小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ユリアンナ・アヴデーエワ ピアノ・リサイタル

2019-02-21 09:28:07 | クラシック音楽
現在日本ツアー中のユリアンナ・アヴデーエワのリサイタルをオペラシティコンサートホールで聴く。プログラムはショパン、シューマン、シューベルト。タイトなパンツスタイル(しかしカジュアルではなくどこかゴージャス)で登場したユリアンナは、聴衆に微笑みかけてからショパンの「マズルカ イ短調op.59-1」を弾き始めた。
このマズルカが大変幻惑的な音だった。極限までレガートでピアニッシモを究め、懐かしくて新鮮なタッチで、叩いた後に減衰していくピアノの物理学とは別の法則を知って奏でているような印象がある。ハープのようでもあり、テルミンのようでもあり、念動力(テレキネシス)のようなもので鳴らす新しい楽器のようでもあった。ガラス窓にぷちぷちと落ちてきた雨の雫が次々と不思議な形を作り、瞬間ごとに模様を変えていくのを見ているような心地になる。ショパンはピアノの詩人と呼ばれるが、捕えがたい宇宙の歪みの中に蠱惑的な妖精の姿を見て、その踊りを音符にする天才だと思った。
面影のうつろいが次々とピアノから投影されていく。ショパンは見るものを対象化するというより、危険なまでに同化してしまう脳の持ち主だったのではないか? 花を見ても自然を見ても、自分自身になってしまう。油断をすると他人も自分になってしまう。それはある種の狂気なのだ。

作品59の3つのマズルカのあとに、ピアノ・ソナタ第3番が演奏されたが、この曲にも森羅万象との一体化の感覚があった。ラルゴ楽章は振付家のノイマイヤーが『椿姫』で見事な使い方をした部分で、その連想でノイマイヤーの『ニジンスキー』を思い出した。狂気の中で死んだバレエダンサー、ニジンスキーの妻ロモラが、河合隼雄さんのカウンセリングを受けたことがあるというエピソードを、最近編集者との会話で知ったのだ。
「狂気とはある種の豊かな精神の状態であること」と河合さんは語ったという(文章はうろ覚え)。ロ短調のピアノ・ソナタの美はブラックホールの美しさで、ふんだんな霊感が息継ぎをする間もなく次々と湧き上がっている。こんな曲を書けた人は、現世というものに対して尊大な態度をとってしまうのではないか? ショパンと別れた後、ジョルジュ・サンドはショパンの葬式にも来なかった。
ユリアンナの演奏はシンフォニックで低音に厚みがあり、自由な歌心に溢れていて、張り詰めた美しさが一瞬も途切れることはなかった。張り詰めているが、寛いでいる。厳しいのに優しい。言葉で表そうとすると、どうしても不完全になってしまう。演奏には少しの矛盾もない。ピアニストの大きな心を通過して、喜びに溢れて命を得る作曲家の魂を聴いた。

後半のシューマン『幻想小曲集op.12』は、ショパンと地続きの世界だった。二人の作曲家のコントラストは微妙なものだ。ユリアンナはこれを、外側から分断して「ジャッジする」ような解釈はしない。シューマンの愛好家は時々ショパンを嫌悪するが、音楽はつねに内側から作られている…それを音楽ファンはしょっちゅう忘れるし、演奏家だって時々忘れてしまうのかも知れない。シューマンのロマンティックな詩情と幻想性は、ショパンの感性と双子のようなところがある。小さな歌曲のようにつながっていく9つの小さな曲は、曲が進むにつれショパンとは異なる精神のなりゆきを表現した。ショパンが黄泉の国から地上を見ていたとすれば、シューマンは地上から天上界に憧れを抱いていた。ショパンが詩人なら、シューマンには哲学者のような性質があり、獰猛で混沌としたこの世界をどこまでも明晰に見ようとする若々しさがある。しかしその知性は極端で、きっぱり分節化しようとする意志と、無秩序で無限のインスピレーションの矛盾が狂気を巻き起こすのだ。苦悩を抱えながら終曲に向かって勇敢に踏み出そうとするシューマンの精神に、えもいわれぬものを感じた。

芸術は悪魔的な世界だ。ショパンもシューマンも狂気に捉われていた。危険な乗り物に乗せられてスピードを出し、彼らは前人未到の境地にまで飛ぶことができたが、代償は大きかった。何か保険をかけて生きられる術はなかったのかと思うが、才能とはそういうことを許さないものなのだろう。
ピアニストはこれとどのように向き合うか。禅問答のようなこの命題に、ユリアンナは明晰な答えを出していた。彼女は作曲家の狂気を愛する。どのように愛するかと言うと、家族のように、母親が息子を愛するように愛する。ナイフを振り回しても大声で喚き散らしても、抱きしめようとするのだ。ピアノでありながらピアノとは別の音にも聴こえる特別な音は、極限まで覚悟を決めたシンパシーの表現で、現世での生きづらさと引き換えに特別な冒険を許された「息子たち」を愛する決意を証していた。
ショパンの精神もシューマンの精神も安息の地を求めていた。そんな当たり前のことを、「すごい」だけの演奏では忘れてしまう。アンコール前の最後の曲はシューベルトの「幻想曲ハ長調D760『さすらい人』」で、ユリアンナがこのリサイタルで伝えようとしたことが一気に押し寄せてきたような気がしたのだ。作曲家はみんな、心が帰る場所を求めていた。灯りのついた家に戻って「おかえり」と迎えられ、「おやすみ」と言われたかったのだ。

ユリアンナは志の高いピアニストで、リサイタルで再会するたびに必ず大きくなっている。リストの技巧的なオペラ・トランスクリプションを前半に二曲もってきたため、後半がやや弱くなってしまった演奏会も過去にはあったが、そういうことももうなくなった。アンコールを一曲弾き終えるたび「素晴らしいのは、あなたたちです」というように両手を客席に差し出してくれる…「私が在る」ということと「あなたが在る」ということが、強い共感によってつながる。ユリアンナ・アヴデーエワのリサイタルではそれが可能になるのだ。寛大で勇敢で、信じがたいほどの愛に包まれた時間だった。