小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

魂の唯物論主義を超えて テオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナ

2019-02-11 19:29:52 | クラシック音楽
欧州で話題沸騰の指揮者、テオドール・クルレンツィスと彼のオーケストラであるムジカエテルナ初来日公演。超満員で立見席まで出たオーチャードホールでの初日(2/10)を聴いた。ステージに登場したオケの楽員は皆個性的な風貌で、なぜかピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団のダンサーたちを思い出した。みんなが何かしらの魂の事情を抱えてこの集団に参加しているといった雰囲気で、「アンシエント・ソウル」とか「オールド・ソウル」という言葉が頭をかすめる。プレイヤーが醸し出すこの独特のムードは、新しいことが起こる期待感だけでなく、古くて懐かしい何かと再会するような嬉しさを含んでいた。

チャイコフスキー・プロの一曲目はヴァイオリン協奏曲ニ長調で、ソリストのパトリツィア・コパチンスカヤが登場。クルレンツィスはゆうに190cmはありそうな長身の男で、指揮台なしで全身を折り曲げてダンサーのように指揮をする。指揮者とヴァイオリニストはアイコンタクトというより、格闘技の取り組みのように向き合って「気」を飛ばし合い、目と目で真正面から通じ合い、二匹のオオカミのように野生のコミュニケーションを行っていた。それは同時に、ドキドキするような愛の行為にも見えた。

冒頭から驚いたのは、ソリストもオーストラもぎりぎりまで弱音の冒険を突き詰めていて、いつも「表の音」として聴こえてくるメロディアスな旋律が、ウィスパーヴォイスのような「裏の音」に聴こえたり、楽器が森の生物の鳴き声を擬態しているような不思議な音を響かせるのだ。都会的なサンクトペテルブルクの音楽ではなく、このオーケストラが生まれたノボシビルスクの村の素朴な音楽のように感じられた。コパチンスカヤはスーパー・ヴァイオリニストとしての必殺テクニックを駆使して、無茶ぶりに近い高速フレーズも「咀嚼された」サウンドで表現する。オーガニックで人懐こく、温かいサウンドだ。とにかく、新しいことが次々と起こる。命懸けのコール&レスポンスが展開された。オケの精度は素晴らしく、いくつもの「答え」を準備していたが、ありきたりの「趣味のいい」演奏ではない。文化を上層と下層に分ける、西洋的なヒエラルキーを破壊するような面白味とパンク精神に溢れていた。コパチンスカヤはクラリネット奏者、コンマスとそれぞれアンコールを1曲ずつ披露し、最後は自分のために書かれた肉声とヴァイオリンが愉快にミックスされた曲を弾いた。

ギリシアのアテネで生まれたテオドール・クルレンツィスは、22歳のときサンクトペテルブルク音楽院でイリヤ・ムーシンに指揮法を学び、テミルカーノフのサンクトペテルブルク・フィルではアシスタントを務め、ノボシビルスク国立歌劇場の音楽監督に就任すると、この地で自分のオーケストラを作った。中央集権的なオーケストラの在り方に疑問を持ち、「反抗するパワーを省略するために」辺境で自分のオケを興した。彼がひっくり返したかったものは、この世界に暗黙のこととして存在する「勝者」の論理ではなかったか。試写で見たばかりのフランス映画『天国でまた会おう』を思い出した。戦死した無数のものたちは歴史の中で「顔のない存在」であり、英雄として思い出されることもなく忘却の闇に埋もれていく。クルレンツィスはクラシックの商業主義や、ある種の弱肉強食の論理に対して、人類の歴史のアナロジーを見ていたのではないか。

後半のチャイコフスキー『悲愴』は、ティンパニとチェロ、管楽器の一部を除いて全員が立奏した。9人のコントラバス奏者も全員立っている。演奏効果は歴然としており、うねるような動きで絞り出される弦の響きは、真剣で素朴な善意に溢れていた。管楽器もとても純粋な音だった、何が善意で何が悪意か、その音から物理的な確証を得ることは難しい。科学的に証明しろと言われても難しい。しかし、声楽家は悲劇のヒロインを演じるとき、その実存的な無念を伝えるために心から純粋な存在になるのではないか? ヴァイオリンもヴィオラもチェロもバスも、疑いようもなく無辜の音を出していた。木管はこの曲でも信じられないほどの弱音を奏でる。
三楽章のアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェのマーチは、多くのオーケストラが戦争音楽のように演奏する。アイロニーにしても、その後に続く最終楽章へのコントラストにしても、この楽章が「全身全霊で心をこめて」演奏されたのは聴いたことがあまりない。三楽章は、庶民の収穫祭を彷彿させる生命力の音楽で、搾取する権力者たちのマーチではなかった。どうしたらこんな合奏になるのか。明快なポリシーがなければ、チャイコの6番の三楽章はこんなふうには演奏されない。恐らくこの「平民の側からの純朴なマーチ」を創り上げるために、オケはたくさんの試行錯誤を重ねただろう。

四楽章のアダージョ・ラメント―ソ~アンダンテの後には、最近では珍しいほどのシリアスな長い沈黙があった。ああいう沈黙は誰かが強要して生まれるものではない。皆が言葉を失い、息を呑み、沈黙した。音楽を聴いていると同時に、見えない演劇を見ていたような時間で、そのクライマックスがあまりに真に迫っていたので、聴衆は茫然自失するしかなかったという感じだ。交響曲6番は『椿姫』のようでもあった。膨大な台詞が音楽に埋め込まれ、犠牲者として死んでいく悲しいヒロインの最後が、ラストの音に重なった。しかし本当のところは、椿姫よりも悲しい顔のない無名の存在の物語で、その記憶は誰の中にも残っていない。裏切られた運命の主に向けられた花のような沈黙だった。

こんなに時間をかけて曲を磨き上げることは、通常のオーケストラでは物理的に無理だ。だからクルレンツィスは辺境の地に「それを可能にする」楽団をひっそりと作った。そんな特殊なオーケストラが聴衆を連れていくのは、ここではない果てしないどこかである。この一回のムジカエテルナの公演で、すっかり彼らの虜になった。クルレンツィスは音楽が完全に自由であるために、いくつもの局面を乗り越えてきた男だ。彼は自分が音楽をやることについて「ミッションだ」と言う。気障でもなんでもない。私はアテネに生まれたクルレンツィスの古い魂について考える。あらゆる不幸や不公平が生まれる前の、バベルの塔以前の世界を思う。鳥の言葉を聞けたアッシジの聖フランチェスコ、魚のために説教したパドヴァの聖アントニウス、彼らの聖なる素朴さ、永遠の慈愛と祈り…といったものがムジカエテルナの音楽には通底していた。
「もしかしたら彼は、イルカの生まれ変わりなのかな…」と素っ頓狂なことも考えた。天才指揮者は音波で感じ、音波で考える。彼の広大無辺で無垢な音楽には、健康な聴き手ならだれでも反応する。オーチャードに響いたチャイコフスキーは21世紀に唐突に現れたユートピア音楽で、その音楽の中にはタフな実践がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。こんなふうにオーケストラが鳴る日を、多分誰も予想していなかった。クルレンツィスはたったひとりで世界をひっくり返そうとしている…分断される前の世界を、魂の記憶で知っているからだ。
東京ではあと一回、13日にサントリーホールで公演が行われる。