半年ぶりぐらいのブログ。
年末にとうとう大阪実家を引っ越ししました。最終日前日には私も大阪へ。
引き取りたい荷物を車に積んだり、最後の荷造りなど。ステレオや火鉢は知人に引き取ってもらうことに。愛着のあるもので使えるものはまた誰かに使ってもらえるのはありがたいです。
新居ができていたら他にもアラジンのストーブなど持って帰りたかったですが、車もいっぱいに。ちなみに大学院の修士制作が出てきて、はじめは捨てようかと思ったものの米子でのAIRイベントで使えるなあと思い立ち持ち帰りました。(壁に貼っているもの)
まあ、わたしの物もたくさん大事にとっていてくれて懐かしい時間を過ごしました。両親たちにも本当に感謝しきりです。しかし、懐かしんでばかりもいられず、最終日は朝から引っ越し業者も入ってきて、とにかく不動産以外の動産物は全て持ち出さないと。兄貴と姉と兄弟三人で最後の夜を過ごしました。三人いてよかったねとしみじみ思いました。
さて最終日は朝8時前からサカイ引っ越しセンターが来て、男性作業員5名?が引っ越し荷物をテキパキトラックに積み込み。午前中でほぼ4tトラック1台半が埋まりました。さらに廃棄だがリサイクルにまわすものを小さめのトラックに。午後からは廃棄物品を引っ越しゴミとして家の前にだし3時すぎには作業は終了。予定よりははやく終わりました。しかし、ゴミを外に出し始めて一時間もしないうちにリサイクル業者かおじさんがタヌキの置物を譲って欲しいと現れました。その後あれこれいろいろ物色し、応援もかけつけ軽トラに積み込んでました。アラジンのストーブも持っていきましたね。
ちなみにこの日は近所に住む叔母が、お昼のおにぎりを差し入れにきてくださったり、兄貴の会社の後輩が一人手伝いにきてくださったり。姉のお友達が最後のお別れに訪れてくださったり。ありがたい最後でした。夕方には、次の飼い主や不動産業者も確認に来られるとのことでしたが、それまで時間が空いたのでははの見舞いと報告に。ありがとうと母は目を閉じ手をあわしていました。母も見に帰る?と一応聞いてみたが、いいよと。たぶん母が現場にいたら耐えられないかもね。
私も最後の最後に一番古い部屋が、今は物置き部屋になっていたのですが、そこが荷物がのいて部屋があらわになったときにまだ小さい子供の頃の記憶が蘇ってなんとも懐かしいし、寂しい思いをしました。そこは自分の部屋ができるまで父や母と寝ていた部屋で押し入れなどが遊び場になっていたためです。はやり、記憶は場所と大きく結びついてるし、子供の時に体験した場所はなおさら大事だなあと実感するのでした。
夕方5時に飼い主の方たちも来られ、私も始めてご挨拶だけ。米子で待つ子供たちをはやく迎えないといけないので早々に失礼しました。
兄貴は会社の後輩の方が運転のお手伝いもしてくださるということで、車で姉も乗せて東京へ。
兄貴たちは翌日東京マンションで引っ越しの搬入立会いもあってまた大変でしたが、なんとか入ったようです。
50年もの実家の引っ越しは本当に大変ですね。特に主が居ない状態でやらないといけないし、東京と鳥取と離れた場所から手伝いにきていたので。しかし、今時長男が一緒に住んで家を住み継いでいるところなんて少ないでしょうね。大変なことだと本当に実感しました。
年末にとうとう大阪実家を引っ越ししました。最終日前日には私も大阪へ。
引き取りたい荷物を車に積んだり、最後の荷造りなど。ステレオや火鉢は知人に引き取ってもらうことに。愛着のあるもので使えるものはまた誰かに使ってもらえるのはありがたいです。
新居ができていたら他にもアラジンのストーブなど持って帰りたかったですが、車もいっぱいに。ちなみに大学院の修士制作が出てきて、はじめは捨てようかと思ったものの米子でのAIRイベントで使えるなあと思い立ち持ち帰りました。(壁に貼っているもの)
まあ、わたしの物もたくさん大事にとっていてくれて懐かしい時間を過ごしました。両親たちにも本当に感謝しきりです。しかし、懐かしんでばかりもいられず、最終日は朝から引っ越し業者も入ってきて、とにかく不動産以外の動産物は全て持ち出さないと。兄貴と姉と兄弟三人で最後の夜を過ごしました。三人いてよかったねとしみじみ思いました。
さて最終日は朝8時前からサカイ引っ越しセンターが来て、男性作業員5名?が引っ越し荷物をテキパキトラックに積み込み。午前中でほぼ4tトラック1台半が埋まりました。さらに廃棄だがリサイクルにまわすものを小さめのトラックに。午後からは廃棄物品を引っ越しゴミとして家の前にだし3時すぎには作業は終了。予定よりははやく終わりました。しかし、ゴミを外に出し始めて一時間もしないうちにリサイクル業者かおじさんがタヌキの置物を譲って欲しいと現れました。その後あれこれいろいろ物色し、応援もかけつけ軽トラに積み込んでました。アラジンのストーブも持っていきましたね。
ちなみにこの日は近所に住む叔母が、お昼のおにぎりを差し入れにきてくださったり、兄貴の会社の後輩が一人手伝いにきてくださったり。姉のお友達が最後のお別れに訪れてくださったり。ありがたい最後でした。夕方には、次の飼い主や不動産業者も確認に来られるとのことでしたが、それまで時間が空いたのでははの見舞いと報告に。ありがとうと母は目を閉じ手をあわしていました。母も見に帰る?と一応聞いてみたが、いいよと。たぶん母が現場にいたら耐えられないかもね。
私も最後の最後に一番古い部屋が、今は物置き部屋になっていたのですが、そこが荷物がのいて部屋があらわになったときにまだ小さい子供の頃の記憶が蘇ってなんとも懐かしいし、寂しい思いをしました。そこは自分の部屋ができるまで父や母と寝ていた部屋で押し入れなどが遊び場になっていたためです。はやり、記憶は場所と大きく結びついてるし、子供の時に体験した場所はなおさら大事だなあと実感するのでした。
夕方5時に飼い主の方たちも来られ、私も始めてご挨拶だけ。米子で待つ子供たちをはやく迎えないといけないので早々に失礼しました。
兄貴は会社の後輩の方が運転のお手伝いもしてくださるということで、車で姉も乗せて東京へ。
兄貴たちは翌日東京マンションで引っ越しの搬入立会いもあってまた大変でしたが、なんとか入ったようです。
50年もの実家の引っ越しは本当に大変ですね。特に主が居ない状態でやらないといけないし、東京と鳥取と離れた場所から手伝いにきていたので。しかし、今時長男が一緒に住んで家を住み継いでいるところなんて少ないでしょうね。大変なことだと本当に実感しました。