れ、衰退していく。

神代の昔から、神武東征による朝廷の誕生、
大陸から「仏教」とともに高い知識や技術も入り、豪族から
天皇が中心となる律令国家へとうつり変わった時代。
小国「倭国(わこく)」は、若き太子の登場、後継争い
などの争いを繰り返し、国家「日本」が創られた。

そんな時代からこの国の移り変わる姿を、自らは
変わらず見続けてきた日本最古の神宮・石上。

これからも「この国のゆくえ」を静かに見守っていく
ことでしょう。




豊葦原の瑞穂の国の芯・橿原神宮。

2007-01-06 22:39:50 | 心の旅
奈良盆地の南、畝傍山(うねびやま)のふもとに広がる
深い森林の中に皇祖・神武天皇を祀る「橿原神宮」が
あります。

奈良県を巡る際、どうしても訪れてみたかった所の一つでした。

日本書紀によると、九州日向国の高千穂宮から東に上がり、
この日本を初めて統一した神武天皇が即位された場所・
橿原宮址に創建されたのが橿原神宮です。

歴史ある古刹が多い古都・奈良にあって、明治時代に
建てられたという歴史の浅い神宮なのですが、
今、日本の国つくり発祥の地に立っているという事実が
自らのルーツに確かに触れていると感じられる場所です。


鳥居をくぐり、一歩、足を踏み入れた時、不思議な感覚が
自分を覆いかぶさるように感じました。

この神宮の広大な神域にはただただ圧倒されます。
装飾されているわけでもなく、雅やかでもない。
大きいがただ木を使ったありのままの社が建つだけの
風景で、京都のそれより素朴感は否めないが
この空間には確かに巨大なエネルギーが
満ち満ちている感じがしました。

明治天皇のはからいで元京都御所から移された内拝殿から
御本殿を参拝したのですが、この建物に入った瞬間、
背筋を熱いものが貫いた感じがして全身鳥肌が立ったのです。

奈良三山の一つ畝傍山のふもとに建つ御本殿。
日本建国の基礎を築いた神武天皇を祀る社からは
地から沸き上がる強い霊気が噴出し、手を合わす
自分を本殿へ引き込もうとする霊気の圧力を
確かに感じたのです。

これは神気というより、清々しくも力強い霊気といった方がいいでしょう。

自分は今まであまり霊感などというものがない人間だと
思っていたのですが、今年、古都奈良を地を巡り
鋭い感性が芽生えつつあるのでしょうか?

不思議な感覚に見舞われた橿原神宮の旅でした。



聖徳太子の夢にふれる旅・法隆寺。

2007-01-05 23:29:29 | 心の旅
今年のお正月は自らの原点を見つめる為、
日本人の心のふるさと奈良で迎えた私はっちん。

初詣と初参りも奈良の社寺に行って参りました。

先ず訪れたのが正岡子規の俳句「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」で
あまりにも有名な奈良県斑鳩町にある聖徳宗総本山・法隆寺。

病気平癒のため伽藍建立を誓願した用明天皇の死後、その遺志を
継いだ推古天皇と聖徳太子が607年、薬師如来像と安置する寺を
建立したと云われ、現存する世界最古の木造建築物群として
1993年にユネスコから日本初の世界文化遺産として登録されています。

今から1400年も昔、飛鳥時代の姿を今に残す法隆寺は
総面積約18万7千平方メートルという広大な境内に、
五重塔、金堂を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍と
に分けられ建てられています。


西院伽藍にある金堂と五重塔は飛鳥時代に建立されたもの。
金堂の中には金胴釈迦三尊像と金銅薬師如来像、金銅阿弥陀如来像
が安置され、それらを守護するわが国最古の四天王像が立っています。
また、天井には天人と鳳凰が飛び交い、周囲の壁面には仏教絵画が
描いてあるなど創建当時の優美さを窺い知ることができます。
高さ約31.5mあるわが国最古の五重塔は、最下層内部には東西南北
ごとに扉があり、文殊菩薩の問答、釈迦の入滅、釈迦遺骨の分割、
菩薩の説法という場面が偶像で表現されています。

大講堂は太子の説いた仏教教義の学問研鑚の場並びに法要を
行なう施設として平安時代に建てられたものです。

これら西院伽藍の各施設を結ぶ廻廊(かいろう)は飛鳥時代の建物。
廊下であるとともに聖域を区切る障壁でもあり、深く覆いかぶさる
軒を支える組物と柱の強固さが飛鳥時代の建築技術の
高さを物語っています。


西院伽藍から東院伽藍へ向かう途中に大宝蔵院が建っています。
百済観音と呼ばれる飛鳥時代の観音菩薩立像(国宝)が安置されている。
もとは金堂内陣の裏側に安置されていて、細身で九頭身の特異な像は
その伝来や造像の経緯などはほとんど不明とされています。
この百済観音に安住していただく殿堂を建立することは法隆寺永年の
悲願だったそうで平成10年に完成を見たそうです。
また推古天皇が所持していた仏殿・玉虫厨子やその他約190件
点数2300点の国宝・重要文化財が保蔵されています。

東院伽藍へ向かう参道の土壁。
建立当時はおそらく白塗りの壁であったろう、この土壁も
今では表面がはがれ落ち、土面が剥き出しになっています。
風化したありのままの姿に長い時代の流れがリアルに感じられます。
このあたりが京都の寺院とは違うところですね。


聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立されたもので、
回廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建っています。
回廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、北に接して
伝法堂が建っています。

夢殿(国宝)は奈良時代(739)行信僧都が太子の遺徳を偲んで
建立、堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置されています。
現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏で、
当初のものと思われる金箔も綺麗な色で保存されています。

訪れた日は冬とは思えない暖かい日和に恵まれ、ゆっくり
心ゆくまで伽藍内を見学参拝することができました。

この法隆寺が建つ斑鳩で、わが国の行く道を模索し指揮した太子。

607年、煬帝時代の隋に小野妹子を代表にした遣隋使を派遣した太子。
その書状の冒頭に
「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや・・」
と書き綴られていたことは有名な話。

それまでの朝鮮外交から、大陸外交への方針転換を試み、朝鮮を
経由せずに直で大陸文化を吸収しようとした政策を立案するも
日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような
ことはしない!という強い意志を表したもの。
当然、隋の皇帝煬帝は激怒したが、高句麗との抗争中なので日本を
敵には出来ない、そんな隋の内情を知って巧みに揺さぶり、
遣隋使派遣で隋との直接交渉を築き、百済・新羅への威圧も目的と
するしたたかな外交手腕は現代にも必要な感覚だと思います。

「中国から謙虚に文明を学びはするが、決して服属はしない」
この日本の基本姿勢を構築した太子の政策は中国から欧米へと
学ぶ対象国を変えて今の日本文化技術発展の思考基盤を創ったと
言っても過言ではないと思います。

厚い宗教心を基に、和の精神を説き、身分にとらわれず
実力評価する人材の登用をすすめた太子。

この国が真に「日出処の国」になるためには・・・
そして自分が「日出処の国の一員」として成す事は・・・
今の日本を考える時、聖徳太子の夢に多くを感じた旅となりました。


トロッコ列車に出没する謎の鬼・酒呑童子。

2006-06-25 22:57:38 | 心の旅
保津川下りと同じ保津川の峡谷を走るトロッコ列車。
今や年間約90万人もの観光客が訪れ、京都洛西の観光を代表する超人気の観光鉄道だ。

そのトロッコ列車に出没するという謎の鬼「酒呑童子」が今、凄い人気だという。

昨年、香港で発売された「Japan」という日本を紹介する
書籍にも「富士山」と並び紹介されるなど、今や日本を代表する
スターになりつつある存在らしい。

古い言い伝えでは、亀岡と京都の境「老ノ坂峠」の首塚大明神に眠る酒呑童子。

その酒呑童子が長年の眠りから覚め、今、トロッコ列車に復活したというのか?

この保津川峡谷に出没する謎の生き物・酒呑童子。
その正体を探るため、私は彼が出没しトロッコに乗り込むという
「保津峡駅」を訪れてみた。


酒呑童子がトロッコ列車に乗り込むと噂される「保津峡駅」は保津峡のど真ん中、
眼下に保津川が深々と流れる山の深い所にひっそりとある無人駅。

下を見ると怖いくらいの高い吊橋を渡り、落差のある階段を登ると、
片側のみの小さなホームの駅がある。

ここに白昼、酒呑童子が出没するのだ。
あたりを見渡し探してみたが、人影らしきものは見当たらない。

「相手は謎の生き物。そう簡単に出て来てウロウロする訳ないか~」
仕方なく、しばらくはホーム横の小さな待合室で待つことにした。

待つこと10分、トロッコ列車が入っていた。到着を知らせるオルゴールが鳴る。


すると・・・現れた!私の後方、たぬきの置物の横に突如、それは姿を現した。


その正体は謎に包まれながらも、世界のガイドブックに紹介される
日本のスター酒呑童子!それが今、私の目の前にいる。確かに存在していた!

鼻は高く、堀の深い顔、大きく見開いた目、茶髪のロン毛。
不思議と鬼という恐ろしさは無く、逆に愛くるしくて人の良さそうな顔立ち
は日本昔話で読んだ「泣いた赤鬼」を思い出させる。

彼は姿を現すと素早くトロッコ列車の中に乗り込んだ。話し掛ける間も無く亀岡へ出発。

あまりに早い彼の動きに、ただ呆然と見送ってしまう私に向かって、
親指を立ててポーズをとる酒呑童子。笑っているのか?怒っているのか?

とにかく、謎の酒呑童子の正体を探りにここまで来たのだ。何も話さずには帰れない。
私は彼が亀岡から帰ってくるのを待つことにした。

そしてまた人影もない駅で待つこと約20分。トロッコが亀岡から帰ってきた。

な、なんと!あの酒呑童子がトロッコの最後列から身を乗り出し、
私に向かって手を振っているではないか!

列車が保津峡駅に停車すると酒呑童子が列車から降りてきた。
私との間はわずか2~3mといったところか。ホームに降りた酒呑童子は、
トロッコに乗っているお客さんに頼まれ写真で撮っているではないか!
しかも自身の記念写真リクエストにも応えたりしている。
謎の生き物・酒呑童子、意外にサービス精神旺盛な鬼なのかもしれない。

もしかしたらいい奴なのかも・・・と観察しているその時。
突然、列車のドアが閉まってしまった!慌てて乗り込もうとする酒呑童子。

でも、ドア開かない。「ドア開けて・・・OX@#・・・」何かを叫んでいる。
「乗りたいの?」と車掌さん。
「ウン!乗る・・・」と首を縦に振る酒呑童子。
「あっ!列車が動き出した・・・もう諦めたら!」と非情な笑みを浮かべる車掌さん。

動き出した列車を必死で追いかける酒呑童子。
トロッコに乗るお客さん達も「早く、早く~」と窓から酒呑童子を呼ぶが
加速を増す列車では追いつけず、列車はホームから遠ざかっていくばかり。

とうとう諦めた酒呑童子。ホーム端の鉄柵に握り締め、遠ざかるトロッコ列車が
見えなくなるまでハンカチを振っている。別れを惜しんでいるのだろう。

やはりこの酒呑童子、最初に感じたとおり、やさしく人懐こい鬼の様だ。

今度こそ話を聞こうと、近づこうとしたその時!酒呑童子はこちらを
振り向き、頷く様なしぐさをした途端、駅のホームから川へ目掛けて
飛び降りたのだ!すぐさま、飛び降りた場所まで走り、その下を
覗いて見たが彼の姿は何処にも見当たらなかった。

トロッコに出没する謎の鬼・酒呑童子。

結局、彼の正体はわからず仕舞いで、保津峡の深い山中に消えてしまった。

酒呑童子が乗り込んだトロッコのお客さんに後で話を聞く機会があった。

列車の中の彼は子供を笑わせ、若いカップルに恋愛論を語り、学生には
説教までしていたというのだ。

人間が本当に好きな鬼なのか?ますます、私の中で謎は深まるばかりなのである。

そうだ!大仏さんに会いに行こう!

2006-05-28 21:34:33 | 心の旅
悪天候に祟られた今年の5月最後の週末。
今度は強風まで吹き、結局休業と相成りました。

こんな日は家に閉じこもっていても気分は晴れません。
外出するに限ります。それも日頃は行かない様な所に行くのがいいのです。

ということで、我がファミリーは京都のお隣り奈良を観光する事に。

千年の古都・京都よりも古い歴史のある街・奈良。
その奈良で観光といえば・・・そう‘大仏さん’でしょう。

743年、万物の栄えと恵みを祈願し聖武天皇発願のもと建立された
‘大仏さん’は本名毘盧遮那(びるしゃな)仏といい
「知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出されている仏」で
大仏殿の建つ東大寺・華厳宗の本尊です。


東大寺の入り口には南大門と呼ばれる二重層造りの古い山門が建っています。
この南大門は平安時代に大風で倒壊したものを鎌倉時代に再建した
姿を今に残す日本最大の山門です。

その古い山門の両端には、この門を守る阿、吽2体の金剛力士像の姿が!
像高がいずれも8mを超す巨大な像で漫画「北斗の拳」の世界が目の前に
展開しているような錯覚すらおこさせるリアルな迫力があります。

そしてその山門を越えると見えてきました、大仏さんがおられる大仏殿です。
東西57.012メートル、南北50.480メートル、高さ48.742メートルにも及ぶ、
世界最大の木造建築物といわれる大仏殿。その雄大な姿の中に
長い年月の間、古都奈良の象徴として磨き上げた堂々とした雅さを感じます。
この大仏殿は江戸時代に再建されたもので、創建された奈良時代後、
二度の兵火で焼失したそうです。それでも現在の規模は創建当初に比べて
東西が3分の2に縮小されたものだそうで、大仏信仰に傾倒し
その建立に賭けた聖武天皇の思いの強さを感じずにはいられません。

そして大仏殿の大きな扉を潜り視線を上に向けると、出た!大仏出現!

薄黒く艶がある肌、ずんぐりして逞しい体、くっきりした気品あるお顔に
うっすら開いた目、それは想像していたより遥かに壮大にして重厚。
ずっしりした雰囲気の中に静かで厳かなオーラが纏っているのを感じました。

何処を見、何を見ているのか?わからない少し開いたその目を
見ていると不思議に我が魂が吸い込まれていき、何かを話掛けられて
いる様な気がしてしばらくその場から動くことが出来ないでいました。

特に仏に対して信仰心や深い造詣があるわけでない自分ですが、
この巨大な大仏さんには、暫し心が魅了され我がシックスセンスを
強烈に刺激したのは確かなようです。

天候に恵まれない今年の前半。川止めを利用した天候好転の祈願参り。
これで今年も家業繁盛で収まるといいのですが・・・

はっちん、大和へ行く!

2004-12-26 23:54:42 | 心の旅
ホントに忙しい週末でした。
イブの夜に滋賀県・浜大津アーカスで
ゴスペルライブを聞きいてきたはっちん。

あくる日には、義祖父様の30周年忌に出席するため
妻の実家がある奈良県香芝市まで行ってきました。

古く格式ある家柄であることから式典も
昔ながらの祭儀式で進められ、慣れないはっちんは
70人をこえる参列者の中、超緊張状態でした。

式典中、参列者の皆さんはもちろんきっちり正座です。
日頃から道場で正座には慣れていると思っていたのですが、
こんなに長時間座っているとさすがに少しやばい状態に!

多くの親戚方々が来られている中、参拝するため立ち上がる時に、
ひっくり返る様な無様な真似だけは絶対に避けなくてはなりません。

モゾモゾと組んだ足をずらしずらししながら、痺れをほぐしていきますが、
まずい事に、段々足の感覚が鈍くなってきているのが分かってきます。

これ以上しているとマズイ!と思っていた寸前の所で
悪いことに順番を呼ばれました。

何とかひっくり返るとい最悪の事態は免れましたが、
本当に冷や汗ものの1日でした。

式典終了後は、100畳敷はあろうかという
大広間に席を移してのお食事会です。
遠い親戚から近くの身内まで、初めてお会いする方も
多く、全ての座を回りお酌をするはっちん。

さすがは京都よりも歴史の古い‘大和の国’!
奥深い式典を経験させていただきました。