はれっとの旅路具

(はれっとのたびろぐ)田舎暮らしと旅日記
金沢・能登発 きまぐれ便

東京での飲み会番外編

2006-06-03 09:38:49 | つぶやきあれこれ
この記事の前の記事「金沢発金沢行き」でちらりと書いたTさんと彼の部下の方と午前様になるまで呑んだ時の御話です。

Tさんとは仕事ではなく10数年前に遡る知人で、今では友人と呼べる(下宿先に転がり込める)間柄です。温和ですがセンスや発想が素晴らしい方です。
その彼も、新しいプロジェクトを会社から全面的に任せられ、悩んでいることも少なくなす様子。

彼の誘導に乗ってしまって次のような御話を差し上げて、時間を忘れて書生っぽい議論を交わしていました。
まぁ、酔狂と思ってお許しください。m(_._)m

●リーダとフォロアーの違い
部下を率いるリーダ
リーダに率いられ一員として活躍するフォロアー
というのが一般的な分類だと思いますが、やや違う面から眺めてみます。

それは、
・自らが置かれた環境に対してどう向き合っているか
です。

自らが置かれた環境を変えることができる人がリーダ
自らが置かれた環境の中で活動しようとするのがフォロアー

つまり、一般分類だと
チームや組織(家族)などというものが無いとリーダになれない
のですが、そうではないでは?という小石を池に投げたのです。

また、どれだけフォロアーとして頑張っても、その先に
自然にリーダとして道が繋がっているのではない
とも思うのです。

ここで、部下さん。
でもフォロアーとして努力を重ねるとリーダとしての芽がでるのでは?

確かに、フォロアーとしてだけでは済まなくなり、状況を変えなければならないことは起きてきます。その時、どうしようとするかが問題なのでは?選択肢は二つ。
環境に対する姿勢の違いが、どちらの選択肢を取るかにつながるはず。

フォロアーとして生きている人は、世間や周囲が悪いとこぼします。
でも、世間や周囲に働きかけをしません。
だから状況(環境)は変えられませんし、元々変えられるとも思っていないのでは?

リーダとして生きている人は、自分の意志に従い、それと合わない状況があると、何とか方法を見つけて状況を変えようと試みているはずです。
この違いは生き方として大きいのではないか。

ここでTさん。
その生き方は、我がままと何処が違うか?

我欲からではなく、純粋動機から発しているかどうかだけ
世間を騒がせている事件の当事者の面々も、最初は純粋動機だったかもしれませんが、それが何時の間にか我欲に掏り替わると、道を踏み外して「事件」になっていくのでしょうね。きっと。

ですから、リーダとして生きるのはある意味修行をしているようなもの

フォロアーの方が圧倒的に気楽ですが、結果的に主体的でないため
本当の意味で幸せかどうか微妙。
でも、意識の問題だから他人から強制はできない…

リーダーとして何かを始めた人も、途中で諦めてしまうこともあります。
それは休憩の時間。いつかまた自分の足で歩き始めたくなるはずです。
他人のためにリーダとしての道を選択しているのではないのですから、いつ休んでもいつ歩き始めても早い・遅いは無いと思います。

組織・グループ・家庭でも、この違いを判っていると意外に気が楽になるかもしれません。「あぁ、私はリーダとして生きようとしているのかぁ」と判るから。それも自分自身のために。

●落ち込んだ時
Tさん。この頃大変なようで、よく落ち込むそうです。

そこで、反省と後悔は違うという話から。

反省は、次回から対処法や改善法が判ること。だから心の傷にはなりません。
後悔は、やるせないですね~。
自責の念に囚われて、心に傷を自分で刻んでしまいます。
実はこれが一番、心によくないと思い始めています。

反省はしても後悔はしない
と私も決めていますが、それでも自責の念は襲ってきます。

自責の念に襲われて落ち込んだ時。どうしますか?

Tさん。
無理やり頑張って押し込んでしまうか、気を紛らわせる…。

あぁ、そのやり方だとまた襲ってきませんか?
やり方を変えてみませんか?

落ち込むのは、失敗をやらかした時点から自分が成長したから
と考えてみませんか?

失敗をやらかした時は、失敗すると判っていませんでしたよね。
経験が足らなかったからです。

今、それに気づきましたね。
だから後悔します。
「何であの時、ああしたのか。こうやれば良かったのに」と
でも、最初からそれが判っていたら失敗をしでかすことはあり得ませんよね。

つまり、失敗をしでかした時より時間が経った今、それが失敗と判る分、成長したのです。
「成長した未来の自分」から、「未成長の過去の自分」を見たら、落差が見えます。
「この差が落ち込みの深さ」なのではないでしょうか。

落ち込んだら、その分成長できたのだと思って、今の自分を認めてあげませんか?
そして、その失敗の原因を作ってくれた人・環境や、失敗をカバーしてくれた人、許してくれた人に感謝してみませんか?単に済まないと思う以上に。

少し心が落ち着きませんか?
自責の念に囚われる時間が短い分、心の傷も浅くて済みます。
自分の心を傷つける必要はありません。

敬愛する同僚が散々悩んだ末に「最終的に対処しなければならない感情は、自責の念と怖れのようだ」と話したことを思い出しています。
これらは、自分の足で歩こうとする気持ちを妨げます。
自分らしく生きる勇気までも削いでしまう。

身体の動向を測る装置は鑑・体重計などたくさんあります。
でも、心の成長を測る装置はありません。

自責の念が沸き起こったら、思い出してみてください。
自分の成長を測る鑑を観ているのだと。

私もそうやって、頭をあちこちにぶつけながら、
不器用に歩いています。


歳を取ったのか説教じみた話をするようになったようで、すみません。
何かの役に立てば嬉しいです。


さぁ、いまから家を出発して合宿に行ってきまぁす(^^)