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小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

K-BALLET COMPANY 『マダム・バタフライ』

2019-09-29 09:36:44 | バレエ
K-BALLET COMPANY20周年記念公演『マダム・バタフライ』の初日(9/27)をオーチャードホールで鑑賞。華やかなセレブレティがゲスト席に散見される中、世界初演の舞台が幕を開けた。浮世絵風の洋風の装いの女性の顔と、着物を着た女性の顔が二重写しになった絵が描かれた幕が現れ、「君が代」をアレンジした旋律が冒頭に奏でられた。暗がりの中、幼いバタフライは父が「ミカドからたまわった剣」で、自決の前の剣舞を踊るのを見る。その剣は、蝶々の手に握らされる。父から娘へ引き継がれる「武士道」の精神を表現するプロローグである。

第1幕1場はアメリカで、陽気な水兵たちが紅白の旗を持ってバーンスタイン・ミュージカルのように軽快に踊る。エリート海軍士官のピンカートン(堀内將平)が、やがて妻となるケイトと出会い、恋をする「前史」的なストーリーが描かれ、ここでのピンカートンはノーブルなジークフリート王子かジゼルのアルブレヒトのようだ。ケイト(小林美奈)と友人たちは、やや身分の怪しい雰囲気を醸し出しながらも華やかで、優美なクラシックのステップや跳躍で「西洋美」を表現する。ドヴォルザークの「弦楽セレナード」の旋律が聴こえてきたが、チェロパートを強調した編曲版に聴こえた。マノン・レスコーの時代の装束を思わせる女性たちのカラフルなドレスが眩しく、照明も明るい。このシーンで熊川さんがプティパ以降の「バレエの定式」に引き寄せたドラマ作りを提示してきたことを強く感じた。

第1幕2場は長崎の遊郭で、この地に赴任してきたピンカートンが二人の海軍士官をともなってふらふらと迷い込んでくる。このシーンでプッチーニ・オペラの『蝶々夫人』の冒頭のフルオーケストラが鳴ったので驚いた。ピンカートンが一人ではなく、若者3人で遊郭にやってくるのは、キャピュレット家に潜り込むロミオを思わせる。あとの二人はマキューシオとベンヴォーリオなのだ。オペラでピンカートンが胸ときめかせて歌う「Amore o grillo」の旋律に乗せて、3人の若者が酔っ払いながら踊る場面が面白かった。遊郭の艶やかさを演出する、花魁(中村祥子)と女性群舞の舞いは魔法のようで、黒いトウシューズのポワントが花魁の下駄を表現してたのも強烈なインパクトだった。
 第2場では、シャープレス(スチュアート・キャシディ)、スズキ(荒井祐子)、ゴロー(石橋奨也)も一気に登場するのだが、バレエのための登場人物だと頭を切り替える必要があった。オペラの中では、シャープレスは遊郭に来るような人物ではないし、スズキは地味なお手伝いさんで置屋の女将ではない。そうした「オペラ的雑念」を一掃すると、可憐なバタフライ(矢内千夏)の登場シーンから純粋なラブストーリーを楽しめるのだ。花魁の動きに蝶々さんの身の上語りの旋律を被せ「もしかしてこの花魁が蝶々さん?」と思わせておいて、幼い本物の蝶々さんを登場させるあたり、演出の「駆け引き」が絶妙だった。

シアターオーケストラトーキョーと指揮の井田勝大氏は、プッチーニのスコアからバレエに必要なモティーフを注意深く取り出し、ランチベリー風に編曲したり、声楽パートを管楽器に置き換えたりして効果を出していた。井田さんは音楽監督も務めているが、おそらくビゼーの『カルメン』より『蝶々夫人』は何倍も悩んだのではないか? カルメン、ホセ、ミカエラ、エスカミリオという構成に比べて、バタフライではメインの登場人物の性格が複雑で、途中から急に変化したり、基本の気質に自制がきいていたりする。その中で、とても重要な「正解」のフレーズが取り出されていた。地味な役割に思えるシャープレスはいくつも重要なモティーフをオペラで歌うが、ピンカートンに注意を促し、不幸の予感が的中したときに再度登場する1幕の二重唱のモティーフ、2幕で繰り返し使われたスズキ、ピンカートン、シャープレスの三重唱のモティーフ(これは「君が代」と「星条旗は永遠なれ」が融合・転回したメロディで、オペラの中で最も美しいのではないかと思う)は、バレエにも大きな深みをもたらしていた。

矢内さんの蝶々さんは繊細な情緒があり、軽やかで若々しく、ピンカートンとの結婚式のシーンで見せるお転婆な表情も自然で、儚げなシルエットを引き立てるコスチュームも似合っていた。2幕での「3年後のバタフライ」では、髪型も変わり洋装で、別人のようになる。この別人への変身が、素晴らしかった。バレリーナは天性の女優である。オペラでは「残りのお金も尽き果てた」という幕で、スラム街のような舞台仕立てになる現代演出もあるが、熊川版では室内の調度品などはそのままに、時間の経過をバタフライ一人に表現させる。長崎の富豪ヤマドリも、ここでは若い日本人将校(山本雅也)が演じ、バタフライは大いに心揺さぶられるが、不在の夫と息子の愛に引き裂かれて諦める。スズキはその姿を見て同情する。

ケイトとともに再び日本に上陸したピンカートンが見たのは、バタフライの怒りや悲嘆ではなく、すべてを「運命」と呑み込む、巨大な愛だった(プッチーニの三重唱の音楽がここで生きる)。ケイトは完全な悪役で、ガムザッティのような威力を発するが、バタフライはここで「どのバレエヒロインでもない」存在であることを証明する。復讐もせず、呪詛の言葉ももたないまま、愛をひたすら内向させ、赦す。「西洋の人」ピンカートンは一度も見たことのない愛に驚愕するのだ。
 配役表のクレジットには原作のジョン・ルーサー・ロングと演出・振付・台本の熊川哲也の名前があるが、オペラ台本作家のイッリカ/ジャコーザの名前はない。音楽はオペラから多くを得ているが、物語はそこに依拠していない。日本人が新たな日本のヒロインを作り出した信念のバレエだった。『カルメン』も『クレオパトラ』も「この女性たちは熊川さん自身ではないのか」と思ったが、バタフライもそう思えた。少なくとも「分身」ではあるはずだ。父から引き継いだ剣で自害し、その剣が息子にまた引き渡されるラストが心に残る。あの場面は、恐らくとても重要なものだ。
休憩1回を含め、トータルで2時間30分。初日は和装の熊川さんの登場に、スタンディングオベーションも巻き起こった。振付のディテールや音楽の使い方を確認するためにも、もう一度観たい。オーチャードホールの公演は9/29まで、東京文化会館では10/10~10/14に上演される。


フェリ、ボッレ&フレンズ Bプロ(8/4)

2019-08-10 16:28:47 | バレエ
フェリ、ボッレ&フレンズ最終日(Bプログラム)を文京シビックホールで観た。演目はノイマイヤー振付『バーンスタイン組曲』から4曲、高岸直樹振付『リベルタンゴ』ノイマイヤー『オルフェウス』よりパ・ド・ドゥ、ラッセル・マリファント振付『TWO』、リカルド・グラツィアーノ振付『アモローサ』、ノイマイヤー『作品100~モーリスのために』『フラトレス』(『ドゥーゼ』より)。
ノイマイヤー・ガラの趣も呈したこのプログラムの上演のために、ノイマイヤー自身が来日して丁寧な指導に当たったという。Bプロにはカーステン・ユング、アレクサンドル・トルーシュ、カレン・アザチャン、マルク・フベーテらハンブルク・バレエ団のスター・ダンサーズが加わり、Aプロから参加しているシルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアブコと合わせて、ハンブルク・サポートの高水準の上演が行われた。

『バーンスタイン組曲』から、ノイマイヤー・ダンサーたちのセンスと躍動感が素晴らしかった。Aプロでは3部の『マルグリットとアルマン』のみだったフェリも、「ロンリー・タウン」で早々と登場し、リアブコ、フベーテとともに軽やかに踊った。少年時代にミュージカル映画に心酔したノイマイヤーのバーンスタインへの共感が、「作曲家の精神の踊り」として表現されたバレエで、初演から21年が経っているがとても鮮烈だった。衣装が独特だなと思っていたら、デザインはジョルジオ・アルマーニだった。
 高岸直樹さん振付の『リベルタンゴ』は、ピアソラの音楽に合わせて上野水香さんとマルセロ・ゴメスがシャープで情熱的なデュオを踊った。元々、水香さんのために振り付けられた作品だという。彼女の美しいシルエット、タンゴのリズムに合わせて空間を刻んでいくような機敏なステップが見事で、女性ダンサーへの敬意を極限まで表現するゴメスがここでも最高の表情を見せた。気を緩めると事故も起こりかねない緊張感のある振付だが、二人は雲の上にいるよう。ゴメスは後半の『アモローサ』ではアッツォーニとも完璧なデュオを見せたが、ABプロを通してベテランの底力を表したと思う。
 
 2部ではボッレが大活躍し、マリファントのアブストラクトな『TWO』を厳しさとユーモアを交えた表現で見せた。ダンサーの肉体美が際立つ。ノイマイヤーがベジャールの70歳の誕生日に捧げた『作品100~モーリスのために』は、Bプロの中でも特に楽しみにしていた作品だった。サイモン&ガーファンクルの「旧友」「明日に架ける橋」に合わせて踊られる男性二人のための振付で(映像でもこの二人の演技が見られる)、ボッレが踊るたびにいい表情になっていく。言葉にするのは難しいが、ノイマイヤーとベジャールの関係、友情と敬意などが絡み合った天上的な作品で、ノイマイヤーの元で踊るリアブコは以前からこの根底にある世界観を理解していたが、以前のボッレはどこか不可解な表情を見せていたこともあった。
 ボッレは機会があれば、ベジャールも大いに「踊らせたい」と思っていたダンサーだったと思う。ノイマイヤーとベジャールの間にある霊感の交流を、今のボッレは深い次元で把握していたように見えた。リアブコはそれを「待っていた」ふうでもあり、この『モーリスのために』は爆発的な感動を呼び起こした。観客の熱狂は火が付いたようであった。

フェリがハンブルクの4人のダンサー…トルーシュ、アザチャン、フベーテ、ユングと踊る『フラトレス』は、ノイマイヤーが1986年にマリシア・ハイデに振り付けた小品をベースに、復帰したフェリのために2015年に創作したバレエで、20世紀初頭に実在したイタリア人女優エレオノーラ・ドゥーゼと3人の恋人、1人のメンターとの心理的なドラマが描かれている。
 そういう解説を読まずにこの作品を観たので、これはバランシン・バレエへのオマージュではないかとも思った。音楽はアルヴォ・ペルトだが、静謐で純化された世界観からは、ストラヴィンスキーの新古典派の音楽にバランシンが振り付けた『アポロ』と似た質感が感じられた。
 4人の男性ダンサーとフェリは明らかに違う意識の次元にいて、フェリは眠っているようにも見えた。とても「催眠的な」雰囲気があり、神話の女神のように幻想的で、男性たちはその意識にコミットしようとするが、高貴な魂には触れられない…といったふうなのだ。能のような静けさに溢れ、一つの動きの変奏と展開、再現があり、非常に音楽的だった。驚いたのは、フェリが紛れもなく神々しく美しかったことで、ダンサーとして全く衰えていない…それどころか、いよいよ輝きを増しており、過去の素晴らしい彼女の上演が丸ごとこの瞬間に接ぎ木された感覚があった。
 ダンサーの美とは何か、改めて「内面にあるもの」の重要さを気づかされた。
 この凄いBプロを観て、ガラ公演の本質とは何かを考えた。4日間、計5回の公演は、最初「多すぎるのではないか」とも思ったが、終わってみれば5回全部見ておくべきだったと後悔してしまう。ノイマイヤーとハンブルク・バレエがここまで精力的にバックアップするとは宣伝にはなかったし、「蓋を開けてみたら途轍もなく贅沢なものが上演された」という感慨がある。

 アフタートークでボッレが、今回自分が心から上演したい作品が可能になったことと、リハーサルが完璧にオーガナイズされたものだったことに感謝していたが、舞台の上でのダンサーたちの輝きはそうした主催側の敬意と、余裕をもった準備に支えられていた。
 7-8月に多くのダンス公演が行われた中でも、このフェリ、ボッレのガラは飛びぬけていた。実力のある人気ダンサーを集めても、振付に力がなかったり、上演の構成そのものにプロフェッショナルな視点がなければ真の意味で公演は成功しない。旬の人を見られるのならどの公演も素晴らしい…と言いたいところだが、バカンス気分で日本に来て踊ってもらうだけの公演では、芸術的価値は生まれにくいだろう。最終的に残るのは精神的価値であり、魂をかけて人生を築いてきたアーティストの心に真の喜びをもたらすことである、と考える。この公演では、バレエ招聘事業の底力を見た。



フェリ、ボッレ&フレンズ(8/1)

2019-08-02 13:35:26 | バレエ

フェリ、ボッレ&フレンズAプログラム。予想以上に白熱した濃厚な舞台だった。一部と二部はコンテンポラリーで、マウロ・ビゴンゼッティ振付の「カラヴァッジォ」、ナタリア・ホレチナ振付の「フォーリング・フォー・ジ・アート・オブ・フライング」、プティ振付「ボレロ」、休憩をはさんでマルセロ・ゴメス振付(!)「アミ」、ウェイン・マクレガー振付「クオリア」、プティ「アルルの女」と続く。ボッレの肉体美は「カラヴァッジォ」から神々しく、相手役の英国ロイヤル・バレエのメリッサ・ハミルトンも今が旬のときとばかり輝いている。二人が舞台に立つと、神話の世界が見えるようだ。アッツォーニ&リアブコのハンブルクの黄金カップルは「フォーリング…」と「アルルの女」二演目で観られた。もはや何も言うことのない究極のコンビ。
プティ版の二人で踊るボレロは初めて見た。レスリングのショーを思わせる-冒頭のライト、上野水香さんとゴメスのタンゴのような、格闘技やサーカスも彷彿させる、奇矯でエネルギッシュなダンスにプティの鬼才を思った。水香さんはベジャールの「ボレロ」も素晴らしく踊るが、生前のベジャールとプティの両方を魅了した稀有な日本人ダンサーだった。大理石の彫刻のように無駄がない、研ぎ澄まされたダンスで、息が上がりそうな動きの後に信じられない静止の瞬間が何度も続く。ゴメスが両性具有的な雰囲気を醸し出していたので、プティ版「ボレロ」には、男女の性の役割交換のような意味合いもあるのではないかと深読みしていたが、柄本弾さんと水香さんが踊られたときにはそのような雰囲気はなかったとのことである。一部のラストを飾ったこの作品で一気に客席はヒートした。

ゴメス振付の「アミ」が傑作だった。リアブコとゴメスによる男性デュオで、ショパンのノクターン13番に乗って緊張感のあるムーヴメントが重なり合っていく。エンディングはどこかユーモラスだ。Aプログラムの全作品が「ふたりのダンサーによる振付」だったが、この統一は素晴らしい効果を上げていたと思う。男と女、男と男、それぞれが対等の力で対峙し、異質さをぶつけあったり、一体化したりする。コンテンポラリーでこれだけの豊かさが感じられるのは凄い。ゴメス作品の秀逸さは新しい発見だったが…新しいバレエ作品というのはあまりに多く作られすぎ、玉石混交なので、プロデュース的な観点がしっかりしていないと客席から見てアンバランスな舞台になってしまう。この夜のプログラムは秀逸だった。ベテラン・ダンサーの円熟の境地がまた、振付を深遠なものにしていた。

アッツォーニとリアブコの「アルルの女」はプティの代表作だが、二人が踊ると改めて振付の良さが際立つ。カップルの愛を破壊する「その場にいない、見えない」アルルの女の猛威が、アッツォーニの悲嘆とリアブコの狂気から伝わってきた。ラストの身投げまでのリアブコの狂騒的な動き、盲目的な回転、出口なしというパントマイムのようなジェスチャーは、バレエにしか存在しない次元のもので、逸脱した精神がダンサーの技術と身体の美しさによって表現される。二部のラストにこの演目が配されたことで、さらに興奮が増した。リアブコ演じるフレデリの狂気は、三部の「マルグリットとアルマン」のアルマンの、嫉妬に狂った愚行へとつながるのである。

三部では、いよいよフェリの登場。この日はオペラグラスを忘れていったため、フェリの姿をクローズアップで見るということがなかった。56歳のバレリーナは2007年の引退前と同じように美しく、柔軟で、マルグリットの19世紀風のドレスもよく似合っていた。アシュトンの「マルグリットとアルマン」を前回生で見たのは、2003年のギエムの「三つの愛の物語」で、相手はムッルだったかジョナサン・コープだったがそれすらも記憶に曖昧だが、大いに感動したということは覚えている。ロイヤルバレエのバレエのピットの常連であるピアニストが、コンチェルト編曲版のリストのロ短調ソナタを弾き、音楽も最高だった。今回の音楽はピアノソロで、フレデリック・ヴァイセ=クニッターが責任あるピアノ演奏を担当したが、プレッシャーが大きい役目を最後まで頑張って果たしてくれた。

 ボッレのアルマンは今まで見たどのダンサーより美しく、その高貴な美しさには言葉を封じるような威力があった。ダンサーという生き方に対して、軽々しい言葉は言えない…という気持ちになった。1975年生まれのボッレは、今でも20代後半のような美しさだが、それは人生の200%をバレエに捧げているからであり、そのような生き方を間近で見るというのは改めて特殊なことに感じられた。アルマンの若さ、情熱、美、死に瀕したマルグリットに強烈な生への未練を与える存在感が、この上なく優美なアラベスクによって浮き彫りになった。大きな白鳥のようなボッレが羽搏くたびに、空気が振動する。フェリは、いよいよ大胆で危険を顧みない演技を見せ、20代の彼女が踊ったジュリエットと比べても遜色がなかった。92年のABTの来日公演で、ボッカと踊ったロミジュリを上野の文化会館の五階席で見て、魂を抜かれたことを思い出した。

 アシュトンでもマクミランでも、フェリが見せる個性はどこかコンテンポラリー的だ。このプログラムで初めて気づいた。彼女がある動きからある動きへと突然シフトしていくときの電撃性は、クラシック的ではない。物語を鮮烈にする効果があるが、他のバレリーナにはない鮮烈さがあった。それは、身体の教養としてフェリが、あらかじめクラシカルな演目の中にコンテンポラリーの前衛性を忍ばせていたからではないか。それが、「マルグリットとアルマン」では最高度に生かされていた。嫉妬したアルマンがマルグリットに札束を投げる場面、オペラでは合唱とジェルモンが若者を非難する。バレエでは、誰もマルグリットを守らない。血が凍るような孤独感。フェリの演技が光っていた。豹変したアルマンの残酷さも、見事なものだった。

マルグリットの忌のきわの二人の再会シーンは、フェリとボッレのカップルの真骨頂で、ここでまた新たになるフェリの印象があった。どんな宿命の女を演じているときも、彼女の中にはミステリアスな「少年性」のようなものがあり、アルマンの中の少年性、未成熟な部分はマルグリットの一部であったという解釈が私の中に生まれた。ボッカと踊ったジュリエットも、思い返すとそうだったのだ。43歳で引退したまま、フェリが踊り続けていなかったら気づかなかった。肉体という衣装をまとってダンサーが見せてくれる究極の姿を、フェリは見せてくれたのだ。

二度の休憩と終演後、ロビーを往来するお客さんたちが「贅沢だ、贅沢だ」と口々につぶやいているのが聞こえた。これは本当に…蓋を開けてみるまで分からなかったが、文字通り奇跡のステージであった。ベテラン・ダンサーが達した、魂の真実の境地を丸ごと見せてもらった。Bプログラムの準備のためにノイマイヤーとハンブルクのダンサーも待機していると聞いたが、両プログラムを見られる観客は世界でも稀有な幸運を目撃することになると思う。


マリインスキー・バレエ『ドン・キホーテ』

2018-12-01 10:44:17 | バレエ
来日中のマリインスキー・バレエの『ドン・キホーテ』が大変素晴らしい。初日と二日目の公演を観たが、どちらもほぼ満員。初日11/28はヴィクトリア・テリョーシキナとキミン・キムのスター・カップルがキトリとバジルを踊ったが、登場からエンジン全開で、見せどころ満載の1幕からテクニックの切れの良さを次から次へと披露した。キミンのジャンプはさらにさらに、高くなっている。テリョーシキナも楽しむように演じていて、リフトもダイブも恐れを知らぬ思い切りの良さ。記者会見では「日本の皆さんはフェッテが大好きなのを知っていますよ!」とお茶目なテリョーシキナだったが、ラスト近くのグランフェッテでは最高の表情を見せた。街の踊り子役で、二日間ともエカテリーナ・コンダウーロワが登場したが、美貌のプリンシパルを脇役で出してくれるカンパニーの太っ腹に感動する。コールド・バレエもアップテンポの音楽にぴったり合わせて様々なダンスを繰り広げ、エスパーダ率いる闘牛士たちのマントの踊りは特に圧巻だった。ライトの光だけでない、電撃的な「明るさ」が舞台から飛び出していて、とても眩しい舞台だった。

バレエ音楽というのは小さな曲がたくさん集まって構成されており、音楽そのものが言葉であり物語を進めていく「台本」の役割を果たしていく。ミンクスの音楽がこんなにいいと思ったのは初めてだった。リズムや雰囲気が場面ごとにくるくる変化し、女性らしさや男性らしさをサウンドで描写していく。指揮のアレクセイ・レブニコフはゲルギエフふうのつまようじ丈のミニ指揮棒で、マリインスキーのオケを完璧にコントロールしていた。バレエ指揮というのはまだまだシャドウワークとして認識されているが、知れば知るほど偉大な仕事で、ダンサーの個性や拍手喝采のタイミング、さまざまな「揺らぎ」に即反応して最適の仕事をしなければならない。ミンクスの音楽はゴージャスで、パートごとの掛け合いや音のミックスも絶妙で、ところどころ胸がいっぱいになるドリーム・ミュージックだった。ドンキはスペインが舞台だが、ロシアの大地を思わせる逞しい音も鳴る。エキゾティックで猥雑なサウンドも彼らはお手のものなのだ。

「舞台ほど自由でいられる場所はない」とでも言いたげなテリョーシキナとキミン・キムの姿を見て、「yes!」という掛け声が聴こえたような気がした。パワフルな肯定の意志が、ソリストだけでなくコールドからも伝わってきた。現実的には、素人では目が追い付かないほど細かいことをコンマ秒ごとに行っている。マリインスキーのダンサーのリズム感には天才的なものがあり、ワンフレーズの中に詰め込まなければならない幾つもの動きを、てきぱきと正確にこなしている。脳の中では数学的なことも行われているのだ。それと同時に、役には彼らの人間性がそのまま表れていた。キトリはキトリである以上にテリョーシキナだし、キミンも然り。劇場の誰に対しても優しい人気者のテリョーシキナと、監督の期待に応えて青天井にうまくなっていく勇敢なキミンがそのまま舞台にいた。ダンサーとは「約束を守る人」なのだと強く思う。

キュートピッド役の永久メイが登場したときは、あまりの愛らしさと素敵さに会場がどよめいた。18歳の可憐なダンサーはキューピッドそのもので、軽やかな動きと蠱惑的な目線、脚を挙げたままぴたっと空中に張り付くポージングに、観客のすべての目が釘付けになった。ひらひらとひらめく衣装までもが、何だかこの世のものでないような気がする。老騎士ドン・キホーテに「私たちの世界に深入りしてはダメですよ」と注意するようなマイムには、大人っぽさも感じられた。魅惑的な妖精が舞台に現れたことに驚き、いつまでも彼女を見ていたい気持ちになった。

ドン・キホーテ役のソスラン・クラエフは誌的で物悲し気な老騎士を演じ、大きな手が饒舌に感情を語っていた。マリインスキーの名キャラクターで、来日のたびにいい脇役を演じている。サンチョ・パンサのアレクサンドル・フョードロフはコミカルだが過酷な演技を求められ、一幕で毎回力いっぱい転ぶのだが、詰め物の衣装の中の身体は青あざだらけになってるのではないだろうか。もっともマリインスキーのことだから、身体を傷つけないずっこけ方のテクニックがあるのかも知れない。

素晴らしい初日の公演の後、バックステージでは乾杯の席があった。ファテーエフ監督は「このバレエ公演は、ロシアと日本の友情の証」と繰り返し語ったが、うっかり社交辞令として聞き逃してしまいそうなシンプルな言葉が、本当に真実だと思えた。
ロシアと日本では、言語も文化も慣習も違うが、芸術に関してはひとつの共通項がある。おもに音楽に関してだが…ともに「西洋化」に出遅れた国であったことだ。ロシアは今も昔も芸術大国だが、クラシック音楽が根付いたのは西側世界より遥かに遅い。チャイコフスキーはその微妙な「ローカルと西洋」の結節点にいた作曲家だった。西洋文化の「東」の感覚は、色々なところで根深く描かれている。オペレッタでは、ハンガリーは東の蛮族として描かれるし、ロシアや日本は東の果ての国だろう。
ロシアバレエはプティパによって本格的に発展したが、このドンキのオリジナルもプティパによる振付(ゴールスキー改訂)で、マリインスキーがプティパという「西の人」を必要としたそもそもの始まりを考えた。
ロシアも日本も東から西を見る。西に憧れるだけではない。西のものを咀嚼するために、自らを相対化できる。芸術において二倍の視野をもっているのだ。そこには「生まれつき西の文化をもたない」痛みや葛藤もある。「友情」という言葉にはさまざまな含みがあるとも思う。

二日目のマチネでは、日本デビューとなるレナータ・シャキロワが見事なキトリを演じ、長身美麗なティムール・アスケロフが気品に溢れたバジルを踊った、シャキロワはワガノワの優等生というイメージを勝手に抱いていたが、ふたを開けたらとんでもないスーパーバレリーナで、彼女のヴァージョンにはさまざまな超絶技巧がトッピングされていて、音楽もそれに合わせてどんどん速くなる。アスケロフのサポートは完璧で、お互いが高め合い、輝かせあっていた。コールドも昨晩熱演を見せてくれていたダンサーたちとは思えないほど、底なしのパワーを見せてくれた。花売り娘の石井久美子はオペラグラスで見ないと日本人には見えず、ロシア美女そのもの。正確で華麗な演技で、魅惑のときを楽しませてくれた。
すべての芸術の中で、バレエほど継続的な忍耐を要するものはない。美しいバレリーナの足がテーピングだらけであることはざらだし、わずかな失敗にも監督の雷が振ってくる。
マリインスキー・バレエの「Yes!」という肯定のパワーに、感電するような感覚を覚えた二日間のドンキだった。













東京バレエ団 プティパ・ガラ(9/1)

2018-09-03 21:25:20 | バレエ
神奈川県民ホールで行われた東京バレエ団の「プティパ・ガラ」を鑑賞。今年はマリウス・プティパ生誕200周年のメモリアル・イヤーで、6月に訪れたプティパのホームグラウンドであるマリインスキー劇場でも衣装アーカイヴの展示や特別プログラム公演が催されていた。改めて振付家がこの世にもたらしたものの大きさを実感する年となった。
東京バレエ団はこのガラのためにレアな演目を多くプログラムに入れ、色とりどりの衣装はどこか「いにしえ風」なのが印象的だった。スカートの裾がやや長めだったり、バルーン状になっていたり、色のコントラストが独特であったり、何かとノスタルジックなテイストが漂う。すべての衣装をこの公演のために準備したと聞く。マカロンのような綺麗な色彩のコスチュームは見ているだけで格別の幸福感をもたらしてくれた。

最初の『ジョコンダ』より「時の踊り」は、ポンキエッリのオペラ『ラ・ジョコンダ』のバレエシーンで、コンサートなどでもこの部分だけが演奏されることが多い。オペラの初演は1876年だが、プログラムの村山久美子先生の解説によると、プティパがこの場面の振付を行ったのは1883年だという。カラフルな衣装を纏ったコールド・バレエは、三階席から見ると花のようで、ワルツに合わせてくるくると愛らしく回転したり優美にステップしたりする。「なんと綺麗な人形だろう…」ペーパードールのようなコールドの舞いは目に愉しく、プティパが素晴らしいのはこういうある種の娯楽性にあると改めて思った。「これは芸術だ」と言わんばかりに居丈高になるのではなく、レヴューのような華やかさで観る者を魅了する。踊っている方はもちろん大変だろう。紫と黒のエレガントな衣装の柿崎佑奈さんが、ブラウリオ・アルバレスさんに高いリフトで持ち上げられ、女王君臨の貫禄を見せた。美しく芯の強さを感じさせるバレリーナだ。

三階席からはピットの後ろ半分が見えたが、神奈川フィルの楽員さんたちがバレエのピットとは思えないほどたくさん入られていて、なるほど「時の踊り」の木管のゴージャスな響きは、これだけたくさん奏者がいたからなのだと納得する。世界バレエフェスでも大活躍した指揮者のワレリー・オブジャニコフさんが次々とドリゴやミンクスの音楽をかなフィルから引き出した。プティパのバレエにはこの「大きくふくらんでいく感じ」が必要なのだ。

『アルレキナーダ』のパ・ド・ドゥも衣装の愛らしさに目が釘付けになった。男性ダンサーの白いブラウスと大きすぎる黒いリボンがいい。ドリゴの音楽に合わせて、足立真里亜さんと樋口祐輝さんがコミカルで蠱惑的な演技を見せた。プティパはバレエの基礎的なフォームをはっきりと見せる振付家だと改めて認識する。ストーリーはどれもシンプルだが、技術が正確に決まらないとバレエが成立しない。ダンサーの厳密なテクニックが観る者に笑いやユーモアや幸福な気分を与えてくれる…パーフェクトな人形になるために、生身の人間は究極の訓練を積むのだ。

『エスメラルダ』では、伝田陽美さんと柄本弾さんが組まれていたが、このペアを拝見するのは恐らく初めてなので新鮮だった。エキゾティックな音楽に合わせて、プティパの異国趣味が爆発する。この時代の振付家はヨーロッパ中を旅することが多く、プティパもマルセイユ生まれだが、イタリアやスペインで振付をし、ロシアのサンクトペテルブルクで亡くなった。生涯で創られたバレエのうち46作がペテルブルクで創られ、それ以前のものは12作のみ。6月にペテルブルクを訪れたときはプティパの墓参りをしたのだ。柄本さんは「愛されていない夫で詩人」の役だが優しく包み込むような踊りで、伝田さんのメランコリックな表情と左右に上がる両脚も見事だった。

『ラ・バヤデール』の「影の王国」では、秋元康臣さんが登場した瞬間に尊敬に溢れた拍手を受けていた。舞台に現れただけで尊い雰囲気になる。高貴で悲劇的なソロルで、川島麻実子さんのニキヤにも超越的な存在感があった。この二人はバレエの世界の至宝だと思う。隙が無い感じがややクールに感じられることもあった川島さんだが、演技力が急速に進化している。緩やかな岩の坂を降りてくるコールド・バレエの幻想的な美は筆舌に尽くしがたく、夢の世界に誘われた、エンディングのニキヤの超絶的なピルエットも圧巻だった。

プティパとは何者なのか…次々と舞台に現れる姫や騎士や妖精たちを見て考えた。ほぼ同時代のジュール・ペローやサン=レオンは作品こそ残せど、プティパほどの名前は残していない。実際、マリインスキーではこの二人のおかげでプティパの出世が遅れたのだが、時をまって先輩たちから学ぶことでプティパにもいいことがあった。92歳まで長寿をまっとうしたが、このガラでは70代から80代にかけての振付も多く上演され、そのどれもがとても「バレエ的」だ。1818年生まれということは、大雑把に言うならショパンやリスト、ヴェルディやワーグナーと同世代で、時代はロマン主義の流れにあったが、プティパは晩年近くにバロック的なバレエを創作したり、舞踊の様式を磨きあげながら「リアルな人間」をそれほど描こうとしない。彼の理想とするバレエの次元は、ファンタジーや神話や善良な人間たちが生きる幸福な世界であった。

なるほど…本当にプティパは「大きい」のだ。彼のファンタジーは、人間の意識にひとつの宇宙を創造した。こんぺいとうやリラの精や白鳥やドゥルネシア姫がいる世界を創り出した。数多くのバレリーナがそれを踊り、世界中の膨大な観客がそれを見た。争いや殺戮や残酷性とは無縁の世界で、お菓子のような甘さと絵本の中の童心が溢れかえる。プティパがいなかったら、この世はどんなに暗かったことか…観客だけでなく、プティパは踊り手たちも幸せにした、フォンティーンはプティパの振付がいかにそれ以前の時代のものより優れていて、バレリーナの身体に注意を払っているかを語っていたという。
プティパがいなければ、バランシンもベジャールもいなかった…ベジャールの『くるみ割り人形』では、わざわざベジャールがマイクを持って「尊敬するプティパに捧げる」と自分のバレエを中断し、チュチュとタイツ姿のペアにプティパのオリジナルのバリエーションを踊らせた。
プティパは哲学者でもあったと思う。難しい言葉は一切使わない。「人間の中には妖精がいる」という哲学で、その肯定性のと楽観性の眩しさには眩暈するほどだ。あるいは「人間が妖精なのだ」という確信だったのかも知れない。

天国も地獄も、「ある」とも「ない」とも言えない。誰もそれを証明していないから「ない」とも言い切れないのだ。
老年期のプティパの優しげな表情には、諦観の色が見えないこともない。ジョルジュ・ドンもこういう表情をよくカメラの前でした。現実と夢想、人間と妖精を分けて考えることは虚しい…という表情にも見える。それらは「最初から一緒のものである」ということを、なぜ何度も説明しなければならないのか…そう言っているような気がしてならないのだ。

『騎兵隊の休憩』はプティパが娘のために作ったバレエで、1896年(プティパ78歳)のときにマリインスキーで初演された。躍動的なコメディ・バレエで、秋山瑛さんと井福俊太郎さんが若々しく快活な演技を披露した。このペアも素晴らしい。
『タリスマン』はこのガラのいくつかのハイライトのうちのひとつに思われた。沖香菜子さんと宮川新大さんが、重さをまったく感じさせない透明感のあるパ・ド・ドゥを踊り、衣裳もシンプルで華麗だった。宮川さんのアントルシャはバレエ少年たちの憧れなのではないか。何回交差させていたのか数えられなかったが(6回?)風の精のような優雅さだった。沖さんも儚げな中に芯の強さを感じさせ、プティパの理想の妖精だった。天界と下界を舞台にしたこのバレエの台本にプティパが忽ち魅了された様子を想像した。

ラストの『ライモンダ』では上野水香さんが究極のバレリーナの演技をされた。プティパの最後期の名作で、80歳のときの初演だが、プティパが自分の舞踊世界を俯瞰して、みずからポスト・プティパ的な世界へ踏み込んでいった痕跡が感じられるバレエだ。水香さんに2004年にインタビューしたとき「舞台で無駄一つない動きを見せたい」と仰っていたことを思い出した。すべてのパが空間から切り取られたように鮮やかで、美しい動きとブレない静止から構成されている。結晶化された舞踊表現だった。音楽はグラズノフだが、そういえば「グラズノフのバレエ音楽はチャイコフスキーより遥かに完成度が高い」と指揮者のアレクサンドル・ラザレフは熱っぽく語っていた。『ライモンダ』の知的抽象度の高さは、水香さんほどの踊り手が踊って初めて明らかになるのではないか。プティパに見せたい宝石のような演技だった。コールドも完璧な美しさで、この公演の大成功を飾るエンディングだった。

最後、ソリストたちがペアで登場し、ガラで演じられたすべての「プティパの創造物」をショーケースの中の人形のように見せたのには「やられた」と思った。背景にはプティパのポートレイトが映し出され、ダンサーが尊敬のポーズで創造主を称える。プロデュース的な視点がしっかりしている公演で、最初から最後まで「正解」の美意識に貫かれていた。夢の世界を堪能すると同時に、現実面で「価値ある上演」の意義を強く感じた3時間だった。