秋田ぐらし akita life

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イザベラ・バードが泊まった院内の今

2017年06月15日 | 日記


イザベラ・バードが山形から雄勝峠を越えて秋田へと向かう道を辿るべく雄勝峠の旧道を目指して雄勝トンネルと向かった。旧道は秋田から山形に向かうとトンネルの手前を左折するとあるらしいので、手前を左折してみると、工事車両が停まっていてしかも、柵があって通過不能であった。ならば山形側がらと思いトンネルを通過して山形及位から
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荒れた道を辿っていくと
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旧道のトンネルに到着
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しかし、ここは閉鎖されて通過不能であった。
結局、峠の雰囲気は味わうことができなかったが、また、トンネルを通って院内に戻り、峠をこえたバードたちが通過したであろう関所跡を撮影
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さて、イザベラ・バード一行が雄勝峠を越えて最初の秋田での宿、院内は昭和29年まで銀を採掘していた日本有数の銀山として栄えていた。江戸時代管理していた久保田藩の人口が一万程度だった時に山の人口は一万人を数えた時期もあるそうである。
その院内銀山の資料が展示されている院内銀山異人館がJR院内駅と併設した形で公開されている。
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350円の入館料を払って見学すると、院内銀山の紹介ビデオを18分視聴、その間お茶をだしていだきました。
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この院内銀山異人館から西方5.4㎞に当時繁栄していた銀山の遺跡として史跡院内銀山がある。

この院内銀山を舞台にした小説、高橋義夫著で、銀山仕置番の助川十兵衛を主人公にした『出羽院内銀山仕置帖』仕置番とは銀山奉行の配下で銀山に諸国がら流れこんでくる浪人や荒くれ者を取しまる役割で下代ともいう。銀山奉行の配下に数人おり、下代の配下に足軽30人がいる。この仕置番が院内銀山で起きる事件を解決していく時代劇であるが、島根の岩見銀山からきた人が登場したり、まさに全国有数の銀山に全国様々な場所から人々が集まってきた江戸時代の院内銀山の様子を伺うことが出来る。この出羽院内仕置帖にあとがきに

「院内銀山は秋田県雄勝郡雄勝町にあった。かつては全国有数の銀山として栄えた、現在では、奥羽腺院内駅の構内に異人館と名づけられた資料館があり、駅から四キロメートルほど離れた銀山川の川上に史跡がある。
 院内銀山の発見の時期については、慶長元年(1596)年に平鹿郡薄井村の七郎左衛門という人が発見したという伝承と慶長11(1606)年に関ヶ原の落ち武者山村兵衛がはっけんしたという[銀山記]の記述の二説がある。銀山跡には村山宗兵衛の墓があり、宗兵衛が秋田藩家老渋江内膳に山先と認められたのは事実である。銀山の発見は、いずれにしろ、四百年近い昔のことである。最盛期の慶長末期には、推定20トンの銀山高があり、人工一万人を超える大鉱山町となったといわれる。院内銀山は繁栄と衰退をくり返して、昭和29年まで採掘がつつけられた。近代になってからは、古河鉱業に払い下げられている。残務整理にあたった最後の従業員は、44名だったという。三百五十年のながい歴史をもつ鉱山だった」

と紹介されている。
さて、院内銀山異人館でいただいた地図をもとに現地を訪ねる
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門屋養安一族の墓
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繁栄のシンボル金山神社
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銀山の入抗口であった御幸抗(五番抗)
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異人館のスタッフに「熊が・・」と言われてたがそんなことはあるまいと思いながらも、私以外誰もいないのでびくつきながらの撮影であった。

また、西木正昭著の同じ院内銀山を舞台にした『養安先生 呼ばれ』という小説があって、これは実在した院内銀山のお抱え医師であり、銀山の経営にもかかわった門屋養安が主人公である。
門屋養安についはネットで検索すると

「門屋家は、四代にわたって銀山で医師を務め、治療範囲は銀山にとどまらず、湯沢町、及位(のぞき)(現山形県最上郡真室川町)、矢島(由利本荘市)方面にまで及んだ。特に疱瘡(ほうそう)予防のための種痘(しゅとう)に代々尽力した。
 初代養安(ようあん)は、寛政(かんせい)四年(1792)、新庄藩に生まれ、若くして院内銀山を訪れ、湯沢の柳玄碩(やなぎげんせき)について内科の医学を修め、阿仁、鷹巣町七日市を経て天保(てんぽう)元年(1830)頃、家族とともに再び院内銀山に移り住んだ。天保十一年(1840)には養安の提唱により、鉱夫の「よろけ」(珪肺(けいはい))予防対策のための療養所が藩によって建てられた。養安は医師として、また奉行側近として銀山経営にも携わるなど幅広く活躍し、明治6年(1873)に銀山町で没した。
 天保六年(1835)六月から明治2年(1869)までの35年間の日記『(門屋養安日記』)には、医療活動のほか銀山町の政治、経済、文化、民俗、庶民生活まで多彩な内容が記され、鉱山史研究においても貴重な資料となっている。」
となっている。

 この実在した養安を主人公にした小説には幕末から維新までの様子がいきいきと書かれている。
西木正明は秋田出身の作家で、小説の中でも秋田の売り込みをしている。少し抜粋すると

「三船屋惣右衛門もいささか日本人離れした体躯と風貌をしている。後に世界のミフネと呼ばれた映画俳優三船敏郎は、この三船屋惣右衛門の子孫である。ちなみに三船敏郎と組んで数多くの名作を送り出した映画監督の黒澤明も、同じ久保田藩の角館近郷豊川の出身だ」

とさり気なく織り込んでいる。なおWikipediaでも三船敏郎の父は三船家の次男と記載されていて、三船敏郎自身も父の実家に一時世話になったとされている。

 さて、イザベラ・バードは門屋養安が没した5年後に院内を訪れたのであるが、羽州街道と銀山は5キロほどはなれているので、イザベラ・バードはこの銀山の様子は書かれていないが、上院内、下院内に脚気が流行って、地元の医師のほか久保田の医学校から医師が応援で訪れていると書いている。地元の医師と書かれているのは門屋一族であった可能性が高い。門屋養安の子(養子)、孫も医師となっている。また、養安の子も孫も久保田の医学校出身であったので久保田の医学校との繋がりも深かったと思われる。したがって久保田からの医師の応援も当然であったであろう。
前にも書いたように、イザベラ・バード一行の院内における宿は確定されていないが、羽州街道の本陣であったあたりの現在の様子である。
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