まもなく、春分です。
いろんな事が短期間に束になって起きて、私は消化不良を起こし、先週の週末、
今週の週末、ひたすらに休んでいました。
今週もほぼ、2日間どこにも行かずに、本も読む気も無く、人に会う気もなく、時々
ネットで気が重くなるようなニュースをチェックして、さらにグッタリしていた。
で、思った。考えるのはやめようと。カラダの好きにさせようと。
私は私の母国がたくましく復興するのは信じているから。
今の惨状から復興後の豊かさは、想像できないかも知れないけど。
私は何の根拠もなく、復興していく日本を信じ、遠く離れていても、私にできる事を
楚々としていくのだ。
++++++
春分。
たぶんに緯度のモンダイがあって、ここと日本は違うのかもだが。
というか、当地はすっかり日中気温が30℃を越えて、夏にまっしぐら、である。
今年の冬は雨が少なかった。一度パラパラ降っただけ。
そして、暖かくなるのが早かった。
なんか、年々、冬、というか涼しい季節が短縮化しているよーな気がする。
一週間前の災害発生時点と一週間後の現時点では、ニュースも現状も全く変化
しているように、世の中は変化し続けている。
事象は変わる。変わるから事象なのである。
その中で変わらないものがある。
それは「変わっていく景色を見ている眼」である。
それはずっと移り変わる景色を映している。
変わり続けて行くもの。
そして一方で不変で普遍なものが存在している。それは私が私と思うものからエゴを
差し引いたもの、なんだと思う。
私、というDefinitionはエゴそのものでもあるから。
私が私と思う私から、私をひいたもの。
それが宇宙の姿、であると私は思っている。
それを見た事も触ったことも食べた事も聞いた事もないけど、それは確かに存在する。
わたしはソレを確信している。
紆余曲折したけども。
結局はこの世でなにしたらいいか、って「体験、経験、そして感じる事」それだけのような
気がする。
どんだけ金儲けしたとか、偉くなったとか、功績を残したとか、速く走れたとか、そういう
結果ではなく、「体験」そのもの、なんだと思う。
体験すれば何かを感じる。その「魂の弛緩」
あ。
ああ。
あああああ~思い出した!
中学生の頃、脳だけ早熟(爆)だった私は気難しい哲学者であったが、その頃、
いろいろ思った事を未だに記憶している。
そして、ソレはすごーく本質を突いているのうと、いまさらながら自分に関心してしまう。
中学生だった私は何かイヤな事でもあったのだろうか(笑)
人生の目的なんかについて、思いを巡らしていたのである。
で、ソレは、
「魂の弛緩する瞬間」
って思ったのである。ソレを求めてこの地上での存在を選択したのである、と。
いやはやゴリッパ!(笑)
今は大人になって、魂は常に弛緩してるのだよ、と思えるようになったけど。
体験は、こうして呼吸してる事も体験。特別でなくても何でもいいのです。
無の対岸にある有、それを動的な経験と位置ずけよう。
それは体験でしかない。
それに私達はいろんな意味つけや、ラベル貼りをするけど。
起きる事自体には、中庸、だと私は思うのです。
特別な人になる必要もなく、特別な人になれないことを心配する事もなく(爆)
特別な出来事に幸福であるとか名前を付ける事もなく。
なんか意味もなく、これでいいのだ、と思うのだ。
私の目前に、急にやってきた「ノースキャロライナで料理をして暮らす」
案外、そうなるのかな?
なんでもいいや。
全てはうまくいってるのだから。安心してよう。
いろんな事が短期間に束になって起きて、私は消化不良を起こし、先週の週末、
今週の週末、ひたすらに休んでいました。
今週もほぼ、2日間どこにも行かずに、本も読む気も無く、人に会う気もなく、時々
ネットで気が重くなるようなニュースをチェックして、さらにグッタリしていた。
で、思った。考えるのはやめようと。カラダの好きにさせようと。
私は私の母国がたくましく復興するのは信じているから。
今の惨状から復興後の豊かさは、想像できないかも知れないけど。
私は何の根拠もなく、復興していく日本を信じ、遠く離れていても、私にできる事を
楚々としていくのだ。
++++++
春分。
たぶんに緯度のモンダイがあって、ここと日本は違うのかもだが。
というか、当地はすっかり日中気温が30℃を越えて、夏にまっしぐら、である。
今年の冬は雨が少なかった。一度パラパラ降っただけ。
そして、暖かくなるのが早かった。
なんか、年々、冬、というか涼しい季節が短縮化しているよーな気がする。
一週間前の災害発生時点と一週間後の現時点では、ニュースも現状も全く変化
しているように、世の中は変化し続けている。
事象は変わる。変わるから事象なのである。
その中で変わらないものがある。
それは「変わっていく景色を見ている眼」である。
それはずっと移り変わる景色を映している。
変わり続けて行くもの。
そして一方で不変で普遍なものが存在している。それは私が私と思うものからエゴを
差し引いたもの、なんだと思う。
私、というDefinitionはエゴそのものでもあるから。
私が私と思う私から、私をひいたもの。
それが宇宙の姿、であると私は思っている。
それを見た事も触ったことも食べた事も聞いた事もないけど、それは確かに存在する。
わたしはソレを確信している。
紆余曲折したけども。
結局はこの世でなにしたらいいか、って「体験、経験、そして感じる事」それだけのような
気がする。
どんだけ金儲けしたとか、偉くなったとか、功績を残したとか、速く走れたとか、そういう
結果ではなく、「体験」そのもの、なんだと思う。
体験すれば何かを感じる。その「魂の弛緩」
あ。
ああ。
あああああ~思い出した!
中学生の頃、脳だけ早熟(爆)だった私は気難しい哲学者であったが、その頃、
いろいろ思った事を未だに記憶している。
そして、ソレはすごーく本質を突いているのうと、いまさらながら自分に関心してしまう。
中学生だった私は何かイヤな事でもあったのだろうか(笑)
人生の目的なんかについて、思いを巡らしていたのである。
で、ソレは、
「魂の弛緩する瞬間」
って思ったのである。ソレを求めてこの地上での存在を選択したのである、と。
いやはやゴリッパ!(笑)
今は大人になって、魂は常に弛緩してるのだよ、と思えるようになったけど。
体験は、こうして呼吸してる事も体験。特別でなくても何でもいいのです。
無の対岸にある有、それを動的な経験と位置ずけよう。
それは体験でしかない。
それに私達はいろんな意味つけや、ラベル貼りをするけど。
起きる事自体には、中庸、だと私は思うのです。
特別な人になる必要もなく、特別な人になれないことを心配する事もなく(爆)
特別な出来事に幸福であるとか名前を付ける事もなく。
なんか意味もなく、これでいいのだ、と思うのだ。
私の目前に、急にやってきた「ノースキャロライナで料理をして暮らす」
案外、そうなるのかな?
なんでもいいや。
全てはうまくいってるのだから。安心してよう。
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