小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

読響×下野竜也 ペスト流行時の酒宴 

2020-01-19 14:31:29 | クラシック音楽

今年の読響は何だかすごい。1/9のエリアス・グランディ指揮『ボレロ』からオーケストラとしての途轍もない魔力と「全く普通ではない」狂気ばしったアンサンブルを聴かせてくれたが、久々の下野さんとの共演(1/15)では腰が抜けた。私のボキャブラリーもいよいよ幼児化が進む。言葉では追いつけない、圧倒的なオーケストラの凱歌を耳に焼き付けられた。日本に生きていてこんなコンサートが聴けるのは、当たり前のようで当たり前でない。コンサートマスターは日下紗矢子さん。

自分にとって現代音楽の演奏会には2種類ある。教養のために半分義務的に聴く演奏会と、心から驚き感動する内容のある演奏会だ。下野さんが過去に読響とやってきた様々な(作曲家名もなじみのない)現代曲や、日生劇場でやったライマンの現代オペラは、濃密で特別な引力があり、聴いたあとも長い感動の余韻が続いた。一言で言うなら「悪魔的な魅力」があり、無調でアヴァンギャルドな音楽が20世紀以降に書かれる必然を具体的に理解させてくれた。1/15のプログラムはショスタコーヴィチ『エレジー』ジョン・アダムズ『サクソフォン協奏曲』、後半はともに日本初演のフェルドマン『On Time and the Instrumental Factor』グバイドゥーリナ『ペスト流行時の酒宴』。幽玄な雰囲気のショスタコーヴィチは5分の短い曲で、前半のメインは上野耕平さんがソロを演奏したジョン・アダムズの『サクソフォン協奏曲』だった。楽器の特性を批評的に利用した曲なのか、そうでないのかわからないが、声楽のアクートのようにオクターヴで移動する旋律が特徴的で、リズムはめまぐるしく変化する。いくつものリズムがパッチワークのようにつぎはぎされ、超絶技巧的なソロとそれについていくオーケストラの呼吸感が凄い。ジョン・アダムズの曲はかなり好みなのだが、ずいぶん強引な作曲家だとも思う。「出オチ」漫才のようなモティーフに拷問をかけ、麺棒のようなもので伸ばし、29分の「曲」にしてしまう。上野耕平さんは奇々怪々な曲を楽しげに演奏し、本物の天才とはこういう人を言うのだと実感した。あの曲を苦行のようにやられたらたまらない。上野さんのマネージャーさんは長年の知り合いだが、なぜ彼女が上野さんの才能にあれだけぞっこんなのかわかった。客席の隣には下野さんのマネージャーさんもいて、この曲のリハーサルが大変だったことを教えてくださった。本番では当たり前のようにさらりと演奏されたが、オケと、ソリストと、指揮者の底なしの実力あっての名演だった。

それにしても下野さんが絶好調すぎる。何か、ブチ切れているような凄さだ。プログラム自体がまったくこの世的ではないし、あの優し気な風貌な下野さんの内側に潜む「悪魔」の存在を感じずにはいられない。このタイミングで、何か「爆発」するきっかけがあったのだろうか?  何かが始まりそうで何も始まらず、ひたすら線香のような香りが立ち込めるフェルドマンの不思議な曲の後、グバイドゥーリナの地獄の窯のような曲が始まった。タイトルからしてイマジネーションをそそられるが、冒頭から聴いてはいけないものを聴いているような独特の「匂い」が感じられた。解説によるとプーシキンの戯曲に霊感を得て書かれた曲だというが、原作は知らない。衒学的な現代音楽からはかけ離れた、表現主義的で原始的な世界で、トランスミュージックなような質感もある。脳をおかしい位相に連れて行くような弦であり管であり打でありその他もろもろであった。現代音楽にもおかしな曲はたくさんあるが、一番気に食わないのは優等生的な現代音楽だ。官僚的な現代音楽こそ、この世で一番いらないものだと思う。R・シュトラウスは『カプリッチョ』で「われわれの時代の音楽は死んだ」と音楽家に歌わせたが、音楽が死んだ時代に音楽を書かねばならない、という「枷」を負っているのが現代の作曲家なのだろう。

グバイドゥーリナの音楽は「それがどうした」と言っているようだった。音楽する魂の強靭さが並々と溢れ、目がつぶれそうなほどの膨大な打楽器群の必殺技、不吉で逃げ出したくなるような電子音のリズム、真綿で首を絞めてくる弦楽器の合奏がサントリーホールを真っ黒にした。死の音楽であることは明白だが、精神面での「逆境」ということも感じられた。作曲家として生きることの逆境、一人の人間として生き延びることの困難さが、一秒ごとの濃密な音に込められているようで、「復讐」というキーワードも浮かんだ。あらゆる偉大な作曲家たちが描いていた「死」のさらに向こう側に届くために、孤独に命を燃やしているグバイドゥーリナの情念が水飴の津波のように全身を包み込んできた。ひどく一体化を求めてくる音楽なのだ。演奏している側は理性的にやらなければならないが、我々が想像している以上の境地にいることは確かだ。

 吉松隆さんにインタビューしたとき、作曲家が遺す五線譜というのは永遠で、未来永劫演奏してもらえるという凄い代物だ、というお話を聞いたことがあった。ベートーヴェンも自分の曲も、五線譜に託された永遠性という意味においては同じだと。グバイドゥーリナも、その「ポータブルな永遠」に賭けていると直感で思った。この演奏会に関しては、「すごい」と語っている人もいれば、なぜか理解不可能な揶揄でもって否定している人もいたが、作曲家にしてみると「どんな言葉でも、感想がないよりいい」という覚悟なのではないか。感情的に、霊性的に「何か」を感じないのは不自然な音楽だった。スコアがどのようになっているのかは想像できないし、客席であんぐり口をあけて聴いているしかなかったが、まさにアートを身体で受け止めた時間だった。下野=カンブルラン時代に読響は、世界でも物凄いオーケストラになっていたのだ。しばらく封印されていた引き出しが開いたような感じもあり、下野さんの粋な選曲には本当に頭が下がった。オケの主体性も神だ。すさまじい曲のどれひとつとして「やらされている感じ」がなかった。こういう態度にこそ崇高さを感じる。ただ一夜の演奏会だったが、こういうコンサートは忘れ難い。世界に自慢したい読響だった。

 

 

 


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