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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

京都の夜あそび・・・清水寺のライトアップ。

2007-11-16 17:41:25 | シリーズ・京都を歩く
京都の秋も段々と深まってきた今日この頃。
京都各地の紅葉の名所では、秋恒例となった
「紅葉のライトアップ」が今年も始まりました。

紅葉のライトアップといえば、やはり‘京都観光の横綱’
東山界隈を欠かすことはできませんね!

昨日は家族で「清水寺」のライトアップを見に行きました。

自宅がある亀岡から清水寺までは車を飛ばして約30分。
アクセス的にも5条通りを一直線に西東を横断する
だけなので、車が最も早い交通手段です。
車はこれまた紅葉の名所・高台寺の駐車場に停め、八坂の塔を
右手に望みながらライトアップの光で空が明るくなっている
清水寺を徒歩で目指します。


二寧坂から産寧坂の京風情ある石畳の階段を登りながら
清水さんまで歩いたのですが、さすが横綱・東山界隈!
夜の8時頃でも大勢の人が訪れていました。
産寧坂から清水門前町の京土産屋さんの灯りも眩しい
賑やかな参道を登りきると清水寺の門前に着きます。

眩しい光で紅く浮き上がって見える清水寺の正門・仁王門。
その右横後方には安産祈願に利益があるといわれる子安塔も。

清水寺の紅葉はもう少し後なのか?まだ紅く色づく楓は
少なかったですが、やさしい光に映し出された清水の舞台は
広い暗闇の海に浮び幽玄な美しさがあります。
遠景に見える京都まちの夜景と背後の山々も
清水寺の光の演出を盛り上げています。

すっかり観光客気分に浸りながら秋の夜長、京都で
たのしい夜遊びをして幸せな気分になったはっちんでした。

*清水寺・夜間拝観ライトアップ
 期間:11月15日(木)~12月9日(日)まで。
 時間:18時30分~21時30分(受付止)
 拝観料 400円

NHK放送『探訪・京の街道』で愛宕街道が紹介。

2007-11-05 10:21:13 | シリーズ・京都を歩く
‘伊勢に七たび、熊野の三度、愛宕さんには月参り’
と京都の町衆に古くから信仰の深かった山、愛宕山。

その愛宕詣での参道として栄えていた道を
‘愛宕街道’といい今の清滝へと向かう道。

その愛宕街道にスポットをあてた番組が
今日の午後5時(17時)から、NHKテレビの
「探訪 京の街道」で放送されます。

今では7月31日に「千日参り」として多くの参拝者が
訪れる愛宕山ですが、登山の専門家にも「京都の周辺では
一般者が登るにはもっともしんどい山と評される愛宕山
なのですが、実は昔、この山には「ケーブルカー」が
あり、山頂までは楽に上がれる山だったことは
今ではあまり知られていません。

嵐電嵐山駅から電車が、嵯峨釈迦堂、鳥居本の前を
通過し終点の清滝駅まで走っており、清滝からは
この「愛宕山ケーブルカー」で山頂まで登れたのです。
ケーブルの山頂駅の横には「愛宕山ホテル」が建ち、
冬にはスキー場まであったというから、当時の愛宕山
の人気のほどが窺えます。

高さ924メートルという京都市内一番高い山である
愛宕山。その山頂からのぞむ景色が当時の人達に
受けてた観光地だったのです。

その愛宕山のケーブルカーも太平洋戦争の激化で休止命令
が下され、鉄資材に不足していた日本は清滝までの鉄道と
ケーブルカーの線路を解体して兵器を作ったそうです。

今、ミステリースポットとして有名になった清滝トンネルも
元は鉄道が走るトンネルで、戦時中は兵器製造工場として
使われていました。

この様な歴史の変遷を辿った「愛宕街道」が
今日、テレビで紹介されます。
今回テレビに流される「愛宕山鉄道が走る風景」の
フィルムは私の知人の家に残っていたものを
使用するそうです。今ではとても貴重なフィルムですね。

これから『奥嵯峨』に観光客がたくさん訪れる季節。

こんな京都の隠れたそして忘れられた風景に思いを馳せ
ながら、愛宕街道をゆっくりもみじの名所・清滝まで
散策してみるのもいいのではないでしょうか?

*NHK総合放送「探訪 京の街道 」
 ‘愛宕街道・嵯峨野祈りの道‘
 午後5時15分(17時15分)~40分まで


お彼岸の入り、あだしの念仏寺へ~

2007-09-25 23:23:42 | シリーズ・京都を歩く
「彼岸の入り」に入ったというのに、まだまだ
暑い日が続いていますね。

お彼岸といえば・・・そうお墓参りです。
特に仏教徒ではない、我が家でもお彼岸には
家族でお墓参りをして、ご先祖さまを供養します。

我が家先祖の墓は‘あだしの念仏寺’にあります。

京都市右京区嵯峨野の小倉山麓の地、愛宕山の鳥居に
向かう参道にあるあだしの念仏寺は、約千百年前に野ざらし
になっていた土葬仏を、弘法大師が智山如来寺という寺
を建立し、埋葬して石仏を作り霊を慰めた場所で、
その後、法然上人の常念仏道場となり、念仏寺と称された。

今では観光スポットとして有名になった念仏寺ですが、
元々、この地は古来より葬送の地で、風葬からはじまり、
土葬となり、墓の代りに石仏を奉り、永遠の別離を
悲しんだ所で、明治時代は多くの無縁仏の石仏が
散乱埋没して、当時を知る人(祖父)の証言などでは
日中も薄暗く「少し不気味な場所」だったそうです。
観光雑誌の写真によく写されている、境内の多くの石仏や
石塔は、あだしの一帯に葬られた人々のお墓で、長い年月の
うちに無縁仏となり、この地に散乱埋没していたものを、
明治36年に集め。賽(さい)の河原に模して
「西院の河原」と名付け、整備したものです。

「あだしの」って珍しい呼び方は、儚さ、虚しさの意味で、
漢字では「化野」と書き、「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ化る事、極楽浄土に往来する
願いを込めた意味だそうです。

先祖が嵯峨野出身の我が家は、いつからか、この
お寺に身内を埋葬することになり、御先祖さまの
お墓が西院の河原のすぐ近くに多く並んで建っています。

京都の嵯峨野と保津川、同じ観光地圏に観光業として
かかわっている今の自分に不思議な因縁めいたものを
感じながら「安全に仕事が続けられますように・・・」
と御先祖に祈るはっちんです。

ちなみに、寺に入る時は「墓参り!」と一言掛ける
だけで「受付」はフリーパス。
もちろん拝観料は入りません・・・

高瀬川源流・角倉了以邸跡

2007-06-02 21:07:05 | シリーズ・京都を歩く
木屋町二条・高瀬川一之舟入の斜め向かいに大きな
石垣が積まれた立派な屋敷が建っています。

このお屋敷今は「がんこ高瀬川二条苑」という料理屋さんに
なっていますが以前ここは保津川下りの生みの親
角倉了以・素庵親子の別邸だった建物なのです。

嵯峨に住いを構えていた了以は慶長16年(1611)
高瀬川開削事業の着手を機に同地に邸宅を建築しました。
一之舟入の周囲には角倉家の役所が幕府の公認を得て設置
され、このあたりをいつのまにか角倉町と呼ばれる様になりました。
今は日本銀行の京都支店になっています。

高瀬川開削に成功した了以は保津川と同じく幕府から許可を得て
京都~伏見港までの航行権を取得、徳川300年間、この
運河を支配下に置き代々角倉家は隆盛を極めたといわれます。

了以・素庵親子亡き後、角倉家は保津川を管理する「嵯峨角倉家」
と高瀬川を管理する「京角倉家」に分かれ水運事業を進めましたが
大坂など大きな経済圏と結ばれる高瀬川の流通が盛んになった事で
いつしか「京角倉家」が「本家」と呼ばれるようになったそうです。

高瀬川源流となる取水口にあたる邸宅内には、鴨川から引き入れた
水を利用した池泉回遊式庭園が整備されており、周囲の木々や
石灯籠などがすんなり自然に溶け込み風情を醸し出しています。

明治維新後、角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管されました。

了以別邸はその後、明治の元勲・山縣有朋の別邸「第二無鄰庵」や
第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部信行首相別邸など
時の権力者の別邸として使用され現在まで保存されてきたのです。


了以の功績をたどり、高瀬川を歩く・一之舟入の編

2007-06-01 23:20:58 | シリーズ・京都を歩く
京都の洛中、河原町二条を鴨川に向かい東へ
入った所に流れている小さな川が高瀬川です。

高瀬川は保津川下りの生みの親・角倉了以と素庵の親子の
手によって慶長19年(1614)に開削された人工の運河です。

さかのぼること8年前、保津川の開削に成功し丹波地方の
豊富な農作物や産物を舟で輸送する事業を始めた角倉親子は
今度、京都の中心部から伏見港を運河により結ぶことを計画、
東横を流れる鴨川の水を引き込み、約10.5キロメートルを
3年掛けて開削し、伏見港まで結ぶことに成功しました。

また伏見港に着いた物資は、淀川を経て大坂まで船で
運ばれ京都と大坂を結ぶ物資輸送ルートが整備されました。

この高瀬川の完成により京都と大阪が直接水運で結ばれ
近世京都の経済は大きく発展しました。

丹波の物資を保津川で京都へ、京都の物資を高瀬川から伏見へ
そして淀川を下り大坂へ。また高瀬川は保津川とは異なり、人工に
開削した流れの穏やかな真っ直ぐな運河なので、帰りは大坂から
の物資も引き上げられて来たそうです。
いずれにしても高瀬川の完成で丹波・京都・大坂さらに海航路で
西国までという西日本最大の物資流通ルートが整備されたのです。

高瀬川の名前の由来は「高瀬舟」という種類の舟がだけが
往来する運河だからというという単純なもの。
高瀬舟とは舳先(船の首)がグッと上へ反り上がり艫(とも)という
船尾は低く幅の広くて船底がまっ平らな河川使用の船のこと。
つまり、今の保津川下りに使用している船と同型の船です。

高瀬川で使用していた船は今、木屋町二条下ル高瀬川起点
一之舟入の史跡の所に実物大の模型船が酒樽をあしらって
浮ばせてあります。

上の写真は高瀬川の起点・一之舟入(いちのふないり)です。
舟入とは荷物の積み下ろしと舟の方向転換をした場所で、現在は
この一之舟入だけが川右岸側に船溜りを残しています。
深く入り込んだ掘割は、今はずいぶん縮小されたそうですが
当時の面影を充分に残し風情が漂っています。

この小さな運河が多くの物資や人を乗せ、近世京都の経済発展と
物価の安定をもたらし江戸に政治の中心が移った後の
都・京都を支ええたと思うと感慨深いものがあります。

そしてこの川は私達の保津川と同じ角倉了以・素案という
同じ親を持つ川であることにをこの上ない愛着を感じるのです。

メグミルクを飲んで骨を元気に!

2007-02-15 23:37:05 | シリーズ・京都を歩く
我がまち・亀岡の隣の八木町にある「メグミルク京都工場」
の工場見学&骨密度検査会に行って来ました。

このイベントはメグミルクが地域住民とのコミニュケーション
を図るため定期的に企画しているもので、私は初めての参加です。

今日の検査では、私の骨密度は年齢に対し平均以上という
優秀な検査結果が出て少し安心しました。

体が資本となる私のお仕事です。体のメンテナンスには人一倍
気を使わなくてはなりません。若い頃の様なムチャはそろそろ
できないお年頃にもなってきました。
しっかり自分の体をチェックしておくことも大切な仕事ですよね。

工場見学では、衛生的な環境で徹底した品質管理がされて
いるのもよくわかり、教訓がしっかり活かされて
いるのを感じました。

これらもメグさんの牛乳やヨーグルトにお世話になり
ながら、健康な体をキープし、元気に船頭家業を
続けていけたら、うれしく思います。

メグミルクHPには料理研究家の栗原はるみさんの
ミルクレシピも掲載されていますよ。




16年ぶりに立命館大学を訪問。

2007-02-03 02:11:51 | シリーズ・京都を歩く
昨日、わが母校である立命館大学を訪れました。

母校を訪れるのは同窓会以来で、16年ぶりとなります。

今回の訪問目的は、昨年、同大学・文学部の学生さんたちが
「京都と亀岡に挟まれる保津峡観光」の現状について
調査した結果を発表する「京都文化リサーチ実習報告会」
を傍聴するためです。

私も400年事業委員長としてインタビューを受けた縁で
今回の報告会へ招待いただいたという訳です。

16年ぶりに訪れた立命館は本当に大きく変っていました!

在校生当時はなかった近代的な校舎や広いキャンパス、
学部会館の綺麗なエントランスなどが、卒業してからの
長い月日の流れを感じさせてくれます。

私が在学当時は大きな看板に「ゲバ字」と呼ばれる手書きで
書かれた政治批判や人権問題などを主張する看板がある意味
立命館の名物でしたが、そういったモノは一切見られず、
アメリカの大学を思わせる美しいキャンパスとして
整備されているのには本当に驚きました。
反骨精神旺盛なバンカラで硬派なイメージがあった立命館も
今では国際センス豊かで純粋に勉学に勤しむ環境の大学に
様変わりしたように感じました。

在学当時はなかったモダンな建築を施した校舎が建ち並ぶ
その合間に、昔見ていた風景が残っていたりすると
妙に嬉しくなるものですね。

よく授業の合間にカップのコーヒを買いに行った自販機など
当時のままの風景を見つけると、「あの時の俺達」が
そのまま映像となって浮かび上がり、なにかタイムスリップ
した様な不思議な感覚に襲われます。

あの頃、この場所で将来を夢見ていた自分と、今の自分の姿が
あまりにもかけ離れいることに、正直驚きながらも、また
この様なかたちで母校を訪問することになった不思議な縁に、
人生の面白みを強く感じました。

そして同時に、もう若くない自分を改めて自覚できた瞬間でもありました。

まさに「青春の思い出のかけら」に触れる事が出来た一日でした。

立命館大学は、明治2年(1869)に当時国際派政治家でも
あった西園寺公望公が京都御所の邸内に開設した
私塾「立命館」の称号を受け継ぐかたちで、西園寺氏の秘書官
であった中川小十郎氏が大正2年(1900)設立した大学です。
設立当初は京都法政大学校という名称で、勤労者の大学教育を
目指す夜学として開校された、当時では画期的な学校でした。
今では小学校から大学院まである総合学園で、開校130年
を越える日本でも有数の歴史を持つ学校でもあります。

我がふるさと‘衣笠’

2007-01-31 01:55:33 | シリーズ・京都を歩く
京都市内の北西部に位置する街「衣笠」。
私が生まれ育った街だ。

平安の昔、宇多法皇が「真夏に白絹を掛けて雪見の風情を楽しんだ」
という伝説の山・衣笠山の麓に広がる街。
北に金閣寺や等持院、龍安寺、仁和寺、東に北野天満宮や
平野神社、千本釈迦堂など全国でも有数の観光名所が続く街。

平安時代に栄えた王朝文化の上に室町時代の北山文化が融合され
出来た美しい街並みは、京の雅と歴史のロマンを感じることができ、
山と森にも囲まれた自然あるロケーションも相まって、京都でも
「一度は住んでみたいまち」として人気だという。

文化の香り高い街らしく、由緒ある高級住宅街が多く建ち並ぶかと
思えば、地場産業である西陣織の職人住宅が軒を列ねる庶民的な
風情も色濃く残す。

私はそんな街で生まれ、少年期から多感な青年期をこの地で過ごしてきた。


賑やかな観光地も、一歩入れば今でも、当時の風景を残している。

自転車で思いっきり走っていた道、かくれんぼした公園、
野球をした神社、どれも当時のまま変らずにそこにある。
家族で行った銭湯も今では暖簾をしまっているが建物は昔のまま。
角の電柱、歩道のブロック、マンホールの蓋・・・
見るもの全てが懐かしい。幾つもの思い出が次から次へと甦る。

この地で幾つもの夢をみた。栄光と挫折、喜びと失意も味わった。
一歩一歩、思い出を踏みしめる様に足を進める。

もうここにはあの頃の家族の風景はない。
だが、目を閉じ耳を澄ますと、あの頃の家族の
笑顔と笑い声が確かに見え聞こえた様に感じた。

慎ましやかだったが、毎日が楽しかったあの頃。

ふるさとはいつも私の心を和ませやさしくさせてくれる。

♪生まれたところを遠く 離れてうたうこの子に
 いつの日にか光がみえるように~ ♪

気がつけば、浜田省吾さんの歌を口ずさんでいる私がいた・・・

京都・嵐山花灯路に行っていました。

2006-12-12 11:03:19 | シリーズ・京都を歩く
初冬の嵐山を「和」を基調とした灯りと花で魅力的に
演出する「京都嵐山花灯路2006」に行ってきました。

9日から始まったこの光と花のイベントは、
冬の風景に佇む嵐山界隈の路地を行灯で照らし
幻想的空間を創出するもので、今年で2年目を
迎える新しいイベントなのです。

今年も初日から大勢の観光客や地元の人で賑わい、
京都の新しい冬の風物詩して定着しそうな予感です。

昨夜は昼間の暖かさとはうって変わり、夕方から
急激に温度が低下、肌寒くなってきたのですが、
あたりが薄暗くなる5時頃には、行灯が整備されている
奥嵯峨の小道には歩けないほどの人の列が出来ていました。

二尊院近くの知り合いの家に車を止めさせてもらったので、
私は奥嵯峨路の最終点「小倉山二尊院」から花灯路の出発です。
本堂に釈迦と阿弥陀如来の二尊の像が安置されていることから
二尊院と呼ばれるこのお寺は平安時代に天台宗の寺として創建された
もので、保津川下りの生みの親・角倉了以翁の墓がある。

お隣りの「常寂光寺」です。もみじの美しさが嵐山一といわれるこのお寺
には、まだ紅葉が残っていました。
各寺院の門前には京都の伝統流派のいけばなも活けてあり、
冬の京情緒を一段と醸し出す演出がなされています。

冬紅葉がライトアップされ、路地を照らす灯りと相まって
季節感ある幻想的空間が演出されているのは見事です!

細くて複雑に入りこんだ奥嵯峨の路、訪れた人が迷わないようにと
道先案内も光りの灯篭が使われている心配りはうれしいです。

幻想的な「和」の灯りの中で、一箇所だけ近代的イルミネーションが
輝く「嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車嵐山駅」。
異色な光を放つ空間ですが、以外に周囲のぼんやりした灯りに合う
から不思議です。期間中は駅構内は開放されており、
ホカホカで温かい「山栗」などが販売されているので
ベンチで疲れた足を休めるに最高です。

トロッコ嵐山駅を山手を上がるとすぐに「大河内山荘」があります。
往年の映画スター大河内伝次郎が30年の歳月と晩年の全財産を
かけて完成した云われる山荘で、敷地約2万平方メートルに
立派なお殿造りの大乗殿があり、庭からは眼下に保津川、
東には比叡山、大文字、仁和寺の塔が見える。

さらに「野々宮の竹林」路を、灯篭のぼんやりした「灯り」を
たよりにそぞろ歩き、渡月橋を目指します。

竹林のライトアップはけして派手な光ではなく、京都の伝統工芸の技術を
生かした京焼、清水焼、石、北山杉、竹などで作られた「和」の
光なのでやさしく、竹本来の自然な緑色を浮び上がらせています。

そして「嵐山・渡月橋」に到着。
青や紫などで映しだされた山のライトアップは壮大で圧巻!
日常的に慣れている山と同じ風景とは到底思えない変身ぶりに、
不思議な感動がこみ上げ、しばらく足を止め呆然と見入ってしまった。

もちろん、渡月橋の周辺は日中の様な人だかりで大混雑。
昨年から始まった「京都嵐山花灯路」は大ヒット企画に
なってようです!

さすがは天下の名勝・嵐山!お見事です!

了以ゆかりの山寺・常寂光寺をゆく。

2006-11-27 20:51:09 | シリーズ・京都を歩く
京都屈指の紅葉の名所として名高い、嵯峨野・常寂光寺。

小倉山を背に清らかな静寂と佇まいの中にひっそりと建つこの山寺は
永遠・絶対の浄土である常寂光土に遊ぶような風情があるところから
「常寂光寺」と名付けられたと云われています。

慶長元年(1596年)日蓮宗大本山・本圀寺16世の日禎上人が隠棲した庵を
寺に改めたこの常寂光寺は、『古今和歌集』の編者としても知られる
藤原定家が山荘「時雨亭」を置き、『小倉百人一首』を編集した
所とも云われており、定家の木像を祀る謌僊祠(かせんし)や
時雨亭趾碑が建てられています。

日禎上人は時の権力者・豊臣秀吉の出仕令に従わなかったことから、
本圀寺を追われこの地に隠棲したもので、その時に土地を寄進したのが
保津川下りの生みの親・角倉了以翁なのです。

その恩返しか上人は、慶長11年(1606)の保津川開削工事の際、
備前伊部から瀬戸内水軍の旗頭・来住一族の船団を招き、開削事業の
支援をし、保津川下りの船頭の誕生に大きくかかわっています。

私達・保津川下りとも非常に関係の深い常寂光寺。

今の季節が一番賑わいをみせます。

本圀寺客殿の南門を移築したといわれる南北朝時代築の茅葺きの仁王門を
くぐると、もみじの赤が眩しいくらいに目に飛び込んできます!
もみじのトンネルような急な石段を登って本堂へと向かう道までもが、
そのもみじの赤さで空間ごと赤く感じられるのには本当に驚嘆の一語です!
さすがは京都紅葉ランキングで度々1位にあげられる
京都屈指の人気紅葉スポットです。
もみじの赤さの濃淡度が深く、嵐山で見るどの赤さにも
ない美しさなのです。


伏見城の客殿を移築した本堂の背後にある檜皮葺きの多宝塔。
この塔は元和6年(1620)に辻藤某など京都町衆らが
寄進して建立したもので、高さ12mで並尊閣とよばれ前面には
霊元天皇の勅額を掲げ、3間2層の檜皮葺き造りは
重要文化財にも指定されています。
この塔にかかる紅葉は、その緑の背景ともみじの赤色、黄色の
グラデーションが見事な鮮やかさで、その対比がまた
眩しく映えて、深い趣を醸し出しています。

小倉山の急斜面を上りきった展望台からは嵯峨野も一望でき、
山間にある奥嵯峨の風雅に楽しむことができます。

常寂光寺の紅葉の見頃は今週とのこと。

保津川下りとも縁深い寺である常寂光寺の
京都屈指といわれるもみじの美しさに心から
癒されてみてはいかがでしょうか。

☆常寂光寺 

場所 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
交通 京福電鉄「嵐山」下車 徒歩約25分
   阪急嵐山線「嵐山」下車 徒歩約35分
   JR京都駅から京都バス、市バス28
   四条河原町、京阪三条から市バス11
   各バスで、「嵯峨小学校前」下車 徒歩約15分
  嵯峨野観光列車トロッコ嵐山駅下車 徒歩3分
拝観時間 9時~17時
駐車 有
連絡 075-861-043

大晦日/除夜鐘打公開