オペラシティで二日間行われたミシェル・プラッソンの日本ラストコンサートの最終日を聴く。客層がいつもと違っていて、夏休みの親子連れが多かったが、子供無料で保護者半額というチケットの料金設定だったらしく、ジャーナリストには案内が少なかったのか、当日券を購入して入った。「東京二期会プレミアムコンサート2024」としての上演で、過去に共演したマエストロのさよなら公演を二期会のソリストと合唱が協力して行うというのは心温まる。
1933年10月生まれのプラッソン氏は90歳。白いジャケットを着たマエストロはにこやかに微笑んで指揮台に上がった。椅子が用意されていたが、ラヴェル『マ・メール・ロワ』の最初の二曲は立って指揮をしていた。「眠れる森の美女のパヴァーヌ」はゆっくり、ゆっくりと進む。オペラシティの一階席はステージを見上げるような姿勢で聴くことになるが、奥にいる東フィルの管楽器が見えないのが残念だった。視界に入る弦楽器のプレイヤーは凄い集中力でマエストロの心に寄り添っていて、「眠れる森…」は何かをまくしたてるのと反対の、澱みながら思い出しながら大切な何かを語るようなフレージングだった。ひとつひとつの音が貴重な糸のようで、丁寧に編み込まれていく絹のサウンドに感じられる。「親指小僧」では木管が「そのとき偶然に鳴った鳥の声」のような音を出す。自分が下手なピアノで弾くときはうっかり「これは音譜です」みたいな無骨な音を出してしまうが、オーケストラには無味乾燥な音などひとつもなく、全体が自然界の相似形で、深海か深い森の中にいるような心地になってくる。
東洋風の「パゴダの女王レドロネット」は、お香のようないい香りがするような音楽で、エキゾティックなバレエの一幕や、プッチーニの『トゥーランドット』の紫禁城のようなヴィジョンが見えてくる。最後の「美女と野獣の対話」では、巨大な日没のパノラマが拡がり、オーケストラが表す色彩やら香りやら記憶やら「すべての懐かしいこと」に溺れる感覚があり、なぜか涙で喉が詰まってしまった。
ラヴェル『ダフニスとクロエ』第2組曲は、第1曲「夜明け」から痺れるような宇宙的な響き。フランス音楽にはこの世界に存在する美しいものすべてが詰まっていると思わずにはいられない。二期会合唱団の神秘的な歌声が複雑で豊かな音のうねりを創り出す。この曲でも東フィルの表情が本当に素晴らしく、全身全霊でマエストロの精神をくみ取ろうとしているのがわかる。
マエストロの優しさや「有終の美」のようなイメージが吹き飛んだのは第3曲『全員の踊り』で、獰猛なほど激しいfffがラヴェルの狂気を炙り出してきた。古代という時間への憧憬、人間が今よりももっと原始的な力に溢れていた頃の野生が、驚くような生々しい音楽となってホールに吹き荒れた。年を重ねたから何かが穏やかになったとか、強靭さが失われたということでは全くないのだ。プラッソンの中の炎がオケに飛び火して、火傷しそうなほどホットなダフニスだった。
フランス音楽の真髄といえば、先日デュトワと新日本フィルの見事な共演を聴いたばかり。読響とカンブルランの10年間にもフランス音楽の豊饒さに驚き続けたし、ライヴで聴いた回数は少ないが日本の矢崎彦太郎先生の指揮には本物のフランス音楽のエッセンスが渦巻いていると感じる。その中でも90歳のプラッソンの「フランスの美学」は巨塔のようだ。この日『マ・メール・ロワ』を初めて聴いた子供たちにとっては楽しい音楽。同時に自分にとっては今まで聴いたこともない、この先も聴くことができないかも知れない『マ・メール・ロワ』だった。
オーケストラを聴くのに、無駄にささくれ立った心になっていた自分にとって、素晴らしい癒しの時間でもあった。フォーレの『レクイエム』を8/15の日本で聴くというのは特別な感覚をともなう。一曲ずつ、光の扉が開いていく鎮魂歌で、フォーレは母の死を悼みながら「きっと魂はよきところへ行く」と信じて作曲したのだと思った。昔リヨンの教会で観た見事な彫刻を思い出す。プラッソンの『レクエイム』はマリアやイエスや天使たちの塑像が、触覚的に感じられる音で、イタリアのリアルなバロック彫刻とも違う優美さをともなっている。二期会合唱団は「ダフニスとクロエ」とは全く別の質感の声を出していて、その引き出しの多さにも感心した。「オッフェルトリウム」「リベラ・メ」では小森輝彦さんが、「ピエ・イエズ」では大村博美さんがソロを歌われ、先日蝶々さんを歌われたばかりの大村さんが、透明で形而上学的なフォーレを聴かせたのは見事だった。
アンコールはフォーレの『ラシーヌ讃歌』で、こんなにも貴重な贈り物を得た後は、聴衆もなかなかマエストロを帰そうとしない。一度さわやかに舞台を去ったプラッソン氏は、長い長い喝采に引き戻されて再びステージの中央に現れた。心からの笑顔と、胸にハートを抱くようなポーズで聴衆に感謝の念を示す。そのときはもう、フランスとか日本とか、そんなことはどうでもよくなった。魂と魂は近づくためにある。天界のようなフェアウェルコンサート。マエストロにとってこの酷暑の2024年の東京が、よき思い出になってくれたことを願うばかり。
1933年10月生まれのプラッソン氏は90歳。白いジャケットを着たマエストロはにこやかに微笑んで指揮台に上がった。椅子が用意されていたが、ラヴェル『マ・メール・ロワ』の最初の二曲は立って指揮をしていた。「眠れる森の美女のパヴァーヌ」はゆっくり、ゆっくりと進む。オペラシティの一階席はステージを見上げるような姿勢で聴くことになるが、奥にいる東フィルの管楽器が見えないのが残念だった。視界に入る弦楽器のプレイヤーは凄い集中力でマエストロの心に寄り添っていて、「眠れる森…」は何かをまくしたてるのと反対の、澱みながら思い出しながら大切な何かを語るようなフレージングだった。ひとつひとつの音が貴重な糸のようで、丁寧に編み込まれていく絹のサウンドに感じられる。「親指小僧」では木管が「そのとき偶然に鳴った鳥の声」のような音を出す。自分が下手なピアノで弾くときはうっかり「これは音譜です」みたいな無骨な音を出してしまうが、オーケストラには無味乾燥な音などひとつもなく、全体が自然界の相似形で、深海か深い森の中にいるような心地になってくる。
東洋風の「パゴダの女王レドロネット」は、お香のようないい香りがするような音楽で、エキゾティックなバレエの一幕や、プッチーニの『トゥーランドット』の紫禁城のようなヴィジョンが見えてくる。最後の「美女と野獣の対話」では、巨大な日没のパノラマが拡がり、オーケストラが表す色彩やら香りやら記憶やら「すべての懐かしいこと」に溺れる感覚があり、なぜか涙で喉が詰まってしまった。
ラヴェル『ダフニスとクロエ』第2組曲は、第1曲「夜明け」から痺れるような宇宙的な響き。フランス音楽にはこの世界に存在する美しいものすべてが詰まっていると思わずにはいられない。二期会合唱団の神秘的な歌声が複雑で豊かな音のうねりを創り出す。この曲でも東フィルの表情が本当に素晴らしく、全身全霊でマエストロの精神をくみ取ろうとしているのがわかる。
マエストロの優しさや「有終の美」のようなイメージが吹き飛んだのは第3曲『全員の踊り』で、獰猛なほど激しいfffがラヴェルの狂気を炙り出してきた。古代という時間への憧憬、人間が今よりももっと原始的な力に溢れていた頃の野生が、驚くような生々しい音楽となってホールに吹き荒れた。年を重ねたから何かが穏やかになったとか、強靭さが失われたということでは全くないのだ。プラッソンの中の炎がオケに飛び火して、火傷しそうなほどホットなダフニスだった。
フランス音楽の真髄といえば、先日デュトワと新日本フィルの見事な共演を聴いたばかり。読響とカンブルランの10年間にもフランス音楽の豊饒さに驚き続けたし、ライヴで聴いた回数は少ないが日本の矢崎彦太郎先生の指揮には本物のフランス音楽のエッセンスが渦巻いていると感じる。その中でも90歳のプラッソンの「フランスの美学」は巨塔のようだ。この日『マ・メール・ロワ』を初めて聴いた子供たちにとっては楽しい音楽。同時に自分にとっては今まで聴いたこともない、この先も聴くことができないかも知れない『マ・メール・ロワ』だった。
オーケストラを聴くのに、無駄にささくれ立った心になっていた自分にとって、素晴らしい癒しの時間でもあった。フォーレの『レクイエム』を8/15の日本で聴くというのは特別な感覚をともなう。一曲ずつ、光の扉が開いていく鎮魂歌で、フォーレは母の死を悼みながら「きっと魂はよきところへ行く」と信じて作曲したのだと思った。昔リヨンの教会で観た見事な彫刻を思い出す。プラッソンの『レクエイム』はマリアやイエスや天使たちの塑像が、触覚的に感じられる音で、イタリアのリアルなバロック彫刻とも違う優美さをともなっている。二期会合唱団は「ダフニスとクロエ」とは全く別の質感の声を出していて、その引き出しの多さにも感心した。「オッフェルトリウム」「リベラ・メ」では小森輝彦さんが、「ピエ・イエズ」では大村博美さんがソロを歌われ、先日蝶々さんを歌われたばかりの大村さんが、透明で形而上学的なフォーレを聴かせたのは見事だった。
アンコールはフォーレの『ラシーヌ讃歌』で、こんなにも貴重な贈り物を得た後は、聴衆もなかなかマエストロを帰そうとしない。一度さわやかに舞台を去ったプラッソン氏は、長い長い喝采に引き戻されて再びステージの中央に現れた。心からの笑顔と、胸にハートを抱くようなポーズで聴衆に感謝の念を示す。そのときはもう、フランスとか日本とか、そんなことはどうでもよくなった。魂と魂は近づくためにある。天界のようなフェアウェルコンサート。マエストロにとってこの酷暑の2024年の東京が、よき思い出になってくれたことを願うばかり。