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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

嵐電に乗って・・・

2009-01-30 12:56:05 | シリーズ・京都を歩く
嵐山から京都の市街地を「嵐電」と呼ばれる
チンチン電車が走っています。

京都唯一の路面電車でもある「嵐電」は京福電鉄(株)
という私鉄鉄道会社が走らす電車ですが、京都の西部
市街地から嵐山へ行ける鉄道として京都市民の間では
古くから「嵐電」と呼び親しまれています。

この「嵐電」歴史は古く、嵐山電車軌道として
1910年(明治43年)に開通し、来年2010年には
100周年を迎える伝統ある鉄道なのです。
今の京福電気鉄道になったのは1942年(昭和17年)から
ですが「嵐電(らんでん)」という名称はそのまま残り、
2007年(平成19年)から正式名称となりました。

路線はたったの「二つ」。
四条大宮~嵐山間7.2キロを結ぶ「嵐山本線」と
帷子ノ辻(嵐山本線の中継駅)~北野白梅町間
3.8キロを結ぶ「北野線」だけです。

駅の数は全部で20駅で各駅間の所要時間は
約2~3分と短いものの、日中は10分おきに
走っているとても便利で生活密着型の電車なのです。

車両は基本的に1両ワンマン制で(朝のラッシュ時や
行楽時に2両)ターミナル駅以外は全て無人駅。
入口と出口が分けてあり、運賃は降りる時に運転手に
払うというシステム。
運賃は均一でわずか200円という安さ!

まさに庶民の足でもある、小さく素朴な電車「嵐電」ですが、
侮ることなかれ、その沿線には嵐山の「天竜寺」をはじめ
「御室仁和寺」や「龍安寺」「金閣寺」という世界文化遺産
が並び、また「車折神社」に「太秦広隆寺」「妙心寺」に
「等持院」などの豪華な有名観光スポットが多数点在する
京都最強の私鉄電車でもあるのです。


そしてこれら観光スポットが回れる一日乗り放題チケット
がなんと500円!とう安さ。さらに沿線の神社仏閣などの
ご優待クーポンという特典まで受けることができるという
から凄いです。

京都の洛北と洛西の観光で回るならおそらく、
一番安価で効率的な乗り物といえるでしょう。

車内には買い物帰りの主婦や学校帰り学生と、
観光客の人が違和感なく触れ合い、レトロな
ムードが漂って、どこか懐かしさを感じます。

北野線の終着駅「北野白梅町駅」がある衣笠で
生まれ育った私にとっても「嵐電」には多くの
思い出があり、今でも乗ると当時の自分や町の
風景が、鮮やかに脳裏によみがえり温かい気持ち
にさせてくれる・・・そんな電車です。

観光都市京都の歴史と庶民の営みの歴史を乗せて
いつまでも変わることなく走り続けている
素朴で温かい電車・・・それが「嵐電」なのです。

トロッコ嵯峨駅のクリスマスイルミネーション。

2008-12-21 21:35:14 | シリーズ・京都を歩く
保津峡を走る観光列車・トロッコ列車の出発点である
嵯峨駅の壁に登場したクリスマスイルミネーションです。

トロッコ君に乗ってやってくるサンタクロースさん。
訪れる人を楽しい旅をプレゼント。

シルバーに輝く光がきれいです。

トロッコ列車にはクリスマスまで、サンタクロース車掌も
乗り込んで来るとか、来ないとか?

真相は乗って確かめてみて下さい。

帰りはもちろん保津川下りで!

今年も「嵐山もみじ祭」に遭遇!

2008-11-09 22:09:27 | シリーズ・京都を歩く
紅葉が色づき始めて最初の休日となった今日。
すっきりしない曇り空で肌寒さを感じる日となりましたが
保津川下りには大勢の観光客がお越しなり「一日三回」も
保津川を下ることができました。

今日は昨日紹介した通り嵐山渡月橋一帯では「嵐山もみじ祭」
が華やかに開催せれていました。
毎年、この優雅な船祭に遭遇することを楽しみにしている
私はっちんですが、今年も昨年度に続き「午前の部」「午後の部」
の両方ともに遭遇することができました。

14年目を迎える船頭生活の中で、午前&午後の2度も
遭遇できるのは大変珍しいことで、1度も遭遇することが
できないこともよくあるのです。
船の出航時間が見事に合った結果ですが、ここ2年は
まさにあたり年で、乗船下さっているお客さんも
滅多に体験できない船上での「祭見物」に大喜びです。

そして「もみじ祭」恒例の「東映映画村船」にも遭遇!
里見黄門様より少し若めの黄門様と凛々しいお侍さん
そして美しいお姫様もにこやかに手を振って下さいました。



2度目に下った時遭遇した「午後の部」では、祭の前の
式典が行なわれていて、関係者が鏡割りをされている
ところでした。
飾り舟の舞台では、笙や龍笛、篳篥の楽人や舞人が
優雅な衣装に身にまといこれからの出番をお待ちでした。
その風景をカメラで撮影する私に「京寿船」の女楽人から
突然「00君~」と私を呼ぶ声が!
もうかれこれ18年近く会ってない懐かしい友人でした。

平安絵巻から飛び出したような優美な風情漂うなか、
懐かしい出会いに浸る間もなく3度目の出航の為に
急いでJR嵯峨嵐山駅まで小走りで向かいます。

そして3度目の出航へ!

嵐山に着いた時はすっかり陽も暮れ「祭のあと」の寂しい景色に。

今日この場所で行われていた「優雅な祭」は、時空を超え
平安絵巻の中から抜け出した一時の‘夢’だったのでは?
と感じるほど辺りは静かに佇んでいたのでした。

☆《明日の保津川下り予報》

明日の予約数 33隻(午前中に20隻)
待ち時間予想15~30分前後’(的中率99%)

天気予報 曇りのち晴れ(川下り日和度90%)

川気温  最高14℃ 最低9℃
     午後以降の船、防寒対策必要あり

我がルーツをたずねて・・・清滝へ。

2008-07-31 01:17:31 | シリーズ・京都を歩く
京都市右京区にそびえる京都一高い山・愛宕山山麓に
ひっそりと佇む渓谷の山里が‘清滝’です。

‘ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 
水の清滝 夜の明けやすき’
と文豪・与謝野晶子の「みだれ髪」にも詠われ,
かの文人たちが愛した里・清滝は、江戸初期より
愛宕参りの宿場として栄えたところです。
今でも毎年7月31日には「愛宕千日詣り(まいり)」
といって31日の夜から1日の早朝に山頂の愛宕神社に
参れば「一日で千日分の利益ある」といわれる
祭事に多くの参拝者で賑わいをみせます。

実はこの渓谷の山里・清滝こそ、我がはっちんのルーツを
知る大切な場所でもあるのです。

我がはっちん家は江戸時代元禄年間に大阪の和泉州からこの清滝
に移り住み、愛宕参りで旅館に宿泊される方の寝具等をレンタルする
家業を始め、父が子供の頃までこの清滝に本家を置いていたのです。

写真の左側の民家がはっちん家の先祖の家です。
屋号も「和泉屋」」といい第二次大戦前までは
愛宕名物「しんこ」の茶店としても繁盛したそうです。

しかし、戦後、鉄道の廃止などで交通の便が悪くなり、
愛宕参りは衰退、宿場まちとしての清滝も寂れていく
運命となりました。

我が祖父も戦前~戦後までの一時期、清滝集落眼下を流れる
清滝川(保津川の支流)で、材木を嵐山まで流す筏師として
生活を支えていました。

祖父が清滝川から保津川を筏で流した、同じ保津川を
孫の私が船頭として仕事をしているのも、何か深い因縁
めいたものを感じずにはいられません。

さて、清滝ですが、この地域が最も賑わっていたのは
清滝のシンボル「赤橋」といわれる「渡猿橋」ができた
昭和初期といわれています。

この橋ができたのが昭和13年のこと。
橋が付いた当日、神官の先導により、大勢の人で
「渡り初め」の儀式が賑やかに執り行われたそうです。


当時、嵯峨から開通した愛宕鉄道の拠点駅が清滝にでき、
清滝からはケーブルカーで愛宕山山頂まで登れたのです。

今の清滝川左岸の水力発電所がある所には遊園地があり、
高雄や保津峡へのハイキングコースとして、休日には大変な人出で、
愛宕鉄道はケーブルカーとともにピストン運転をしていたほどの
賑わいをみせていたのです。

また、冬には愛宕山スキー場がオープンし、スキーヤーで
ケーブルカーの駅には長蛇の列ができていたそうです。

そんな人気スポットであった清滝を戦争という暗い雲が覆いました。

戦火が激しくなった昭和19年から20年、愛宕鉄道は全線廃止となり、
線路など一部資材は軍備資材として転用され、鉄道のトンネルは
軍事工場として使用されることで封鎖されたのです。

その後、鉄道は復旧されることなく、それまでの隆盛が
ウソの様な鄙びた里として今の姿を残しています。

この清滝の衰退とともに、はっちん家も京都市内へ
移り住むことになり、今に至っています。

今、こうして我がルーツ清滝に来て、この赤橋の上から
見える清滝の集落を眺めていると、当時の隆盛が幻のごとく
よみがえってくるように感じるから不思議です。

さて、明日は「愛宕千日詣り」です。

しばし、清滝に当時の隆盛がよみがえります。

「華やかなりし清滝」の姿、我が先祖の営みを想像しながら
明日の「千日詣り」眺めてみたいと思うはっちんなのです。


☆「愛宕千日詣り」

大宝年間(701~704年)に僧泰澄と役小角により神廟が建てられ
建祀された愛宕山頂に立つ愛宕神社。7月31日の夜半から8月1日に
かけてこの愛宕神社に参拝をすると、千日分の功徳があると云われて
います。これは、昔は遠い山上にある「愛宕神社」まで詣ることが
なかなか自由にできなかったためにつくられた習慣とも云われ、
祭神は「火伏せ・防火鎮火の神様」として信仰を集めています。

三歳までの子供が詣るとその子一代火難から免れるという言い伝え
もあり、お子様連れで登山される方も多いのです。

山頂までの参道を「おのぼりやす~」「おくだりやす~」
と言ってすれ違う人同士が声を掛けあうのがお約束です。

☆交通はJR嵯峨嵐山駅から京都バス10分、バス停:清滝下車
 登山口から山頂まで徒歩約120分 。
車では新丸太町通りを嵯峨清滝道へ一路清滝へ
 駐車場あり(有料80台) でも狭い谷あいの地域なので
 かなりの混雑が予想されます。

傳次郎の美とロマンの理想郷‘大河内山荘’

2008-06-25 00:41:15 | シリーズ・京都を歩く
「丹下左膳」で一世を風靡した昭和の名優・大河内傳次郎
が、生涯をかけて造営したといわれる別荘「大河内山荘」。

小倉百人一首の舞台となった京都嵯峨の小倉山の山頂6千坪
の広大な土地に創られた庭園は、正面に嵐山を望み、眼下に保津川
遠くに比叡の山麓を借景にした回遊式の庭で、桜や紅葉など
四季折々の美しさは名園の多い京都の中でも紛れもなく
代表するに値する名庭園です。

古い映像は朽ち果てても、永遠に消えることのない‘美’を
求めて昭和6年、傳次郎34歳の時から64歳で逝去する
までの30年の歳月とその間の映画出演料全てをつぎ込んで
こつこつと創りあげたこの山荘は、ただの別荘ではなく、
傳次郎の生涯を凝縮した自己表現の世界がかたちとなって
展開されていることが感じられます。


山荘の入口にあたる中門です。これをくぐると傳次郎の‘美’
の世界が目の前に広がります。

寝殿造や書院造、数寄屋造を取り入れたメインの建物・大乗閣。
借景に嵐山広がり、その下を保津川流れています。

造営時は荒地で起伏の激しい山地を庭師・広瀬利兵衛の
匠の技で石の階段や回廊を造り、周りに桜やもみじ、赤松
などの木々を植えた素晴らしい景観が広がります。

初夏の眩しい緑に覆われた庭はまさに魅惑の美世界です。
思わず、ため息が出てしまうほどの美しさです。

緑の木々に佇む茶室・滴水庵は静寂の世界に包まれ、時間
がとてもゆっくり流れているように感じます。

そこから石の小径を上がっていくと「持仏堂」があります。
儒学者の娘であった母の影響で敬虔な仏教信者でもあった
傳次郎はここで仏教書をひもとき「南無阿弥陀仏」を唱え
瞑想にふけったといわれています。
また、この山荘の造営はこの建物から始まったそうです。

さらに小径を上ると庭園内の頂上部の月香亭があります。
その舞台からは東に比叡山の山麓、北に衣笠山など北山の
山なみ、前方に嵯峨野や京都市内が一望できる
山荘一番の絶景ポイントです。
晩年、傳次郎がここに座って「のんびりこの景観を
眺めていたんだな」と思うと、妙に贅沢な気分に
浸れるから不思議です。
ここで自身のこれまでの人生をふり返り、
一体なにを感じていたのでしょう。

山頂に広がる広大な回遊式庭園を一回りしたら、
園内の茶席で抹茶と茶菓子が振舞われます。

茶席の窓からは美しい竹林の風景を楽しみながら
美味しい抹茶も一服、これで拝観料1000円は
けして高くない。

京都には名庭園と呼ばれる庭がいろいろありますが、
この大河内山荘の様に、山の山頂部一体に人工の庭園
を造営したというスケールの大きい庭はそうはないでしょう。

一人の男の壮大な美のロマンが創り上げた理想郷の世界。

私も日々の暮らしに少し疲れたら、是非、
訪れてみるのもいいと場所だと思います。

大河内山荘
京都府京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町

交通 
JR嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」
阪急嵐山線 「嵐山」
京福嵐山線 「嵐山」
嵯峨野観光鉄道「トロッコあらしやま」すぐ。


京都を歩くシリーズ~祇園編~ 我が思い出の祇園。

2008-05-19 22:23:26 | シリーズ・京都を歩く
過日、久しぶりの休日を利用して‘祇園’界隈を
ゆっくりと散策してきました。

京都生まれの京都育ちのはっちんとって‘祇園’は
馴染みのある所ではあるのですが、よく考えると
夜の歓楽街として祇園の姿しか記憶がなく、観光客の
様に昼間にそぞろ歩きをし、観光しながら散策した
した覚えがありません。

私にとって祇園は、高校生の頃、学校帰りに
友人と河原町で夜遊びをし、南座の前のバス停
から衣笠行きの市バスで帰っていたことや、
ディスコ全盛時代、今はなきマハラジャで踊っていた
ことなどが懐かしく思いだされます。

祇園の昼の顔といえば、学生の頃に中央競馬会の
場外馬券売り場(花見小路)に通ったことぐらいですか。

社会人になってからは、毎晩の様に情報収集という
名目でクラブ通い・・・不健康極まりない生活でした。

そんな思い出しかない‘祇園’

昼間の祇園は、夜の歓楽街としての派手な顔を
潜め、京都風情をかもし出す情緒ある街並みに
姿を一変させ、日本はもとより世界中からやって来る
多くの観光客を魅了してやまない街でもあります。

京都人であるがゆえに今まで見過ごし知らなかった
祇園の魅力を感じるべく、このたび久しぶりに
昼間の祇園に繰り出し散策してきました。

そこには、京都人ですら感動するような風景があり、
多くの出会いと発見があったのです。

今後、この「京都を歩くシリーズ」で
この祇園の魅力に迫ってみたいと思います。

洛西大枝の地へ『桓武天皇御母・高野新笠陵』を訪ねて・・・

2008-03-02 23:37:04 | シリーズ・京都を歩く
京都から亀岡方面へ走る洛西の京都縦貫道沓掛インター
の入口から少し北へ入った旧山陰街道(現在府道142号)
沿いに『桓武天皇御母・高野新笠陵』があります。

平安京創設者・桓武天皇はあまりにも有名ですが、
そのご母堂様・高野新笠(たかののにいがさ)の名を
知る人は京都の方でも少ないのではないかと思います。

そのことを象徴するかのように、小高い丘の円墳陵
の入口には小さく目立たない石碑が‘ぽっん’と
立っているだけ。
石碑には『桓武天皇御母・高野新笠陵』と確かに
書かれているものの、未整備な御陵は
「これがあの桓武天皇の生母の墓?」と俄かには
信じられないほどの質素さでひっそりしています。


石碑立つ入口からは、すぐに登りになり細い山道そのままの参道。
急なつづら坂の参道は、中腹まで登ると石畳の階段と手すりが
整備され、少しは登りやすくなります。

この急な坂が続く参道を数分歩くと、視界が
急に広がり御陵が見えてきます。

御陵は小さく鳥居が建つだけの質素なつくりですが、
地元の方が清掃されているのでしょうか?
ゴミ一つなく、きれいです。

年間約5000万人もの観光客を有する‘京都’の
基礎を創った桓武天皇の生母・高野新笠の御陵は
観光名所でもなくそれらの雑誌にも記載されることは
なく、その名前すら知る人は少ない。
賑やかな京都を、洛西の地にある小高い丘から
眺めながら、静かにおやすみされているのですね。

歴史書籍の山川出版社「日本史広辞典」によると、
高野新笠の父は百済の武寧王の後裔と伝えられる和乙継で、
母は土師真妹といわれています。
高野新笠は光仁天皇の側室(?)夫人で、桓武天皇と
平安京遷都の動気ともなったいわれる早良親王の母。
789年崩御。

父和史乙継は百済系渡来人の子孫で大和郷(奈良県天理市辺り)
が本貫地ですが、土師宿禰真妹が出た土師氏が
大枝(おおえ)朝臣と称し、山城国乙訓郡大枝郷(京都市西京区大枝)
を本拠地としていたので、高野新笠は晩年大枝の地で隠居して
いたので墓が西京区大枝の地にあるようです。

ちなみに、2002年の日韓ワールドカップの時、
今上天皇が‘ゆかり’発言をされ、物議をかもした
その人こそ、この高野新笠なのです。

私が訪れた時は、周辺住宅のゴミ収集日だったらしく、
『桓武天皇御母・高野新笠陵』の石碑の横が
ゴミ置き場となっていました。

今後の扱い次第では、日韓友好の象徴に
なれる可能性もある高野新笠の御陵ですが
地元住民とともに、静かにやすまれることを
望まれているのかな?と感じいった次第です。

雪の保津川下り、静寂と幽玄の世界への誘い・・・

2008-02-26 17:13:53 | シリーズ・京都を歩く
保津峡の雪景色はなんともいえない印象的な空間だ。

雪にけぶる山々の純白さが、峡谷に流れる静寂さを
より一層深いものに感じさせてくれる。

まちの喧騒や日常の暮らしが、今、同じ時を
流れていることすら、疑わしくなる。

何もない渓谷の深い静寂は、自分と向き合う時間を与えてくれる。
何も‘ない’ということは・・・すべて‘ある’ということ。
何も‘ない’ということこそ、すべて‘ある’ということだと気付く。

この大自然の中ではほんの点に過ぎない存在の私。
しかし、それはけして‘孤独’ではない。
自分自身が自然であるから、孤独ではないのだ。

保津川の清い流れと峡谷に漂う深い静寂が、
新しい自分に出会わせてくれる。

文明の進歩を拒否するかの様な、手こぎの和船に揺られ
‘自分さがし’の旅がはじまる。

身を切る様な冷たい風と静寂の峡谷を
船をこぐ櫂の音だけが響く。

この静寂感を破らないためか?
日頃の饒舌さは身を潜め、寡黙になる船頭衆。
ビニール越しに見る船頭との間に流れる微妙な緊張感。
でもそれがまったく否ではない。
厳しい自然と対峙する‘凛’とした
緊張感はなぜか心地よくさえある。

雪の保津川の川舟は、鮮烈な印象を胸に残してくれる。
それはけして過去のノスタルジーではない。
今、このときに、全く異なる空間が存在しているという
‘錯覚’を楽しむ。
この光景は銀世界の極地。
見る者を幽玄の世界へと誘う。
冬の京都の趣きがここにも確かに、ある。
文明社会で忘れかけていた、ひと本来の豊饒な感性が
揺り起こされ、誰をも詩人にする。

保津川の自然の前では、自分はなんとちっぽけな存在なのだ。
でもそれは絶望ではなく、自らの内にいのちの灯火を
見つけたという‘感動’。
白銀の世界に映る、赤く燃えるいのちの炎。

いつもの京都に物足りなく感じたら、
是非、冬の保津川を訪れてみるといい。

日常、呪縛から解き放たれ、暫し、ありのままの自分を
眺めてみるのもわるくない。

ここには全過去、全現在、全未来が、
‘いま’‘ここ’にのみあり、
自己として実在している。
そのことを保津川の自然は教えてくれるに違いない。

慈しみの微笑み弥勒菩薩像と太秦・広隆寺

2008-01-22 23:59:51 | シリーズ・京都を歩く
日本古代史の中で平安京の遷都実現に大きな役割を
果たした豪族・秦氏の氏寺が、太秦にある広隆寺です。

車の往来が多い三条通りと路面電車「らんでん」が
並行して走る雑多な街並みに建つ広隆寺。
正面玄関でもある南大門をくぐると、周辺の
慌しい街の喧騒は ウソの様に一変、眼前に緩やかな
時を経た杜が大きく広がるのも京都らしくていい。

日本書記によると広隆寺は、推古天皇11年(603)に
秦河勝(かわかつ)が聖徳太子から授かった仏像を
安置する為に建立した京都でも最古の寺院。
京都では古代から現在に至るまで聖徳太子ゆかりの寺
「太秦の太子堂」として親しまれ、厚い信仰をあつめています。

広隆寺といえば、謎の微笑を浮かべ物想いにふける
「弥勒菩薩像」があまりにも有名ですが、それだけでなく
飛鳥時代の仏像群が見られる京都唯一の寺でもあります。

不思議な微笑を浮かべる「弥勒菩薩像」(国宝第一号)
も聖徳太子 が推古11年に朝鮮(百済か?新羅?由来は不明確)
から献上され、河勝に授けた像と云われています。

像本体は飛鳥(天平)時代に造られたものとされ、細く
しなやかな体躯、右足を左足の膝にのせ、右手を頬に
添えて、思いをめぐらす様なほんの少し開いた目、
口元には微笑みを浮かべるその姿は、
未来において衆生の救済方法を思案していると
いわれ、多くの人々の心を魅了してきました。

以前、この像に心奪われた京都大学の学生が、頬ずりを
しようとして像の右手薬指を折った、という話を何かの本で
読んだ記憶がありますが、私が訪れた時も、鑑賞している
多くの人が像の前に座り込み、心で対話されている姿を
目にしました。

この弥勒菩薩像が安置されている霊宝殿には
四天王像や千手観音像など天平や平安時代の
仏像群が四方を囲み、身近に迫ってくる様な
迫力があります。
その目線は私達人間の心まで見透かす様で、
「実は鑑賞されているのは仏像ではなく、私達の方なのでは?」
と自分が仏に見定められる感覚に襲われる不思議な空間。

平安京が造営される前に建立された京都の歴史より
古い寺で、数ある都の戦乱にも消失することなく
現存している仏像たち。これこそ、まさに‘奇跡’。

釈迦入滅後、59億7000万年後にあらわれ
衆生を救うといわれる弥勒菩薩の光明を
感じずにはいられない広隆寺。

皆さんも四方を仏様に見守られながら、
慈しみの微笑みを浮かべる弥勒菩薩像と
向き合い、心眼を開いてみてはいかがでしょう。

学問の神様、北野天満宮で初詣。

2008-01-05 12:08:18 | シリーズ・京都を歩く
日本人のお正月といえば、初詣ですね。

日頃、神仏に手を合わせる習慣のない人でも
新年の初めくらいはお参りに行っておかないと
どこか、落ち着かないのが日本人の不思議な感覚ですね。

そして京都はご存知のとおり、初詣の人気スポット
がたくさんあり、新年から大勢の人出賑わいます。

私はっちんが子供の頃から、毎年行っているは
学問の神様で有名な「北野天満宮」です。

私の生まれ育ったまち、衣笠にある神社として
幼い頃から遊び場としても馴染みの深かったのが
この「北野天満宮」。親しみをこめて「天神さん」
と呼んでおり、亀岡に引っ越した今でも毎年、
家族でお参りに行きます。

学に秀でた平安時代の右大臣・菅原道真公を祀る「北野天満宮」
は宿敵左大臣・藤原時平らの陰謀により失脚を余儀なくされた
道真公の祟りを鎮める為に建立された神社で、道真公没後に
都に起こった天変地異や怪異現象を道真公の霊の仕業と
恐れた時の権力者たちが建てたものです。

毎年、三が日には約60万人もの参拝者が訪れ、その中には
この春入試を控えた受験生の姿も多くみられます。
学問の神様として庶民に人気の天神さんは受験生たちの‘神様’
でもあります。神前では合格祈願のご祈祷をする受験生や
お守り、おみくじなどを購入し‘運’を導こうと懸命です。
受験校の名が書き込まれた絵馬ももの凄い量が奉納されるなど
受験の神様としてう今なお、絶大な信仰をあつめています。

2日~4日には「筆始祭・天満書」という神前でお習字の
書き始めをする行事があります。
この行事は書道の達人であった菅原道真にちなむ
お正月の恒例行事で、毎年訪れた子供達などが書いた
書初め約2000点が奉納されます。

また、天神さんの境内や参道にはたくさんの牛の像があります。

菅原道真が生まれたが丑の刻だったとか、都から左遷され
九州大宰府に向かう途中、宿敵の左大臣藤原時平の刺客に
切りつけられかけた時に白牛が現われ守ったという云われ、
また、菅原道真が亡くなられ遺体を牛車で運んでいるときに
牛が座り込んで動かなくなり、その場に遺体を埋葬して、
大宰府天満宮が建てられという逸話や故事にちなんで、
‘祭神のお使い’として牛の像が置かれているのです。
この牛の像の頭を撫で撫ですると「頭がよくなる」と昔から
いい伝えられ、大勢の参拝者が行列をつくりながら
牛さんの頭を撫でる順番を待ちます。

子供の頃から、参道を通るたびに牛さんの頭を
撫で撫でして育った私には天神さんのご利益は
あったのでしょうか・・・・

懐かしくもあり、毎年新しい気持ちにさせてくれる
場所でもある「北野天満宮」の初詣。

今年もよい一年でありますように・・・合掌。