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横浜トリエンナーレと中村彝のこと

2014-09-23 01:04:00 | 日記
A.横浜トリエンナーレ2014に行って・・
  今横浜美術館などで開催中の「横浜トリエンナーレ」に行って見た。今回で5回目。最初は、1999年に横浜トリエンナーレ組織委員会(国際交流基金、横浜市、日本放送協会、朝日新聞社)が設立、2001年に第1回目が開催された。国際的な現代美術展として知られるヴェネチア・ビエンナーレに倣って、横浜トリエンナーレは3年に1度開催される美術展を意味したのだが、資金難や会場の都合などで第2回展は2004年の開催が実現できず、2005年の開催となった。第3回展は無事2008年に開催され、第4回展は2011年、今回が第5回展である。毎回全体テーマが決められ、世界各国から注目すべきアーティストの作品が集められるのだが、若手の新作だけではなかなか会場を埋める力作が集まらないのか、前回ではオノ・ヨーコや荒木経惟など高名な大家、すでに亡くなっているイサム・ノグチやM・エルンストなどの20世紀の作品、今回も奈良原一高やルネ・マグリットなどの旧作が展示されていた。
 なにより今回、横浜美術館のトリエンナーレの入場したトップが、ジョン・ケージの3分44秒の楽譜と指示の文章だったのはん~ん、だった。シュールレアリズムにしてもジョン・ケージにしても、その登場したときの前衛性と革新性はいまさらいうまでもなく、美術・音楽の歴史では半世紀も前に高い評価を得ていた作品である。それを展示することはもちろん悪いことではないが、前回に比べても並べられた新進作家の新作に、正直なところ21世紀の前衛美術といえるものが見当たらなかった印象である。でもそれを要求するのはないものねだりなのかもしれない。美術における革新性の試みは、20世紀のうちにほぼ考えられるかぎりやり尽してしまった、ともいえる。あとは何をやっても、すでに見た作品の模倣、二番煎じだと見られてしまう。
 ちなみに「横浜トリエンナーレ」の、これまでのテーマを並べてみよう。
*2001全体テーマ: 「メガ・ウェイブ - 新たな総合に向けて」会期: 2001年9月2日〜11月11日参加アーティスト: 約100人、入場者数:35万人。
*2005全体テーマ: 「アートサーカス(日常からの跳躍)」会期: 2005年9月28日〜12月18日参加アーティスト: 71プロジェクト、入場者数:18万9,568人。
*2008全体テーマ: 「TIME CREVASSE(タイムクレヴァス)」会期: 2008年9月13日〜11月30日参加アーティスト: 65プロジェクト。入場者: 30万6633人。
*2011全体テーマ: 「OUR MAGIC HOUR -世界はどこまで知ることができるか?-」
会期: 2011年8月6日〜11月6日参加アーティスト: 77組(79作家)/1コレクション。入場者: 33万人。
*2014全体テーマ: 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」会期: 2014年8月1日〜11月3日、参加アーティスト: 79名。
 20世紀「現代美術」を特徴づける最大の要素は「これまでにない新しいコンセプト」の提示、いままでの暗黙の常識の破壊にあった。美術作品は作家が創造しそれ自身が発する「美」であることをやめて、ただどれほど人々のステレオタイプなアートの常識を破壊できるか、自分こそ誰もやらなかったことをやるのだ、という競争だった。それは必然的に、キャンバスや紙に人が筆と絵具で何かを描く、という方法自体を否定することになる。それを20世紀を通じて追及してきたのが「現代美術」だったのだが、時間とともに21世紀になってもうある意味ではやることがなくなってしまった。それでもぼくは、しばらくはそうした美術学校的世界は続くだろうと思う。



B.中村彝(ツネ)のこと
 その代表作とされる一枚の作品で、世間に記憶される画家がいる。それは逆にいえば、たった一枚の画像が表現していることの意味がかろうじて人々に記憶される幸福と、それ以外の彼の絵画の可能性を封じ込んでしまう矛盾が、画家の早世によって伝説化される。ある時代のある瞬間に名もない画家がたまたま描いた絵が、後世に残る傑作と評価されるか、凡俗な愚作として抹殺されるかは、必然ではなく偶然だと思う。とにかく中村彝は、日本に亡命していたロシアの詩人ワシーリ・ヤーレコヴィッチ・エロシェンコの肖像を描いて、日本の洋画史にその名を留めた。それは史上初めての社会主義革命、ソヴィエト連邦成立に関わった人物との個人的な記憶だけでなく、画家自身の飛躍につながる一枚になる。
 結核・早世・天才がキーワードになる日本の1920年代青年洋画家のヒーローの一人、中村彝について、

「中村彝(1887~1924)の《エロシェンコ氏の像》(1920年)にはじめて接したのは、神奈川県立近代美術館で開催された「中村彝とその友人展」(1964-65年)のときだから、ずいぶん前のことになる。美術館に職をえて、まだ日の浅い頃のことであった。展覧会のつくりようの、いろいろな厄介ごとに、ただただ驚いてばかりいた。だから新参者の眼に、この作品がどのような印象をもたらしたのか、という点になると、いささかあいまいな記憶しか湧いてこない。けれども、その後、何度か眼にする機会があっても、やはり、この作品は彝の代表作であると同時に、日本近代洋画史のなかにおいても聳立した一作品にちがいない、と思った。
 その理由のもっとも根底にあるところを一言でいうのはむずかしいが、わたしのことばでいえば、画家の内面的な光線のつよさを感じる、ということになるだろうか。「画家の統一と充実からもらたされる悠久感――」というふうに、彝はある文章に書いているが、これは単なる作法や表現形式の問題ではない。「画家よ、先ず語るべき思想をもて」を座右の銘としたことでもわかるように、彝の内部で、たえず発動してやむことのなかった、何か精神的な昂揚の一瞬を感じさせるものがある。
 みるひとそれぞれの受け取り方はもちろんあるだろう。辛い、と感じるひともいるにちがいない。あるいはたおやかな筆触がもたらす音楽的なリズムに、一種陶酔の境地へ誘われるかのような体験をするかもしれない。厳粛な神秘感を漂わせている画面であるから、カルヴァン主義者の一面をのぞかせた彝の、その宗教観と向き合うひともあっていい。ルノワールふうの柔らかな色調のうちに、対象の人物を破綻なくとらえる、その画法の妙術に舌を巻くひともあるかもしれない。
 いずれにしても、彝の創造的信条としての「芸術の無限感」を象徴するこの絵は、《田中館博士の肖像》(1916年)にはじまり、《洲崎義郎氏の肖像》(1919年)を経て、《老母の像》(1924年)にいたる画家の肖像画のピークを示している点に関しては、異論のないところだろうと思う。常套的な言い方をすれば、明治後期からの外光派流の平明な自然描写から抜けでて、画家本来の内発的な創造活動とかたく結びついているといえるが、これは彝における「個」の、徹底した止揚の果てに到達したひとつの成果なのだ。ある種の倫理的な精神が、この画面を支配しているようにも感じられるが(文学的な鑑賞にすぎるかもしれない)、その制作の初期から、レンブラントのなかに自己をみつづけてきた画家の、精神的な稟質を思うと、やはり、画家の内なる光彩を気にかけざるをえない。
 わたしの個人的な興味からすれば、彝の成長のなかに、深い影を落としていたであろう旧水戸藩士の血脈が、多分に彝の倫理的な性格を形成させる因子となっていたのではないかと思う。しかし、画家の因縁の背景を尋ねても、かならずしも仕事の成果の直接的な検証を可能なものにするとはかぎらない。画家としての存立ないし内証的な性向の姿勢から、しばしば彝と対照視される同時代の岸田劉生も一時期クリスチャンたろうとしていたことがあったといってみても、その意識の根本が、はたして何に起因しているのかを説明するのはむずかしい。要するに、画家は自己の想像力のはたらきにおいて自己を追求するから、画家の心に落とした影に、かならずしも相応したかたちで向き合っているとはかぎらない。すぐれた絵画だけが、この「肉眼の光景」を第三者に予感させる力をもち、そのときはじめて、画家の精神的な営為の片隅をかいまみる――といったことになるのではないだろうか。
 わたしは《エロシェンコ氏の像》との出会いの機会を反芻してみて、つくづく思うのは、これはもはや彝の自画像にほかならない、ということだ。何かややこしいものいいで、妙に理屈っぽくなったが、彝の、意志と信念の強さを明示した、きわめつきの一点といっても過言ではないだろう。しかし、この絵を脳裏に思い描いて、わたしは、ひとそれぞれに刻印する運命の不思議さを思うと同時に、芸術の魔性と格闘している画家の姿が目に浮かぶ。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009.pp.64-67.

 世田谷美術館長を務める酒井忠康さんが、比較的最近書いた「早世の天才画家」は、日本の近代絵画の生んだユニークな油画家12人をとりあげて論じたものである。なかでも佐伯祐三と中村彝について、酒井氏の少々偏った思い入れで書かれている。よく知っている人もいるだろうが、改めて中村彝さんの一生を履歴書風に書けば以下のようになるだろう。

中村彝(なかむら つね、1887年7月3日 - 1924年12月24日)は、大正期の洋画家。1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれる。男3人女2人の5人兄弟の末子であったが、兄2人と姉1人は彝が10代の時に相次いで亡くなる。父は彝が生まれた翌年に没しており、母も彝が11歳(満年齢、以下同)の時に没した。
1907年(明治40年)、祖母が死に、唯一生き残った2番目の姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり、一人暮らしを余儀なくされる。彝自身も結核を病み、療養のため学校(陸軍中央幼年学校)を中退した。
1905年(明治38年)、18歳の時、転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に赴き、この地で水彩スケッチを始めた。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返している。
1909年(明治42年)第3回文展に初入選。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり、この作品は実業家今村繁三が購入する。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになる。相馬夫妻は、彫刻家・荻原碌山(おぎわらろくざん)や中原悌二郎をはじめ多くの芸術家を支援していた。
1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女・俊子をモデルにした裸婦像が数点あり、2人の親密な関係が伺われる。彝は、俊子に求婚するが反対され、この失恋が元で煩悶することになる。
1916年 新宿区下落合にアトリエを構える。以後、亡くなるまでこのアトリエでの創作を行う。
1920年(大正9年)には前述の今村繁三邸でルノワールの作品を実見し、また院展の特別展示でルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けた。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられる。ワシーリー・エロシェンコ(1890年 - 1952年)はアジア各地を放浪していたロシア人の盲目の詩人で、先述の新宿・中村屋の世話になっていた。
1921年(大正10年)には病状が悪化し、同年7月には遺書を認めている。1921年(大正10年)から翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していない。
1924年(大正13年)、死去。満37歳であった。死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』は、若い頃の自画像とは別人のように頬がこけ、眼の落ち窪んだ相貌になっているが、その表情には苦行僧か聖人のような澄みきった境地が感じ取れる。絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』(未完)。
2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。

「たまたま目白駅で電車をまっていた画家の鶴田吾郎が、マントを着て、バラライカを抱えたエロシェンコをみかけ、絵のモデルになってくれと頼んだところに端を発している。ひとの縁とは妙なもので、二人は初対面だった。ハルビンで仕事をしていた鶴田の紹介状をもって、日本にきていたアルメニア人のニンツァからエロシェンコの名前を聞いていたので思い出したのだという。ニンツァは、彝の親友中原悌二郎の彫刻《若きカフカス人》のモデルとなった男である。エロシェンコと同じくて中村屋裏のアトリエに住んでいたが、その年の八月に横浜からヨーロッパへ旅立っていた。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009.p.70
「相馬黒光の娘俊子との恋愛の破局から、彝は死の目的で大島へ出かけたという説まであるくらいだから、彝のなかの死のどす黒い影に、いかに対処するかという観点は、評伝を仕立てるうえで重要な分岐点となる。だから、三原館での夜の話もその点に集中し、著者の確信にみちた意見をきいて、わたしも納得したのである。
 不治の病をかかえた画家の生涯を考えると、たしかに死の不安あるいは孤独な生活のなかに生ずる悲痛な心情といったものは完全には払拭できない面がある。本人の靭い意志力と遠くで結びつく幕末水戸藩の思想の余影をみる思いがするけれども、しかし、ピューリタニズムを精神的な支柱とした彝の宗教的な対応は、死を生の対極に置くことによって、より生を自覚的なものとするという相対の指向はあっても、死を合目的化する方向にはかたむいていない。まさに彝を彝たらしめている画作の緊迫感は、こういう相対のなかで自覚された精神力によって裏打ちされているのである。」酒井忠康『早世の天才画家 日本近代洋画の十二人』中公新書、2009.pp.74-75.

 実はぼくの家から歩いていかれる距離に、中村彝アトリエ記念館がある。入り組んだ住宅街の中にあるので、簡単に見つからない。なんとぼくも行ったことがない。行かねば!
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