小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響スペシャル(2/20)

2021-02-24 10:15:03 | クラシック音楽

大野さんと都響の2/20のサントリーホールの公演を聴く。一曲目は武満徹『夢の時』。武満さんがアボリジニの音楽に衝撃を受けて書いた作品で、タイトルの通り「眠りと夢」の神秘を表している。グリッドのない無限大の音楽だった。アボリジニの人々は「森羅万象も夢を見る」という。彼らの主客の在り方、時間感覚は西洋的ではなく、東洋的というのでもなく、対象と不思議な一体化をはかる。ところどころメシアンを思わせ、オーケストラのサウンド全体が睡眠時の呼吸のよう。占星術師の松村潔さんは、瞑想や睡眠を通じて日常的に「恒星ツアー」をされているという。大野さんも「夢」や「睡眠」が異世界へつながる扉だという感覚を持たれているのではないだろうか。

藤村実穂子さんの独唱つきのブラームス『アルト・ラプソディ』は、暗雲たちこめる沈痛なサウンドと、カリスマ的なソロが溶け合った名演だった。学生時代にクリスタ・ルートヴィヒの録音にハマって何度も聴いていたことがある。ブラームスは失恋の怨恨を灰色の歌曲にし、傷口に塩を塗るような絶望的で美しい旋律を書いたが、歌詞はゲーテの引用で主人公は厭世的な青年のはずなのだ。女性が「我欲ばかりを追いつつ満足を知らぬまま/知らぬ間に自分の価値を使い果たしてしまった男」(三ケ尻正さん訳)と歌い、三部では男声コーラスが女声ソロを包み込む。本来の女性と男性の役割を、ブラームスは逆転して書いたように思う。

P席に並んだ新国立劇場合唱団の男声コーラスの声は優しく、温かみがあり、芯から癒された。主人公は呪詛と悔恨の歌を歌い、最後に神に救済されるが、男声コーラスは天使のような女神のような媒介者たちで、ブラームスもここで自分の怨恨に決着をつけようとした。愛が「成就しないこと」に至福を求めてしまう心も、宿命が授けたものだ。藤村さんは歌声も姿も完璧に音楽の世界と一体化し、短いオペラを鑑賞しているような充足感があった。

後半はマーラー『交響曲第4番』。オーケストラのコンサートでは久々の大編成で、4楽章の独唱は中村恵理さんが登場する。在京オケの演奏会で藤村さんと中村さんを一度に聴けるのは信じがたいほどの贅沢で、大野さんには心から感謝。

後半に差し掛かって、前半でも微かに感じていた違和感がはっきりしてきた。オーケストラは明快で優美で、ウィーン・フィルのような精緻な響きだが…マーラーではウィーン・フィルのように高めのピッチでチューニングしているようにも思えた…以前の大野さんなら、こうした硬質のマーラーは作らなかったのではないか。

マエストロとオーケストラが、戦々恐々と戦っている感じがした。2013年にリヨン歌劇場で大野さんを取材したとき、宗教的な山々と商業的な山々に囲まれた世界遺産の街で、魔法のような音楽を創造していた。オーケストラの楽員は皆大野さんを「日本からやってきたフレンドリーな神様」のように尊敬し、レストランでインタビューをしているとリヨンの音楽関係者たちが嬉しそうにマエストロに声をかけてきた。バルセロナで第九を聴かれたという作家の原田マハさんにお話を聞いたとき、バルセロナでも大野さんは同じように街の人気者だったという。

指揮者がオーケストラに魔法をかける…。都響は厳密な美意識と精緻な美意識をもつオーケストラで、サイモン・ラトルが手こずったベルリン・フィルのような天才集団だ。大野さんが海外のオケとそうしたように、都響にも指揮者のもつ情念や魔力や夢を共有しようとした時期があったと記憶している。

都響は明らかに、そこに戸惑っていた…と思う。ある時期から、オケ側が一歩もひかない、という体制になったように客席から聴いていて感じられた。誰かに確かめたわけでも楽屋裏を見たわけでもない。マエストロの魔術にはかからない…それならばと、大野さんはもうひとつの武器である「冷静さ」を打ち出してきた。大野さんの音楽はクレイジーさと冷静さの奇跡的なミックスで、都響では片側だけが誇張される。少し前に聴いたブリテンのヴァイオリン協奏曲などは、専門的な論文を聴いているようだった。

そうした拮抗関係が、思いもよらない新しい美をもたらすこともある。極限まで冷静に精緻さを求める指揮者に対して、オーケストラは「それならば!」と最高に理知的な音を出す。美しくカットされたクリスタルの輝きをマエストロに返す。マラ4からは、印刷された美しい「楽譜」が見えた。色や香りではなくフルスコアが見えるとは不思議だった。

このマーラーには、大野さんが表したいカオスや童心や「病んだ心」があったのではないか。
4番は、子供の死と深い関係がある。幼い存在が世俗を知らぬまま、病や貧しさによって昇天し、その最中に「天国でこそ幸せになれる」と思う。アンデルセンの「マッチ売りの少女」はくたらない話だと思うだろうか? 改めて読むと、なんていう物語だろうと思う。

2楽章には、子供が春の小川を覗き見て、ぴちぴち跳ねる冷たい水にびっくりしたり、おたまじゃくしに喜んだり、タンポポやシロツメクサに混じって、見た目も妖しい形の毒入りの葉っぱに怯えたりするさまが描かれている。自然や動物や、何とでも意識を一体化させる子供の危うさが音響化されているのだ。確かに、都響からもそうした音は聞えた。サウンド全体がやはり、高ピッチでチューニングされ、明度の高い響きに整えられているような感じがする。

3楽章の美しさは格別で「あれこれ考えていた自分の心配事は、すべて妄想なのかもしれない」と思えた。こんな天上的な音が「理知的な闘い」だとは思えない。私のいつもの悪い妄想壁だ。

4楽章では、中村恵理さんが儚い子供の魂を、これ以上ないほどの純粋さで表した。「天国はヴァイオリンでいっぱい」…聖人の名前が次々と飛び出し、地上の塵芥から逃れて昇天したこどものまわりには、こんなに素晴らしいことが起こっていると歌い喜ぶ。マーラー家に生まれた14人の子供のうち、生き残ったのは半分で、盲目で病弱の弟エルンストは12歳で亡くなった。マーラーは弟を看病し、最期を看取った。「なき子をしのぶ歌」を書いた後に、長女を4歳で亡くしている。

高校生になった甥が、3歳くらいのとき夜空を指さして「お月さまも、がんばっている」と言って祖父や祖母を笑わせた。人が月を見ているように、月も人を見ている。子供のふしぎな心。小学校や中学校の音楽教室で、大野さんがとびきり楽しそうに子供たちと心を通い合わせている姿を思い出した。アボリジニと角笛と死にゆく子供たちは、きっとひとつの円環でつながっている。

終演後は、見事な二楽章のソロを聴かせたコンサートマスターの矢部さんにひと際大きな拍手が湧いた。本当に素晴らしいソロだった。一番大きな喝采がマエストロではないことに一抹の寂しさも感じた。「本当は?」と問い詰めても、仕方ないのだろう。美しいコンサートであることには間違いなかった。

 

 

 



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