小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

アンナ・ネトレプコ&ユシフ・エイヴァゾフIN CONCERT JAPAN2017 

2017-09-29 11:46:07 | クラシック音楽
2016年3月の久々の来日から1年半ぶりに再び日本にやってきたネトレプコ&エイヴァゾフ夫妻のオペラシティでのコンサート(9/28)。今回はバリトンのエルチン・アジゾフも加わって、ソプラノ、テノール、バリトンのトリオ・コンサートとなった。指揮はミハイロフスキー劇場の音楽監督ミハイル・タタルニコフ、オーケストラは前回の来日コンサートと同じく東京フィルハーモニー交響楽団が舞台に乗った。
『ナブッコ』序曲の後、ステージに登場したネトレプコがかなり明るい金髪なのに驚く。ネトレプコといえば南ロシア美人独特の黒髪に黒い瞳で、長らく黒髪のイメージが強かったが、ここ最近は色を変えている。ライトの下で見るとほとんどプラチナブロンドに近い金色。
「ネトレプコは自分の変声期を楽しんでいる」と言っていたのはロシアで彼女とよくリサイタルをするテノールのディミトリー・コルチャックだったが、過去の自分に執着しないネトレプコの性格はこうした外見の変化にも表れていた。
プログラムを見ても、ワーグナーこそないがベルカントものは影をひそめ、重めのヴェルディやプッチーニなどのヴェリズモものが増えている。決して後ろを振り向かない彼女の生き方は、ユシフというパートナーを得てからますます揺るぎないものになっているように思える。

一曲目のヴェルディ『マクベス』の「勝利の日に~来たれ、急いで」から圧巻だった。真っ赤なドレスを纏った女王を前に、観客が完全に彼女にひれ伏したように感じられた。高音は鋭く潔く研ぎ澄まされ、豊かな発声はオーケストラと溶け合い、すべてのフレーズに演劇的な抑揚が漲り、不安定と言われていた中音域にも充実した響きがあった…しかしもっと重要なのは、声量とか発声とかディクションとかを細切れに語るよりも大事な、本質的で電撃的な何かだった。「ひとりの人間の中に渦巻いている巨大なドラマ」に驚き、一瞬のうちに自らの放つ電光でホール全体を痺れされてしまう魔術に降伏した。オペラシティが狭く感じられるほど、歌手のパワーは強力だった。これは録音や録画では体験しようもない。最初からすごい掴みで、コンサートの時間と空間を支配してみせた。

当初のプログラムから曲順と曲目が一部変更となり、前半はヴェルディのみで構成されていた。
ユシフ・エイヴァゾフは妻と入れ替わりにステージに登場し、オケ後方のバルコニー席にもにこやかに挨拶をする。
このユシフ、写真では野暮ったく(!)見えることもあるが、ステージでは足も長く顔立ちも綺麗でなかなかの美男子、『ルイザ・ミラー』からの「穏やかな夜には」は堂々たる歌唱で、金管のように豊かに吹き出すテノールの黄金の美声に我を忘れるほどだった。ネトレプコと芸術的に、本気で高め合っているのだろう。去年のコンサートより大胆で確固とした自信に溢れ、長尺のアリアにも余裕があった。『椿姫』前奏曲のあとには、バリトンのアジゾフと『ドン・カルロ』のロドリーゴとの二重唱『われらの胸に友情を』を熱唱。二人ともアゼルバイジャン出身だが、体格よく声量も豊かで、指揮者もロシア系ということもあって「ロシアの祭り」の趣も感じられた。
ネトレプコのアイーダ『勝ちて帰れ』、アジゾフの『オテロ』のイヤーゴのハイライト、ネトレプコ&エイヴァゾフの『仮面舞踏会』のデュエットと、充実の歌唱が続き、前半が終了。

思えば12年前、サントリーホールでネトレプコのピアノ伴奏によるリサイタルを聴き、「もう一度聴かねば!」と当日券を買ってオペラシティで同じプログラムを聴いたのだった。何度も繰り返し書いているようだが、たった一万円でネトレプコのリサイタルを聴けた時代があったのだ。当時からもう、彼女はオペラとかクラシックというカテゴリーを越えたカリスマだった。「人の声を聴く」ということが、こんな経験なのだとは全く知らなかったのだ。驚き、魅了されて、茫然として、なんだかわけのわからない涙が出てくる…。
ネトレプコは、殆どオペラや声楽を知らなかった私を導いてくれた人で、翌年(2006)には幸運にもMETで彼女を取材することが出来た。ナントのラ・フォル・ジュルネのプレスツアーから直接NYに飛ぶため、ユニバーサルクラシックスの谷内環さんが「世界一周フライト」のチケットをとってくださったことは忘れられない。

後半は驚くようなことが起こった。一階客席でアジゾフが『トゥーランドット』の「北京の人々よ…」を歌い始め、それに続いてオケ側のバルコニー席に、銀色のスパンコールのゴージャスな衣装とターバンをつけたネトレプコが現れた。P席のお客さんはびっくりしたことだろう。トゥーランドットが初めて口を開くときの歌「この宮殿の中で…」をネトレプコが歌ってくれるのは夢のようだった。私はこの歌が大好きで(ただでさえトゥーランドットは嫌われ者なので、そういう人はあまりいないと思うが…)自分自身の古い魂とつながったような心地になるのだ。
「自分は神に仕える高貴な女であり、千年前の先祖ロウ・リン姫とチャネリングをしており、彼女が蛮族の男から受けた辱めを忘れることができない。ゆえに、私に求婚する異国の王子たちを斬首するのだ」という歌で、男など信用しない、私には先祖の姫と神様がついている…という魂の叫びが歌われているのだ。そんな高みにいる姫に、タタールの王子カラフが求婚する。さわりの部分だけだが、ユシフがカラフを歌った。
「ああ! そうなのか!!」と手を叩きたくなった。ネトレプコは現実でもカラフ王子を見つけたのだ。誰かとともに生きることが困難なほど高い地位に登り詰めたスターが、ようやく安心できる勇敢で誠実な夫を見つけた。もしかしたら、ネトレプコもそんなストーリーを見せたかったのかも知れない。
それにしても、このトゥーランドットの歌は大変難しく、高音を外さずに歌うには強力なメンタルが必要なのだ。トゥーランドット歌手はここから謎かけのシーンまでが大変で、そこだけでギャラをもらっているようなもの。それをリサイタルでやってくれるネトレプコは、なんという太っ腹なのか…危険なことが好きなのかも知れない。

ユシフは後半も大活躍で、彼も超難しいアリアを歌う。ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』からの「ある日、青空を眺めて」は肝をつぶしかけた…テノールの夢であるようなこの曲を、丁寧に一息で歌い切り、歌い終えた後は少し涙ぐんでいるように見えた。オーケストラも本当に良い。
そういえばネトレプコは自分の声を「ブレスが大きいのが欠点だけど、オーケストラを突き抜けていく大きな声」とあるインタビューで分析していたが、ネトレプコが歌い出すときはオーケストラも思い切大きな音を出す。それが歌手の望みなのだ。「私はオーケストラの音が大好きなの!」と言っているようにも見えた。
舞台にいる歌手にとっては、カオスの中にいるような状態だろう。音の大きな渦を恐怖と感じるか愛と感じるか…東京フィルはふんだんな愛と尊敬を注ぎ、ユシフもネトレプコもアジゾフも、幸福の絶頂の表情だった。
ミハイロフスキーのシェフのタタルニコフは背中だけ見るととても緊張していて、休符のときも指揮棒がぷるぷる震えていたが(気のせいだろうか)、百戦錬磨のオーケストラが支えていた。コンマスの貢献には感謝しかない。

『メリー・ウィドウ』にはバリトンがやはり必要なので、ここではネトレプコとアジゾフがカップルとなって大人っぽいデュオを披露した。最初ウィーンで人気が出たネトレプコは、こういうオペレッタを歌うときに素晴らしくチャーミングなサービス精神を見せる。ワルツを踊る作法も優雅で「そういえばネトレプコは最初ミュージカル歌手志望だったのだ」と思い出す。後半の衣装は白と赤のトップスにふんわりとしたピンク色のスカートがつながったロングドレスで、それを着ると金髪のネトレプコは夢の国のお姫様のように見えるのだった。

最後の曲はヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』の「静かな夜に…嫉妬と愛と屈辱の炎が」で三人の歌手が熱唱。ネトレプコの声がやはり以前より力強く、より豊饒さを増しているのを感じる。変化していくことは楽しく、喜ばしい…そこには「過去にしがみつかない」というプライドがある。スターは愛され、尊敬されるが、ナイフの上の人生で、たった一度の失敗で凋落していくのに充分なのだ。
常に新しくいること、決して後ろを振り向かないこと、苦痛や不安が押し寄せてきても「人生は祝祭だ」と思うこと…ネトレプコからはまた、抱えきれないほどのメッセージをもらった。
気づくと、終演は9時30分をゆうに過ぎていた。スケールもパワーもとても「大きな」コンサートだった。
東京公演は同じオペラシティでもう一回(10/3)行われる。


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