小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

好色な神々 新国立劇場『フィガロの結婚』(2/7)

2021-02-08 21:12:01 | オペラ
新国『フィガロの結婚』初日を鑑賞。2020年12月28日の入国制限変更により、伯爵夫人のセレーナ・ガンベローニ、フィガロのフィリッポ・モラーチェ、指揮のエヴェリーノ・ピドの来日が叶わず、大隅智佳子さんの伯爵夫人、沼尻竜典さんの指揮、先日まで『トスカ』の悪役スカルピアを演じていたダリオ・ソラーリがフィガロの代役となった。アルマヴィーヴァ伯爵はヴィ―ト・プリアンテ、スザンナは臼木あいさん、ケルビーノは脇園彩さん。オーケストラは東京交響楽団。

序曲から沼尻マエストロと東響への拍手が自然に巻き起こり、上機嫌なムードでオペラはスタート。トスカ上演中からフィガロ役の稽古をしていた様子がTwitterにアップされていたソラーリの活躍が楽しみだった。スカルピアは音程の正しさに気を取られている印象で、プロフィールからヴェリズモよりモーツァルト~ベルカントのレパートリーの方が得意だろうと想像していた。フィガロの名演で面目躍如…を期待していたが、冒頭からやや表情が硬い。過酷なスケジュールでの準備だったので、初日は緊張していたのかも知れない。

『フィガロ…』の面白さは、身分も年齢も性格も異なる魅力的な女性たちがゾロゾロ登場することで、身分の上では伯爵夫人が一番上、女中頭のマルチェッリーナ、小間使いのスザンナ、庭師の娘でスザンナの従妹のバルバリーナの順となるが、女性として最も魅力的とされるのはスザンナで、以下はさまざまに解釈できる。男性も、伯爵とフィガロでは明らかな主従関係があるが、スザンナをめぐる欲望の争いではフィガロが伯爵に勝利している。言うまでもないが、現実社会と愛の次元では、下剋上が起こっている。

フィガロ以外の男たちからも愛されるスザンナの臼木あいさんのパーフェクトで瑞々しい魅力にも増して、嫌味攻撃をしかけるマルチェッリーナの竹本節子さんがたまらなくキュートだった。つけぼくろは毎回こんなに大きかったっけ…と、ヴァージョンアップしているマルチェッリーナの面白さと貫禄が頼もしかった。メゾの発声は上品で、スザンナとの重唱でも、テンポはそのままで「若い娘のような機敏さがない」感じをうまく出している。軌道も質量も違う天体同士がデュエットしている印象。歌手の身体に完璧に役が入っていることの凄味を見せられた。

フィガロのソラーリがなかなか温まらない中、伯爵役のヴィート・プリアンテが太陽のオーラをまとって登場。美声とともに勢いよく明るいオーラを発散し、颯爽とオペラの舵取りを始めた。プリアンテはフィガロ役も得意なので、全体を察して二人分頑張ったのかも知れない。役柄によって演劇の内容も違って見える…オケや相手役を味方につけて、伯爵の物語が展開されていくような感触だった。

大隅さんの伯爵夫人は安定感があり、登場のカヴァティーナではボーイソプラノのような(!)透明で際立った美声を聴かせた。伯爵夫人は横に大きく広がったパニエの純白のドレスを着ているので、動くのが大変そうだ。臼木さんと声楽的に相性がよいという印象。後半のスザンナと伯爵夫人の重唱も綺麗だった。
期待のケルビーノ脇園彩さんは観客の熱視線を浴び、少年役のコスチュームも映えた。6番「自分で自分がわからない」と有名な12番「恋とはどんなものかしら」をゆったりとしたテンポで豊かに聴かせたが、沼尻さんの指揮もケルビーノの箇所では特別テンポを落としていた印象。これはあくまで想像だが、ソリスト側の要請だとしたら、大変よい効果があった。全体の劇の進行を指揮者に一任するのもよい態度だと思うが…いずれにせよ稽古もリハーサルを見ていないので真実のほどは分からない。

新国で『トスカ』と『フィガロの結婚』が上演される間に、地上(?)では森喜朗オリパラ組織委員会会長の問題発言があった。劇場と社会はつねにつながってるので…このことと二つのオペラを紐づけずに鑑賞することは、個人的に難しかった。オリンピックが関係した公の場で、「女性が多いと会議がまとまらない」「わきまえない」などの言葉が発され、日本だけでなく世界が激しく反応した。社会が変動する中で、全くタイミングが悪く、あそこまで徹底的に問い詰められると一種のスケープゴートだと同情したくなるが…性差をめぐるデリカシーは今や大きく変動している。考えてみるともオペラはセクハラ、モラハラ、パワハラの宝箱で、プッチーニもモーツァルトも、現代から見ると酷く由々しい劇を書いている。

ケルビーノは伯爵夫人の胸を触り、伯爵はスザンナを追いかけまわし、バルバリーナを犯す。バルバリーナの「なくしてしまった」の歌が、処女喪失(?)の歌であるという解釈は芸劇の野田版フィガロで初めて知ったが、この演出でも…ケルビーノといちゃついていたバルバリーナは伯爵の怒りを買い、伯爵は恐らくそれまでは手加減をしてお触り程度だった娘に対して、お灸を据えるような最後の行為をし、ズボンの裾を改めて背中を向けるのだ。スザンナは賢いが、バルバリーナは無礼で「わきまえない」からそのような目に遭ってしまうのか…。

『トスカ』も『フィガロの結婚』も性的デリカシーの観点から見るとかなり野蛮なオペラであり、森会長の発言どころではないはず。それでも不朽の名作であるのは、モーツァルトが人間の姿をした神々を描いたからだという気もする。好色な伯爵はジュピター神で、スザンナというヴィーナスの新婚の部屋に金の雨となって浸透しようとする。伯爵夫人は嫉妬に苦しむジュノー。ケルビーノはナルシス神というより、あらゆる階層の女性の懐に水銀の玉のように転がって忍び込もうとするマーキュリー神のようだ。

モーツァルトは好色な神々と人の浮世をつなげて『フィガロの結婚』を書き、てんやわんやの男女の完璧な声楽アンサンブルは、ヘキサグラム=六芒星のような模様を描き出す。新国の初日では、主役のフィガロのノリが今一つで六芒星のアンサンブルは作られず、そのせいか…特に前半が退屈な劇に見えてしまった。2003年のアンドレアス・ホモキの演出は、2000年代初頭に多く見られた白い背景のモーツァルトオペラで、傾斜した床や歪んだ閉所の装置は、当時はモダンでスタイリッシュな感じだったと思うが、18年経つと昔日のトレンドに見えてしまう。白と黒と段ボール箱しか見るものがない、というのは、アンサンブルが完璧でない場合かなり苦痛だ。
『フィガロ』は天界と地上を往来するようなカラフルな新演出がそろそろ出てきてほしい…と思った。伯爵のプリアンテは最後まで魅力的で、初夜権を受け入れたスザンナの奸計に気づいたときの怒りの演技は、見ていて身が引き締まる思いだった。伯爵はオペラの中で3回、雷神のように激昂するが、スザンナへの怒りが一番大きい、というプリアンテの解釈は素晴らしい。
このアルマヴィーヴァを見るためにもう一度劇場へ行きたいと思わせた。あと3回の上演。


「ユピテルとユノー」