小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(11/9)

2020-11-10 15:26:58 | クラシック音楽
ウィーン・フィル、5日間連続公演のサントリーホールでの初日。毎年11月のサントリーホールの恒例行事も、2020年は特別な雰囲気の中で行われることとなった。ホールエントランスから一階席と二階席に分けての入場となり、なかなか進まぬ長い列に並びながら、決して廉価ではないチケットを購入してウィーン・フィルの公演にやってきた人々の静かな期待感を肌で感じていた。ウィーン・フィルに遅刻してくる人などいないのだ。19時5分になって開演前のアナウンスが流れたが、満員の客席の、神聖な儀式を待っているような静寂が忘れられない。

舞台横のRB席で聴いたため、ステージの下手側がよく見えた。緊張気味の客席とは逆に、楽員たちは寛いだ表情で登場。黒装束のイメージがあったが、男性も女性も灰色のズボンを履いている。ゲルギエフはますます聖人のような面立ちで、指揮台はなし。プロコフィエフの『ピアノ協奏曲第2番』は曇天のように重々しく始まり、デニス・マツーエフが哲学者の表情でソロを弾いた。何か、深遠な問いと答えがソリストの心の中で交わされているようで、オーケストラもロシアの冬空のような寒々とした響きを奏でる。包み込まれるような音の振動が、大自然の中では無力な人間の小ささと、風前の灯の中でも消えぬ誇りを思わせた。

一楽章から尋常でない感覚に襲われたが、ゲルギエフが導くウィーン・フィルの音には、頭で考えている「ウィーン・フィルらしさ」を裏切るものがあった。公演の直前まで、中野雄さんの名著『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』(文春新書)を読み、見事な取材力と鑑識眼によって綴られたウィーン・フィル論に感動していたが、このような見事なオケの本質に到達できる知性は自分にはない、と諦めていた。
それならばせめて、超一流のオーケストラの「今」を体験することで、謙虚に「ウィーン・フィルの輝き」を学ぼうとしてホールに来たのだが、プロコフィエフのコンチェルトは想定外の出来事の連続で、彼らが何ヘルツでチューニングを行い、どんな楽器を使っているかなど、全て些末なことに思えた。これは厳しい冬の音楽で、マツ―エフは始終苦吟するような表情で(オペラグラスで顔がよく見えた)、時折椅子から腰を浮かせて信じがたいパッセージを奏でた。
ゲルギエフとマツ―エフの間にだけ「ロシア音楽の合意」があり、オケはそれについていったのか…そんなことがあるはずはなかった。プレイヤー一人一人が曲の深淵に下降し、2020年の東京でしか聴くことのできない稀有のオーケストラ・サウンドを掘り当てていた。

クラシックの聴き手として丸裸にされたような気分になった。
ウィーン・フィルをある固定的なイメージの集合体で捉えることの無意味さを思った。彼らには伝統があり、実力者としての矜持がある…が、それ以上に、一人一人が勇敢な戦士であり、自由な人間であり、一期一会の演奏会でやるべきことを主体的に決めている。外側から恐る恐る観察しようとして、金箔を幾重にも塗りこめていたのは自分の方だった。
ウィーン・フィルは一流のアンサンブルを奏でるので、違和感のある指揮者のいうことを聞かない、というのも真実だろう。同時に、ウィーン・フィルは新しい経験を求めていて、音楽に飽きたくないと思っている。及び腰で「ウィーン・フィルらしさ」を引き立てようなどとする指揮者の浅薄さも一瞬で見抜くのだ。ゲルギエフは、人間は厳しい運命の中で生きなければならない、という真実をロシア音楽を通じて聴衆に示した。それがウィーン・フィルだったことで、衝撃は倍加した。

マツ―エフはあれだけの技巧をこなしつつ、全身の細胞でオケの音を聴き、あらゆる瞬間に素晴らしい反応をした。プロコフィエフが曲を書いた時間は、遠い過去となり失われた時間となったが、演奏家は再び失われた時間を見出す。ロシア芸術の、音楽にもバレエにも共通する「再現し、ともに生きる」Переси Баньеという感覚である。アンコールはショパンのワルツop.64-2で、侘しく儚い、面影とうつろいのメロディが溢れ出した。プロコフィエフの後で、この曲が聞こえると何故か泣き出したい気分になる。

前半二つ目のコンチェルトはチャイコフスキー『ロココ風の主題による変奏曲』で、この曲が始まった瞬間、全身が春のようになった。眉毛も凍るツンドラ地帯から、急に温泉に飛び込んだような感じだ。堤剛さんが微笑みながらチェロを奏で、ここでオケも先ほどとは違う表情になり…ウィーン・フィル「らしい」雅やかなサウンドが飛び出した。
チャイコフスキーはモーツァルトを愛したが、ロココ風…にもモーツァルトの影響を強く感じる。この日の午後、指揮者の井田勝大さんにインタビューをしたが、その中で「モーツァルトは貴族たちがワルツよりメヌエットを身近に感じていたことを知っていた。日常的に奏でられるメヌエットを作曲すると、貴族たちは親しみを感じて喜んだ」という話を教えていただいた。ウィーン・フィルの貴族的な響きは、ワルツに限らない…モーツァルトとチャイコフスキー、ロココとウィーンをつなぐ曲に感じられた。以前取材したとき「サントリーホールはすべてのスタッフが素晴らしい。カフェから清掃スタッフまで全員が素晴らしいんです」と仰っていた堤先生の言葉も思い出された。

後半のストラヴィンスキー『火の鳥』(1910年版)は、過酷なリアリズムでも貴族の音楽でもなく、子供が絵本を読んで吸い込まれていくような夢幻の宇宙だった。大編成となり、管楽器の名演のオンパレードとなり、豪華な三台のハープ、ピアノ、チェレスタ、コンマスのシュトイデの名人芸がびっくり箱を開けたように飛び出した。黄金色で虹色のウィーン・フィル・サウンドだった。管楽器は女性奏者が以前より増えていたように思う。ピッコロ奏者がめざましい演奏をした。このオーケストラは、新しいパッセージに移り変わるとき、前の楽器の音を次の楽器が擬態する。管と弦がお互いにそっくりな音を出す。少なくとも、ストラヴィンスキーではたびたびそのようなことがあった。ユーモアなのか、自然なことなのか…そういう不思議なアンサンブルの積み重ねが、聴き手を幻惑し、異次元へと誘い込んだ。
 ふだんは聴こえないたくさんの音が聴こえた。パヴェダイヤのように、無数の色がオーケストラに潜んでいる。「子守歌」で、ベテランのヴィオラ奏者が微笑み合って「僕たちは、この部分が本当に好きだよね」という表情をしたので、嬉しくなった。その気分は楽員全員に共通していたのか、幻の巨大な鳥が舞台に現れたような幻想的なサウンドとなった。

RB席はオケと客席のすべてが見え、2020年のウィーン・フィルの来日公演が改めて特別な状況のもとで、特別な気分に包まれて始まったことを伝えてきた。ゲルギエフの爪楊枝は不思議な念動力を放ち、過酷な時代のさなかに巨大な知恵とファンタジーをもたらした。常任指揮者をもたないウィーン・フィル。主役はオケか、指揮者か、ソリストか。果たして演奏会は誰のものなのか。この日の特別な空気を作り出していたのは、音を出さない聴衆だった。今更ながら、コンサートは客席とステージの共同作業なのだと知った一夜だった。

デニス・マツーエフのソロを聴きながら脳裏に浮かんだ北斎の海の描写。マツ―エフは11/10の公演にも出演。








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