イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

今一度、『ま』、間を大事に!(ゆるし 8/10)

2012-08-21 | 第四章「愛とゆるし」

 世の中には、今日の暮らしをどうするかといった、ギスギスした世界だけでなく、何となくホッとするような世界もあるようだ。ただ、忙しくしていると気が付かなかったりする。

 日本の神話も、出雲大社に行ってから、このところ毎日読んでいるが、奥が深い。昨日は、たまたま青空文庫で寺田虎彦の「神話と地球物理学」を読んだが、国引きの話と大陸移動説(もう定説)の関係、ヤマタノオロチなどと先祖が苦しんだろう火山の関係などは、へぇーという感じであった。

 恐らく、もの凄い年月をかけて先祖が口伝えで残った物語なので、先祖の血と涙と知恵が織り込まれているのだろう。もし、こうした日本神話を大事にしていたら、ひょっとしたら、原発の危険性も、とうの昔に気が付き命を脅かされることもなかったかもしれない。神話を大事にしない民族は滅びるとはトインビーの言葉であるが、実に考えさせられた。

 因みに、ネイティブインディアンの口伝えの神話、「一万年の旅路」(翔泳社 ポーラ・アンダーウッド著)は、人類がアフリカを出立してから、ユーラシア大陸を経て、ベーリング海峡を命綱を使って集団でわたる(恐らく10,000年前)記録まであり驚異である。因幡の白ウサギの神話も、大陸からか、あるいはポリネシアの島伝いか、祖先が日本に到来する記憶がどこかに残されているかもしれない。そんな妄想に浸っている

 さて、何となくホッとする世界は、『間』と関係が深いようだ。時間や空間が、何かギスギスした世界とは別の動きをし、神秘的に何か智恵がひょいと出てくる時空としての『間』。

 間は武道や芸術、いろいろに関係するようだが、心理療法や傾聴でも極めて大事なポイントの一つである。生きた間を作るには、いくつかの条件があるようだ。僭越ながら、次のように考えたがいかがだろう。

①自分以外の他者を無条件に大事にする力(愛)。
②嘘、偽りのない自分を大事にする力(純粋と一致)。
③自分が変かどうかを見極める力(プロセススケール)。

 自分にとって、窮地から救われた記憶や恩人の記憶を辿ると、やはり不思議な間があったと思う。

 自分も、そのお返しができるのは、いつの日だろうか。日々修業である。



 ゆるし 8/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています。

 

 

 

 


男の神様と女神様たち・・・受容性を考える!(ゆるし 7/10)

2012-08-20 | 第四章「愛とゆるし」
 この夏は、持統天皇のことを考えるつもりであったが、いつの間にか大国主の命をはじめ出雲のことで頭がいっぱいになってしまった。
 
 世の中、自分の知らない間に、どんどん新しい真実が現れ変わっていく。弥生時代も紀元前300年くらいからと思っていた常識が今では紀元前1000年からとなってしまった。そして、出雲周辺から神話を裏付けするような考古学上の発見の数々(弥生時代)。日本の文化の原型を求める旅は大忙しになってきてしまう。

 さて、先日訪れた出雲大社。大国主の命の話を読んでいくと、出雲大社は大国主の命とスセリ姫が祀られていることが明記されているのを知る。それはともかく、大国主の命は正妻がスセリ姫なのだが、因幡の白ウサギに登場するヤガミ姫、越の国のヌナカワ姫をはじめ何人かの妻があり、スセリ姫は嫉妬に苦しんだようだ。

 しかし、そうした複雑な関係の中でも、大国主の命やスセリ姫の歌われた歌は実に美しい。暗い嫉妬などの感情がみごとに昇華されている。

 「生き甲斐の心理学」や臨床心理学では、「共感」も大事にするが「受容」ということも大事にする。自分と違う他者を認める(同意ではなく、その立場の大変さを理解する)。また、こうであるべき自分で頭がいっぱいで苦しむ時に、今ここの自分をいったん認める(自分を離れて自分の大変さを見るというような)。そんな概念である。

 ちょうど、出雲を中心に古代の文化を今勉強しているが、日本には三種の神器で大切にされている鏡がある。出雲にも、卑弥呼が親魏倭王の金印と一緒にもらったという貴重な鏡の一枚が発掘されている。日本文化には縄文時代からか、鏡への特別な固執があるようで、ありのままを映すということに大きな意味を感じているようだ。テキスト「生き甲斐の心理学」では鏡という喩え出てこないが、傾聴などの話を聴いていると、時々鏡のイメージを出す方がいらっしゃるようだ。クライアントの発言を否定しないで、淡々とありのままを聴き応える。そして、その中で、相手の方が自分の姿をのんびり見るように、自分の立ち位置を確かめられるようなことのようだ。

 最後に、ちょっと長いが、スセリ姫の大国主の命の旅立ちへの歌を以下に挙げる。数千年の前のわが祖先に、このような美しい歌があったとは・・・

 ヤチホコの 神の命(みこと)と申される
 オオクニヌシよ わが夫(つま)よ
 あなたはこれを ごぞんじか?
 女の宿命(さだめ)は 哀しくて
 旅立つことさえ できません
 風にゆられて あなたを送る
 さびしい出雲(いずも)の 一本すすき
 風に吹かれて 迷います
 あなたは男の 神だから
 いくつもの土地を めぐるでしょう
 いくつもの野辺を 越すでしょう
 野辺のすすきの その陰に
 かわいい花も 咲くでしょう
 かわいい花を 摘むあなた
 わたしは女の 神だから
 ひとりでここに 残ります
 あなたのほかには だれもない
 あなたのほかには 夫はない
 ああ
 わたしは女の神だから
 あなたのほかには だれもない
 帳(とばり)の布の ゆらゆらと
 ゆれる寝床で 待ちましょう
 うすい掛け絹 ふわふわと
 かける寝床で 待ちましょう
 白い敷布 さやさやと
 さわぐ寝床で 待ちましょう
 わたしの腕を取る人は
 あなたのほかに おりません
 わたしの胸がさわぐのは
 あなたのほかに ありません
 愛しい愛しい ヤチホコの
 神の命よ 待ちましょう
 あなたがいずれ もどられて
 やさしくわたしを だきしめる
 その日のくるのを 待ちましょう
 あなたは静かに 眠ります
 白いわたしの この腕で
 豊かなお酒を 召しあがり
 あなたは ゆっくり寝るでしょう
 別れの時に この酒を
 どうぞ 一気に 飲みほして
 わたしの心を 忘れずに
 どうぞ 一気に 飲みほして
 お出かけなさい ヤチホコの
 神の命よ 安全に
 旅のごぶじを 祈ります

 (講談社 橋本治の古事記)


 ゆるし7/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています。


 


 



ちょっと違う共感のしかた!(ゆるし 6/10)

2012-08-19 | 第四章「愛とゆるし」
 共感というと、一般には同意や同情の意味で使われていたりする。通常は相手の理路理屈が納得できたり、情感が近かったりを共感というようだ。ただ、「生き甲斐の心理学」や臨床心理学での共感はちょっと違う。

 文字通り、湧きあがる感情を共にするというだろうか?

 もちろん、相手と私という別々の生命体なのだから、感情も、本来別のもので、相手の感情を味わうことは理論上できない。しかし、言葉等の表現手段を通し、自分の中に相手と同じような感情を湧き起こし、それを共に味わうことはあるようだ。心が通じるということは、実は不思議な現象かもしれない。

 その場合、相手の反応から自分に湧いてきた感情を否定したり、逃げたりせず共有?できるかが大事になる。特に暗い感情の場合。

 傾聴訓練の共感のポイントは、それ故、倫理道徳を越えて、自分の中に湧いてくる感情を逃げたりせず、いったん受容することである。

 とはいえ、感情がうまくとらえられないことも多いので、感情と共に思考・行動も大事な情報元とすることも大事なようだ。蛇足になるが、チベット死者の書の80自性は、眼が覚めるような知恵だと思う。まあ、様々な感情も精々80位と考えると、感情を恐れなくなってよいかもしれない。

 もう一つ、自分の中で湧き起ころ感情を大事にするのは、決して辛いだけでないと理解することは大事である。「生き甲斐の心理学」を学んでいくと、暗い感情(どんなものでも)の反対に明るい感情が隠れていて、視点を変えたりすることによって、暗い感情が明るい感情に変わることを実感するようになる。ちょうど青虫がアゲハチョウに完全変態するかのようだ。特にウツや錯乱といった辛い感情の背後に幸福感や統御感があると知ると世界が変わる。

 このように共感の理解を深めていくと、大国主の命が傷だらけの白ウサギの感情をしっかり受けとめたり、不遇な結婚生活を送るサマリアの女に手を差し伸べるイエスのあたたかさの意味が分かってくる。

ゆるし 6/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています。


 


 


心と心の会話は武装解除をしてから!(ゆるし5/10)

2012-08-18 | 第四章「愛とゆるし」
 先日ワイキキに行った時、アメリカ陸軍博物館に寄ってみた。入場料は無料であるが記帳が必要で、その時に職員の方が気楽に声をかけて会話を楽しむ。建物も元砲台があった軍事施設であり、中の展示物も武器そのもので迫力があるが、こころの方は、楽しい会話で、ちょっと武装解除。



 日々の人と人との関係は、心を開いて何でも語り合えるというわけではない。そんなことをすれば、時には立場を悪くしたり混乱をまねくこともある。しかし、混乱し本来自分の中にあるはずの真の回答が見えなくなっている方を支援するときは、心のバリアをとり相手と生身で接触する必要がある。

 大国主の命が傷を負ったうさぎに接近したときも、せいぜい大きな袋を持っていただけで、刃物をチラつかせてうさぎのそばに来たのではない。サマリアの女の話も、イエスが無防備に井戸のそばに座っていて、サマリアの女に「水を飲ませてください」と言うだけだ。

 こちらが無防備であれば、相手も無防備になっていくものだ。これは殆ど法則である。ただ、実際、深いレベルで無防備になれるかというと、生育史による刷り込みもあり簡単には行かない。それを、相手は無意識にも察知するところがあるようだ。やはり、自分の人間観・哲学がどこまで自分のものになっているかが大切。私は、聖パウロの「人の身体は神の神殿」の思想を大切にし、相手の中に愛そのものがあることを大切に考えているが、なかなか難しいものだ。

 因幡の白うさぎも、初めて大国主の命と会った時は惨めなうさぎであったが、物語の終わりは、うさぎはヤガミ姫と深い関わりがあり、結婚を導いてくれるキューピットのような存在に変わる。サマリアの女も同じように変わってくる。ただ、現実には未来の変化は判らないのが常であり、どうしても現実の邪悪な姿に囚われがちである。

 武装解除には信じる力が必要不可欠なのかもしれない。


 ゆるし5/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています。


 


 


ふつうの人の再生のものがたり!(ゆるし 4/10)

2012-08-17 | 第四章「愛とゆるし」
 先日、知人に教えていただき、姜尚中さんの「続・悩む力」を読んだ。いろいろ勉強になったが、印象が強かったのは、夏目漱石がウィリアム・ジェイムズの影響を受けていたことだった。W.ジェイムズの有名な「二度生まれ」の概念が漱石の『思い出す事など』に出てくるのだ。
 
 心理学というと、フロイトとかユングを思い浮かべる方(私もそうであった)が多いが、100年以上の前の夏目漱石の時代にウィリアム・ジェイムズという心理学者がいて、「宗教的経験の諸相」(岩波文庫)などの名著がある。そして、比較宗教学や宗教心理学の分野で大きな仕事をされている。ある意味で、現代の心理学の開祖といって良いかもしれない。

 再生のものがたりは、古今東西の名著に溢れているが、例えば、今読んでいる古事記にも沢山ある。大国主の命の兄弟の神々の嫉妬による艱難辛苦、スセリ姫の聖書の雅歌を思わせる歌など、本当に素晴らしい!

 しかし、再生のものがたりは決して偉人だけの話ではなく、極めて身近な普通の人のテーマなのだ。

 いろいろな事例が調べるとあるのだが、その中で一つの事例を取り上げてみたい。「生き甲斐の心理学」の冒頭に引用されている「サマリアの女」(聖書のヨハネ福音書第4章1-30節)はどうか。イエスにとっては異国のシカルという町の井戸端で、たまたま水を汲みにきた女性がイエスに出会い、ほんの数分の会話で、溌剌と生き甲斐を持ってイエスと別れる。まさに「二度生まれ」の話のようだ。これは、U先生によると、欧米の心理療法家の話題の場面だそうだ。これの4:1~4:30を参照ください。

 会話の中には、傾聴、カウンセリングそして心理療法に通じるポイントがいくつかある。それを明日から考えてみよう。

ゆるし4/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ  <・・クリック応援いつも感謝しています。