小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京フィルハーモニー交響楽団 令和元年特別『第九』演奏会(12/19)

2020-01-04 00:17:10 | クラシック音楽

もう年が明けてしまったが、年末に聴いたいくつかのメジャー・オーケストラの第九を振り返ってみて、チョン・ミョンフン指揮の東京フィルの公演には特別な感動と歴史的意義があった。クラシックの演奏会が社会全体や歴史、哲学、人文学や他の全てのアートと関連しているという確信がさらに深まり、この認識(音楽は音楽として閉じられ、孤立しているのではない)を諦めてはいけないと思った。指揮者とオーケストラとの関係が、演奏のクオリティを決定的にすると再確認したコンサートでもあった。

2019年の東フィルの第九は「令和元年特別『第九』演奏会」というタイトルで、第九のほかにエルガー 戴冠式頌歌より第6曲『希望と栄光の国』がプログラミングされていたが、第九の前ではなく後に演奏された。新国立劇場合唱団は第1楽章からスタンバイしており、そこに可愛い赤いエプロンのようなコスチュームを着た児童合唱団(多摩ファミリーシンガーズ)も加わっている。コンサートマスターは三浦章宏さん。

 一楽章の冒頭から、弦に濃密なメッセージがあった。ベートーヴェンのシンフォニーには空気中に放散した胞子が地上に引き寄せられ、勢いよく発芽し、繁茂していくイメージがあるが、第九の冒頭で振ってきた「はじまりの種」には一粒一粒に素晴らしい栄養が蓄えられており、弓の細かな揺らぎの中に膨大な情報量があった。ボウイングにのっぺりとしたところが全くなく、無数のコイル状の断片が回転しているような絵が浮かんだ。「第九はベートーヴェンによる『天地創造』なのだ」と直感する。ヴェルディのグランド・オペラのように壮麗で、ミョンフン氏のイタリアでのオペラマスターとしてのキャリアも思い出されたが、同時に国籍に関係なくニュートラルな大きさをもつ音楽でもあり、楽員全員が渾身の力でマエストロの言いたいことを表現しようとしているのがわかった。こういう関係性は、確実に音楽に現れるし、感動にもつながる。

第二楽章は、2019年に聴いた在京オケの第九に共通していたことだが…どの団体もおおむね速かった。「2楽章をベートーヴェンのメトロノーム指定でやると演奏時間は60分を切る」とある指揮者の方が教えてくださったが、「トレンド」という言葉で流したくないほど、皆真剣に限界まで挑戦していたように見えた。東フィルの木管は素晴らしく、最高のクラフト芸を聴かせた。雷鳴のような打楽器も爽やかだった。この楽章にはとてつもなく爆発的なユーモアが秘められていると思う。悲嘆や苦痛を通り越した哄笑のセンスが、反抗心をともなって警鐘のように響き渡る。チベット高地に生きる人々が、高山病にかかりながら歌とダンスを楽しんでいるようなハイテンションを感じる。毎年当たり前のように聴いている曲なのに、改めてクレイジーで奇矯な音楽だと思った。音楽はどんな冷笑主義も受け付けず、揺るぎない楽観をキープしたまま木星のように巨大化していく。

3楽章はゆったりとした歌に溢れ、宇宙遊泳をしているようなミョンフン氏の後ろ姿がとても若々しく見えた。巨匠でありながら、巨匠の座に胡坐をかかず「ブレない自分」の精神で音楽をやっている人なのだと思った。今までにも演奏会形式オペラやシンフォニーで東フィルとたくさんの名演を聴かせてくれたが、この第九は格別で、そこにさまざまな「友愛」の意味を感じた。ミョンフン氏は嘘偽りのない「平和と友愛の人」だ。何年か前のソウル・フィルとの来日公演のときに、アンコールで「コリア、チャイナ、ジャパン」「私たちは皆友人」とアナウンスした。「皆友人」だったか「アジアはひとつ」だったか、正確な言葉は覚えていないが、尖閣諸島問題や竹島問題などでアジア情勢が緊迫していた時期で、マエストロのメッセージが深く心に響いた。聴衆の中には(少数だと思いたいが)「音楽さえ聴ければいい」と思っている人もいる。マエストロは自分の理念をまっすぐ伝える。つねに背筋を伸ばして音楽をやっていないと言えない言葉だと思った。

4楽章は頭が一瞬真っ白になった。マエストロがこの曲から掬い取ったメッセージと人類愛(この場合、まさに隣人愛なのだが)がベートーヴェンの意志と完璧に合致していたからだ。「新天皇即位」を迎えた他国へのリスペクト、友人へのはなむけの言葉として、この第九は演奏されていた。言葉にするとまるで陳腐だが…音楽がこのような形で他者への尊重を表現できることに度肝を抜かれた。「そういえば、声楽ソリストたちはいつ入ってくるのかな」と思っていたところに、オーケストラが「歓喜の歌」を奏で始めたまさにその瞬間に、神々が新しい城に入城するようにソプラノの吉田珠代さん、アルトの中島郁子さん、テノールの清水徹太郎さん、バリトンの上江隼人さんがステージにのぼった。こういう演出は初めて見るが、アイデアを発案した人には感謝したい。歴史的な美しい典礼のようで、この瞬間に、輝かしい光に包まれるような感慨に打たれた。

 クラシックは、現実の分断や対立の上の次元で新しい「国家」の概念を作る…チョン・ミョンフンの第九は、隣国の元号が変わり、新天皇が即位したことに対する祝福で、まさに「好機を得て」この曲が奏でられた。「同じ誇らしきアジアの友」であり、家族のように歩んできた日本のオーケストラと演奏した。もちろん、国境線で分割された「国家」は楽観的なものではない。私はなぜか急に「飛鳥時代」ということを思い出した。テストのときに必死で覚えた「百済」「高句麗」という国名だ。命がけで海をわたった遣使たちが隣の国の文字や思想や絵画や建築のアイデアを分かち合った。天平文化の豊かさは、アジアのユニティ感覚の賜物だ。第九のソリストが古代の神や女神に見えた。上江隼人さんのダイナミックな声が、海を二つに割る奇跡の魔法のように響き渡ったのは、最高の瞬間だった。

「理想は綺麗ごとでしょ…でも現実は」というのが普通の感覚だが、地上の重力から急に脱出して「人間はもっと豊かになる!」「未来はもっと素晴らしいものになる!」と叫んでもいいと思う。ベートーヴェンは持病のカタログで、片頭痛で癇癪持ちで難聴で、遺書まで書いたが生きることを選び、汚部屋から何度も逃げ出して引越しを繰り返した。「自分は完璧からは程遠い。しかしながら進化した素晴らしい人間を思い描くことは出来る。私にもその片鱗があるからだ」というのが、ベートーヴェンの音楽だ。彼は理想の素晴らしさを発明した。近代以降の人間の崇高さを発明したという点で、極端な言い方に聴こえるかも知れないが、仏陀やキリストに比肩することを精神史に残した人物だと思う。

「こんなに感動してしまって…この感想を人が聴いたら誇大妄想だと思うだろう」と感動を押し殺そうとしているうちに、エルガーが始まった。初めて聴く曲だと思っていたが、有名な「威風堂々」に歌詞がついたものだった。オーケストラも合唱も昂揚感に溢れ、第九の後にこのエルガーを聞けるのは幸せの上塗り以外の何物でもなかった。心の美しさ、公平な価値観を表現にすることには、実は大きなリスクがともなう。「そんなはずはないだろう」と疑われたり、ひどい場合は迫害されたり、殺されたりする。チョン・ミョンフンは、そうした歴史上の偉大な受難者のことも、深い次元で理解しているのだ。第九の後のエルガーで、マエストロの心がどういうものなのか分かりすぎて、ただただ涙するしかなかった。

オカルトでもなんでもなく「魂」は存在する。チャイコフスキーやマーラーが宿命的に与えられた「悲観」の魂を命がけで音楽の中でまっとうしたように、ベートーヴェンも生まれつきの「楽観」の魂を第九に結晶化させた。病気の人、大切な人を失った人、引きこもりの子をもつお母さん、いじめられる子供、無実の罪で牢につながれた人、薬物に侵された人のために、絶体絶命のカンフル剤として第九はある。オペラシティが「不死鳥」の名のフェニーチェ歌劇場のように感じられたこの夜、聴衆だけでなくオーケストラ全員にもスペシャルな感動が響き渡ったのではないかと思う。年末年始も多忙なオーケストラだが、この特別な第九のことは楽員さんたちにも忘れて欲しくない。お節介にも、客席にいた聴衆の一人としてそう思わずにはいられなかったのだ。


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