小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(11/18)

2019-11-21 00:49:45 | クラシック音楽
パーヴォ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のサントリーホールでの公演を聴く。前半にワーグナー『タンホイザー序曲』、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調op.19』、後半がブラームス『交響曲第4番ホ短調op.98』。

急な発熱と鼻水の発作のためコンサート直前に風邪薬を飲んだ影響で、ベートーヴェンのコンチェルトではしばしば夢の境地にさらわれてしまいそうだったが、ラン・ランのソロはチャーミングで、ソフトタッチのピアニシモが優雅だった。体格がスマートになる前は、リサイタルでも「オール・フォルテッシモ」の英雄ポロネーズを聴かせていたラン・ランだが、ここ数年は繊細でチャーミングな表現が際立つ。偶然だが、ラン・ランもパーヴォもカーティス音楽院出身で、若くして音楽を学ぶために米国に渡った音楽家である。ヨーヨー・マが演奏する姿が見る者を幸せにするように、ラン・ランがピアノを弾く姿も癒しの天使のようだ。オーケストラもピアニストのアプローチを受け入れ、快活なアンサンブルを聴かせた。

ラン・ランと同様、今回はパーヴォもゲストという形での参加だった。プログラムで音楽学の松村洋一郎さんが「この来日公演がお互いの歴史の『幕開け』につながる『区切り』になるかどうか時が経たねば分からないが…」と原稿の結びに書かれていたが、これは暗にパーヴォが未来の首席指揮者にふさわしいかオケに試されている、ということなのだろうか? だとしたら、同じことを考えながら聴いていた。
冒頭のワーグナーは「タンホイザー」だったが、「パルジファル」のような救世主を、今のコンセルトヘボウ管は求めているのかも知れない。前任者のダニエレ・ガッティがわずか2年で退任して以来、シェフのポストは空席になっている。コンセルトヘボウ管は現在ウィーンフィル状態ともいえるが、ウィーンフィルとは異なり、彼らはリーダーを渇望しているように思えるのだ。

そのガッティが指揮をした2017年のコンサートは、少しばかり奇妙だった。イタリアオペラを得意とし、外連味のある指揮もするガッティの「個性」が、オーケストラの音からほとんど感じられなかった。各パートが植物の地下茎のようなネットワークで連携していて、その緻密さと美意識には指揮者でさえ簡単に触れることが出来ない、という雰囲気だった。ガッティは表面上は「コントロール」していたのかも知れないが、オケの本質とは溶け合っていないように感じられた。音楽とは関係ない理由での退任だったが、続けていたら苦労も多かったと予想する(ガッティはその後ローマ歌劇場の音楽監督に就任)。

指揮者とはいったい何だろうか。マリス・ヤンソンスの偉大過ぎる存在が頭をかすめる。ヤンソンスはあまりにコンセルトヘボウ管と一心同体で、指揮者とオケの理想的な関係性を確立していた。彼が指揮台にいる姿を思い出しただけで、熱いものがこみあげる。バイエルン放送響でもまったく同じ感興に襲われるのだから何とも理屈では説明しがたいが、人間として芸術家としてリーダーとして、あれほど魅力的な人物と「競う」というのは難儀なことだ。コンセルトヘボウ管に客演したヤクブ・フルシャに「ヤンソンスに似ていると言われなかった?」と聞いたとき、嬉しそうに「言われましたとも!」と笑顔で答えてくれたのも、実に自然な反応だったと思う。

パーヴォという人もまた魅力的な指揮者だ。その一方で、ここ数年の彼の指揮を聴いていて、「オケと家族になれれるかどうか」が音楽的な成就を左右しているのかも知れない、と思うようになった。ドイツ・カンマーフィルとは完璧な血縁関係にある。故国のエストニア・フェスティバル管とは言うまでもない。
パリ管の来日公演も素晴らしかったが、任期の最後のほうはうまくいかなかったと聞く。N響に関しては、よいときとそうでないときがある。幸い、最悪の演奏は聴いたことがないが、演奏会形式『フィデリオ』などは、大評判だった歌手たちと対照的に、オケと指揮者の関係は冷めていたように見えた。音楽にあまり熱が感じられなかったのだ。どこかで「家族になれない」と思う瞬間があると、長期的なパートナーシップを諦めてしまう人なのではないか…そんな憶測を抱いていた。

 それもまた人間味であるし、個性ではあるが、指揮者としては厳しいものがあるだろう。他人と家族になるのは簡単なことではない。後半のブラームス4番は、栄えある指揮台の上で極上のオケをコントロールしようとする意志と、そう簡単にはいかないという謙虚さがせめぎあった複雑な指揮者の内面が伝わってきた。
 弦も管も素晴らしく鳴り、充分に立派な演奏であった…が、そこから指揮者の内面や人生は伝わってこなかった。その直前に、インバルと都響、ノットと東響、ブロムシュテットとN響という「攻め攻め」の演奏を聴いて、指揮者の生き様をまざまざと見せられていたため、パーヴォの指揮が「薄く」感じられたのかも知れない。ノットはオーケストラとの関係を更新するため、毎回失敗ぎりぎりのハイリスクの挑戦をする。「いいときもあれば悪いときもある」という甘さを許さない。外側からの評価はどうであれ、死に物狂いで「我々は運命共同体である」ということを示す。クールなN響が、パーヴォのときには見せない「熱」をブロムシュテットのために見せたとき、これは何なのだろうと考えずにいられなかった。

 コンセルトヘボウ管の事務局長のヤン・ラース氏は素晴らしい人物で、ガッティとの来日記者会見で、姿を見ただけでオーケストラの「もうひとつの心臓」として機能している人だと直感的に理解した。同じ空間にいるだけで心が浄化され、創造的になれる「神」のような人…と表現するのは大袈裟だが、彼がいることでオーケストラには間違ったことは絶対に起こらないと確信した。

 パーヴォがコンセルトヘボウ管と「家族」になるかどうか…は未知数だし、事情通でもないので実際のところどういう話になっているのか分からない。パーヴォが一流の音楽家であることは疑いようもないし、コンセルトヘボウ管もリーダーを求めている。彼らは実に人間的で柔軟で知的な集団なのだ。外から何かがやってくるのを待っていて、リーダーとともに成長したいと思っているはずだ。大きな全体像が見えづらかったブラームス4番だったが、翌日のベートーヴェン4番&ショスタコーヴィチ10番はどうだっただろうか? バルト三国の隣国出身のヤンソンスが「君が頑張ってくれなきゃ困るじゃないか!」とパーヴォを励ましている笑顔を想像した。




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