小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

二つの光 読響×ヴァイグレ(12/9)

2020-12-10 04:46:36 | クラシック音楽
読響と常任指揮者セバスティアン・ヴァイグレの1年3か月ぶりの共演。指揮者の2週間待機を経ての再会リハーサルは充実したものだったのだろう。前半のモーツァルト『ピアノ協奏曲第25番』から天上的なサウンドがサントリーホールを埋め尽くした。
モーツァルトの25番というのは、実はあまり数を聴いてこなかった。オペラの断片がたくさん詰まった楽しいコンチェルトで、『フィガロの結婚』の登場人物のアリアや重唱のフレーズが雨あられと降ってくる。岡田奏さんのピアノのタッチが、雲の上で鳴っているような「神の世界の音」だった。作曲家の溢れ出るままの霊感が、素晴らしいユーモアと優雅さで絵巻物のように綴られていて、ソロとオーケストラの掛け合いが宝石のきらめきのように優美だ。ウィーンつながりか、先日鑑賞したばかりの『こうもり』を思い出す。アデーレの嘘泣きと、バルバリーナのかしましさはどこか似ていて、オーケストラは歌手が歌っていないときも、彼女たちの面白さを表現する。一楽章はブッファのようなオペレッタのような世界だった。

岡田さんの白いドレスが夢のようなふわふわのデザインだったので、音楽からも薄絹とか繭とか、産着を連想する瞬間があった。2楽章では無垢で無邪気なピアノをオーケストラが着心地のいいガーゼかコットンのように包み込み、何とも言えない幸福な色合いの響きが生まれた。フルートとオーボエとピアノが重なり合うフレーズからは神の子の誕生を祝福するようなイメージを得た。ふと「魂はどこからやってくるのだろう」と考える。この厳しい時代に地上に舞い降りてくる魂は、不安ではないのだろうか。3楽章は、よちよち歩きの子供がありとあらゆるものから守護されて、健やかに育っていく音楽に感じられた。神が「地上は楽しい場所だから、遊んでおいで」と送り出してきた魂は、このように朗らかに歌い踊るのではないか…そう思えるピアノ・ソロだった。地球は地獄のような場所ではない…人の意識がスピーディに洗練され、社会全体の美意識が高まっていく「新しい世界」をオーケストラが表しているように感じられた。

休憩時間には、後半のブルックナーに備えての定番のトイレ行列(!)がいつものように見られたが、そんな中で今日も、あまり共有されることのない孤独な感想を抱くことになる自分自身のことを鬱々と考えていた。前半のモーツァルトが素敵すぎたせいか。そもそもクラシックを聴くのは「この世界に生まれたくなかった自分」と折り合いをつけるためだったことを、思い出さずにはいられなかったのだ。有り余るほどの愛情を得て育ったが、子供の頃からこの世界が嫌で嫌でしようがなかった。自分は野蛮さが足りていない。そのせいで、外の色々なものに傷つけられる。前の晩に、40歳で夭折した雨宮まみさんの『東京を生きる』を読んでいたせいで、自分と同じように感情が揺れやすく、脆くて正しい自己評価が持てない彼女のことを思い出していた。自分や彼女のような人には、心細やかな優しい空気や、社会が必要なのだ。

ヴァイグレが読響から引き出す音には、繊細さと温かさがあり、低弦は主張し過ぎず、管楽器にもしなやかさがある。どこか懐かしい感じがするのは、アナログレコードで聴いた70年代の名録音と響きが似ているからだ。読響も普段から、そういうデリカシーを表現している。本質的に相性がいいのだと思う。読響は先週、井上道義さんと鬼気迫るブルックナーの7番を演奏したばかりだが、マエストロの「個」に凝縮していった7番とは違う、ヨーロッパ文化を俯瞰するような「ウィーンの音」がこの夜の6番からは聴こえた。複数の文化の結節点として機能しているウィーンという都市の「香り」が漂ってくるようだった。

ブルックナー愛好家は男性が多いという。トイレジョークが生まれるほどだが、男性は論理的に突き詰めることを愛するので、きっと自分とは別の聴き方をしていると思う。ブルックナーを聴くたびに思うのは、彼がもてない男で、頓珍漢なプロポーズをしては女性から振られ、もしかしたら童貞のまま亡くなっていたかも知れないという伝記である。美しい音楽を書いたリストは美しい女性たちから愛されたが、同じように美しい音楽を書いたブルックナーはそうではなかった。多くの作曲家はミューズを必要とするが、ブルックナーは生身の女性からではなく、自然や信仰の美から霊感を得ていたのだ。
 同じフレーズの執拗な繰り返しは、判で押したラブレターを何通も書いてくるもてない男の性格を表しているが、音楽のどの瞬間を切り取っても奇跡的な「美」が息づいている。この特殊な時間の持続は何なのだろう。うまい比喩が見つからない。朝の透明な空気のように、健やかで清々しいものをオーケストラは運んでくる。

 これほどすべてが自然に流れていく音楽があるだろうか…とブルックナーの天才に感謝したくなった。五感の快楽は泡のように消える。譜面とは石に刻まれた碑のようなもので、この先1000年はもつだろう。ブルックナーの肉体が1000年生きたとして、そこに何の意味があるだろうか。限られた時間に「天国にある美」を掴んだからブルックナーは偉大だったのだ。チャイコフスキーの最も崇高な部分は、ブルックナーに通じている。チャイコフスキーは快楽主義者だったので、53歳までしか生きられなかったのかも知れない。ブルックナーは妖精と精霊に守られて純潔を貫き70代まで生きた。
 読響とヴァイグレのブル6を聴いて森の中で霧を浴びているような神聖な心地になり、ブルックナーが信じていた神の国が地上に近づいているような予感がした。オーケストラは社会を先取りしている。この世界はこれからどんどん審美的になり、暴力が生き続けられなくなり、闇の力に民の心が勝つ。生まれたくなかったけれど、ここまで生きてきてよかった。自分の魂が期待していた地球が、もうすぐ顕れるかも知れない。バーンスタインが言うようにマーラーは20世紀の預言者だったが、ブルックナーは21世紀の預言者だと思う。

 岡田奏さんのモーツァルトを聴いて「生まれることは怖くない」と思い、ブルックナー6番で「死ぬことは怖くない」と思った。二つの光が反対方向から差し込んでいるのを感じ、このような世界をオーケストラと作り上げるヴァイグレは、心から信頼できる人物だと確信した。彼のドイツの歌劇場での日常、今まで出会った人々、数々の素晴らしい経験を想像した。ソロ・カーテンコールに登場したヴァイグレは、深いお辞儀をしてスタンディングで喝采する客席に応えた。私にとって大切な指揮者は、大きな愛を持っている指揮者だ。ヤンソンスが特別だったのは、特別に巨大な愛を持っていたからで、こうした感想を「散文的」とだけ断じられるのは嫌だ。命についての貴重な認識と、大きな癒しを得た夜だった。





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