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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京バレエ団『M』(10/24)

2020-10-25 10:23:49 | バレエ


10年ぶりの再演。1993年にベジャールが東京バレエ団のために振り付けた。当時ベジャールは66歳で、この前年にスイスのベジャール・バレエ・ローザンヌを30名ほどのカンパニーに縮小している。どの時代の作品にもベジャールには駄作がないが(あると言う人もいるかも知れない)、この時期は生涯で何度目かの演劇人としてのピークにあったのではないかと推測した。
 休憩なし100分。衝撃的で隙がないほどのエンターテイメントだった。「エンターテイメント」という言葉は軽すぎるだろうか。三島由紀夫の生涯と作品をモティーフにしたバレエは深淵で哲学的だが、ヨーロッパのあるタイプのモダン作品にありがちな自己完結的で「何の味もない」ダンスとはけた違いに「面白い」のだ。強烈な刺激が次々と感覚に襲いかかる。巨大な円い鏡や目のくらむような桜吹雪が天から舞い落ちる。退屈な瞬間など微塵もなかった。

「初演を見たことがない」世代の若いダンサーが三島の4人の分身を演じた。現在の東京バレエ団のスターダンサーたちで、Ⅰ(イチ)が柄本弾さん、Ⅱ(二)が宮川新大さん、Ⅲ(サン)が秋元康臣さん、Ⅳ(シ=死)が池本祥真さん。Ⅳの池本さんは大抜擢だったが、2018年に移籍してきた池本さんは最もベジャール作品となじみが薄かったはずだ。この作品では冒頭の祖母から僧、能楽のシテに早変わりしながら、つねに少年ミシマを導く。道化的でありファウスト的でもある難しい役をこなした。

舞台は天地の三分の一ほどの低い位置に視界が収まるようなセットと照明になっているので、横長の絵巻物や屏風のような視界となる。「和風」ともいえるが、ある種の非日常的な緊張感も醸し出し、特に「射手」が厳かな作法で弓の支度をする件は、見ていてハラハラするほど「間」が長く、その間の静寂が刃物のように鋭く感じられた。24日は和田康佑さんが射手を感じた。
聖セバスチャンを踊った樋口祐輝さんは、このバレエのオリジナルキャストであった首藤康之さんを思い出させた。わざと似せたわけではないだろう。身体つきや雰囲気がもともと似ている。「仮面の告白」で幼い「私」が初めて性衝動を感じた対象がグイド・レーニの絵画「聖セバスチャンの殉教」で、三島自身も身体を鍛えてから同じ姿をコスプレ(?)して撮影している。



過去に何度か観ていたはずなのに、聖セバスチャンがこんなに活躍することを忘れていた。まさに目は「ふしあな」だ。ブリーフ姿でドビュッシーのファンファーレで華麗に踊り、「ディアナとアクティオン」さながらに弓を持って、今度は金色のブリーフ(?)で踊る。少年三島を頭上で高くリフトして運ぶシーンもすっかり忘れていた。

男性ダンサーによる群舞が卓越していた。全員がベジャールの創造物に見える。西洋人が東洋人の背中を見て「長い背(ロング・バック)」というのは見たままのことなのだが、ベジャールはそこに日本の個性的な美、神に愛されし特別な美を見つける。ふんどし姿の男衆が芋虫のように連なって「龍」の動きをする場面は圧倒された。あんな面白いことをベジャールは一回しかやらない。ボディビルのトレーニングをする男性群舞が「人・人・人」の形となって玩具のように動くシーンも面白い。時折、4人の分身と男性群舞の動きはゲーム画面のキャラクターにも見えた。ステージ全体がキッチュで二次元的で、サイケデリックな画面になるのである。ニジンスキーは牧神の午後で二次元的表現を行ったが、ベジャールはさらにその先を行く。

黛敏郎さんの音楽はオペラ「金閣寺」以上に前衛的で、「能のお囃子(能管、小鼓、太鼓)を軸に、十七弦筝、オンド・マルトノ、パーカッションを加えた25曲」(『M』創作時の音楽責任者 市川文武さんによるプログラム寄稿)によって構成され、オンド・マルトノと能管のアンサンブルはピエール・アンリの電子音楽を使ったベジャールの初期作品を彷彿させた。そこに不自然さはない。こうした面白い「開通」が起こるのも、ベジャールと三島が二歳違いの同世代人であり、時差はあれど同じ20世紀の若者文化を吸収していたからだろう。
ベジャールは数秘術にも興味があったはずだ。三島とモーリスの二人のMはともに1月に生まれている(山羊座)。そして偶然にも11月に亡くなっている。ジョルジュ・ドンの命日も11月なのだ。

沖香菜子さんのオレンジ、政本絵美さんのローズ、伝田陽美さんのヴァイオレットが登場するシーンでは、三島とベジャールのキッチュ感覚が融合し爆発する。ソファのカップルは「鏡子の家」を顕しているのだろうか。三島自身も出演した映画『黒蜥蜴』も思い出した。「女」を踊った上野水香さんには息を呑んだ。微塵の無駄もなく、無機的で完璧な均整がとれている。ベジャール自身がボレロのメロディに任命したダンサーだが、振付家独特の「次元」を直観で理解しているのが上野水香さんだった。神話の世界と現実の世界が舞台では地続きになる…水香さんの「女」にはバランシンから霊感を得たベジャールの痕跡も感じられた。

子役にして主人公である「少年」を演じた大野麻州さんは、冒頭の「クローゼットの中で消えるマジック」から、「武士道とは…」の朗誦、たくさんの踊り、聖セバスチャンの高いリフトなどを勇敢にこなし、歴代の「少年」役と比べても見劣りしない演技だった。弥勒菩薩像が並ぶ大伽藍のような「海」を24人の女性ダンサーが演じ、少年は手足をばたばたさせて元気に羽ばたく。この無邪気な姿は三島の原点であり、モーリスの原点なのだ。8ミリフィルムに記録されたぴょんぴょんジャンプする美少年モーリスの映像を思い出した。
ベジャールが三島を描くということは、ごく自然なことだったのだ。強烈に鋭利なものが二人の魂を貫いている。「相手を知ろうと足掻いている」場面などひとつもなかった。すべてが衝撃的であると同時に自然で、きわどさの寸前で絶妙なデリカシーが発動されていた。二人の天才に通底しているのは、「擬(もどき)」の感覚であり、本物らしく作られた嘘より、嘘のほうが本当のことを語れるという真実だ。
三島の死は「擬」的(モドキ的)であり、死ぬために作られたマッチョなボディもキッチュである。キッチュを理解しない芸術は、説教臭く抹香臭く、ただ青臭い。『M』は洗練された芸術的感性の行きつく最終地点のような特別なバレエで、これを観ると自分はベジャールの永遠の生徒だと思う。これが「バレエであった」ことさえも毎回忘れてしまう。和風の音楽のせいで、あんなにもふんだんにクラシック・バレエの技巧が使われていたことを記憶は忘れてしまうのだ。今回も重要なものをいくつも見逃していると思う。

ベジャールは紛れもなく愛の人だが、『M』には底なしに悪魔的なものが滾っていて、奥の院は開かない。最後の扉は開けなくてもいい、とベジャール自身が言っているような気がした。
ラスト近くで流れるシャンソンは、魔法のようだ。「今まで見たものは全部嘘ですよ」と言いたげに、登場人物たちが現れて「少年ミシマ」のリボンの血をくるくると引き出す。最後は再び、弥勒となった女性ダンサーたちの海のシーンとなり、冒頭シーンと美しい円環を結ぶ。

カーテンコールのとき、ごく自然に一階席かスタンディングオベーションが巻き起こり、私も椅子から立ち上がった。『M』でこんなに観客が熱狂したのは初めて見たような気がする。ただ熱狂しているのではなく、皆が内側から揺さぶられて、どうしようもなくこの上演に感謝したいという気持ちを表しているように見えた。終演後にプログラムを買い求める人々の長い長い行列にも驚かされた。「本物」は朽ちない。舞台アートが危機に晒されたこの年、ベジャールが客席に与えたものは深く、大きかった。


ボリショイ・バレエ・in シネマ『白鳥の湖』

2020-06-19 04:48:32 | バレエ

ボリショイ・バレエ・in シネマ『白鳥の湖』昼の回をT・ジョイPRINCE品川で鑑賞。新型コロナウィルス対策で事前に入場者数の制限の告知があったが、座席は椅子も大きく前後左右のゆとりがあり、「密」な感じはなかった。
 
ユーリー・グリゴローヴィチ版は2000年に最終的な改定が行われたものだが、美術には何となく1940年代の面影がある(特に白鳥たちが「囚われている」二幕冒頭の表現)。一幕の宮廷シーンでは、王子と二人の女性の友人との踊りが多くを占めるが、この二人の友人役がどちらも見事で、大きな拍手喝采を浴びていた。ジークフリート王子役のジャコポ・ティッシはイタリアから招かれてボリショイに入ったダンサーで、2020年の来日公演でも王子を踊る予定。最初はずいぶんおとなしい印象だなと思って観ていたが、ひとつひとつの動きが誠実で抒情性があり、長身なだけにジュテが華やかに見える。横顔が美しく、ノーブルな雰囲気の持ち主。

スミルノワのオデットが完璧だった。怯えたような表情で全身で哀しみを表現し、塑像のように白鳥の象徴的なシルエットを見せる。ボリショイ・バレエ・シネマは映像がとても綺麗なので、スミルノワの動きも思い切り目を開いて凝視したが、肉眼では捉えられない微細な動き・オーラの放射(!)が超高速で行われていると感じた。どうしたらそういうバレエになるのか。ロパートキナ、ザハロワに比肩する伝説の白鳥だと思う。ティッシのサポートは真剣で、スミルノワとの信頼関係がうかがえた。

この日のボリショイのオーケストラは独特で、マエストロの個性なのだろうが打楽器と低弦を爆発的に鳴らし、一幕は戦争音楽のような過剰なチャイコフスキーだった。舞台とのシンクロはぴったりで、髪の毛一つ分もズレない。金管も木管も正確で、正確過ぎるほどだったが、個人的にオーケストラには別の感動を求める。これはバレエに徹したオーケストラ表現なのだろう。三拍子の一拍目が聴いたこともないほど強く、音響の環境のせいもあるのだろうが、強い圧迫感があった。

これはまさにボリショイだな…と思ったのは、幕間インタビューでトリリンガルの司会の女性がスペイン役の若いダンサーをインタビューしているとき、背後で何とかカメラに収まろうと道化役のブチンツェフとロットバルトのゲラシチェンコが目線を向けて踊っているのだ。いったんカメラアウトしても、次の瞬間にはさらにカメラに近づいて踊って見せる。何分後かには舞台で踊るのだから、エネルギーを温存しておけばいいのにと思うのだが…。ボリショイでキャラクター・ダンサーのクラスレッスンを見学したとき、日本からの何かのスカウトと勘違いしたのか、ダンサーたちがすごいアピール度でこちらの近くまで何度も飛んできたのを思い出した。

このロットバルト=エゴール・グラシチェンコは優秀で、ツィスカリーゼに長く習っていたらしいが、今頭角を表している若手なのだろう。グリゴローヴィチ版のシンプルな衣装とメイクの「偽悪的でない」悪魔を素晴らしく演じた。抑制された演劇性があり、王子の分身=シャドウとしての悪魔を表現した。グリゴローヴィチは演劇的・政治的なメッセージを『白鳥の湖』に込めている。王子は無辜のシンボルではなく、ロットバルトも一面的な悪のシンボルではない。二人で一人の「男」であり、彼らは影のように一体化している。

スミルノワのオディールはオデットと全くの別人で、奇矯で誘惑的な動きを繰り返し王子を翻弄する。そのときの王子は「もう白鳥とは会えないかも知れない。それならこの魅惑的な相手を選ぼう」という決意を見せる。スミルノワのグランフェッテは当然のようにダブルで、軸もブレない。拍手が手拍子になる習慣はいつからなのか知らないが、ボリショイの熱狂した客が次の場面に移ることを惜しむように、スミルノワの黒鳥を舞台に呼び出していた。

最終場では白鳥と黒鳥の群舞が表れる。オデットは他の女に忠誠を誓った男に対して一縷の望みも与えず、氷のように冷たい。もうしでかしてしまった過ちは取り返しがつかないのだ。男女の間の裏切りについても雄弁に語っているようだ。罪の意識に苛まれ、絶望した王子が頭を抱え込んでバレエは終わる。この解釈は本当に見事だと思った。
 白と黒が無限の象徴性を帯びている。人間である限り、陰陽がありダークサイドがある。神はなぜ人間にも白と黒を作ったのか…不完全な人間に何か深い理解を与えるためではなかったのか。混沌とした世界と劇場が頭の中で繋がった。深読みではあるが、そう見るか見ないかは、観客の自由だと思う。

カーテンの内側では、それぞれのダンサーの先生たちが祝福しに弟子のところにやってくる。これも何度も観た景色だ。2017年の来日公演では、悪魔を踊り終えたばかりのイーゴリ・ツヴィルコと写真を撮ったとき凄い力で肩を引き寄せられたのでクラクラした。ボリショイ・スキャンダルなどという映画も作られたが、あの劇場の稽古場は、世界一清潔な場所だと思う。物事の白と黒とは、そんなに単純なものではないのだ。





 

 

 


パリ・オペラ座バレエ団『オネーギン』(3/6)

2020-03-08 11:11:38 | バレエ

パリ・オペラ座バレエ団来日公演、Bプログラム『オネーギン』ユーゴ・マルシャン&ドロテ・ジルベール組を鑑賞。決定版だと思っていた「本家」シュツットガルト・バレエ団のフリーデマン・フォーゲル&アリシア・アマトリアンに匹敵する素晴らしい上演で、新しいドラマが見えてくる鮮烈な内容だった。ドロテ・ジルベールのタチヤーナの解釈が深く、踊りも細部に至るまで卓越していた。今のドロテを観られることは奇跡で、10年前から素晴らしいバレリーナだったが、こんなふうに成長するとは予想していなかった。バレエの女神のようなオーラを放っていた。

ジョン・クランコの『オネーギン』は、振付家が64年にボリショイ・オペラが上演したチャイコフスキーのオペラ映画を観たことに触発されて作られたもので、当初はオペラの編曲をそのまま各場面に当てはめて振付が行われる予定だった。このアイデアを却下したのは劇場側で(ロイヤル・オペラハウスとシュツットガルト歌劇場)、既存のチャイコフスキーの楽曲をクルト=ハインツ・シュトルツェが編曲・再構成して作られた。物語はオペラの台本がそのままバレエに移し替えられていて、冒頭の女性の抒情的な三重唱は、テーブルを囲むラーリナ夫人・乳母・オリガによって視覚化されている。

オペラでもバレエでも、同じ演出・振付のもとで演じ手が自らの采配で決定する事柄に一番興味がある。ドロテ・ジルベールのタチヤーナはシュツットガルトのアマトリアンとも、前日に踊ったアルビッソンとも全く違っていて、とても落ち着いていて大人びていた。その様子を見て、彼女がこのバレエでやろうとしていることが何となく分かりかけて興奮した。タチヤーナは陽気な人の輪に入らず、ずっと本を読んでいるが、夢見がちなのではなく、形而上学的なのであり、田舎の村の人々が踊ったり集ったりして「重力のままに」生きていることを退屈に思っている。

 そこにオネーギンが現れる。身長190センチのユーゴ・マルシャンは颯爽としていて、恐らく本人も似た性格をしているのだろう。理想が高く、ちょっとしたことに苛立ち、いつも最高のものを探している若者といった風情だ。タチヤーナがオネーギンを最初に見つめる場面でも、ドロテは冷静で「ずっと待っていたものが現実に現れた」ということを嬉しそうに認識していた。素晴らしいのは、オネーギンが散歩の途中にタチヤーナの読んでいる本を手に取ったあと踊り出す長いソロを見つめる場面で、「この世界で自分を満足させるものなど何もないのだ」ということを語る若い男に対して、微かな憐憫の表情を浮かべていたことだった。これは、初恋の衝撃に全身が砕けそうになる「本家」のアマトリアンと対照的だ。その憐憫ゆえに、タチヤーナは「自分の分身である」オネーギンを支えてあげたいと思い、将来の伴侶としての未来を思い描くのだ。

レンスキー役のポール・マルクは次期エトワール候補と噂の高いダンサーだが、これが初来日。丁寧な踊りで、オネーギンと対照的な牧歌的なムードもよく出ていて、ナイス・デュボスクの若々しいオリガとも好相性だった。華やかさにおいては、3/5のエトワール・カップル(ジェルマン・ルーヴェ&レオノール・ボラック)が勝っていたが、こちらのキャストも難しい振付をよくこなしていた。デュボスクは婚約者をからかってオネーギンとはしゃいで踊る場面も良かった。

タチヤーナが寝室の鏡から現れるオネーギンの幻影とともに踊る1幕の最後は、息を呑む出来栄えで、ドロテの身体表現は今まで観たことのないレベルに達していた。マクミラン版のバルコニーのシーンも凄いが、オネーギンの鏡のシーンはさらに官能的で危険な領域に踏み込んでいる。パ・ド・ドゥの奇跡を立て続けに見せられ、ダンサーの肉体の神秘に度肝を抜かれた。バレリーナの二本の脚が空間を断ち切る鋏の刃のように思えたのは初めてのことだった。オネーギンの色気も凄まじく、踊り終えた後に冷酷に鏡から抜け出していく様子は「薔薇の精」を思い起こさせた。

ドロテの演劇プランでいくと、タチヤーナがオネーギンに手紙をびりびりに破かれる場面ではどういう芝居になるのか興味があったが、ここも個性的だった。手紙を突き返そうとするオネーギンに対して、冷静に「これは受け取るべきだ」という表情を見せる。「若いあなたがどう思おうと、私はあなたの不完全な心も愛している」という意志に思えた。ユーゴのオネーギンは自信に溢れたタチヤーナに、反抗期の子供のような反応を見せる。手紙を破かれたタチヤーナは振付通りに両手で顔を覆って泣くが、同じ所作なのに前後が異なるとやはり違う意味に見えるのだ。ドロテの解釈は最後までスリリングだった。

ポール・マルクが決闘前に踊るソロは、オペラでいうレンスキーのアリア「青春は遠く過ぎ去り」だ。若くして自分は死んでしまうのだ…という未練と無念を、ダンサーは踊りで顕す。テノールの詩情をまとって身体で歌うのだが、ポール・マルクは真剣な表情で「辞世の舞」を踊った。追いかけてくるタチヤーナ&オリガ姉妹が、どちらがどちらか分からないコスチュームで決闘前の男二人に絡む振付は何度見ても素晴らしい。クランコは本当に天才だったのだ(彼もまたレンスキーのように「夭折」した芸術家だった)。

オーケストラは『ジゼル』に続いてこちらも東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団がピットに入ったが、シュトルツェの編曲はプレイヤーへの負担が大きく、立て続けに演奏すると管楽器の息がもたなくなってしまう。巨匠ジェームズ・タグルの指揮も、バレエのドラマにあわせて思い切り煽るので、クラシックの演奏会とは違う表現になる。ミシェル・ルグランの映画音楽のような、少しばかり通俗的な「濃さ」がバレエの振付を面白くするのだが、弦はともかく金管にとっては針の筵だっただろう。これを録音でやってしまっては味気ない。オーケストラには心から感謝するしかない。

 3幕のサンクトペテルブルクのシーンでは、幕が開いた瞬間にパリ・オペラ座バレエ団のダンサーの見事な静止ポーズに大きな拍手が湧いた。バレエが素晴らしいことと、この公演で特別感じる感動というものがあった。全員、この特殊な状況下で全力を出し切って献身的に取り組んでいる。面白いことに、『ジゼル』と『オネーギン』には類似した美しいシーンが何度か出てきて、一幕の村人たちが横列になって棒状に回転するように踊る群舞や、オネーギンが腕を輪にしてタチヤーナの頭からつま先まで包み込むマイムなどがそれだ。この来日プログラムにはとても粋な意味があるような気がした。

タチヤーナの夫グレーミンは、『ジゼル』でヒラリオンを踊ったプルミエ・ダンスールのオドリック・ベザールが好演し、オペラのバス・バリトンの渋いアリアを思わせる落ち着いた存在感を見せた。聞いたところによると、パリではベザールもオネーギンを踊っているらしい。シュツットガルトのロマン・ノヴィツキーも二度の来日公演でオネーギンとグレーミンの二役を見せてくれて大変良かったが、演劇的に大いに深まる経験なのだろう。ドロテは、1幕から3幕にかけて「田舎娘から貴婦人への大変身」はせず、衣装や設定は変わるが、最初から一貫して変わらないタチヤーナの内面を見せた。やはり、途轍もなく独自で画期的な役作りだ。タチヤーナがオネーギンに向けて書いた手紙の内容を知っているからだろう。プーシキンの原作によれば、それは決して夢見る乙女のものではなく、同質の魂をもつ「同志への」呼びかけで、勇ましく高潔なものだった。

 みじめに追いかけてくるオネーギンと踊る最後のパ・ド・ドゥは一幕の幻想シーンにも増して官能的で、未成年には見せられないと思うほどだが、「過去に振り切った男を必死で拒絶する」踊りではなく、ドロテの解釈ではここで新たな愛が、爆発的に生まれているはずなのである。最初の出会いのとき、微かに感じていたこの男への「憐み」が今やすべてとなり、自分自身のどうしようもなさ、閉じ込められた内面の逃げ道のなさと溶け合って、水爆級の情熱となって燃え盛っている。「私の直観は正しかったのだ…!」というタチヤーナの心の叫びが、ひとつタイミングを間違うとダンサーを大怪我させてしまうようなあのアクロバティックなパ・ド・ドゥから聴こえてきた。オペラでは「オネーギン、あなたを愛しています」という明確な歌詞によって歌われ「幸せはすぐそばにありましたのに」という言葉が続く。この二人は紛れもなくソウル・メイトで、生きるために時計の針を進めた女と、時計の針が止まったままの男の「ズレ」が悲劇的なラストに雪崩れ込む。あんなことやこんなことを舞台でやりながら、見事オネーギンを「撃退」するタチヤーナの最後の表情は、ダンサーによって見事に違う。もうあそこでは、何も隠せないのだろう。泣き崩れる寸前の心で、ドロテは「この世界では理性が勝つ!」という演技をしていたように思う。

    隣の席にいらしたダンスマガジンの編集部の方に聞いたところ、パリに残ったカンパニーは現在ストライキ中なのだそうだ。ルーヴル美術館の職員もストライキを起しているらしいし、観光都市としての機能の何割かはストップしている。東京もさらに酷い状況にあるが、現実には二種類あるのではないかとも思う。ダンサーの選択に「演出された役」と「内面から演じる役」の二つがあるように、社会と実存の異なる次元が存在する。『ジゼル』上演期間中に芸術監督のオレリー・デュポンに取材をしたとき、なぜ2017年に東京公演でユーゴ・マルシャンのエトワールに指名したかを聞いた。彼女は凛として「オペラ座が尊敬する、最も大切な観客がいる国だから」と答えてくれた。両者が重ねてきた歴史が実現させたこの奇跡的なツアーは、大成功に終わろうとしている。


photo:Julien Benhamou/Opera National de Paris

 


パリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』(2/27)

2020-02-28 10:26:41 | バレエ

110名のダンサーが来日したパリ・オペラ座バレエ団『ジゼル』の初日(2/27)を観る。ジゼルはドロテ・ジルベール、アルブレヒトはマチュー・ガニオ、ヒラリオンはオドリック・ベザール、ミルタはオニール八菜。ピットにはベンジャミン・シュワルツ指揮・東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。幕が開いた瞬間、アレクサンドル・ブノワの伝説的な装置に圧倒された。樹木に埋め尽くされた田園風景は写実的であると同時に舞台の魔力を感じさせるもので、パリ・オペラ座のダンサーたちの優美なダンスを引き立てた。拍手で迎えられたジゼル役のドロテ・ジルベールにはおだやかな威厳が漂う。平均年齢25歳のオペラ座ダンサーの中ではベテランになってしまったが、一度に引退してしまった感のある一世代上のエトワールたちに負けないカリスマ性があり、私生活の充実(一女の母)もあり、今がまさに満開の花盛りという雰囲気だ。1幕からジゼルの悲劇性を細やかな仕草で表現し、恋に夢中な乙女のお茶目さも見せてくれた。

 アルブレヒト役のマチュー・ガニオは、ガラ公演などで来日はしていたものの、前回のオペラ座の来日公演は怪我で降板していたため、この日の舞台は多くの観客から待ち望まれていた。20歳でエトワールとなり、22歳でアルブレヒトを踊り、この3月で36歳(1984年生まれ)となるが、初めてガニオを観た日の感動が再び蘇った。どこから観ても絵のように美しく、完璧な姿をしている。エトワールになるのは早かったが、怪我も多く、過去にはスランプと感じさせる演技も観てきた。正直すぎて不器用な性格が、時折自信のなさとして踊りにも出ていたが、この日のアルブレヒトはその謙虚な性格がすべてプラスの方向に成就していた。最も感動したのは着地の優雅さで、長身のダンサーがあそこまで厳密にコントロールするのは大変なことだろう。ジゼルを奪おうとするヒラリオンを凝視する瞳は、それまでとは別人のもののようで、前方席で見たため迫力に驚いた。ガニオにとって舞台こそが生きる場所なのだ。

コールド・バレエの美しさは天上的で、構成もかなり凝っている。パリオペラ座のこの改定版の初演は1998年だが、ロマンティック・バレエの「古式ゆかしき」風味を保ちつつ、現代的に技術のレベルを上げたと思われる箇所もあり、スポットライトが当たらない群舞シーンのラストにリフトが加わるなど粋な「匠の技」が盛り込まれていた。衣装デザインもブノワによるものだが、動きとともに芥子の花のようにひらめくコスチュームは夢のような美しさで、一流の素材を使っていることが伺えた。美術、衣装、照明…しかし、なんといってもすぐそこにいるダンサーの存在が有難かった。人が花のようであり、城のようであった。踊り手の脈拍の鼓動が伝わってきて、同じ空間にいることが幸福に感じられた。

一瞬で狂気に見舞われるジゼルの乱舞と死は、いかにもバレエ的だ。熟練したドロテのジゼルは矛盾なくその物語的な飛躍を表現した。「ラ・シルフィード」にも通じるロマンティック・バレエの文体は独特で、小説の論理性から解き放たれた夢のロジックから構成されている。プログラムには、バレエ台本作家のテオフィル・ゴーティエについての資料的な寄稿(クレマン・デシー氏による)があり大変詳しいが、これを読み『ジゼル』は御伽噺のようでいて、厳密なバレエ文体によって書かれた記念碑的アートだと実感した。アダンの音楽もまた、改定を繰り返して完成したものだが、チャイコフスキーに比べて凡庸な印象のあったオーケストレーションが、この公演では埃を吹き払った新鮮なものに聴こえたのだ。心理的にも舞踊的にも、本当によく書かれている。指揮のベンジャミン・シュワルツは米国出身で、サンフランシスコ交響楽団の常任指揮者も務めた人だが、ガルニエでもピットに入っているのだろうか? 贅沢な音楽だった。

2幕では、ミルタを踊ったオニール八菜さんが会場に深い静寂をもたらした。古典的なバレリーナの美しいシルエットで肩のラインも素晴らしく、「結婚前に亡くなってしまった乙女たちの霊」であるウィリを率いて無表情で踊る様子は、謹厳な修道院長のようだった。まったく体重を感じさせないポワントは妖精そのもので、ダンサーの日頃からのストイックな鍛錬と精神性の高さを思った。観客がミルタに視線を集中している時間は長く、オペラで言う長大なアリアを歌っている状態なのだが、全く緊張が途切れない。『ジゼル』では5公演ともオニール八菜さんがミルタを踊る。この役の「至芸」を観ることが出来る観客は幸福だ。

亡霊となったジゼルの、すべての表情を消した内観のみの演技は改めて素晴らしい。森に迷い込んだ男を「死ぬまで踊らせる」ウィリたちの怨念と、無表情なまま深い愛をアルブレヒトに注ぎ生者の世界へ送り返すジゼルのコントラストは、「白いバレエ」の世界でしか描けない。「そこにいるのに、いない」ジゼルと虚しい踊りを踊るアルブレヒトも見事だった。ダンサーは生まれながらの心を隠すことなど出来るのだろうか? マチュー・ガニオの優しさは、人間としての底なしの寛大さを表現する。現実では、バリアがなさすぎて生きるのがつらいダンサーかも知れない。

パリ・オペラ座バレエの初日は万雷の拍手とスタンディングオベーションによって幕を開けたが、新型コロナウィルスの影響で多くの公演が中止となる中での招聘元の英断だった。NBSは先日の「アリーナ・コジョカル・ドリーム・プロジェクト2020」でも、座長のコジョカルの怪我による出演者・演目の変更という逆境を乗り切っている。世界中から急遽スター・ダンサーを招聘し、主役のコジョカルの出演がわずかとなる中で公演を成功させる手腕は、プロの招聘元のものだった。現在の壊滅的な自粛ムードは、2011年の震災後の相次ぐオペラの出演者キャンセルを彷彿させるが、今回はウイルスという目に見えないもの・正確に実体が掴めないものが原因であり、影響力の規模も世界的だ。人間は過去から学ぶ。2011年、日本のクラシック・オペラ・バレエの招聘公演は絶滅するのではないかと思われたとき、民間の招聘企業は逆境の中で多くのことを成し遂げた。

 どんなことも、相手がいて成立する。110名のダンサーを踊らせる決断をした芸術監督のオレリー・デュポン、パリ・オペラ座総裁のステファン・リスナーにも敬意を表する。現段階ではナイーヴな議論になることは承知だが、この来日公演が正しかったことは歴史が証明すると確信している。逆境にあるとき人間が頼るべきは、自らの誇りと直観である。

政府のガイドラインのもと中止となった多くの公演を非難する意見では勿論ない。パリ・オペラ座バレエ団来日公演にあたっては、感染予防についての細かな項目が書かれたプリントが配布され、入り口では赤外線サーモグラフィーが設置されていた。ホールの換気にも配慮がなされ、普段より空気は清澄に感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 


東京バレエ団『くるみ割り人形』(12/13)

2019-12-15 17:36:29 | バレエ

37年ぶりのリニューアルが大きな話題となった東京バレエ団の『くるみ割り人形』の初日(12/13)を東京文化会館で観る。マーシャ役は川島麻実子さん、くるみ割り王子は柄本弾さん。ドロッセルマイヤーは森川茉央さん。カンパニーが長年踊ってきたワイノーネン版をもとに衣裳、装置、演出が新しくなっているが、予想以上に鮮烈で、充実したプロダクションだった。
アンドレイ・ボイテンコ氏による舞台美術デザインはクリスマス・ツリーの美しさを幻想的なスケールに押し広げたもので、舞台が転換するたびに盛大な拍手が起こっていた。大広間は壮麗で輝かしく、一方マーシャの寝室は広く暗く礼拝堂のような雰囲気。昔のロシアの子供部屋はこんなに心細い空間だったのかと思う。この暗さには夢の世界とつながる「回路」が潜んでいる。『オネーギン』で恋人の幻想をみるタチヤーナや、『薔薇の精』で眠りの中で妖精と出会う少女を思い出す。大広間で子供たちとは別に舞踏会を繰り広げる大人たちの様子は『ロミオとジュリエット』を彷彿させるし、新しい『くるみ割り人形』にはたくさんのバレエのオマージュがちりばめられているように感じられた。この印象はラストシーンまで続いた。

マーシャを踊る川島麻実子さんは床に吸い付くような柔軟な甲で、全身が表情豊か。チャイコフスキーの音楽の耳あたりの良さの奥にある前衛性を、見事に踊りで表現していた。2年ほど前、川島さんと指揮者の川瀬賢太郎さんの対談の司会をやらせて頂いたことがあるが、川島さんは神奈川フィルの公演に足しげく通い、チャイコフスキーの音楽を研究されていた。川瀬さんへの質問も熱心で、スコアがどうなっているのか、音楽の構造やオケについても好奇心旺盛で「バレリーナはこんなにも研究熱心なのか」と驚かされたものだ。その知性は、この日の踊りに生かされていた。チャイコフスキーのバレエ音楽以外のシンフォニーやコンチェルトもきっとたくさん聴かれたのだろう。可愛らしいマーシャが、音楽の神秘と深遠を同時に表していた。

ピエロ(鳥海創さん)、コロンビーヌ(金子仁美さん)、ムーア人(海田一成さん)が生きた人形として登場する場面では、客席の子供たちの食いつくような視線がすごかった。フォーキンの『ペトルーシュカ』を思い出すが、同時にこの面白いキャラクターが舞台を埋め尽くす感じは『ベジャールのくるみ割り人形』も彷彿させた。ベジャールは「思い出すナ…クリスマスのコト…」と自らの幼年期を振り返ってくるみ割りを振り付けたが、このバレエの「二次元的なキャラクターが次々と出てくるユーモラスな感じ」も嬉々として強調し、金色と銀色のドラァグ・クイーンのような天使まで登場させている。東京バレエ団はワイノーネン版とともにベジャール版も頻繁に上演してきたので、あの「カラフルなキャラクターがひとつの空間に同居するなんとも言えない面白い感じ」を出すのがうまい。初日の上演では、シーンごとに長い喝采が巻き起こるので、次の踊りへ移るタイミングが難しかったと思うが、喝采の間じゅう張り子の人形のようにゆらゆらと揺れる演技をしていたピエロの鳥海さんが最高だった。

 『雪片のワルツ』では、NHK東京児童合唱団の約20名ほどの少年少女が舞台の左側に整列し、清らかな声を聴かせた。シーケンサーのボイス加工などで現代では省略できるパートだが、くるみ割り人形は「こども」が大切な役を担う。舞台では東京バレエ学校の生徒たちも大活躍をした。生の子供たちの声はホール全体にこだまし、聖なる響きに胸を打たれた。
指揮は井田勝大さん。日本でバレエのピットに入って、これだけ踊り手の呼吸感に寄り添った見事なチャイコフスキーを振れる人はあまりいないだろう。10年以上前、Kバレエ カンパニーの『白鳥の湖』の公演で井田さんが振られたとき、客席でNBSの皆さんとお会いしたことを思い出す。聞けば「うちでずっと助手をやってくれた子が指揮デビューするんですよ」とのこと。井田さんは長年、福田一雄先生の助手を務められていた。現在はKバレエの音楽監督だが、今年は東京バレエ団と両方のピットに入ることなったのが嬉しい。東京シティフィルハーモニック管弦楽団は名演で、金管の力強いワルツの表現がダンサーたちに安心感を与えていた。

2幕ではたくさんの東京バレエ団のスターが活躍した。12/15の王子役の宮川新大さんと伝田陽美さんが踊る「スペイン」は一気に陽気で温かいムードが溢れ出す。宮川さんの明るい肯定的なエネルギーに、改めて大きなスター性を感じた。三雲友里加さんとブラウリオ・アルバレスさんの「アラビア」は妖艶な美しさ。「中国」は岸本夏未さんと岡崎隼成さんが機知に富んだコケティッシュな踊りを見せた。「フランス」の樋口祐輝さんは、個人的にこの公演での大きな発見だった。「ロシア」の池本祥真さんも踊りと本当によく合っている。池本さんは2010年のペルミ国際バレエコンクールの金賞を受賞しており、モスクワでキャリアをスタートさせたダンサーだ。カンパニーの中でどんどん存在感を増していることがたのもしい。

グラン・パ・ド・ドゥは見事だった。くるみ割り王子の柄本弾さんはベジャールもノイマイヤーも素晴らしく踊るが、クラシックでは完璧なダンスール・ノーブルで、基本のポジションの美しさと正確さにクラシックのダンサーとしての底力を見た。川島さんとのパートナーシップは高次元の信頼関係を感じさせるもので、二人が踊るときの目標がとても高くなっているのが分かる。川島さんの冒険心と大胆さが、柄本さんのやる気をさらに引き上げているのだと思った。インタビューでは「今後はバレエ団をひっぱっていく役目も担う覚悟」と語られていた柄本さんだが、王子の華麗な動きで空気が変わり、群舞がいっせいに動き出すシーンの鮮やかさに、その言葉の意味を理解した。王子は最後、起立したまま数人のダンサーに持ち上げられ花芯のようになり、群舞は花弁のごとく腰を落として静止するのだが、それはまさにに「ボレロ」と「春の祭典」のラストと重なった。東京バレエ団の新しい『くるみ割り人形』は、バレエ団の創成期を振り返るものであり、同時にこれまで踊ってきた数々のレパートリーを振り返るものでもあったと思う。それが決して仰々しくも重々しくもない、「ハイセンスで華麗な」世界になっているのが東京バレエ団の良さなのだ。

東京バレエ団が海外の巨匠たちの名作に取り組むときの一途さ、謙虚さをずっと見てきた。マラーホフやギエムの公演を支え、彼らの引退まで献身的に共演を続けた。私がバレエに目覚めたのも1990年の東京バレエ団とジョルジュ・ドンの『最後のボレロ』で、学生時代に岩手県民会館での公演を観たことがきっかけだった。そこから数えきれないぐらい、彼らの公演を観た(東京バレエ団は私の青春のシンボルなのだ)。バレエは西洋のものか、誰のものか、正解はどこにあるのか? という真剣な問いに、忍耐強くしなやかに取り組んできたこのバレエ団が、この上なく優美な形で見せてくれた「解答」に胸が熱くなった。これはただの新制作ではなく、彼らのすべてであり、そのアイデンティティの在り方が清潔で崇高であることに感動せずにはいられなかった。

 芸術監督の斎藤友佳理さんは、お稽古ではとても厳しい方で、はた目からはきちんと踊っているように見えるダンサーにも、名指しで鋭い注意をされる。こんな厳しい稽古場、私はとてもいられない…と見学していて何度も思ったが、それは母の厳しさで、全員がどれだけ必死であるかを知っている。この素晴らしい『くるみ割り人形』を完成させた斎藤さんの熱意とリーダーシップ、美意識と才能にはただただ脱帽である。