新国立劇場の地域招聘オペラ A・サリヴァン作曲『ミカド』を中劇場で観た(8/26)。
本作はびわ湖ホールによるプロダクションで、キャストはびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー、
指揮は園田隆一郎さん、演出は中村敬一さん、オーケストラは日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター松浦奈々さん)。
日本を舞台にしたエキゾティック・オペラといえば『蝶々夫人』に『イリス』に『ミカド』と3つ並べて語られることが多いが、圧倒的人気は『蝶々夫人』で、最近ぽつぽつ演奏機会が増えた『イリス』に比べても、『ミカド』はかなり陽のあたらないオペラだという気がする。
プッチーニ、マスカーニのイタリア・オペラに対して、音楽的にも折衷的で、ストーリーも荒唐無稽でキッチュ、日本に対する誤解が大きすぎるというのも、舞台となった日本で上演回数が少ない理由だろう。
それを逆手にとって、ぎりぎりまではじけ切った演出をした中村敬一さんは、最高に冴えていた。
ミカドとは「帝」のことではあるが、トゥーランドットのような紫禁城が現れるでもなく、どの時代かも厳密に特定できず、ヒロインの名前はヤムヤム、恋人はナンキプー、横恋慕する最高執政官はココ、ヤムヤムの女友達はピープボーにピッティシングという、ベトナム料理のようなネーミング。当時ロンドンで人気を博した「日本村」の人気にあやかって作られたファンシーショップのようなオペラなのだから、女性歌手たちの装束もきゃりーぱみゅぱみゅのようなファッションモンスターで、美術はニューオータニのギフトショップで売っているガイドブックのような世界になる。
日本語での上演で、歌も台詞も日本語。舞台の左右に日本語字幕(芝居のときは字幕なし)で、舞台上には英語の歌詞と台詞が投影される。英語もかなりハチャメチャなのだが、日本語はさらにその上をいく。議員の失言や時事ネタなどもたくさん盛り込まれていたが、あと三か月もすると鮮度を失ってしまうようなネタを使うやり方がかっこいいと思った。
優しい声でプレトークをしてくださった中村敬一さんは、演劇的には振り切った決断をされる方で、最後の最後までその姿勢には妥協がなかった。訳詞も中村さんがやられている。
物語は、しがない歌手(吟遊詩人)に扮したミカドの息子ナンキプーが美しい町娘ヤムヤムと相思相愛になり、ヤムヤムと結婚したいミカドの臣下ココと、ナンキプーと結婚したい年増の醜女カティーシャがあの手この手を使って二人を引き裂こうとするラブストーリー。そこにミカドが加わって、権力者の残酷さ、官僚主義の愚かさ、適当さが次々と描かれる。
「いつともどことも知れぬ作り物の物語」なのであるが、これが妙に今の日本にはまった。
台詞は暴れ出し、ギャグの嵐となりながら、永劫不変の人間のいい加減さを浮き彫りにしていく。
びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが大活躍で、ナンキプー二塚直紀さんとヤムヤム飯嶋幸子さんのカップルは歌唱もお芝居もハイセンスで「決して真面目になってはいけない」ことの成り行きを、うまく演じていた。音程も台詞の活舌も見事だった。膨大な早口言葉を何度も語らなければならないブーバー(政府の重鎮を兼任しまくる人物)を演じた竹内直紀さんも大健闘だった。はげかつらをかぶったブーバーは、髪型を罵倒されたりポコポコ殴られたり、最も怪我をしやすい役だったのではないかと思う。個性的なコスチュームで歌う合唱も少人数とは思えない賑やかさで、コミカルな作品で演じ手が客席に向かって放つエネルギーの大きさに感心した。
喜劇は悲劇の何倍も難しいと思う。中村演出では、ギャグもその日のコンディションで打率が変わるような作り方をしていて、ちょっとしたタイミングで笑いが少なかったり大きくなったり全く起こらなかったりで、「もっと笑ってあげたかった」と思う箇所も含めると、膨大な弾が用意してあった。
カラフルな浮世絵のパノラマを背景に、英語字幕と日本語字幕をはべらせて、きゃりーぱみゅぱみゅが大暴れする舞台を見ている自分を客観視する瞬間があり「はっ」とした。
これはなんというか…最高のシチュエーションで、作ったサリヴァンとギルバートにも見てほしいし、人間の面白さ、文化の誤解への寛大さを表しているアートだと思った。
オペラは猥雑なアートだが、猥雑の限りを尽くすと逆に神聖なものになる。
嘘から出た真のような話だが、『ミカド』はオラトリオのようなオペラでもある。
愚かさの中に真実があり、誤解の中に和解の種があり、どうでもいいようなギャグに人間性の最もおいしい部分がある。
心の中の、最も敏感でエモーショナルな部分をかき乱されて、『ミカド』のことが頭から離れなくなった。
タイトルロール(!)のミカドを演じたのは松森治さん。白塗りでエリザベス女王と志村けんのバカ殿をミックスしたような装束で、素晴らしい美声の低音で歌われた。決然とした歌唱は、最高権力者にして「登場人物全員の運命を握る」生殺与奪の神にふさわしい。ミカドの最後のコスチュームには会場も湧いた。イギリス人が見てもわからないかも知れないが、『ミカド』が日本人の手にわたった瞬間だったと思う。
横恋慕する年増カティーシャはこのオペラの中でも異質な存在で、重くシリアスな旋律で、『ドン・ジョヴァンニ』の不幸なドンナ・エルヴィーラを思い出させる。エルヴィーラもあのオペラの中で、一人だけ四角張ったバロック的なメロディを歌っていた。正論ではどうにもならないのに、どうにかしようとする。悲劇的な存在だが、彼女にもハッピーエンドが用意されている。吉川秋穂さんが卓越した演技だった(豪華なかぶりものもとても重かったと思う)。
音楽的には、ドニゼッティをまず思い出し(「愛の妙薬」そっくりの部分がある)、次にロッシーニを思い出し、さらにモーツァルトも思い出したが、ヴェルディの破片もあり、「恋は優し野辺の花・・・」的なフロトウのオペレッタが隠されている部分もあった。さらには、バロックオペラ、ヘンデルのオラトリオもオペラの骨格部分にあり、『ミカド』明らかにインテリ(!)が書いた作品なのだとわかる。サリヴァンという作曲家が何を考えていたのか、知りたくなった。
ベルカントオペラの良質な部分を感じられたのは、園田隆一郎さんの指揮のせいもあるだろう。園田さんは日本の未来のルイージかパッパーノになる指揮者で、アルベルト・ゼッダさんを心から尊敬し修練を積んでこられた方だ。
音楽がふんわりと優美で、いたるところにソット・ヴォーチェの繊細さがあり、歌手たちの自然な呼吸を作り上げていた。日本センチュリー交響楽団のサウンドは、オペラへの共感を惜しむことなく、一度も集中力を途切らせずに観客の耳を楽しませた。
『ミカド』の東京公演は2回切り。8/27にも新国立劇場中劇場で上演される。
本作はびわ湖ホールによるプロダクションで、キャストはびわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバー、
指揮は園田隆一郎さん、演出は中村敬一さん、オーケストラは日本センチュリー交響楽団(コンサートマスター松浦奈々さん)。
日本を舞台にしたエキゾティック・オペラといえば『蝶々夫人』に『イリス』に『ミカド』と3つ並べて語られることが多いが、圧倒的人気は『蝶々夫人』で、最近ぽつぽつ演奏機会が増えた『イリス』に比べても、『ミカド』はかなり陽のあたらないオペラだという気がする。
プッチーニ、マスカーニのイタリア・オペラに対して、音楽的にも折衷的で、ストーリーも荒唐無稽でキッチュ、日本に対する誤解が大きすぎるというのも、舞台となった日本で上演回数が少ない理由だろう。
それを逆手にとって、ぎりぎりまではじけ切った演出をした中村敬一さんは、最高に冴えていた。
ミカドとは「帝」のことではあるが、トゥーランドットのような紫禁城が現れるでもなく、どの時代かも厳密に特定できず、ヒロインの名前はヤムヤム、恋人はナンキプー、横恋慕する最高執政官はココ、ヤムヤムの女友達はピープボーにピッティシングという、ベトナム料理のようなネーミング。当時ロンドンで人気を博した「日本村」の人気にあやかって作られたファンシーショップのようなオペラなのだから、女性歌手たちの装束もきゃりーぱみゅぱみゅのようなファッションモンスターで、美術はニューオータニのギフトショップで売っているガイドブックのような世界になる。
日本語での上演で、歌も台詞も日本語。舞台の左右に日本語字幕(芝居のときは字幕なし)で、舞台上には英語の歌詞と台詞が投影される。英語もかなりハチャメチャなのだが、日本語はさらにその上をいく。議員の失言や時事ネタなどもたくさん盛り込まれていたが、あと三か月もすると鮮度を失ってしまうようなネタを使うやり方がかっこいいと思った。
優しい声でプレトークをしてくださった中村敬一さんは、演劇的には振り切った決断をされる方で、最後の最後までその姿勢には妥協がなかった。訳詞も中村さんがやられている。
物語は、しがない歌手(吟遊詩人)に扮したミカドの息子ナンキプーが美しい町娘ヤムヤムと相思相愛になり、ヤムヤムと結婚したいミカドの臣下ココと、ナンキプーと結婚したい年増の醜女カティーシャがあの手この手を使って二人を引き裂こうとするラブストーリー。そこにミカドが加わって、権力者の残酷さ、官僚主義の愚かさ、適当さが次々と描かれる。
「いつともどことも知れぬ作り物の物語」なのであるが、これが妙に今の日本にはまった。
台詞は暴れ出し、ギャグの嵐となりながら、永劫不変の人間のいい加減さを浮き彫りにしていく。
びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが大活躍で、ナンキプー二塚直紀さんとヤムヤム飯嶋幸子さんのカップルは歌唱もお芝居もハイセンスで「決して真面目になってはいけない」ことの成り行きを、うまく演じていた。音程も台詞の活舌も見事だった。膨大な早口言葉を何度も語らなければならないブーバー(政府の重鎮を兼任しまくる人物)を演じた竹内直紀さんも大健闘だった。はげかつらをかぶったブーバーは、髪型を罵倒されたりポコポコ殴られたり、最も怪我をしやすい役だったのではないかと思う。個性的なコスチュームで歌う合唱も少人数とは思えない賑やかさで、コミカルな作品で演じ手が客席に向かって放つエネルギーの大きさに感心した。
喜劇は悲劇の何倍も難しいと思う。中村演出では、ギャグもその日のコンディションで打率が変わるような作り方をしていて、ちょっとしたタイミングで笑いが少なかったり大きくなったり全く起こらなかったりで、「もっと笑ってあげたかった」と思う箇所も含めると、膨大な弾が用意してあった。
カラフルな浮世絵のパノラマを背景に、英語字幕と日本語字幕をはべらせて、きゃりーぱみゅぱみゅが大暴れする舞台を見ている自分を客観視する瞬間があり「はっ」とした。
これはなんというか…最高のシチュエーションで、作ったサリヴァンとギルバートにも見てほしいし、人間の面白さ、文化の誤解への寛大さを表しているアートだと思った。
オペラは猥雑なアートだが、猥雑の限りを尽くすと逆に神聖なものになる。
嘘から出た真のような話だが、『ミカド』はオラトリオのようなオペラでもある。
愚かさの中に真実があり、誤解の中に和解の種があり、どうでもいいようなギャグに人間性の最もおいしい部分がある。
心の中の、最も敏感でエモーショナルな部分をかき乱されて、『ミカド』のことが頭から離れなくなった。
タイトルロール(!)のミカドを演じたのは松森治さん。白塗りでエリザベス女王と志村けんのバカ殿をミックスしたような装束で、素晴らしい美声の低音で歌われた。決然とした歌唱は、最高権力者にして「登場人物全員の運命を握る」生殺与奪の神にふさわしい。ミカドの最後のコスチュームには会場も湧いた。イギリス人が見てもわからないかも知れないが、『ミカド』が日本人の手にわたった瞬間だったと思う。
横恋慕する年増カティーシャはこのオペラの中でも異質な存在で、重くシリアスな旋律で、『ドン・ジョヴァンニ』の不幸なドンナ・エルヴィーラを思い出させる。エルヴィーラもあのオペラの中で、一人だけ四角張ったバロック的なメロディを歌っていた。正論ではどうにもならないのに、どうにかしようとする。悲劇的な存在だが、彼女にもハッピーエンドが用意されている。吉川秋穂さんが卓越した演技だった(豪華なかぶりものもとても重かったと思う)。
音楽的には、ドニゼッティをまず思い出し(「愛の妙薬」そっくりの部分がある)、次にロッシーニを思い出し、さらにモーツァルトも思い出したが、ヴェルディの破片もあり、「恋は優し野辺の花・・・」的なフロトウのオペレッタが隠されている部分もあった。さらには、バロックオペラ、ヘンデルのオラトリオもオペラの骨格部分にあり、『ミカド』明らかにインテリ(!)が書いた作品なのだとわかる。サリヴァンという作曲家が何を考えていたのか、知りたくなった。
ベルカントオペラの良質な部分を感じられたのは、園田隆一郎さんの指揮のせいもあるだろう。園田さんは日本の未来のルイージかパッパーノになる指揮者で、アルベルト・ゼッダさんを心から尊敬し修練を積んでこられた方だ。
音楽がふんわりと優美で、いたるところにソット・ヴォーチェの繊細さがあり、歌手たちの自然な呼吸を作り上げていた。日本センチュリー交響楽団のサウンドは、オペラへの共感を惜しむことなく、一度も集中力を途切らせずに観客の耳を楽しませた。
『ミカド』の東京公演は2回切り。8/27にも新国立劇場中劇場で上演される。