小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ルツェルン祝祭管弦楽団

2017-10-07 12:36:25 | クラシック音楽
ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ管、マーラー・チェンバー・オーケストラ等、欧州の超一流オケの精鋭メンバーによって構成されるルツェルン祝祭管弦楽団が、11年ぶりの来日ツアーを行っている。現在の体制での組織を創設したクラウディオ・アバドが2014年に亡くなり、新音楽監督に就任したのはリッカルド・シャイー。初日(10/6)のプログラムはベートーヴェンとストラヴィンスキーで、シャイーの志向性とオケの実力を示すエキサイティングな内容だった。

初日を前に、シャイーとルツェルン・フェスティバル総芸術監督ミヒャエル・ヘフリガー氏が登壇する記者会見が東京ミッドタウン敷地内の「アーク・ノヴァ」で行われ、シャイーはうっとりとするような美声で(しかし全く気障ではない)、今回のプログラムをどのように準備したかを語った。特にベートーヴェンの交響曲第8番は、作曲家指定の非常に速いテンポをそのまま採用し「オーケストラにとっては大いなる挑戦だが、そうすることによってベートーヴェンの鼓動を感じることができる」と説明した。
ヘフリガー総裁の言葉もひとつひとつが意義深かった。シャイーに対して「個人的に(と強調し)大ファンで、20年間ずっと尊敬してきた」と賛辞を向け、さらに「シャイー氏の感情に正直な面が素晴らしい」と繰り返し語った。
この「感情に正直」という言葉にははっとした。最近、音楽を聴いたり語ったりするときに、きわめて重要なキーワードになりつつあるのを感じていたからだ。

予告通り、シャイーのベートーヴェン8番は剛速球で、サントリーホールの一階前方で聴いていたため弦楽器の迫力が凄く、音の飛沫が飛んでくるようだった。弦を擦過する弓の運動がパーカッシヴで、すべてが打楽器のようでもあった。全員が真剣な表情で、戦闘的ともいえる気迫をみせ、このシンフォニーの痙攣的でエキセントリックな性格を浮き彫りにした。女性奏者たちはスカートやドレスではなくほぼ全員がパンツスタイルで、なるほど、大きく足を広げて演奏している方もいる。
シャイーのスーツの背中の縫い目が見えるほどの距離から聴いていたのだが、マエストロの動きも痙攣的で、いわゆる「タテノリ」で、ベートーヴェンの興奮体質が乗り移ったかのごとしだった。オーソドックスなところなど全くない。「これがこの音楽の本質なのだ…」という姿勢には妥協がなく、オーケストラは凄い分数(!)でそれについてくる。
大変な速さだが、管も弦もひとつたりとも音をこぼさないので、むしろ譜面に書かれた音符は明晰に伝わってきて、作曲家の筆圧の強さと狂気に近い創造力にただただ茫然とした。
「エグモント」が終わったのが19時15分頃で、「ベト8」は19時40分頃には終わっていたから、ほぼ23.4分の演奏時間。その時間の密度はなんというか…異次元的でもあった。サントリーホールのステージが宇宙ステーションで、ベートーヴェンの特殊波動に乗って別天地にテレポートしたような感覚だったのだ。

ベートーヴェンはすごいロックだ…ひょっとしたらパンクなのか。それもドラムマシーンやシーケンサーなしに、強力な「電撃」ビートが飛び出していた。打楽器が鳴っていない箇所でも、ずっとリズムがあり、生き物のように音楽の中をうねっていた。それはまさにシャイーがいう「ベートーヴェンの鼓動」であり、理性を突き破って横溢する肉体の衝動そのものだ。
後半のストラヴィンスキーの「春の祭典」ではそのアプローチが過激化され、エリート奏者たちの尋常でない表現が披露された。
1913年5月にバレエ・リュスの「春の祭典」(ニジンスキー版)がパリのシャンゼリゼ劇場で上演されたときのパニックを想像した。観客は激怒し、ひきつけを起こし、ストラヴィンスキーが書いたのはいかがわしい騒音だと訴え、「春の祭典」ではなく「春の虐殺」だと評された。人間が初めてこの音楽を聴いたときの驚きと恐怖が、2017年のルツェルン祝祭管の音楽からダイレクトに理解できたのだ。危険で病的な和声を奏でるプレイヤーたちは、鋭い耳の持ち主で、お互いの音をよく聞きながら「調和しない」。音程は射撃のように正確だが、その表現は痴れ者か野獣の喚きのようであり、人間の言葉では理解不可能なものなのだ。音と音とかヒリヒリぶつかり合い、血しぶきをあげ、御しきれない強力なものが次々と遠くからスピーディに押し寄せてくる。

シャイーは感情に正直…というヘフリガー総裁の言葉がまたしても念頭に浮かんだ。「私がこう感じたことを、表わしてみたい」という、言葉にしてみれば呆気ないほどのことを、シャイーは寸分の妥協もなく現実のものにしていた。
指揮者の「私」という揺るぎないアイデンティティが、理性を撹乱するような「春の祭典」を貫いていたのだ。カラヤンのアシスタントを努め、多くのマエストロの生き方を傍で見てきたシャイーが、60代を迎えて(あえて円熟期とは言わない)芸術家として充実をはかっていくとき、なろうとしたものは紛れもない「自分自身」で、そこにはイタリアオペラの巨匠という分かりやすいイメージも、ドイツの謹厳な指揮者というイメージもなかったのだ。
「大御所と呼ばれることに何の価値があるのか…私はいつでも新しい私だ」という、冒険的でハイリスクな道を選んだのだ。
その「私」は宇宙と等しく、何ともつながることができる無限の可能性で、形なきものや、命あるものだけでなく命なきものとさえ繋がれる。ストラヴィンスキーは夢の中に出てきた人形に命を吹き込んだ。人形「と」私、妖精「と」私、野蛮人「と」私…俳優のように、自分の心を占めるものと一体化できるのは、2月20日いう黄道12宮の最後の星座のもとに生まれた芸術家ならではの才能だ。

才気に溢れたエキセントリックな衝動が、野蛮でこの上なく芸術的なサウンドとして「今」という時間に溢れかえった。この音楽をどう要約したらいいか分からないほど驚いたが、なぜか腹筋がふるふる震え「ふっ…ふっふっふっ」という笑いがこみ上げてきた。チェコ・フィルのドヴォルザークには泣いたし、パリ管のマラ5には正体不明の怒りを感じたが、ルツェルン祝祭管のストラヴィンスキーからは哄笑が溢れ出した。理性を使って理性あらざるものを表現してしまえる人間の凄さ、未来的で爆発的な楽観性に痺れて、嬉しいような楽しいようなサイケデリックな気分に見舞われた。
アンコールにはストラヴィンスキー「火の鳥」から「カスチェイーの凶悪な踊り」か演奏され、獰猛で凶暴なモダニズムの切っ先が肌に突き刺さってきた。オケがはけるとき、ずっとシャイーの後ろ姿の陰になっていたクレメンス・ハーゲンさんの穏やかな姿を見つけ「あっ…」と声が出そうになった。こんな優しそうな紳士があんな音楽を奏でていたのだ…。
ルツェルン祝祭管弦楽団は10/7.8.9にも日本でコンサートを行う。

(写真は10/4に「アーク・ノヴァ」で行われた記者会見で撮影したものです)









チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(10/4)

2017-10-06 13:57:17 | クラシック音楽
3日のチェコ・フィルのコンサートを聴いて、予定していなかった4日のプログラムも聴きたくなりサントリーホールへ出かけた。今、日本にいるこのオーケストラをもっと聴きたい、と思うのはとても感情的な理由からだった。彼らの奏でる音楽が大好きで、その音楽がいる場所に少しでも長く一緒にいたかった。
昼に記者会見を取材したルツェルン祝祭管の総裁の言葉が心の中で繰り返されていた。「音楽とは不思議なものです。その瞬間私たちを魅了し、終わってしまえば跡形も残らないのです」
そんな儚いものを追いかけ続けたいという気持ちがある。今回のチェコ・フィルは、こちらの果てしない問いかけにいくらでも答えてくれるような懐の深さがあった。

スメタナの『売られた花嫁』序曲を聴いて、10/1のみなとみらいでの『わが祖国』全曲を聴けなかったことが悔やまれた。その日はペトレンコのワルキューレに行っていたのだから仕方ない。『わが祖国』は亡くなったビエロフラーヴェクが休憩なしで演奏する予定だったのを、アルトリヒテルは休憩ありで演奏したという。2017年の来日プログラムはマエストロ・ビエロフラーヴェクが選曲したもので、アルトリヒテルは全く変えずにそれを引き継いだ。
そのことが影響してか、アリス=紗良・オットがソロを弾いたベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第5番<皇帝>』では、珍しいことが起こった。
アリスはブルーのノースリーブのオールインワンのパンツで登場し、いつものように裸足で、少し日焼けした肌がチャーミングだった。彼女はベートーヴェンのこの曲がとても得意なのではないかと思う。「子供の頃、言葉が足りなくて大人たちに自分の感情を伝えられなかったのが悔しくて、すべてをピアノで表現した」と以前インタビューで語ってくれたが、「皇帝」の譜面に書かれた饒舌な「言葉」を余すところなく楽器に語らせた。相変わらず細身だが、少し前より腕の筋肉が逞しくなって、強音のタッチも堂々たるものだった。もちろん弱音のデリカシーも素晴らしい。
長丁場の一楽章の途中で、オーケストラの勢いが緩んで止まりそうになったところがあった。この曲だけ指揮者の準備が足りなかったのか、キュー出しのタイミングに問題があったのか、管楽器のどのパートかが抜けているような気配があり、オーケストラの響きに不安が現れた。

そこで、聡明なアリスは起こっている状況のすべてを理解し、オーケストラの戸惑いがとてもポジティヴなところからやってくるものだと瞬時に受け止めていたようだった。マエストロを失ったオーケストラと、尊敬と友情ゆえにプログラムを変更しなかった指揮者のために、ピアニストからオーケストラに向けて、無際限のパワーが送られた。ピアニストがオーケストラを凄い勢いでリードしはじめたのだ。すべてのフレーズを活気づかせ、抑揚を最大限にし、たくさんの酸素を吹き込んだ。
すると、オーケストラのサウンドに立体感が戻り、生き生きとした時間が流れ出した。そこからのアリスは素晴らしかった。
「愛情を与えたものに対して、より愛が強くなる」という法則を見たような気がした。瞑想的な緩徐楽章は母性的なおおらかさで、ピアニストが今このときオーケストラに与えると決めた愛情の大きさにため息が出た。
三楽章が始まる前、アリスはもう嬉しくて仕方ないという表情で、オケのフレーズを口ずさんで(歌声は聞こえなかったが)素晴らしいベートーヴェンの友愛の精神を自分の楽器で表した。何度も何度も繰り返されるオーケストラとのダイアローグは、終わりなき会話のようだった。
終わった瞬間、アルトリヒテルとアリスは抱き合い、アリスのほうが指揮者を放したくないという仕草を見せたのがよかった。ケラスもそんなふうだったのだ。コンチェルトのドラマというものを立て続けに見た。

ドヴォルザークの「交響曲第8番」は、二人の指揮者の存在を感じた。ポケットスコアをお守りのように指揮台に置いたアルトリヒテルは、一度も開くことなく祖国の作曲家の名曲を振った。恐らく、このオーケストラの中に残っているビエロフラーヴェクの様々な指示を生かして、ドヴォルザークの「エゴによって分かつことのできない」偉大さを表わそうとしていたのではないか。昨日と同じ、面白い動きやひざをがくがくさせる変わった仕草が繰り返されたが、音楽は流麗で壮大で、チェコ・フィルのホルンとトランペットが少しも音を外さないことに驚いた。英雄的で高貴な金管だが、それは居丈高ではなくあくまで心優しき騎士道といった雰囲気なのだ。
この曲は本当に惜しげもなく旋律的で、牧歌的で、ところどころ日本の歌が聴こえてくるような気さえする。勢いづくとワーグナーのようになるが、どこか懐かしい和声感は「他人事とは思えない」のだ。2楽章の管楽器の鳥たちの会話のような掛け合いも、いつかどこかで見た景色が思い浮かんでしまう。ハーモニーには優しさと温かさが溢れ出し、自然と自己の境目が曖昧だった子供時代に、夕焼けの赤さが身体の熱のように感じられたことを思い出す。

そうしているうちに、オペラグラスで観察していてすっかり顔を覚えてしまったチェコフィルのメンバー全員が、大切な家族か親友のように思えてきて、美男子のコンマスのシュパチェク、モヒカンのチェリスト、双子のようなホルン、美人のヴィオリスト、コントラバスのブラームスたちが親し気な存在に感じられて仕方なかった。
皆が「私たちの祖国はいい場所なんですよ」と音楽で語っていて、日本ではとても不自由な響きになってしまった「愛国心」という言葉が、この上なく貴重な概念であることを思った。私の家はいい場所ですよ…と言えない相手を信用することのほうが難しい。
世の中で一番シンプルな「ドミソ」を思わせる3音から成るモティーフが繰り返された後、スピーディな大団円によって曲は終わった。「我々は何度もドヴォルザークに回帰する」と語ったビエロフラーヴェクの不滅の魂が音楽を満たし、アルトリヒテルといえばコンマスをひしと抱きしめてオケへの感謝を強調する。運命の岐路にあるタイミングで行われたコンサートで、ひとつのオケに二人の指揮者の魂がいることはとても自然で喜ばしく、贅沢なことに思えたのだ。

コンサートの帰り道は美しい月夜で、ドヴォルザークの「月に寄せる歌」が脳裏に浮かんだ。


























チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(10/3)

2017-10-05 14:50:50 | クラシック音楽
9月末から来日ツアー中のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のサントリーホールでのコンサートを聴いた。首席指揮者のイルジー・ビエロフラーヴェクが5月末に急逝したため、代役として指揮台に上ったのは、ビエロフラーヴェクが最も信頼を寄せていたというペトル・アルトリヒテル。今年の3月にプラハ交響楽団をともなって来日していたが、そちらは聴けなかったのでこれがアルトリヒテルを聴く初めての機会となった。
3日のプログラムはドヴォルザークの序曲『謝肉祭』Op.92、同じくドヴォルザークの『チェロ協奏曲ロ短調』Op.104、ブラームス『交響曲第4番ホ短調』Op.98。『謝肉祭』の冒頭から、譬えようもない柔らかな光彩がオ―ケストラの頭上に立ち現れた。それは本当に光としか呼びようのないもので、水平にきらめいたかと思うと垂直に飛び跳ねたり、川の水面に反射する陽光のごとしで、派手でギラギラした輝きではない、もっと自然で美しい光だった。
眼前に、プラハの街が立ち現れたような心地がした。とはいえ、私はプラハを訪れたことがない。なぜか、サンクトペテルブルクのネフスキー大通りを連想した。古い建物が向かい合ってたくさんの窓がくすんだ太陽を反射している。その美しい様子が、プラハの連想に結びついた。

ドボコンでは、ソリストにジャン=ギアン・ケラスが登場した。リサイタルでは黒いブラウスを着ていることが多いので、フォーマルな衣裳を身に着けたケラスというのは珍しいような気がする。オーケストラに敬意を表して正装していたのかも知れない。ドボコンといえば、美メロと美ハーモニーの嵐で、マイスキーもヨー・ヨー・マも全身で音楽の悦びを表現してこれを弾くが、ケラスは全然違っていた。神妙な表情でヴィヴラートを抑制し、テクニカルな部分もメロディアスな部分も、きわめて冷静に明晰に弾いた。
「ドヴォルザークの歌は彼ら(オーケストラ)のもの。私はそれを尊敬するがゆえに簡単に触れられないのです」と言っているような気がした。しかし、おそらく心の内側は熱く、2楽章ではひたひたと溢れ出すものがあり、3楽章ではコンマスのヨゼフ・シュパチェクとの掛け合いで情熱が爆発した。あのチェロのヴァイオリンの二重奏のところで、ケラスはずっとシュパチェクを見つめて弾いていた。曲が終わると、アルトリヒテルとひしと抱擁。シュパチェクともこれ以上ないというくらい熱い友情の抱擁を交わしていて、胸が熱くなった。

生前のビエロフラーヴェクのインタビュー映像で「チェコ・フィルの真髄とは?」という質問に、彼は当惑したような微笑みを浮かべながら答えていた。「つねにドヴォルザークに回帰します。我々は子供のころからこれを聴いていて親しんでいて…ドヴォルザーク以外の曲でも、予期しないときにこの回帰は起こるのです」
コンサートでは、その語るところの意味がはっきりと理解できた。信じられないほど正確な金管には温かみがあり、弦には深い呼吸のような安らぎがある。木管には古い東欧の香りがするし、打楽器は切れ味がよく舞踏的なのだ。フォークロア的なものとモダンな知性が同居していて、それはドヴォルザークの音楽に通じていた。響きの中に、ほっとするような善良さがある。先鋭的・戦闘的であることより、歌うことと響き合うことが優先されているオーケストラなのだ。

アルトリヒテルはよく動き、それは「カッコいい」というより一生懸命な感じで親しみが湧いたが、作り出す音楽は凄かった。彼が練り上げてきたブラームスの「交響曲第4番」は透明でイノセントなこのオーケストラの美質を際立て、その始まり方は明晰で繊細だった。冒頭で感じたのはモーツァルトだった。こういう馬鹿正直な自分の感想には気を付けないといけない。「あなたたちのブラームスはモーツァルトのように美しい」と伝えたら「それは残念ですね。ブラームスとモーツァルトの様式はだいぶ違いますから」と言われるのが当然だからだ。しかし、私にとっては肯定的な意味で、こんなにシンプルで明晰で光り輝くブラームスの4番は聴いたことがなかった。
さまざまな色の糸で織られたツイードのように、ブラームスの中にはドヴォルザークを思わせる色彩もあった。アルトリヒテルの音作りは卓越している…同時に、個人を超えた大きな温かいパワーも解き放たれていた。
第2楽章のアンダンテ・モデラートは信じがたい音楽だった。同じ音型がさざ波のように押し寄せて、大きな潮流に発展していく…アンダンテとは本当に肉体的なテンポで、ゆっくり歩くように3つのリズムを刻んでいく段取りは地道に何かを積み重ねていくような心の作業を思わせる。
管楽器の牧歌的なアンサンブルのあと、すべての弦楽器が湧きたち、その瞬間にオーケストラが大きな薔薇の花になったように見えた。聖母マリアの微笑みのような、優しい気配が薫るように立ち込めたので、これは何の徴なのだろうと不思議に思った。アルトリヒテルもオーケストラも、この瞬間に何が起こっていたのか分かっていたのかも知れない。

祝祭的な第4楽章では、音楽家たちの高潔さとオープンな心が次々と押し寄せてきた。シンフォニーの中に息づく呼吸が見事で、それを浴びていると心と身体の病までが癒されていく心地がした。これはどこから来た音楽なのか…コントラバス奏者にブラームスそっくりの方が一人いて、彼はつねに手元ではなく虚空を見つめながら演奏していたのだが、遥かなるところから降り注ぐブラームスの霊感と触れ合っていたのかも知れない。
アンコールではドヴォルザークの『スラヴ舞曲集第2集』第7番と第8番が演奏され、8番はアルトリヒテルのアナウンスで、亡きビエロフラーヴェクの魂に捧げられた。終演は9時半。時間が経っていたことなど全く忘れていた。この世とあの世が通じ合ってしまったかのように、サントリーホールには魔法がかけられていたのだ。





キリル・ペトレンコ バイエルン国立管弦楽団

2017-10-02 21:40:50 | クラシック音楽
バイエルン国立歌劇場『タンホイザー』全3回の来日公演を終え、日本のオペラファンを大いに湧かせたキリル・ペトレンコ。
オペラ開幕前に行われた都民劇場でのマーラーを聴けなかった私は、既に完売していたNHK音楽祭2017のチケットをなんとか押さえ、NHKホールの上階席にチェックイン。オペラグラスを片時も離さず、ペトレンコとオケの放つ音ひとつたりとも聞き漏らさぬよう、戦々恐々と狛犬のように小鼻をふくらませていたのである。隣の席の方が心なしか少し怯えていたような気もする。
開演前に色々な方とお話をした。『タンホイザー』は二日目の演奏が一番良かったが、最終日はすごい盛り上がりであったとも。私が観た初日も素晴らしかったので、三日間とも素晴らしい出来だったのだろう。

オケピから陸に上がってきた(!)オーケストラは予想していたより若いメンバーが多く、今やどのオーケストラでもマジョリティになりつつあるアジア系の弦楽器奏者がほとんどいないのも意外だった(2ndVnに一人いらしたが)。指揮台のペトレンコは小柄で独特のオーラを放ち、その風貌はソクラテスなど古代の賢人を思わせた。現代の人には見えない。
マーラーの「こどもの不思議な角笛」は、あっと声が出そうになるほど軽やかなサウンドで、その軽さは今までこのホールでは経験したことがない種類の音だった。各パートは注意深く、ハーモニーにはたくさんの情報量が詰まっているのに全く「重く」ないのだ。薄いといえば薄いが、厚くなって当然のマーラーでこの薄さは新鮮で、薄衣のような全体の音から時折管楽器のはっとするような音色が飛び出してくる。このホールではどのオケも「鳴らそう」とするが、ペトレンコは別のことをするのである。大きいから注意をひくのではなく、興味深い音だから聴衆は耳を集中させる。新しい聴覚体験が浮き彫りにされた。
バリトンのマティアス・ゲルネは流石の表現力で、シンフォニーでは女声によって歌われる「原光」も、バリトンのほうが相応しいのではないかと思えた。とはいえ、ゲルネの声は「男性的」というより、もっと深くて大きい。ペトレンコの指揮はここでも歌手にとって、最高の呼吸を用意していた。

後半の演奏会形式『ワルキューレ』第一幕は驚きであった。『タンホイザー』にも登場したフォークト(ジークムント)、パンクラトヴァ(ジークリンデ)、ツェッペンフェルト(フンディング)が舞台に並ぶと、もうそれだけで有難くて頭が下がる想いなのだが、ワーグナーの「物語」の質感をこれほどリアルに感じた演奏もなかったのである。
作曲家が一幕の前半と後半で描いた「闇」と「光」のコントラストが、どんな視覚的演出によっても不可能なほど、音楽それ自体によって描写されていた。冒頭では、傷つき疲れ果てたジークムントが、休息を求めて流れ着いた薄暗い空間がありありと見えた。表情豊かな弦からは暗闇の中の湿気やパンくずや葡萄酒の匂いまで感じられるようで、ジークリンデがジークムントに好意をもって甘い蜜酒をもたらそうとした瞬間、白髪交じりのハンサムな首席チェリスト奏者が貴重な一音を鳴らした。
それは長き孤独と絶望の中にいたジークムントを一瞬で癒し、別世界へと運んでいくような優しい音で、首席の音に導かれて8人のチェリスト(全員男性)がオレンジ色の温かなアンサンブルを奏で始める。女性の温かさ、愛の芽生え、無限の癒しがもたらされた鮮やかな瞬間だった。
愚鈍なフンディングもまた眠りのような時間の中にいる。ジークムントが宿敵であると分かり、翌朝の決闘を申し込んだ後、彼はジークリンデの盛った眠り薬によってこんこんと眠らされる。しかし本当にぐっすり眠りたいのは疲労の極にあるジークムントのほうだったはずだ。

ペトレンコの左手が他の指揮者よりも際立って柔軟で、より活発で細やかな指示を与えているのが印象的だった。オケピの中を必死にのぞき込んで見ようとしていたものが、ここでは全部見えるのだから贅沢である。その左手で、前半ではオケに「もっともっと抑えて、水平に音を伸ばして」というジェスチャーを何度もした。空間に溶け込む音を、パン生地のようにこん棒で練り込んでいるようにも見えた。音量は控えめで、同時に驚くような奥行きを持ち、低弦は水を張ったビーカーに墨汁が流れ込むような黒々しい音を響かせた。

ジークリンデがジークムントの寝室を訪れ、自分の身の上話をするまでが「闇」と「眠り」の音楽で、二人がお互いに愛を認めると一気にサウンドは次元を変えた。ペトレンコの左手は水平運動から垂直運動に変わり、こらえていたエネルギーが解き放たれ、すべての音が光の歓喜を表し始めたのだ。愛の炎が大きくなると光はさらに眩しくなり、ジークムントが生まれてから双子の妹に会うまでの孤独が、殻を割ったように覆され、うねるような歓喜に震える。その瞬間が激越で、フォークトとパンクラトヴァの歌唱も最高だった。前半の闇のグラデーションと後半の光のグラデーションは、それぞれ完璧に二つに分かれ、異なるディメンションの世界を表示していた。演劇とはこのように瞬時に次元がトリップしてしまうものなのだが、演奏会形式のオペラでこんなに鮮やかな経験をしたのは初めてだった。

ペトレンコの音楽が特別なのは、彼が格別に霊感に恵まれた人だということ以上に、オーケストラが勤勉で好奇心旺盛であることが大きいのだろう。霊感と労働の賜物が魔法の正体だ。音楽そのものが丁寧に彫り込まれた彫刻の神殿のようで、突貫工事で作られた粗雑な箇所が全くない。ワーグナーにおいては「すべての音」が重要…それを時々忘れてしまうのは、巨大なテキストの細部に切り込んだ演奏をするのは物理的に不可能に近いからなのかも知れない。ところどころガタピシいったり、力任せだったり。その結果、深遠な物語世界に憧れはあっても「長大な」楽劇をすべて聴くことは苦痛に近いものになる。
ペトレンコとバイエルンの「ワルキューレ」の一幕は瞬く間の出来事だった。一度も飽きず、強く惹き付けられ、わくわくし、魅了された。最後がまた魔法のようで、しゅるしゅると時間の巻き尺が吸い込まれていくように終わった。茫然として驚き、貴重な演奏を聴いたという実感が時間差でジワジワきたのだった。会場に集まった満席のお客さんも同じだったのだろう。長い長いカーテンコールが続き、ペトレンコは何度も何度もステージに呼び出された。
「これがオペラだ」と信じていたものとは別に、もっと凄いオペラがカーテンの陰に隠れていた…そんなバイエルン国立管弦楽団の来日公演だった。ペトレンコとこのオケの組み合わせを聴けた日本の聴衆は、「ワーグナー」と聴けばこれを思い出すだろう。耳がすっかり変わってしまったはずなのである。

(写真はバイエルン国立歌劇場来日記者会見のとき、東京文化会館会議室で撮影されたものです)

ミュージカル『ビリー・エリオット』(9/30) 

2017-10-01 11:57:52 | ミュージカル

間もなく東京公演が千秋楽を迎えるミュージカル『ビリー・エリオット』の9/30の夜公演を赤坂ACTシアターで観た。7/20にプレビュー公演を観て、主役の子供たちの凄い演技と振り切ったエネルギー、大人たちの本気と音楽と物語の良さにすっかり骨抜きになってしまったが、二か月以上の公演を走り切ったキャストたちがどういう進化を遂げているか再度観てみたかった。
9/30のビリーは前田晴翔くん。プレビュー公演で観たのは加藤航世くんで、おばあちゃんの根岸季衣さん以外はほとんど別キャスト。役者が違うと物語の意味合いも少しずつ変わってくるので新鮮な刺激を得た。会場は超満員、立ち見のお客さんも大勢いて、ACTシアターの二階席から人が落っこちてきそうなほどの人、人、人であった。

ミュージカルはイギリスの戦後復興からサッチャー政権までを報道するモノクロのニュース映像から始まる。壁一面に映し出された殺伐とした映像をちょこんと見ているのはとても小さな「スモールボーイ」だ。『ビリー…』が夢物語ではなく、閉山に追い込まれた炭鉱の町を舞台にしたリアルな話であることを改めて思った。そこにいる大人の男たちは、皆重々しい怒りを抱えている。労働者としての誇りを奪われ、かつてのように生きられなくなった憤り…怒りの表現は恐ろしいほどの迫力で、今から遠くない過去にこんな「現実」があったことに心震えた。
音楽でも舞台でも、卓越したものを目の前にすると、その作品がこの世に誕生した意味というものを考えたくなる。古い時代が終わって、新しい時代がやってくる…『ビリー…』の作者はその変化の狭間にいる象徴的な少年を描いた。力強く荒々しい父親世代、妻として耐えるしかなかった母親世代とは全く別の可能性をもつ存在がビリー・エリオットだった。

30日は前から二列目の下手側ぎりぎりで観た。役者さんたちが走って通り過ぎ、その都度びっくりするような突風が飛んできた。一番驚いたのは、大人たちがみんな煙草を吸っているので、煙の香りがずっと漂ってきたこと。懐かしい香りだった。少し前まで、大人はみんな煙草を吸っていたのだ。抱えきれないほど重い現実につぶされないよう、大人は煙草で気を紛らわす必要があった。炭鉱の町の人々は、男も女も皆ワイルドで、今日を生きるために煙草と酒で憂鬱を吹き飛ばすのだ。
「今度生まれ変わったら誰かの奥さんなんかになるもんか」と歌うおばあちゃんはほとんどボケかけていて、カビの生えたミートパイを隠して一人で食べるのを楽しみにしている。灰色の閉塞感がキャンバスに絵具を重ねるように塗り描かれていく。
舞台の転換は鮮やかで、やはり私が好きなのはウィルキンソン先生のバレエ教室にボクサー姿のビリーが迷い込むシーンなのだ。柚希礼音さんのウィルキンソン先生はド派手でサディスティックで最高にスピーディで、レトロな70年代ファッションも素敵に着こなしている。バレエガールズたちはバーレッスンをやっていたかと思うと、タップダンスをはじめ、早変わりで衣装を変えると、白い羽をもって宝塚のレビューのような踊りもする。「食いしん坊トレイシー」の並木月渚ちゃんをもう一度観たくてこの公演に来たが、プレビューよりさらに動きがシャープになっており、脇役だと思っていたのに結構センターでの活躍が多かった。バレエガールズは全員素晴らしく、ジュリー役の近貞月乃ちゃん、スーザン役の女の子(久保田まい子さん?)もキレキレの演技。デビーの佐々木琴花ちゃんはすごい勢いで、ビリーとの掛け合いにもリズムがあり目が離せなかった。

この舞台はとても濃密に作られている…と実感した。600日にも及ぶ準備期間、オーディション、様々な挑戦を子供たちにクリアさせる忍耐強いプロセスにも驚くばかりだし、それを可能にした大きな心の力に計り知れないものを感じた。ビリー役には1346名が殺到し、450名、10名、7名、4名に絞られ後から1名が追加されたが、志半ばの少年を選別して落とす方も辛かっただろう。その中で勝ち残ったビリーにとっては、生涯でも特別な夏になったと思う。
前田晴翔君のビリーはダンスに爆発的なエネルギーがあり、歌は純粋で、芝居にユニークな説得力があった。前田ビリーは東京最後の日だったので、彼にも心に満ちるものがあったのだろう。ところどころ、アドリブ的な「溜め」もあったように思う。
ビリーはたくさんの登場人物と濃い絆をもつ。お父ちゃん、ウィルキンソン先生、おばあちゃん、親友のマイケル、死んだお母さん…それぞれと、全力で反発したり一体化していく演技が求められ、大人でもこんな難しい役は滅多にないと思う。
晴翔君には天才的なアンサンブル能力と、ソロで爆発する潜在力が両方そなわっていて、すべての場面を価値あるものにしていた。格別に美しいのは、未来のビリー~オールダー・ビリーとの踊りで、少年と大人の男性とのパ・ド・ドゥは恐らく世界でただひとつのものだ。栗山廉さんが美しい未来のビリーを踊り、二人のシルエットを追っていると夢の世界へ心が運ばれていくようだった。宙づりのシーンも見事だったが、オールダー・ビリーがビリーをリフトするとき、ビリーが相手役に余計な負担をかけないよう体重の配分を気遣っていたのに驚いた。これも練習で身につけた技術なのだろうか。

ロイヤルバレエスクールのオーディションに行かせてもらえず「母ちゃんなら行かせてくれた!」と叫んで踊るビリーのソロのシーンは絶句するほどの出来栄えで、気を抜くと大怪我をしてしまうような難しい振付を「危険なんかどこにもない」とばかりに踊った。八方ふさがりの現実を前に、魂がぺしゃんこになりそうなとき、自分もこんなふうに叫びをあげていたのだ…晴翔くんの勇敢さを前に、ぼろぼろと涙が出て仕方なかった。

このミュージカルを長らく「男性性と女性性の闘い」の物語だと思っていたが、この日の上演はもっと深いところまで見せてくれたような気がする。マッチョな炭鉱夫から、フェミニンな美意識をもつビリーが突如現れ、新しい世界へ羽ばたく…という解釈でもよかったのだが、舞台に現れる粗野で武骨な大人たちは、最初から本当に優しくて愛に溢れていた。変化したくない、生活を変えたくない…と闘う彼らは、絶滅種の鈍感人間ではないのだ。
「最初から心の中には愛があった。それを表わす方法を知らなかったのだ」というマッチョな男の心の内側を見せてくれたのは、お父さんを演じた吉田鋼太郎さんだった。舞台下手側の席で、吉田さんの得も言われぬ父の背中を見て、「ビリー…」に描かれている愛の本質が見えた。この席を与えてくれたのはミュージカルの神様だ…と子供のように思ってしまった。

大勢の子どもと大人の忍耐強い心、準備のための膨大な時間、作品への愛…日本版『ビリー・エリオット』は稀有の上演だった。英国の痛みを日本人が真剣に演じたことにも大きな価値がある…イタリア人のベルトルッチが『ラスト・エンペラー』を撮ったのと同じで、人間の心の痛みには境界はないのだ。街全体が辛い現実を抱えたまま、男たちがズボンの上からチュチュを履いて登場するラストシーンには「ミュージカルの勝利」を感じた。「泣くのは嫌だ、笑っちゃお!」というポジティヴな反撃、この魔法のような超越性と楽観こそが、ミュージカルの本質だ。冷たい風が吹きすさぶようなストーリーとまぶしい舞台のコントラストに、この作品が生まれた意味を改めて噛み締めた。