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オルテガ『大衆の反逆』を読む 12 英語版エピローグ オスプレイ?

2020-07-20 03:21:22 | 日記
A.百年前の現実は繰り返しているのか?
 ついこの間まで、つまり今年の正月を迎えていたとき、ぼくたちが当たり前の常態だと思っていた日常が、半年を経過したいま、もう一見変わっていないかに見えて一歩外を歩くだけでも、もはや過去の安穏は失われていることを実に不思議に思う。コロナウイルス感染拡大は、心理的恐怖を払拭するどころか人々の行動制限をめぐる混乱を深めている。しかし、日本という社会はこういう状況に規範的モラルが働くかのように、自粛への同調圧力が個別の紛糾を抑制するといわれる。でも実は、社会的モラルが人々にしっかり分け持たれているからではなく、たんに「みんなと同じでなきゃ」「とりあえず人と合わせておけば大丈夫」という低レベルの心情が支配しているからではないかな。オルテガのいう「大衆」はまさにこれだ。

 「真の問題に辿り着く:
 問題とはこれである。すなわちヨーロッパにモラルが無くなったのだ。これは大衆化した人間が、新しく登場した別のモラルのために、時代遅れのモラルを軽視しているのではなく、その生の体制の中心がまさにいかなるモラルにも服従せずに生きたいという熱望から成り立っているということだ。若者たちが「新しいモラル」について話しているのを聞いても、そのまま信じないでいただきたい。モラルの輝きを持った新しいエトス[倫理的態度]を備えた集団など、ヨーロッパ大陸のどのような片隅にも存在しないとはっきり断言しておく。このように「新しい」モラルが話題になるとき、それはまたもや不道徳(インモラル)なことが行われ、密売品を仕入れるもっとも都合のいい方法を探しているにすぎない。
 このような理由から、現代人をつかまえてモラルの欠如を難詰するのはお門違いもいいところだ。非難は右から左に流されるだろうし、もしかしたら調子に乗せることになるかもしれない。不道徳性は破格の安値となり、誰もが不道徳行為をひけらかすにまで至っている。
 過去からの生き残りを意味するすべての集団、つまりキリスト教徒、「観念論者」、旧来の自由主義者などを脇に置くなら、現代を代表するすべての人たちの中では、生を前にしての態度が、自分はあらゆる権利を持っているが義務は一つも持っていないとの信念に集約されないような人は一人もいないだろう。それは反動家の仮面を被っていようが革命家のそれを被っていようが関係ない。能動的だろうが受動的だろうが、何度考えたとしても、彼の精神状態はすべての義務を無視して、その理由を自らは疑うこともせずに、自分を限界のない権利の主体と感じることだろう。
 こうした魂の人間の上には何が降ろうが、同じ結果しか出ないだろうし、いかなる具体的なものにも服従しないための口実となってしまうだろう。たとえ彼が反動家あるいは半自由主義派として現われようと、それは祖国や国家の救済という理由で、他のすべての規範を無視し、隣人が豊かな人間性を持っているならなおさらその隣人を叩き潰す権利があるのだと主張するためだろう。しかしそれは革命家の場合も同じである。つまり彼の、肉体労働者や貧困にあえぐ人や社会正義に対する表向きの熱狂も、それはあらゆる義務つまり礼節、誠実さ、とりわけ自分より優れた個人に対する敬意や評価といったものを知らぬ振りするための隠れ蓑として役立つのだ。私も、自分の内部で知性を軽蔑し知性に対するへりくだりを免除してもらう権利を得るためだけの目的で、いずれかの労働党に入党した少なからずの人を知っている。その他の独裁政権に関して言うならば、優れた人やものを足蹴にすることで、大衆化した人間に媚を売っているのを嫌というほど見てきたはずだ。
あらゆる義務からのこうした逃避は、滑稽とも醜悪ともいえるあの現象、つまり私たちの時代に「若者」主義の足がかりができてしまったことを解明している。おそらく私たちの時代に、これ以上グロテスクなものはないだろう。人びとは滑稽にも自分たちは「若者」だと宣言している。なぜなら義務の遂行は成熟するまで無期限に延ばせるからであり、青年つまり若者は義務より権利を多く持っているからである。常に若者は若者である限り偉業を成し遂げるかどうか、あるいは既に成し遂げたかどうかは不問に付されてきた。いつも信用貸しで生きてきた。このことは本来の人間性の中にあるものだ。それは、もはや若者ではない者が若者に与えていた、皮肉と温情のこもった偽りの権利なのだ。しかし現在、若者たちが、何事かをすでに成し遂げたものだけに属するその他のあらゆる権利までも自らに帰すために、それを実際的な権利として捉えているのには啞然とさせられる。
嘘かと思われるかもしれないが、若さが恐喝になってしまった。実際、私たちは今日、相互に補足しあう二つの顔をもつ世界的な恐喝の時代を生きている。一つは暴力による恐喝、もう一つは諧謔による恐喝である。どちらの形をとろうと、望んでいるのはいつも同じことで、劣った者や凡庸な人間があらゆる服従を免除されると感じられることなのだ。
したがって現在の危機を、二つのモラルもしくは文明の間の争い、つまり老衰したモラルや文明と日の出の勢いを持つモラルや文明の間の争いだとみなしたからといって、危機を上品にすることはできない。つまり、大衆はただ単に言ってモラルを欠いているということなのだ。つまり常に、本質的に何ものかに対する恭順の念や奉仕と義務の意識であるモラルを持っていないことに尽きる。しかしもしかすると「ただ単に」などと言うのは間違いかも知れない。なぜなら問題は、モラルを無視するタイプの人間だということだけではないからだ。そう、問題をそう簡単に片づけるべきではない。モラルと完全に縁を切ることなどできない相談だからだ。文法的に言っても意味をなさない無道徳性(amoralidad)という言葉で呼ばれているものは、存在しないのだ。もしもあなたが、どのような規範にも従うことを望まないなら、あなたは好むと好まざるとにかかわらず、すべてのモラルを否定するという規範に従わざるを得ず、そしてこれは無道徳(アモラル)ではなく不道徳(インモラル)なのだ。これはモラルから、その空虚な形式だけを保持した否定的モラルである。
 生の無道徳性など、どうして信用する気になったのだろうか。間違いなくそれは文化全体が、近代文明がそうした信念を内に抱えているからだ。いまやヨーロッパはその精神的態度のもたらした痛々しい結果を刈り入れている。ヨーロッパは、見映えはいいが根をもたぬ文化の傾斜を何の備えもなく急降下しているのだ。
 本試論で、ある種のヨーロッパ人のタイプについてなんとか素描しようと思ったのは、主に自分がその中に生まれてきた文明そのものに対する態度を分析することによってである。このようにせざるを得なかったのは、その人物たちが古い文明と闘う別の新しい文明を代表しているからではなく、単なる否定つまり実際は寄生状態を秘めた否定を是として代表しているからである。大衆化した人間はまさに自分が否定しているもの、他人が建設し積み重ねたものを糧に生きている。だから彼の心理構図と、近代ヨーロッパ文化がどのような根本的欠陥を持っているかという大問題とを混同すべきではなかった。要するに、いまや支配的なこの人間形式がそうした根本的な欠陥に由来することは明らかだからである。
 だがこの重大な問いはあまりに大きいものであり、本試論の範囲を越えている。人間の生についての理論は、いつか充分な紙幅を得てあらためて展開されなければならない。本試論では、いわば対位法のように、各所に織り込まれ、暗示され、小声で囁かれるに留まった。この問いが大声で叫ばれるときがほどなくやって来るだろう。」オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』佐々木孝訳、岩波文庫、2020年.pp.315-320. 

 1930年刊行の『大衆の反逆』本文はここで終っている。そして、スペイン語で書かれたこの本はかなり反響を呼び、フランスやイギリスでも翻訳されて多くの人に読まれるようになった。だが、それはスペインで本格的な内戦が始まり、共和国政府側には左派や社会主義者が支持に回り、王党フランコ側にはナチスドイツなどファシズム側が応援に回ったことで、このスペインの優れた知性ともいうべきオルテガが内戦の中で亡命を余儀なくされたことにも注目が集まったことがある。オルテガは共和国政府に当初協力関与しつつも、その共同戦線の分裂混乱する左派にも、フランコの右翼的勢力にも同調せず、結局オランダに亡命することになり、第2次大戦終了まで祖国には戻らなかった。今回の佐々木孝氏による新訳には、フランス語版へのプロローグ(1937年)と英語版への「イギリス人のためのエピローグ」(1938年)が合わせて邦訳されている。これは本文執筆後、スペインがどうなってしまったかを直接には触れないが(ある意味それは当時のインテリには周知のことだったから)、深い絶望と同時にオルテガの警世の予言がまさにそのまま実現していることを「ヨーロッパ人」たちは思い知ったことになる。以下はその「イギリス人のためのエピローグ」から。

 「ものごとの悲しい側面しか見ない人たちの考えとは逆に、実はすべての過ちは私たちの財産を増やしてくれる宝の山である。過ちについて嘆く代わりに、それを急いで掘り下げる方がいい。そのためには、それを土台から調査し、容赦なくその根っこを掘り出し、それが私たちに教えてくれる新たな概念を精力的に構築する必要がある。私が思うに、イギリス人はすでに沈着に、しかも意を決して、二十年の間自分たちに特有の平和主義が犯した巨大な過ちを改め、もっと洞察力に富んだ、もっと効果的な平和主義をそれに変える準備を整えてきたのである。
 ほとんどいつものことと言ってもいいが、イギリス流平和主義の最大の欠点は―ーそして一般に平和主義を標榜する者たちの欠点でもあるが―ー敵を見くびることであった。この過小評価は誤った診断によって吹き込まれたものである。平和主義者は戦争の中に害を、犯罪や悪徳を見る。しかし彼が忘れているのは、戦争はそれ以前に、そしてそれを越えて、ある種の紛争を解決するために人間が行う巨大な努力だということである。戦争は本能ではなくある種の発明なのだ。動物は戦争を知らない。戦争は科学や行政と同じく、純粋に人間的な制度である。そして戦争は文明全体の基礎である最大の発見に導いた。すなわち規律の発見である。軍事教練という最初の規律から、その他すべての規律の形式が派生した。ともあれ、いま平和主義は道に迷っている。戦争とは生の、そして生のための、天才的かつ恐ろしい技術であることを忘れたならば、平和主義など何の意味もない妄信と変わりがないのである。
 すべての歴史的形式と同じく、戦争は二つの側面を持っている。すなわち発明のどきの戦争と、超克のどきの戦争である。発明のときは、計り知れない進歩を意味する。今日、戦争を超克したいと切望するとき、戦争からはただ汚れた背中しか、恐怖や粗野や不足しか見えない。同じように私たちは通常、特に熟考もせず、奴隷制度が発明された時に示した素晴らしい進歩に気づかずに、その制度を批判する。私がこう言うのは、それまでは負けた側は全員殺されていたからだ。捕虜を殺す代わりに彼らの命を救い、使役に廻すことを考え付いた最初の人間は、人類の天才的な恩人と言えよう。偉大な人間的感覚、つまり歴史的感覚を持っていたオーギュスト・コントは、以上のような観点から―ーそれに関してルソーが言った馬鹿話から解放されて、奴隷制度を見ていた。そして私たちの役目は、すべての人間的事象を二つの視点、すなわち現れたときに持っていた側面と消え去るときに持っていた側面から見ることを学びながら、コントの指摘を敷衍することである。ローマ人たちは実に繊細に、それら二つの瞬間を二体の神――到着の神と退去の神であるアドエオナとアブエオナ―ーに聖別してもらうことにした。
 以上の基本的事実を知らないため、平和主義はあまりにも安易な仕事になってしまった。つまり戦争を無くすには、戦争をしないこと、あるいは少なくとも戦争が行われないよう努力することだと考えたのだ。戦争の中に、えてして人間同士の付き合いに現われる余計で病的な突起物だけしか見てないので、それを摘出すれば充分であり、別にそれを何かと代える必要などないと考えたのだ。しかし戦争というとてつもない努力を回避するには、平和とは戦争より数段大きな努力、複雑きわまりない努力の体制、そして部分的には天才による一か八かの介入を必要とする体制であると理解して初めて可能なのだ。
 それ以外のことはまったくの誤りである。それ以外というのは、例えば平和を、戦争が姿を消したあとに残った単なる空隙のように解釈することである。つまり戦争は人が行うものであるが、平和もまた人がやらなければならないもの、作り上げなければならないもの、人間の全能力を総動員しなければならないものであることを無視しているのだ。平和は何の努力をしなくてもいつでも享受できるように、単に「そこにある」ものではないのだ。平和は何かの木に自然にできる果実ではない。重要なもので人間に無償で与えられているものなど一つもない。むしろ人間が自分のために作らなければならぬもの、建設しなければならぬものである。だから、人類の最も正確な呼称は工作人(ホモ・ファーベル)なのだ。
 以上すべてのことに注意を向けるなら、イギリスのこれまでの信念が、平和のためにできる精一杯のことは何もやらないことにほとんど等しい軍縮だけだったのは実に驚くべきことではないだろうか。なぜそのような信念となったのかは、ある基礎的な診断の過ちがあったことに気づかなければ理解できないだろう。すなわち、戦争は単純に人間の情熱に由来する。そしてその情念を抑え込めば好戦的な態度は封じ込められるという、間違った診断である。この問題を明確に見るためには、ケルビン卿[イギリスの熱力学の先駆者。1824-1907]が物理学の問題解決のために使った方法、つまり想像上の一つのモデルを組み立ててみるのがいいだろう。
 たとえばある瞬間、イギリスが自らやってみようとしたように、すべての人間が戦争を放棄したと想像してみよう。それで充分であるとか、それどころか、それによって平和に向けての最短の効果的な第一歩が踏み出されたなどと信じられるであろうか。とんでもない間違いである!繰り返すが、戦争はある種の紛争を解決するために考え出された一つの手段であった。戦争放棄によってこれらの紛争が無くなるなんてことはない。むしろ反対に、さらに手付かずに、さらに未解決なまま放置されてしまう。たとえ戦争への情熱がなくなり、全人類が平和を希求したとしても、功を奏さなくなるだろう。なぜなら相変わらず紛争は解決を求め続けるであろうし、他の手段が案出されないかぎり、平和主義者だけが住むというあの仮想の地球上にも間違いなく戦争が再び現れるであろうからである。
 つまり平和主義において究極的に重要なのは、平和への意志ではない。この言葉が単なる善意を意味することを止め、人間同士の新しい交流手段の体制を示すようにならなければならないのである。平和主義が無償で安楽な願望から、新しい、技術の複雑困難な集合体に移行しない限り、この領域から実りあるものは何も期待できない。
 イギリスの平和主義が、平和という大義にもたらした大きな被害はどこにあったかというと、私たちが平和と呼ぶ一つの曖昧な名称に対し、平和を実際に作り出すための具体的かつ正確な実践の基本的な技術が欠けているという現実を示さなかったことにある。」オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』佐々木孝訳、岩波文庫、2020年.pp.315-338. 

 この時のイギリスの「平和主義」は、軍縮と国際協調という戦争回避の路線で、第1次世界大戦の反省から生まれた「国際連盟」の理念につながるものだが、これが1930年代末にどういうぶざまな失敗に終わり、イギリスの平和主義者がヒトラーとの戦争を避けようとして結局、ファシズムに妥協する結果となったことを、オルテガは皮肉を込めて予言している。


B.オスプレイは日本のために必要か?
 秋田と山口へのイージス・アショア配備を断念した河野防衛相の判断は、政治的にも軍事的にも合理性を感じさせるものだが、自民党防衛族には不満なのだろう。北朝鮮や中国の軍事的膨張に対して、日本が強力な対抗的軍事力を示すには、アメリカ最新兵器を無理をしてでも購入するという判断は、誰がどういう経緯で出しているのだろうか?オスプレイを自衛隊に配備する必要性というのは、ぼくには一種のファンタジーに夢を見ている子どもと、国民の税金でアメリカの軍事産業を儲けさせることが実利的だと計算する悪徳商人とが、なぜか手を組んでいるようにしか見えない。

 「陸自オスプレイ 住民の理解欠く配備だ: 防衛省が導入した垂直離着陸輸送機オスプレイの陸上自衛隊木更津駐屯地への配備が始まった。五年以内の暫定措置とされるが、周辺住民や地元自治体の理解を十分に得られているとは言い難い。
 オスプレイは開発段階から墜落事故を繰り返し、実戦配備後も安全性への懸念が指摘されてきた軍用機だ。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に二十四機配備された米海兵隊MV22オスプレイも、空中給油訓練中にプロペラが破損して海岸に不時着、大破したり、海外への遠征訓練中に海上に着水する事故を起こしている。
 陸自が2021年度までに十七機を導入するオスプレイのうち一機が十日、陸自木更津駐屯地(千葉県木更津市)に飛来した。
 最終的には離島防衛の専門部隊「水陸機動団」がある長崎県に近い佐賀空港(佐賀市)に正式配備する計画だが、地権者との交渉が難航したため、米軍オスプレイの整備拠点がある同駐屯地に五年未満の期限付きで暫定配備された。
 とはいえ、周辺住民の理解が十分に得られているわけではない。
 木更津市の住民団体は、配備撤回を求める安倍晋三首相と河野太郎防衛相宛ての要請書を約二十四万人分の署名とともに防衛省に提出した。十日には住民団体の関係者らが抗議活動を行った。
 機体そのものの安全性に加え、整備のために飛来する米軍機に陸自機が加わり、騒音問題や安全性への懸念が高まるのは避けられまい。五年の暫定期間が守られるかどうかも不透明である。
 陸自機は、早ければ八月から東京湾上空などで飛行する予定で、駐屯地に十七機がそろった場合、離着陸回数は一日十五回、年四千五百回となる見通しだという。
 すでに海兵隊MV22の整備が始まり、米海軍用のCMV22の整備受け入れも検討されている。米空軍横田基地(東京都福生市など)に五機配備されているCV22も十機まで増強される計画だ。
 首都圏にオスプレイが集中し、飛行が恒常化する可能性は高い。首都圏周辺は住宅が密集し、事故が起きれば大惨事になりかねない。空軍オスプレイでは部品紛失も起きている。空域が入り組み、民航機への影響も心配だ。
 安全性に疑問がある軍用機が、人口が密集する首都圏を飛び交うのはとても尋常とは言えない。
 そもそも陸自に必要不可欠な装備なのか。米軍機の整備拠点を設置することの是非と合わせて、この際、検討し直すべきである。」東京新聞2020年7月14日朝刊5面、社説。

 こういう批判は、ず~っと叫んでいるのに、この国の政府はまったく聞く耳を持たない。やっぱり政権交代に期待しても無理なら、戦争が現実に起きないと自民党の政治家はまともに考えないのかな。起きるわけないと思っているとしたら、それが一番危ない。
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