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読書と人生・清水幾太郎  7 インドへの誘惑  村山談話!

2023-01-23 20:20:32 | 日記
A.ビルマでの日々
 日本では、明治以来の近代化とは即西洋化を意味し、ヨーロッパ起源の文明に追いつくことを目指したために、西洋の言語に通じて原書を読める「知識人」インテリゲンチャが、文化的なリーダーと見られる時代が続いた。いまでこそ、英語やフランス語が読めて話せるからといって、それがインテリの証しにはならないが、かつては西洋の書物を読んでいることが「知識人」として一目置かれるのが日本だった。そもそも外国の知識をもつ「知識人」が社会的に尊敬を集める状況は、明治の日本のように外来の急激な文化的変動が起こった場合に伴った現象である。だが、いまだに日本人が欧米で高い評価を得ることが、国内での評価より大きく報道され、「世界の○○」が誉め言葉である状況は変わっていない。
 戦前に学問や芸術の世界で、大きな評価を得るには、まず「洋行」すること、そして海外で賞を取ることが、国内でも大きな意味を持っていた。それは簡単にはできない壮挙だと思われた。清水幾太郎は、西洋の学問に通じた「知識人」ではあったが、「洋行」の経験はなかった。行きたかっただろうヨーロッパに一度も行かれなかった。戦前にドイツに留学した三木清や尾高邦雄や新明正道といった人たちを知るにつけ、ドイツ語を得意とした彼は羨ましかったに違いない。その彼が皮肉なことに、日本が始めた戦争のお蔭で、海外に派遣されることになった。ただし行先は西洋ではなく、日本軍が占領していた東南アジア、ビルマ(現在のミャンマー)であった。当時、読売新聞で論説委員などをしていた清水は、陸軍報道班の仕事としてはじめて海を越える。

 「十一 東洋の涯 ビルマへの旅 
 昭和十六年の忘年会は湯島に近い鳥屋で行われ、三木清、中島健蔵、粟田健三などが集った。何れも数年間の風に吹き寄せられた人々である。戦争は開始されていたし、また数名の小説家は、徴用令によって何処かへ連れて行かれていた。忘年会の席上、これが話題になり、私が「僕らも引っぱられるかもしれない」と言ったところ、三木清は反対して、「そんな馬鹿なことはない。僕等を引っぱったら、あちらが困る」と言った。しかし私が1月14日に徴用令書を受取り、16日に日本赤十字社東京支部に出頭した時、私はそこで三木清と中島健蔵とに会った。三人とも何処かへ連れて行かれることになっていたのである。三木がフィリッピンへ、中島がマレーへ、そして私がビルマへ連れて行かれることは後に判った。私は1月20日に大阪の中部軍司令部に入り、2月18日に宇品出帆、サイゴンまで中島と一緒である。船は緑丸と呼び、5,600トンのボロ船。船員は、私たちを首尾よく南方へ運べば、スクラップにするばかりだ、と言う。私たちはスクラップに乗っていた訳である。当時の日記の一部が焼け残っているので、その中から書物に関係のある個所だけを抜いて、これに若干の註釈を施すことにする。
 「三月二日(月) 仏印の山々見ゆ。暗い思い。誰も喜びの声を上げない。恐らく変化への恐怖に囚われているのであろう。
  三月三日(火) 船はサン・ジャック沖にとまったまま動かぬ。恐るべき退屈と焦燥。今日は節句。陸を見ながら溜息を吐く。
  三月四日(水) 船は今日も動かぬ。伝統がつかぬ。
  三月五日(木) 何時になったら船が動くのか。Verzweiflung!」
 ビルマへ行くはずの私たちは、サイゴンで上陸することになっていた。サン・ジャックから川を少し遡れば、そこがサイゴン。しかし船は沖にとまって動かない。眼の前には、一面の緑に蔽われた仏印の丘、白い聖堂が一つの緑の中に浮き出している。船が動かぬ数日間、私は船艙に座って、永井荷風の『下谷叢話』を読んでいた。富山房百科文庫の一冊である。私は何のつもりでこの本を持って来たのか判らない。荷物の中には、大阪に着いてから、行き先がビルマらしいということになって慌てて買い込んだビルマ関係の本が二三冊、大阪の丸善で求めた回教に関するフランス書、東京から持参したドイツ訳の『コーラン』、それからハルナックの『キリスト教の本質』(岩波文庫)などがある。しかし私はサン・ジャック沖で荷風を読んでいた。一体に私は車中や船中では何を読んでもあまり頭に入らぬ性質であるが、この時は全く閉口した。同じ個所を再度読み直しても、ただ眼が文字を追うだけで、一向に理解出来ぬ。この本の内容とその時の私の境遇とが極端に異なっているせいであろうか。それでも私は頑固にこの本に取りついていた。途中でやめたら、何か大変なことが起るような気がした。船は、五日の夕方、フランス人の水先案内が来てから動き出し、その夜、私たちはサイゴンに上陸、マレーへ行く中島たちと別れた。
 「四月二十三日(木)……昨日よりJ.B.S.Haldane, The Marxist Philosophy and the Sciences を本部の炊事場より借りて読む。……時々花の甘い香が漂って来る。如何なる樹かを知らず。……」
 私たちはサイゴン、プノンペンを経て、バンコックに着き、ここに二十日間近くいた後、国境の山を越えてビルマへ入った。ラングーンに着いたのは、四月七日の午後十一時。私は都会に着く毎に書店を探そうとした。しかし、そういう行動の自由はなかった。正直のところ、一方では、私の気持はかなり悲壮なものになっていたが、他方では、以前から幾度か実現しかけて途中で消えてしまった洋行の夢をこの危険な旅行の間も見続けていた。サイゴン、ラングーン、シンガポールというような都会の名は、完全にハイカラなものを思わせていた。洋行は勉強のためである。勉強には本を読まねばならぬ。徴用令書を受取ってから、本屋を歩くこともなく、落ち着いて本を読むこともなしに、もう三カ月以上経っている。我儘な話であるが、私の生活としては全く異常な、殆ど耐えられぬ限界へ来ている思いである。
 日記のうちの「本部」とはビルマ派遣軍報道部の事務所のこと。その日、私は水を飲みに炊事場へ行った。一人の兵隊が大きな釜の前に座っている。彼の横には洋書の山があり、頭の上の棚にも洋書が積み上げてある。驚いて「この本は」と問うと、「薪さ」と答える。なるほど彼が釜の下に投げ込んでいるのは書物である。私は、思わず口まで出かかった言葉を吞み込んだ。出かかった言葉は、悲しみと憤りとを表現するものであったろうが、これを表現してみても、何の効果もないことは判っていた。どんな種類の本かと調べているうちに、眼にとまったのが、このホルデーンであった。私は「これをくれ」と言ったが、「薪を持って行かれては困る」と言う。「私はこの薪を借りることにした。
 「五月五日(火)午後、City Book Club etc.へ行く。既にowner帰り来り、「店内の整理に従う。悲惨なり。……」
 シティ・ブック・クラブというのは大きな書店であった。私が行った時、避難していた店主のインド人が帰って来て、滅茶苦茶に破壊された書棚、床に投げ出された書物の中にぼんやり立っているところであった。彼は足下に転がっている書物の一冊を取って、埃を払い、頁をめくり、悲しげな表情で、またこれを床に投げ出す、という動作を繰り返している。私が何か尋ねても、殆ど返事をせぬ。「お前の仲間がこういうことをしたのだ」と彼は言いたかったのである。私は黙って店を出た。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.126-129.

 大戦争が始まって日本軍が東南アジアに進軍し、英軍を押し出してシンガポールを占領し、さらにマレー半島からビルマを侵攻していった緒戦の勝利に、日本軍の占領政策を報道宣伝するのがラングーン(現在のヤンゴン)にいる清水に与えられた仕事だっただろう。つまり彼は占領軍の一員である。ただ、この『読書と人生』のなかでは、書物の話にだけ絞って、軍の仕事のことには触れていない。与えられた仕事をこなしながら、彼はこの異国での生活を、英語やドイツ語の書物を拾いながら読んで、この自分から望んだわけでもない海外生活を留学しているかのように、勉強に閉じこもる。それは、ビルマという国からさらに隣のインドとインド人の活動に、興味を移していく。

 「スコット・マーケットでハーヴェイの『ビルマ史』を手に入れてから、私はノートを取り、ビルマ史の簡単な年表を作り始めた。愚かな私は本当に留学したような気持になっていた。大学の研究室にいた時も、私はこんな素直な態度で勉強したことはない。勉強の効用や意味を考えなかった点では、これこそ純粋な勉強というものかも知れない。確かに効用も意味も考えなかった。仮に考えても判らなかったであろう。ラングーンの人口は約五十万。しかしその半分以上は隣のインドからの移民で、この国の経済の実権の大半はこのインド人が握っている。よく研究したら最後に握っているのは案外イギリス人であろうが、少くとも、直接に握っているのはインド人、品物を買いに行っても、役に立つのはビルマ語でなく、インド語である。私は、ビルマにいるインド人に、さらにインドの本国に興味を持つようになった。メイヨー女史の『母なるインド』を買ったのもそのためである。この本はインドにおける宗教的迷信を激しく非難している。私は、この非難を反駁しているアンドリュスの本(C.F.Andrews, The True India, 1937)も読んだ。メイヨー女史がヒンズー教の中に発見して驚いた野蛮な迷信は、南ヨーロッパや南アメリカのカトリック教の中に幾らでも発見出来る、というのがアンドリュスの意見である。これに似たことはハックスリの著書にも見えている。
 「六月二十九日(月)……Hannah Asch, Birmanische Tage und Nächte, 1932を豊田三郎より借用。Hans Carossa, Die Schksale Doktor Bürgers は一昨日読了。本日返却。『七十歳位になると、ある人間の選んだ道を邪道とは言わぬように気をつける。』(五三頁)」
 七月一日(水) 豊田三郎から借りたhomas Mann, Tonio Krögerを読む。『或る人がどうしても道に迷ってしまうのは、彼にとって一般に正しい道というものがないからである。』この言葉が二度(三八頁及び一一二頁)出て来る。」
 高見順と同室の豊田三郎の許には、ドイツ語の本が集っていた。何れも、彼が何処かの薪の中から拾い集めて来たものであろう。カロッサは、日本にいた時、三笠書房が邦訳を寄贈してくれたが、何故か気が進まず、終に読まなかった。それを、ビルマへ来て、電気が点かぬので、暗い石油ランプの下で読んだのである。マンは絵入りの美しい本であった。岩波文庫の翻訳では以前に二回ばかり読んだことはあるが、カロッサの余勢で一気に読んだ。ビルマにおける私の読書以外の生活、それについて今は書こうとは思わぬ。ただ私がその生活から書物の中へ逃れていたことは確かである。逃げ込んだ場所で自分ひとりの動揺や懐疑や決意に身を曝してはいたものの、そういう自分をそっくり包んで、全体はある方向へ黙々と進んでいた。ハックスリもビルマの歴史も、凡て私がそこへ逃げ込んだ場所であることに変わりはないが、しかしマンとカロッサとは、これまた特別の意味で私が逃げ込み、そこで自分を慰め且つ甘やかした場所である。日記によると、私は両者からそれぞれの一節を抜いて、日本語に訳している。訳されている文章は二つとも、人間の選んだ道、しかもその道が誤っていることに関係している。私はまだ頽廃の季節を、少くとも、その記憶を引きずってビルマへ来ている。
  インドの誘惑 
 日記はこの辺で終わる。他の部分は焼失したからである。この日記が終わってまもなく、半年間降り続いたビルマの雨季が終わって、高い青空が現われる。赤蜻蛉が窓から入って来て、私の読んでいる本にとまる。私は、雨季が終わる頃、ラングーンの寺院を歩き廻る計画を樹てた。しかし私の興味は、ビルマ人の仏教ではなく、インド人のヒンズー教及び回教に注がれていた。インドが抗しがたい魅力を以て私を誘うのである。ビルマの経済に食い込んでいるインドの移民の問題、これに対するビルマ人の不満から生じた暴動(一九三八年七月二六日ラングーンに勃発)の問題、これ等については、かつてビルマ政府が発表した公式の報告書(J.Baxter, Indian Immigration, Interin and Final Report of the Riot Inquiry Committee)を読んでいた。これは他の南方諸国における華僑の問題と非常に似ている。深夜、ドサニ劇場(Dussani Talkies)でインド人の少女の舞踊の甘い暗さに接しては、与し易いと思っていた。ところがインド映画を見るに到って、私は、インドに対する今までの態度を変更する必要を感じた。映画の持つ深い暗さ、しかし、それは恐ろしい厚みと重みとを備えている。昔の話とばかり思っていた宗教的なもの或は形而上学的なものが強く全篇を支配しているのである。何か異様な近寄り難いものであった。改めて私は私の身辺にいる沢山のインド人を見直す。私自身が使用しているコックやスウィーパー、彼らは、私が重苦しくて見ていられないような映画を受け容れるだけの器官を心の何処かに持っている。映画のうちに流れているものと、身辺のインド人の生活の底に澱んでいるものとは、恐らく根本的に同一なのであろう。手の届かぬ思い、気がついたら深い谷が眼前にあったという気持であった。思い出したように私は寺院巡りを始めた。
 怪奇な彫刻に充たされたヒンズー教の寺院を訪れ、その暗闇の中で、言語の通じない行者と向い合った。また回教のモスクへ行き、ミナレットの上に立った。現在、私の手許にあるヒンズー教の辞典(John Dawson, A Classical Dictionary of Hindu Mythology and Religion, Geography, History, and Literature, 1891)は、全くこの見当のつかぬ世界へ入り込もうとした時に買い求めて、せめてもの手引きにしようとしたものである。扉には、「九月二十六日、オリエンタル・ブック・クラブにて求む。」と書いてある。ヒンズー教の寺院へ行く折、私は必ずこの本を携帯した。
 ビルマは東洋の涯ではないか。隣のインドは、吾々が気安く且つ手軽に東洋と考えているものとは別のものではないか。その頃であろう。私はもう一度ラオの書物(P. Kodanda Rao, East versus West, A Denial of Contrast, 1939)を開いて見た。サブ・タイトルが示しているように、ラオは東洋と西洋との対立を否認している。「文明は一つで、これを東西に分つことは出来ぬ。文明の諸要素は常に時間の函数である。かつては空間の函数であったこともあるが、断じて人種の函数ではない。」著者はインド人。有名なラダクリシュナン(S.Radhakrishnan)が序文を書いている。
 十一月の上旬、私たちは各自の荷物を軍司令部の庭へ運んで、副官の検査を受けた。私たちは近く内地へ帰ることになったからである。副官は、書物を収めた私のバスケットの前へ来た。彼は暫く眺めてから、「お前は一体何処でこんなに本をかっぱらったのか」と言う。思わず、私は、炊事場の薪の中から拾ったリヴィングストンや『ローマの遺産』のことを考えた。「みな買ったものであります。」副官は、「本などを買う馬鹿がいるものか」と言い捨てて、次の荷物の方へ去って行った。
 私たちはラングーン港から乗船、ベンガル湾で暴風雨に遭い、十一月十三日の金曜にマラッカ海峡を通ってシンガポールに着き、ここで他の船に乗換えて、十二月上旬、日本へ帰った。途中の危険は、同じ海を南下した時と比べものにならぬくらいに深刻であった。この自分が次の瞬間にどうなっているか判らぬという、捕らえどころのない緊張と焦燥。私は、少しでもこれを免れることが出来ればと考えて、船にある間は読書に没頭しようと決心した。それよりさき、十月一日、私はラングーンの露店で珍しくドイツ語の本を見つけた。ハウプトマンの『情熱の書』(G.Hauptmann, Das Buch der Leidenschaft)である。一ルピー八アンナであった。日本に辿りつくまでに、何とかしてこの大部な書物を読み切ってやろう、と私は自分に誓った。それは努力の要る忙しい仕事であった。読み進んで行くうちに、日本中を探しても見当たらぬような根強い執拗な人間の姿に忽ち圧倒されてしまった。軽率な私は、これが西洋というものではないか、と考え始めていた。薄靄に包まれた九州の山々が見える頃、私は漸くハウプトマンを読み終った。上陸するとき、海中に投じた。」清水幾太郎『私の読書と人生』講談社学術文庫、1977年、pp.134-139. 

 1942(昭和17)年の2月から12月までの約10カ月、清水幾太郎は日本軍占領下の東南アジアに徴用され、ビルマ・ラングーンで陸軍の仕事をした。それは彼が望んだ西欧ではなく、なんの知識もないビルマだったが、この「洋行」が後の彼の仕事にどういう影響をもったか、この『私の読書と人生』では語られない。ビルマは東洋の涯であって、その向こうには西洋ではなくインドという世界がある。2年後、日本軍はビルマからそのインドに攻め込んでイギリスからの解放、東洋の解放を名目に悪名高い「インパール作戦」を開始する。もちろんその頃は清水は日本で空襲から書物をどう守るかじたばたしていたから、インパール作戦とは無縁だったが。


B.村山談話のころ
 日本社会党という政党の党首が内閣総理大臣となったのは、片山哲内閣(1947年5月~1948年3月)と村山富市内閣の二度ある。戦後の混乱期の片山内閣も社会・民主・国民共同の連立だったが、1994年6月から翌1995年8月まで続いた村山内閣は、自民・社会・さきがけの三党連立内閣だった。ちょうどこの時、1945年8月の戦争終結から50年という節目に当ったので、諸外国へのメッセージを出すということで「村山談話」ができた。日本政府から先の大戦への真摯な反省として発信された「村山談話」は、今も生きていることになっているが、事態はどうやら変わってしまったかもしれない。

 「中国と対話継続大事 「不幸な歴史に向き合い、未来に過ちなきよう」 村山談話作成の谷野作太郎氏
 台湾や尖閣諸島での有事を念頭にした日米防衛協力の強化が進む一方で、日中間の対話はなかなか進まない。かつて「村山談話」を作成し、中国大使も務めた谷野作太郎氏(86)は現状をどう見ているのだろうか。村山談話を振り返るとともに、日中関係についても聞いた。(大杉はるか)

 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」。戦後五十年の節目となる一九九五年八月十五日、自社さ連立政権の村山富市内閣は、談話を閣議決定した。日本の戦争責任を内外に示すとともに、その後の政権にも引き継がれた。
 これを手がけたのが、当時、内閣外政審議室長だった谷野氏だ。「侵略戦争というのは間違っている」「アジアを解放するための戦争だった」といった歴史を直視しない閣僚らの発言が相次いでいたこともあり、「こんなものばかりが日本からの発信ではいけない」との思いがあった。
 閣議決定によって「相当重みのあるものになったが、保守色の強い閣僚もいたため、大変なことになったとも思った」と振り返る。力点を置いたのは「国策を誤り」の言葉。「自然と出てきた」と明かす。一方で後段にある「うたがうべくもないこのれきしのじじつをうけおめ、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明する」の「お詫び」は原案には入れなかった。「お詫びは何回もやっていた。『謝ったからいいじゃないか』と安易になる。それよりも歴史に向き合う方がよほど大切で勇気がいる」
 二〇一五年には戦後七十年の安倍談話も閣議決定された。「歴代内閣の立場は、今後も揺るぎない」としたが、村山談話の三倍近い長さ。谷野氏は「談話というより大演説。国内のいろいろな向きに配慮した結果なのだろう」と指摘し「要はあの時代の不幸な歴史に向き合い、未来に過ちなきよう教訓をくみ取っていくということに尽きる」。
 村山談話では、世界の平和のために、近隣諸国との理解と信頼に基づいた関係を培うことが「不可欠」としたが、谷野氏は「全然そこに至っていない」と見る。日本での近現代史教育を充実することや、独仏両国の活発な交流や協力を内容とするエリゼ条約(一九六三年)の「東アジア版」締結を提唱する。
 昨今叫ばれている台湾危機につては「安直な予想屋とは距離を置きたい」としつつ「起こしてはいけない」とひと言。
 岸田文雄首相は十三日、米国での講演で中国との関係について「対話を重ね、建設的かつ安定的な関係の構築を双方の努力で進めたい」と語ったが、谷野氏は「米中対話の狭間で多くの東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が当惑している」とし、中国だけでなく、米国にもアジアの代表として発言する重要性を強調。「国際供給網から中国を排除すれば失うものの方が大きい。岸田首相はしっかり主張できているか」と疑問を投げ掛ける。
 谷野氏が最後に語ったのは、やはり「対話を続ける外交が大事」だということだ。「不況になり国内が不安げになると、中国は対外的に強く出る」と懸念を示した上で、こう話した。「コロナの影響は大きいが、経済を含め、対話の窓を閉ざさないこと。日本の心配を、気後れせずに中国に伝えていくことだ。」東京新聞2023年1月22日朝刊20面特報欄。

 戦後50年の1995年の日本には、まだ戦争を体験し、世界との真剣な向き合い方を考える政治家や外交官やジャーナリストが活躍していた。「村山談話」はその象徴だったかもしれない。それから四半世紀後のいま、権力の座にある政治家・外交官・ジャーナリストたちの多くは、戦争とその反省から遠いところで、別のことを考えているようだ。どうしてこんな場所に来てしまったんだろう。
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