考えごとの家日記。

一人暮らしのつもりの考えごとの家が8年経って一気に三人暮らしに?そして今や4人暮らし!?

インフルエンザで休暇

2015-01-22 04:37:24 | 生活
実は久々にインフルエンザにかかった模様です。子供も、年末クリスマス頃に空が、そして今回は時がかかりました。
一応毎年予防接種するんですけど。子供もかかるのは久しぶりかな。いや、はじめてかな?予防接種はしてもかかるもんだけど、やっとくと楽だからって言われるが。。
今回私がかかってみて、全然しんどかったんですけど。。予防接種しなければもっとしんどいってこと?
で、ネットで調べると、医学の専門家とかが、インフルの予防接種は意味ないとか、害さえあるようなことが書かれてて、どちらにしても、かかったらすぐ医者にかかってタミフル飲めばいいんだし、予防接種は辞めようと思いました。
だって、子供は2回も行くから私といれたら1万円?!それももったいないが、何より注射を嫌がる息子を騙して、忙しい中日程調整して注射に行くこと事態が大変!(しかも私がかかってる医者は予約のHPがわかりにくくて、受付の人も対応悪く、何かと面倒。。)予防接種してもかかっちゃうわけだから、かからないように、マスクと手洗いを徹底させ、かかったらいち早く医者にかかることですね。と、思いました。
この仕切りのない狭い家なんで、家族でうつらないようには、全員マスクはもちろん、食事や歯磨きなど、唾液がうつらないよう細心の注意を払います。
空のときは、それで広がらずによかったねえと言ってたら、時がかかって、私が少し油断して、私はマスクせずに時の隣でいつものように寝たら、一晩で感染しました。いつものように仕事してたら、午後ぐらいから、あれ?なんか体調悪い?ちょっと節々が痛いかな。。と。
気になって、夕方医者に行こうと熱を測ってみたら、38.0℃?!え?こんなに熱あったの?医者では、まだ鼻も咳も症状が早いと検査しても反応でないしと、何やら呪いのような、小さなかっけを調べる小さなトンカチみたいなものを手首や足首に何回も押し当てながら、脈をみたり。。って診察が、さあ、100回以上の5分以上?されて、インフルエンザでしょうなって。。何してんの?って頭の中でぐるぐるしてましたが、終わってから、検査以外にこれで調べる方法もありまして。。って説明だが、何をみてたのか、非常に怪しげでした。それで、インフルの薬も処方いただきましたが、タミフルじゃなく、イナビルとかいう吸入するタイプの薬でした。最初一回だけ飲めばいいらしく、子供もこれなら嫌がらずにすみそうだなと思いました。調べると、副作用が少なく5歳の子供から妊婦まで服用できるとか。まずくて嫌がる時もこれにしてほしかった。
あとは、マオウトウ?って漢方を処方され、昔はこれだけでもよかったけどねとのことでした。そこの医者は漢方好きで、何かと漢方を処方されます。私もどちらかというと漢方の方がいいので、それはいいと思います。
それでイナビルは医者で早速飲み、家に帰って即座に寝込みました。
旦那もびっくりして、マジ?って感じでしたが、時をおばあちゃん家に迎えに行って、それから自分と空の分はカルボナーラを作って食べさせてくれてました。私は身体中が痛くてしんどくて、頭もめちゃくちゃ痛くて。。とにかく休みたく、晩御飯は食べず。お茶とみかんだけ。夜中まで38.7℃まで上がりましたが、朝方には37℃代にさがり。。でもまだ頭の痛みとしんどさはぬけず。
翌日は、おばあちゃんも連続で時をみるのは疲れるし、どうせ私も休むし、旦那も家にいるから、家で時とお休みしました。ただ、時は熱が下がって元気になってて、私と遊びたくて、何かと相手が疲れました。それでも優しい時は、私が寝てるのをみて、「お母ちゃん大丈夫?ゆっくり休んでね!」と一番に声かけてくれました!しかしその直後には、「お母ちゃん!トランプやろ!」って、「ごめんね。しんどいから、明日元気になったらやろうね。」って言ったら、「うん!わかった。明日朝やろう!」って、まあ、自分のいいように決めつけてる悪気のない時でした。
一方、空くんは、大丈夫?とかあからさまに聞いてきたり、優しい言葉をかけたりはしないものの、意外と細かいところまで気がついてて、さりげなく「ほら時はマスクはずれてる。」とか、気をつけてくれます。
そして、1日時をどうやって面倒みようかと思いましたが、まずは一人1Fに残し好きなテレビをつけてみてもらいました。が、怖がりな時くんは、「お母ちゃ~ん。お母ちゃんも来てよう。僕一人怖いよ~。」って。「すぐ上にいるから大丈夫だよ!ほら、声聞こえるでしょ。」と、声かけたものの、「ねえ、お願い~。下に来て~。」と、何度かやりとりしたものの、ダメダメくんでした。
時から、「下のソファで寝てよ~。それでも休めるでしょ~。」と提案され、仕方なしに降りました。そしたら、時がそのソファにすでに横になってて、いらっしゃいとばかりに手を広げて待ってました(笑)本当にかわいい奴です。
それで、私もできるだけ休みたいので、布団も持っており、ソファに布団かけて、母は休むよをアピールしました。
時は私が降りたら安心し、テレビをみて、最初は比較的手がかからなかったですが、あまり長いこと見せるのもいけないし、時もあきてきて、遊ぼうってなったので、私もいろいろ提案しました。昨日からやりたかったトランプは実は朝一でやっぱりやらされ、まあ朝起きたついでに一回だけしましたが、お互い一枚ずつだし、数字が大きかった方の勝ち!って単純なものだったので、私も楽でした。その後はお父ちゃんとやってみたら、と旦那にふり何度かやってもらいました。日中は、しまじろうの勉強するって自らワークやったり、ドーナツ屋さんごっこしたり、たい焼き屋さんごっこしたり、(時はごっこ遊びが好き?戦いごっこも含めて)、またトランプもしたり。このあたりまではソファに横になった状態で対応できましたが、その後だんだんやることなくなってきて、ゲームしたいがはじまったので、お兄ちゃん帰ってくるまで待ってねとうながし、パズルを出してやりました。時はとにかく古典的な遊びを空よりはしてないので、意識して、その機会を与えてやらないといけないなと感じでいます。
はじめはパズルぼく知らないってぐらい、興味なさそうでしたが、私が楽しそうに、ここじゃないとか少し置いてやると、時も自分で見つけて「あ、ここだ!」って置き始め、だんだん夢中になってやりました。よしよしこの調子と、もう一つパズルだしてやり、それもいい調子でできました。が、パズルは、さすがに私も起きて相手したので、疲れたわ~と、その後は、またテレビみよっかと誘い、ゆっくりさせてもらいました。
そうこうするうち、今日は空もなかよし学級(学童)行かなくていいよとしたので、喜んで3時半には帰ってきました。
時も大分飽きてたので、お兄ちゃんの帰りを喜んで、「あ、空くん!お帰り!」と、鍵開けもしてもらいました。
専業主婦なら、こんな日常を過ごせるんだなあと、この日の時間をじっくり噛み締めました。空くんは帰るなり、宿題して、その代わりできたら、今日は特別に、その後ゲームしてもいいよとしました。いつもは6時すぎに帰るから、晩御飯食べてお風呂も入った後にゲーム時間にしています。
二人がゲームに集中しはじめたので、私はまた上にあがりゆっくり寝かしてもらいました。
夕ご飯はまた旦那さんが、買い物からしてくれ、私と時のインフル組は焼きサケと味噌汁。空と旦那さんは回鍋肉を。
普段使い慣れてないので、調味料の場所や、味噌汁の作り方ぐらいは指示しましたが、基本一人でやってくれました。
今回は、本当にかなり助かりました。ありがたや。
普段もちょいちょいやってくれたらもっと嬉しいんだけどと思いました。
そんなこんなで、1日経って、体は大分楽になり、熱も37℃くらいまで下がってきました。頭の痛みがしつこくて、あともうちょっと?食欲もなかったが、作ってもらった晩御飯もその時は食べられなかったが、夜遅くにお腹空いてきて、半分くらい食べました。
今日は、空も時も9時すぎにすんなり寝てくれ、私もゆっくりの時間を過ごしたいのもあり、こっそり起き出し、下でテレビみてる旦那さんとこへ。なんかたまたまやってた「残念な夫」とかドラマが面白そうだったので、旦那さんと見ました。旦那さんは、共感するんじゃない?とバツが悪そうでしたが、確かにあるあると何度も指摘しちゃいました。まあでも今日は、残念じゃなく「ありがたい夫」でしたよと、ここにフォローしておきます。たまには褒めないとね。バチ当たりますよね。
明日、いや今日には、もう熱も下がって楽になるでしょう。職場には出られないけど、仕事がたまるので、家で仕事です。何より卒業研究の締め切り前で、学生の指導がやばいのですが、今時、メールと、LINEと、ドロップボックスで、データやりとりしつつ、かなり遠隔指導はやりやすいです。あと、私には研究補助員という手伝ってもらってる卒業生がいるので、彼女にも大変助かってます。
私の子育て介護状態で、全国から高専の女性教員10名ほどしかついてないのですが、私の場合は、19時間/週つけてもらってるので、3日/週来てもらってます。建築設計施工の実務のキャリアも10年近く経験されてるし、もともとしっかり者で、仕事もテキパキ!また主婦の気持ちもわかってもらえるので、気持ちも共有しやすくそれもありがたい。
と、今年一年彼女に助けられました。
来年も、つけてもらえるといいなあ。たぶん子供の年齢があがるから、子育て状況は下がるし、介護状態も母の入院が減ったので、こちらも判定下がるかな。でも、何時間かは、つけてもらえるかと期待してますが。。仕事の在り方としても、残業する人減らして、パートでもいいから、多くの人で仕事を分け合うシェア型が、理想的な社会を作りやすいと思います。10年以上前にオランダで展示があった時、担当の日本人女性が言ってましたが、オランダはそのような働き方なので、5時になったらみんな帰っちゃうと。展覧会のオープン前とか、日本なら遅くまでやっちゃいそうですけど。
たまの残業はいいとしても、日本のサラリーマンの恒常的に11時12時まで残業するというのは、どう考えても、本人の体にもよくないし、家庭のためにも、社会のためにもよくないと思います。
私も1人者の時は毎日遅かったですが、子育てしてみて、ありえないなと思いました。子供のためにはせめて夕ご飯の6時までには帰ってやらないと。当たり前に子供を育てられる環境を作ってないから、子供も減ってきてるんだと思います。社会のせいです。はやく子育てしやすい環境を整備しないと、少子化は食い止められないですね。ましてや、最近の女性を仕事に生かすとかの戦略をまじで進めるなら、なおのこと、みんな残業しないで、当たり前にお父さんもお母さんも子育てにじっくり関われるようにしないと。待機児童をなくすなんて当たり前で、我々保育園に世話になったけど、その上、残業や休日出勤なしでなんとか回せるが、簡単に休日勤務とか入れられても、保育園休みなら、どちらかが休まないといけなかったり。。うちはおじいちゃんおばあちゃんが元気だったから頼めるけど、これからますます介護も増えることも考えると、まじで社会全体のワークライフバランスを考えないと、すぐに立ち行かなくなると思います。
安倍総理か、少子化対策関係のお役人にいろいろ現場の声として言いたいですよ。
長くなりましたが、このぐらいにしておきましょう。最近、この手の愚痴が溜まってます。職場の高専の動きも、全くもってナンセンスきわまりないことだらけ。何のための高専か?本来の技術者を育てるという地域のニーズを忘れて、お上(文部科学省)の言われることに振り回されてるんじゃないですか?って思います。またこの辺の話は長くなるのでこの辺で失礼します。愚痴っぽくてすいません。

人生について

2014-12-15 04:27:49 | 生活

いささか重たいタイトルで、久々に書いてみようと思います。

私も米子高専に勤めて18年が経とうとしていて、残りの退職までも18年?いや、17年と少し?と米子での仕事人生が半分過ぎたとも言えるし、まだあと同じだけも働かないといけないのかとも思います。高専は63歳が定年ですから。。
そうかと思えば、私たちが辞めるころには、定年67歳ですよとか言われたりして。。いやいや、そんな歳まで働けません。
最近、歳をとったなあと感じることが、本当に多くなりましたが、実際歳をとってきたからしょうがないのですが、それにしても、昔みたいに、頭で思うように仕事がサクサク片付けられなかったり、やる気がでなかったり。ひどくなると、負のスパイラルで、心が病んできて仕事辞めたくなったり。。
今は、少し気分が晴れてて、まあそんな時もあるわぐらいに思えてるから、あえてこんな感じで書けてますが、これも歳かもなあと思ったり。


今まで米子という未知の地方都市に来て、高専で18年勤めてる間に、地方都市はさらに加速度的に、少子高齢化が進み、学校における子供の獲得合戦はますます大変だわ、街中に出ても、人はいないし、居ても高齢者ばっかり。。
それでたまに出張で東京なんか行った時に、ピカピカのビルやショップやたくさんの人々を体感するたび、なんか空々しい気持ちにどんどんなっている自分がいてて、地方都市を知らない東京の人々になんか訴えたい気持ちになります。

特に東京オリンピックが決まった時に、そんなに浮かれてて大丈夫かよと思ったけど、実際オリンピック景気か建築の仕事も増えてて、米子高専の求人も最近でももっとも良いのではと思いますが、だからこそ、日本全体として、地方都市が置き去りにされてる感がますますあって、高専なんてものが地方都市の集まりみたいなものだから、東京中心の政治や経済にますます疎外感とか虚無感とか感じています。今回の選挙でも、経済を立て直そう!とか言われても、いやもう経済とかどうでもいいやんと思ったり。それよりいかに日本の将来をどうsるか?少子化とか。。原発も結局再稼働ですか?とか。。子どもを持つ親としては、30年後、50年後ぐらいの将来までを真剣に考えてもらわないと困りますよね。
だからこそというか、地方都市の代表みたいな高専の存在ががんばって日本を引っ張るぐらいの気概でいかないといけないと思いつつ、さてどうすればよいものか?中途半端に歳とった自分では、何ができるのか悶々とします。

実は今日、高専の女性研究者研究集会とやらがあり、全国から女性教員などが80名ぐらい集まって、研究発表やら、シンポジウムなど。
午前中、女性研究センター?の理事の方が、日本は女性の就業率が世界で100位以下とかなり低く、幹部や役員の女性比率など最も低いんですって。
以前から聞いてはいたが、改めてほんと仕事は男社会だし(高専とか特に)、何かと男性の発想だよなあと思います。だいたい女性だけでこんなとこに集めたところで、何の解決策にもならないし、それが男性の発想やねんと思います。
とにかくどんどん幹部に女性いれて、発言力もたせないと、いつまでたっても男の発想な仕事環境しかできず、結局女が家事や育児の大半を押し付けられたりして、泣く泣く仕事する羽目に陥ります。
今日の発表でも、無理して子育てされてきたスーパーウーマンの方がいらしたけど、そんな特殊事例紹介されても、ますます若手女性教員は疲弊するだけだし。普通に六時までに帰って、子育ても家事も男性とも分担して、子供いる人も居ない人もみんなでいろんなところの子供を育てようぐらいにしていかないと、少子化は食い止められないですよね。本当に。
私も最近になって、下の子が先日5才になりましたが、ようやく出張も行きやすくなりましたし、子育て部分は、大分楽になってきました。
それでも、夕方子供たちにご飯の用意してと思うと5時半ダッシュで帰らないといけないのは変わりなく、週末もほぼ仕事はできないですね。
それでも、私は近くにおじいちゃんおばあちゃんが元気で子育ても協力してくれるから成り立ってますが、協力者が居ない人もたくさんいると思うと、そういうこと前提で仕事できる世の中にしないとやっぱりダメですよね。
また、さらに介護の必要な親がいて、そこでも時間が取られるとなるとますます働けなくなりますね。
私は昨年、実母の入院と、障がい者の姉をどうするか問題とか、実家引越しがあって、それでも兄貴がほとんどの手続きはやってくれて結局兄貴の近くに二人を引っ越しするなど現在は兄貴たちに任せているから、私はなんとかできましたが、兄貴がいなかったらと思うとぞっとします。。

昨年は仕事も大きなイベント仕事も抱えてたし、本当に大変でした。
で、少しゆっくり物事考えたり、ゆったり仕事しないなあと思います。

あと、最後に宣言しておきます。今年こそ、いや、来年こそ、新居建てます。
今の家での子育てはとっくに限界。
空くんが小学校にあがる段階で、子供の環境も整備してやらないと、落ち着いて勉強どころが、遊ぶことさえままならないです。
親の二人が建築の仕事してるのに、こんなに落ち着かない環境で過ごさせているのが申し訳なさすぎて。。本当に私の心の環境のためにも、早く建てたいです。
旦那にも、私の誕生日プレゼント何がいい?と聞かれたけど、「一刻も早く新居」と答えました。
もう、何案目かわからないぐらいつくってますが、昨日作った案ならどうだと旦那にメールしたが、イマイチ早く作ろうという気もないのか、まだピンとこないとか言われるし。ならば、ピンとくる案だしてください!

まあでも、フォローしておくと、子どもが一応元気でいてくれて、家族がいて、仕事もできるのは本当にありがたいと思わないといけないなあとも思います。

歳をとると、本当にいろいろ大変なことも、大変な人にも出会います。世の中そんなに思うようには行かないし、人生の残りが短くなった今だからこそ、たくさんの人やことに感謝して、悔いのないように過ごしていかないといけないなあとも思います。

みなさん、よいお年を。


母が無事退院

2014-02-05 20:29:12 | 生活
なんと、8月から入院していた母が半年近く経った1月末に、無事退院しました。心配いただいたりお見舞いをと気にしてくださっていた方々にはお礼とご報告申し上げます。

実は1月に入ってから、「間質性肺炎を起こしているみたいだから、今の治療は続けられない」と主治医に言われ、PETを撮りに行くように言われていました。その時の話では、今の治療は続けられないので、別の治療を一からするので、また半年近くかかるとも。
え? ま、まじで?
しかも、間質性肺炎というのが、調べてみると、あまりよくないことがいろいろ書かれてあり、まさか最悪の事態も想定しなければならないのではと、緊張がはしりました。
PET検査は入院している病院でできないので、タクシーで専門病院へ行くという。私も行くべきかと思いましたが、仕事も休みづらく、叔母がつきそうから大丈夫という言葉に甘え、お願いしました。
結果を聞くときは兄貴も東京から行くというし、私も都合つきそうだったので、出掛ける計画をしていました。
するとその前に主治医から、光ってるところがないですね。と言われたとのこと。あともう少し詳細な解析をしてからまた結果をお知らせしますとのこと。すると、その翌日、もうがんも寛解しているし、肺炎などもないので退院してくださいとのこと。。
え? ま、まじで?
喜ぶべきところが、つい前の週まで、あと半年近くかかるか?と心配してあたのに。治った?ホントに?と、信じられないことに。
すぐに退院と言われても、実家が東京になったので、東京にいける段取りをしないとすぐに動けないし。ということで、病院には一週間ほど待ってもらいました。
東京から兄貴も迎えにくるし、叔母にも東京まで付き添ってもらうことに。
私は退院のお手伝いと母や元実家の様子を見にだけ、日帰りで大阪に行きました。天気のよい日で暖かく、退院日和でした。
母の姿を直接見るまでは、本当に退院できるだけ元気になっているのか、私も半信半疑でしたが、 実際会って、歩く姿を目にしたら、案外半年も入院していた人にしたらしゃんとした歩きっぷりだし、しっかりとしているなと、ようやく少しほっとしました。

また、私の車に乗せて、最後の元実家を訪れたときは、母は、降りないと。兄貴は、今の持ち主から鍵も借りて、最後のお別れに清めのお酒も用意していました。もうあと数日で解体されるのを待つだけの家に、本当に最後のお別れでした。母は、悲しい現実を見たくないのもあったのでしょう。「私はもう後ろは振り返らず、前だけ向いていくから。。」とのこと。父や家族との思い出がつまりすぎたこのからっぽの家を見るのは、母には酷だったのかもしれません。私だって、寂しいことには変わりないし、まだ信じられない気持ちもどこかにありました。でも、兄貴の方が、私よりもそんな気持ちは強かったかもしれません。引越し荷物だって、古い思い出のつまってるものほど、できるだけもっていこうと必死なようでした。また、解体時には床柱をもらうと、買主の工事業者にお願いしていました。降りないという母に対して、兄貴は「もう最後やで。本当にええんか?」と。「母は、もういいから。」と、頑なな返事に対して、兄貴も「見て思いっきり泣いたらええやんか。降りてよ。本当に最後やで。」とのこと。しかし、母はきっぱりもういからと。母の覚悟もわからないでもないし、私は間でいいんやねと確認だけして、私は兄貴と最後のお別れに入りました。一応、もう忘れたものはないかなど、各部屋みてまわったり。。

もうそこにはない神棚の場所に向かって、いつものくせで手を合わせ、ありがとう、またねと拝みました。
兄貴は、神棚のあった和室から日本酒で清めていき、父が亡くなった風呂場の浴槽まで。ひととおり部屋を見ましたが、引越ししたあの日からなにひとつ変わることなく、時間は止まっていました。庭も最後に慌てて、鉢植えをひっくりかえし、鉢を廃棄したので、ひっくりかえした中身がそのままの状態で残っていました。しかし、雑草やそこに植わっていた植物は、なんの手入れもされずとも芽吹いているものもあり、嬉しいような、でもそのまま解体でどうにかなってしまうなら、申し訳ないような。。目に焼き付けつつ、最後に兄貴と玄関前で、それぞれの記念撮影をしました。

小さい頃、私たちは、よく玄関前に立って、父にこんな風に写真撮ってもらったよねと。毎年正月は、門の前に並んで記念撮影してもらっていましたが、父は、家族もこの家も大切だったんだよなあと本当に思います。
私も早く子供たちのために新居をたててやらないとと思います。ま、今の家も狭いながら、楽しい部分もいっぱいありますが。。
さて、そんな元実家との時間もすぎ、私は三人を新大阪まで車で送りました。新大阪には、道中電話があった父の教え子の方が、新大阪に私も行きますからとのこと。父の教え子は何十年と教員をしていたから、何百人?いや千人以上いるでしょうが、やはり始め頃の教え子は父も若くて熱い教員だったのでしょう。慕ってくださる方がたくさんいて、父にとってもかわいい教え子たち。そんな中でも、新大阪に送りに来てくださった方は、学生の時いろいろ苦労もあったようで、卒業が難しかったのを、父は、絶対卒業せんといかん!!と、必死にその方をサポートしたようです。そんなことから、卒業してからも、父にずっと慕いつづけ、父も可愛がっていたのでしょう。父が亡くなってからは、我々家族にもいろいろ気を使っていただき、できることは何でもしますから言ってくださいね~と。お言葉に甘え、兄貴は時々車を借りたり、何かとお世話になりました。そして、新大阪へは、一人仕事着のまま、花束持って立っていらっしゃいました。母への退院のお祝いと、お別れの挨拶と。なんともありがたい限りです。また父の一周忌される時は教えてくださいね。とのこと。父がどれほど目をかけていたかわかります。
さて、母たちは、東京に向けて、無事に出発しました。全く新しい地での母の生活が始まるわけですが、病み上がりで高齢の母なので、しばらくは兄貴のマンションでお姉さんにお世話になりながら、少しずつ母たちの新マンションでの自立した生活ができるよう慣らしてもらいます。
私はもはや遠くから思い願うだけになるので、なんだか巣立っていく子供を見送るような気分になりました。
とにかく、無事に退院し、東京に行きました。


その後、一週間ぐらいたったときの様子では、世話になりっぱなしだけどといいながらも、孫たちとの生活など楽しんでいるようでした。孫といっても、大学生の娘と、中学の息子なんで、すっかり大きいし。また彼らも頼れる存在ですね。

というわけで、自立までの慣らしと、施設に入っている姉が自宅に帰って生活できるように、兄貴たちはさらなる手立てをあれこれと。
兄貴には、本当に頭が上がりません。今回のことで、家族の絆はますます強まったし、家族のありがたみはいやというほどわかりました。
私たちも、そんな家族になりたいなと思いました。

東京マンション生活

2014-01-10 05:13:07 | 生活
大阪実家が東京マンションに。
(1Fエントランス)
子供たちが実家から離れ親たちが高齢になってきたので、子世帯の近くのマンションに移ったという話は、よく聞きましたが、自分たちもそうなるとは。以前、兄がマンションに移っては?と親に提案していたこともありましたが、まだ親父がいた頃は、親父は死ぬまで自分が建てたこの家から離れたくないと。。

マンションは狭くはなるもののスペースがコンパクトにまとまっているので、生活も便利だし、冬場は隙間風とかなく寒くないよとか、出掛ける時も鍵ひとつかけるだけで楽ちんと聞きます。高いところに住めば景色もよいなど。また最近のマンションなら、何かと便利なシステムが導入されていて、高齢者や障がい者には便利かもと。
物件を決めるのもなかなか大変そうでしたが、それでも兄貴の住まいの近くはマンションが多く、選べる物件も多くて条件は良かったようです。
それにしてもやはり東京というところは不動産が高いですね。中古マンションでも4千万、5千万とか平気でする。。

さて、結局決めた物件は、20階建てマンションの2階角部屋。8年ほど前にできたマンションで、4~5物件を比較検討しました。兄貴たちはせっかくマンションだからと17階とか15階とか上階に目星を付けていましたが、私は震災などのことを考えると自力で上がりおりできる3階までと思ってました。兄貴のマンションも震災停電でエレベーターが止まったことが一度だけあったようですが、半日以内には復旧したとか。でも今の世の中、何が起こるかわからないしと説得したら、横が隅田川で逆に津波の心配をすると二階がギリギリとか。。まあ、考えだしたらキリはないですが、たまたま二階角部屋は意外と安く売りに出されていて、兄貴たちも間取りなど内容的にも悪くないかなとなりました。
リビングダイニングがL型に折れていて、和室にも繋がって広く見えるし、窓も多いし。戸建てで慣れてた人にも多少は住みやすいかと。はじめ母は二階は防犯を心配していましたが、階高が高いのど一階の周りの植え込みがきっちりまわしてあり、とてもベランダによじ登れる感じではないので、説明したら安心してくれました。

大阪実家を引っ越し東京マンションへ

2013-12-05 02:03:10 | 生活
半年ぶりぐらいのブログ。

年末にとうとう大阪実家を引っ越ししました。最終日前日には私も大阪へ。
引き取りたい荷物を車に積んだり、最後の荷造りなど。ステレオや火鉢は知人に引き取ってもらうことに。愛着のあるもので使えるものはまた誰かに使ってもらえるのはありがたいです。
新居ができていたら他にもアラジンのストーブなど持って帰りたかったですが、車もいっぱいに。ちなみに大学院の修士制作が出てきて、はじめは捨てようかと思ったものの米子でのAIRイベントで使えるなあと思い立ち持ち帰りました。(壁に貼っているもの)
まあ、わたしの物もたくさん大事にとっていてくれて懐かしい時間を過ごしました。両親たちにも本当に感謝しきりです。しかし、懐かしんでばかりもいられず、最終日は朝から引っ越し業者も入ってきて、とにかく不動産以外の動産物は全て持ち出さないと。兄貴と姉と兄弟三人で最後の夜を過ごしました。三人いてよかったねとしみじみ思いました。

さて最終日は朝8時前からサカイ引っ越しセンターが来て、男性作業員5名?が引っ越し荷物をテキパキトラックに積み込み。午前中でほぼ4tトラック1台半が埋まりました。さらに廃棄だがリサイクルにまわすものを小さめのトラックに。午後からは廃棄物品を引っ越しゴミとして家の前にだし3時すぎには作業は終了。予定よりははやく終わりました。しかし、ゴミを外に出し始めて一時間もしないうちにリサイクル業者かおじさんがタヌキの置物を譲って欲しいと現れました。その後あれこれいろいろ物色し、応援もかけつけ軽トラに積み込んでました。アラジンのストーブも持っていきましたね。

ちなみにこの日は近所に住む叔母が、お昼のおにぎりを差し入れにきてくださったり、兄貴の会社の後輩が一人手伝いにきてくださったり。姉のお友達が最後のお別れに訪れてくださったり。ありがたい最後でした。夕方には、次の飼い主や不動産業者も確認に来られるとのことでしたが、それまで時間が空いたのでははの見舞いと報告に。ありがとうと母は目を閉じ手をあわしていました。母も見に帰る?と一応聞いてみたが、いいよと。たぶん母が現場にいたら耐えられないかもね。

私も最後の最後に一番古い部屋が、今は物置き部屋になっていたのですが、そこが荷物がのいて部屋があらわになったときにまだ小さい子供の頃の記憶が蘇ってなんとも懐かしいし、寂しい思いをしました。そこは自分の部屋ができるまで父や母と寝ていた部屋で押し入れなどが遊び場になっていたためです。はやり、記憶は場所と大きく結びついてるし、子供の時に体験した場所はなおさら大事だなあと実感するのでした。
夕方5時に飼い主の方たちも来られ、私も始めてご挨拶だけ。米子で待つ子供たちをはやく迎えないといけないので早々に失礼しました。
兄貴は会社の後輩の方が運転のお手伝いもしてくださるということで、車で姉も乗せて東京へ。
兄貴たちは翌日東京マンションで引っ越しの搬入立会いもあってまた大変でしたが、なんとか入ったようです。
50年もの実家の引っ越しは本当に大変ですね。特に主が居ない状態でやらないといけないし、東京と鳥取と離れた場所から手伝いにきていたので。しかし、今時長男が一緒に住んで家を住み継いでいるところなんて少ないでしょうね。大変なことだと本当に実感しました。


最後の大阪か?

2013-08-21 05:20:35 | 生活

父が亡くなってから、いろんな手続きなどで、兄や母たちが日々かけまわっていましたが、とうとう心配していた母が倒れ、入院することに。
大阪の実家は売却し、東京の兄の近くのマンションにうつるつもりで、不動産売り出し広告がはじまったところでした。
実家には、障がい者の姉もいて、母入院で、2人のこの先をどうするかが、大問題。今までにも、いずれ父母のどちらかが倒れたら、考えなければとは言ってたものの、なかなか本腰いれて考えていなかったため、今になって、兄と私で、かけずりまわっています。
母が元気なら、マンションで、ヘルパー利用しつつ、姉と2人で暮らせるでしょうが。。
父があまりにも突然の死で、全く介護などなかったので、今になって、介護保険制度を調べはじめたり。役所の福祉保健課の方に相談したり。高齢者福祉もメニューが多すぎて、よくわかりません。
それを言うと、障がい者福祉は、個人の障がいのバリエーションが多すぎるし、それだけで何ができて、何をお願いするのかよくわかりません。まわりのものがしっかりしてないと、公的サービスもかなり逃してしまうと思います。しかし、姉に今ついてくださってるケースワーカーさんなど、かなりこまめに対応いただいてて、ありがたい。ヘルパーさんも毎日入れ替わり立ちかわり来ていただいてますが、大変ありがたいです。
さて、母や姉をどうすれば快適な生活に導けるのか。兄と連携で手をつくします。

ちなみに、大阪の千里ニュータウンの住宅地、おかげで買い手の方があらわれました。

12月末までには引き渡しとなります(T_T)

父と母が元気だった頃の実家前。


桜は咲いてないですが、実家からみた前の道。

こちらが、不動産広告


夏休み!なのに

2013-07-26 23:11:31 | 生活

とうとう小学生の夏休みが来ちゃいました。そしてあっと言う間にもう8月。
空は小1になり、驚くほどお兄ちゃんらしく成長してきて、しみじみ、子育てもずいぶん楽になったな~と思います。しかし、小学生の盲点、夏休み。。学童はありますが、毎日の弁当づくりがはじまりました。日々のご飯でいっぱいいっぱいなのに、その上忙しい朝に用意しなければ。しかも、朝のラジオ体操も(^_^)

これは、お父ちゃんのダイエット作戦と抱き合わせで説得し、父ちゃんが付き添ってくれることに。今は7月しかラジオ体操しないらしく空は皆勤賞でした!
が、お父ちゃんは仕事が忙しい時2回だけ、私が代わりに。でも、お父ちゃんも、ずいぶん早起きが定着し、朝方にシフトしてきたようなので、この勢いで朝ウォーキングでもして、ダイエットすればいいのでは。

さて、その小学生の夏休みですが、私の職場の高専は、なんと夏休みは8月の10日頃から。空の小学校は夏休み終わりが8/25なので、家族旅行など行けるのは、この二週間の間だけ。なんか切ない~。
自分が小学生の頃の夏休みなんかは、朝から晩まで、本当に自由な時間が有り余るほどあって、どこか連れていってもらうことはほとんどなくても、いろんな友達と、いろんな近所で、遊び倒してたなあと。そう思うと、今の子供の自由のなさがまた切ない。。
大人が決めた中でしか遊べない不自由。少しでも、のびのび遊べる環境はつくってやりたいですね。

そんな中で、夏のイベントがチョコチョコありましたが、まずは時の保育園の夕涼み会。
空は、卒園児として、今年は招待。二人とも楽しみに参加しました。昨年は、役員の責任者で、大変でしたが、今年は、店番の手伝いだけで、気楽に参加。今年の役員さんたちは、すごい頑張られたようで、いつになく派手!
地元アイドル?コスピットという二人も来て、歌ったり踊ったり。花とりピーとネギ太も。何気にゲームなど出し物の看板の似顔絵がうまかったり。花火もすばらしかったり。

今年のがいな祭りは、初日は私が用事で参加できず、父ちゃん一人で二人を連れていったらしい。帰りにバスに乗り遅れそうになり、時を抱っこして走り、死ぬかと思ったとのこと。お父ちゃんの体にはすでに時以上に、空一人分ぐらいの余分な脂肪がついてますからね。空と時抱っこして走るようなものですね。想像しただけでもゾッとする。

がいなの花火は、今年学生とセルフビルドの改修でシェアハウスにする予定の岩倉町の空き家で、花火見物することに。しかも、この秋、米子でアーティストインレジデンスされる戸井田雄さんというアーティストがはじめて米子を訪れられ、彼のレジデンス場所にもなるところなので、ここで一緒に花火見物。二階のベランダから、ほどよく見えてよかったです。

また、今年は時くんはじめて海水浴に。以前、空くんといった笹子です。島根半島の北側は、本当に綺麗な海がたくさんあります。


短い夏休みも、楽しむぞー。

空時の日常

2013-07-05 05:22:25 | 生活
ブログの更新がまたご無沙汰で、見ていただいてる方には、申し訳ないです。イベントがないわけでもないですが、小ネタばかりなんで、空時の日常として、写真をいろいろ紹介します。ホント、気がついてみたら、二人ともよく成長しました。
最近は、子育てにかかる手間がずいぶん減ったこと、またお父ちゃんの協力もさらに増えた(送り迎えや、洗濯物もたまに)ことで、私のストレスも夫婦ケンカもずいぶん減ったように思います。ありがたや~。
あと、家がぐちゃぐちゃだとこれまたストレスが溜まりますが、こないだ子供たちと、おもちゃなど整理して、まだ許しがたい範囲だが、許すことにした。。(それまでは、到底ゆるせない範囲)なんとか、ギリギリな状態ではあるものの確実に自分の時間とか、取り戻しつつあるのを実感しはじめています。

ひどい時のウチ。でも空くんはだいすきなレゴを大量にいただき、大興奮!!ありがとうございました!

階段下がほぼおもちゃでうまってきてますが、その隙間を自分たちの基地として陣取り中。

平田の木綿街道CitySwitchを見学に伺ったとき、すぐ近くの愛宕山公園?
かなり大きな公園で、動物もいたりして楽しみました。

そういや植樹祭が大山であり、参加しました。天皇陛下が来られるということで、付近の道がきれいになったり、警備がすごくてびっくりしました。
この舞台(御野立所という)の設計は非常勤の杵村先生によるもの。会場の花回廊の雰囲気にあってました。学生もメッセンジャーとして、登場してましたが、リハーサル含め大変だったようです。

今年こそ、ゴーヤカーテンで涼しげな夏をと、空くんも植える時から、協力してくれてます。

時くんも。

空くんが小さい時に、仮面ライダー変身セットを手作りしたのですが、それをつけた写真を時がみつけ、俺にも作って~と、ねだられ製作中。

こんなもんでも、意外に喜んでつけてくれるので、私もつくりがいがあります。
結局、空くんの分もつくる。

境港のお台場公園でのバザール?
なかなか面白い出店ばかりでしたが、鹿肉バーガーもそのひとつ。岡山の若い方がされてましたが、鹿は害獣として、かなりの数が殺され廃棄されているらしい。彼らはいのちをありがたくいただきましょうという活動として、鹿肉バーガーを。鹿肉は臭いイメージですが、処理の仕方で、全く違うらしい。すごく美味しくて、取り合いになりました。

ほかにも不思議な展示やら。

大山桝水高原で、地ビールフェスタがあり、昼からお父ちゃんは堪能してましたが、その後リフトであがり、帰りはみんなで歩いて降りてきました。時も抱っこを我慢して長靴だったのに自分で歩きました。

空くんはいつのまにか、すっかり小学生で、いろいろ勉強も。
何より張り切って毎日小学校に行ってくれているので、それだけで十分。私も毎日の手紙や、用意などやっと慣れてきました。

大好きなかき氷。

時もだんだん料理したがるように。これは、バターナイフでバナナを切って、バナナジュース作るところ。

空くんは今や、朝から一人でホットケーキ作って食べることも。生きる力をどんどん身につけてます。

今日は、このぐらいにしておきましょうか。

年末大阪行き

2013-01-05 03:30:00 | 生活
昨年は大阪に帰省せずはじめて正月を米子で過ごしましたが、今年はまた甥(中一)のゆうやくんが受験も終わり来るとのことで、我々も年末から帰省しました。今回夏に続きまた仕事で忙しい父ちゃん残し、母子三人で先に帰りましたが、夏は新幹線など列車にしたものの、今回は車にしました。子供たちは普段電車にほとんど乗らないし、ましてや新幹線など乗れるのは楽しみなのですが、荷物かかえ、ひどい時には、下の子まで抱っこを考えると、とてもJRにする気になれず。1人で帰省してた時もたいがい車だったしね。
母子三人だと、車の方が安いし、時間にしばられず、荷物も大量に運べるし。今回、空はクリスマスプレゼントの大きなレゴも、持っていくと言われても、気にせず載せられました。
ま、後から空には、新幹線乗りたかったなあと、言われましたが。
さて、私が運転の車の帰省は、はじめてでしたが、雪で米子道が、ノロノロ運転だったものの、その他のハプニングと言えば、空が弁当をひっくり返して大泣き(T_T)したぐらいか。。
本当ならSAででも食べようかと思ってたのが、昼時に時が寝始め、起こすのもなんだなと思い、走行してたのが、空はお腹空いたとのことで、自分で弁当食べてもらうことに。後部座席はテーブルが出るのでそこにおいて機嫌よく食べてたのが、何かの拍子で、ひっくり返し、まだおにぎり一個とおかずも一つ程度しか食べておらず、空くん大泣き(T_T)私の弁当あげるからと言ってもあまりのショックで「もう弁当なんかいらんわー!!」と。
その騒ぎで時も起きちゃうし(-_-)。
しかし、その後ぐずってる空の横で美味しそうに弁当食べました。SAで空の昼ごはんをと入ったものの、あまり食べたいものもなく、さあどうしたものかと思ったところ、きびだんごの試食があり、いただいたりするうちに少しずつ機嫌直す。食べ物の恨みは食べ物で晴らす空くんでした。
その後泣き疲れた空も昼寝してくれ、無事車での帰省を果たしました。
最近長い車中は、空としりとりをしますが、ずいぶんつづくようになりました。また国旗や国の名前にはまっていた夏ごろは国名しりとりも。私と父ちゃんで真剣勝負でした。我々も変わった名前の国名をずいぶん覚えました。
ナゴルノ=カラバフとか、レソトとか、アンドラってスペインの中に飛び地のような小国があったこととか。子供と一緒にいろんな発見を楽しませてもらいます。


墓参り

2012-09-09 00:47:36 | 生活

毎年だいたい盆正月に大阪に帰省するため、本来なら旦那さんの実家に挨拶に伺うべきところ、私の里に家族で帰省してたりして。
お義母さんが普段我々は孫に会ってるから、盆正月にこだわらなくてもいいわよとの言葉に甘えてつい。
というわけで、盆の墓参りも日程がズレたり。暑い日中は出掛ける気もおきないので、平日の夕方にさくっと拝みにだけ行ってきました。
米子は寺町があり、旧市街にお寺が数軒並んでいて、街中に結構な面積の墓場があります。
また郊外は、昔からの田畑の集落ごと?に墓場があって、今や田畑が結構宅地化されていて、住宅地のすぐそばに墓場があったりして、不思議な街区が形成がされています。学生がかなり郊外の富益町の墓場と住宅地の関係を調べていて聞くと、道に沿って家が並んでるんだけど、本家や分家は、道と直交方向に並んでいて、墓場は、その家ごと(本家と分家一緒に)にあるので、道とほぼ平行に帯状に並んでいるとか。面白いですね。それも農家が継がれなくなったり、少子化の今では、住宅だけでなく、墓場も守りをする人が居なくなり、無縁墓が増えているとか。
墓活という本も、いまやはやってたりするようですが、墓をどうするかということも、家族や自分の人生設計することと同じように大きな問題ですね。
と、そんな歳にもなってきたなと、思ったりします。
私はありがたいことに息子ができたので、私の墓はみてもらえるかなという期待もありますが、でも死んだ後は別にどうでもいいかなという気もするし。世代をつなぐことを考えると、我々の孫子の代が墓に来て、拝んでもらうことで、先祖を敬うことも大事。となると、墓という存在は必要やなと思ったり。
今年は六歳になった空くんに、あれこれ墓の話をしました。空くんが長男なので、我々の墓守りしないといかんとか。都会に出ててもたまには帰って墓に参ってねとか。空くんが死んだら我々と同じ墓に入るとか。
そしたら、弟の時は次男なので、別に墓を用意して、そこにはいらないといけないとわかると、「やった~。僕だけ、お父ちゃんお母ちゃんと一緒にお墓に入れる~。時くんは、別のところだよ!」って、オイオイ。
普段何かと弟とライバル意識燃やしている空は、そんなことに気がつき、喜んじゃったりして。でも、そう考えると、子供は、一人しか入れないのね。時やん~。ちょっと寂しいな。


最後はオマケの空くん百面相。最後はミニトマトを頬張る。