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イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ガランとした校舎!

2007-08-21 | 第七章「光と復活体」

生徒の居ない校舎にひっそり咲く向日葵や夾竹桃。主人公の生徒が来ない校舎だけに、入学式頃に咲くサクラとか秋の銀杏などと違い、ちょっと印象が薄い。

ガランとした校舎の風景。

私の中学生時代は高校と受験という重荷があった。夏休みは合格の決め手と叱咤激励されて、暑い教室などで勉強をした。大嫌いな国語(当時の成績は5段階評価で2か3)の成績を上げなければ、ままならぬ状況であり、まじめに勉強した。

国語は、長文の選択問題が不得手だった。長文を読んでいると、いろいろ想像が駆け巡り、どれが正解か訳が判らなかった。父も祖父も理工系で、何となく自分も理工系という先入観が国語を苦手にしたこともある。

今でも目をつぶると当時勉強していた問題集が目に浮かぶ。

高校受験をこなし、第一希望の高校に何とか入学した頃、中学同級生で一緒に進学したA君に受験のときにどのような勉強をしたか訊かれた。中学の後輩に、受験成功談を話すためにいろいろ訊いているとのことであった。私は自分の国語の経験を話した。

それから数ヶ月して、A君は突然自殺された。

親しくは無かったけれど、A君の死は当時ショックであった。私とA君の接点は同じ中学、同じ高校に進学したということだけである。幼馴染でもなく、同じようにキリスト教を信じていたわけでもなかった。

ガランどうの校庭の隅に咲く向日葵、A君のために祈ろう。

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良いか悪いか!

2007-08-20 | 第七章「光と復活体」

昔から見慣れた鉄塔。

初めて就職した会社では、食堂の近くで皆の憩いの場所に鉄塔があった。30年前に初めてマンションに移り済んだとき、富士山が見えて喜んだが、鉄塔も見えた。そして今の住まいからも鉄塔は美しく見える。

私にとって、鉄塔は良いイメージである。

カウンセリング勉強会で、参加者の知覚の差を確認するため、鉄塔の写真を見てもらい感想を言ってもらうことがあった。

「景観をそこねるし、電磁波が問題では」

「身近に鉄塔で仕事をしている人がいて、頼もしいイメージがある」

「ピクニックに行ったりするとき、見て残念に思う」

「以前風で倒れて、危険なイメージを持った」

「シンプルな鉄骨の構造体で電線が他と繋がり、手を取り合っているようで、大好きである」

本当に、千差万別の反応があるのに驚いた。人それぞれ、独自の知覚でものごとを判断するんだなと実感した。それともうひとつは、厳しい世の中のことであるから、良いか悪いかで判断しがちであることも学んだ。

良いか悪いか!こうした二元論は世の中のいたるところに顔を出す。テレビをひねれば新しいニュースとこの二元論が花盛りである。

さて、世の中にはこの二元論から自由な世界も実はある。このところ、のんびり楽しんでいるギリシャ神話の世界である。嫉妬する女神ヘラ、ゼウスも平気で浮気をする。しかし神々の世界、善悪を超えて優雅にこの世の真実を語ってくれるようだ。

今日も鉄塔は、良いか悪いかに偏って見ている人間を、高いところから静かに見ているようだ。

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ヒトそれぞれの知覚!

2007-08-19 | 第七章「光と復活体」

お盆休みも終わり、友人と旧交を温めたり親戚と語り合った日々も過ぎ去った。

その中で、ふと、友人や親戚の方への私の見方、正確に言えば知覚が昔と今では変わったことに気づく。これも植村高雄先生の「生き甲斐の心理学」を学ばせていただいた成果かもしれない。

昔は人と自分の違いを悲しむことが多かったが、今は人と自分の違いを楽しむことが多くなったようだ。

知覚という言葉がある。難しい言葉であるが、「人それぞれの五感と知性で把握すること」、と理解すると少しわかり易い。

カウンセリングや心理学の中で、カール・ロジャースが有名であるが、そのロジャースのパーソナリティ理論である19個の命題は現象学の影響を受けている。そして、命題の2番目に次の記述がある。

「有機体は、場に対して、その場が経験され知覚されるままのものに、反応する。この知覚の場は、個人にとって実在(reality)なのである」(全日本協議会発行<パースナリティと行動についての一理論:学習の手引き>より引用)

これは、人はある存在(人でも、モノでも、事実でも)に直接反応するのではなく、その人の知覚したものに対して反応するということである。要は、物事は人それぞれのフィルターを通して把握され、ある物事に対する人々の反応はバラバラであるということでもある。

バラバラは当たり前、「生き甲斐の心理学」のひとつの考え方である「自分以外の他人は驚きの対象」という真理である。

イエス・キリストの復活に出会った人々は、新約聖書によると人それぞれの知覚で反応した。中には聖トマスのように、手に釘の跡を見、指を釘跡に入れなければ信じないという知性の持ち主までいた。私もそのタイプの人間であったが・・・

ヒトそれぞれの知覚に関する真実、考えてみる価値はある!

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(鉄塔を皆様はどう思いますか、この反応本当にヒトそれぞれ!)


響くとき響かないとき!

2007-08-18 | 第七章「光と復活体」

こころの状態というのは、お天気のように毎日移り変わる。ただ、なにか暗い感情を引き起こす気がかりがあると、感動したり、物事への気づきが悪くなる。こころが今ここにおらず、打っても響かなくなっていく。

暗い感情の原因は、自分でもはっきり意識化できるものと、意識化できないものがあるようだ。ロジャースのパースナリティ理論で第11の命題に関連して、潜在知覚(subception)という概念が出てくる。

その意味は、意識的知覚に先行する経験に対して、弁別して評価する生理的な有機体的反応、と定義できるようだ。自己分析をしたり、生き甲斐支援を考えたりする意味でとても重要である。

ロジャースによれば、潜在知覚が意識化できない理由は、ひとの思い込み(自己概念)が邪魔をしているからだという。

今日は、自分のこころは響ているか否か?

昔はタバコを一服したものだが、今は美しい芸術に触れたり、静かに5分間くらい祈ったりしてみよう。

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老い支度!

2007-08-17 | 第七章「光と復活体」

母の兄弟、私の伯父さん、伯母さんは全員80歳以上である。最高齢は95歳。最近会う機会も減ってしまったが、先日母と都内の伯母さんを訪ねた。

楽しい語らいのときを過ごし、母と夕食を共にして帰ったが、老いるということを考えさせられた。

老いれば身体的、精神的にだんだん弱り、生き続けることが大事業となってくる。時には認知症になったり、最後の時も薬で朦朧としてしまうこともあるようだ。大変だなと思ったり、実際に自分もそうなったらと恐怖感を覚えたりする。

私は30-40歳台のころは、60歳ごろまで働き、あとは自由気ままな定年後の生活といったイメージをもっていた。要は退職してからはおまけの人生といった考えである。

ただ、今となってはその考えはちょっとおかしいと思う。年をとればだんだんできることは少なくなる。しかし、人生の総決算、死を前にますます充実した人生を歩まねばならないのだ。

人生最大の重要な時を控え、やるべきことはいろいろある!

そして、ふと考えて、老い支度も所詮「今ここで」をより生きることだと気づく。

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