「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

いまできることを

2011-03-27 | つれづれ
震災後、仕事に追われて更新もしないでいました。本来なら復興に向けて、という時期なのに原発のせいでいまだにいろいろなことが滞っています。それはさておき、仕事はもとより、寄付や東北の産品を買うなど、自分がいまできることをいまやる。その大切さをあらためて自分に言い聞かせています。様々な文書がネット上にも流れています。そんな中から心に染み入ったのが以下の、被災地で働かれた看護士さんの報告ブログです。どうぞご一読ください。

被災お見舞い

2011-03-12 | つれづれ
とりあえず私は無事です。被災お見舞いという言葉がむなしいほどの東北の状態に言葉もありません。友人の安否が気がかりです。

久しぶりの京都にて(下)

2011-02-27 | つれづれ
3日目は土曜日。仕事もちょこちょこと済まし、朝から動きました。東山の青蓮院に向かいます。何度か訪れたことのあるお寺ですが、やはり20年以上ぶり。今回は「大人」の味わいをしみじみと感じることができました。

朝一番ということで開門と同時の参拝となりました。さすがに門跡寺院。門前から樹齢1000年以上ありそうな楠のほれぼれとする力強くも妖艶な感じを漂わせる枝ぶりが、これから入る境内が「外」の世界とは別世界であることを示しているかのようです。境内は、建物も荘厳で風情がありますが、なにより庭がいい。池、滝、竹林、山と、まるで「世界」をここに再現したかのよう。華頂殿から眺めるお庭は圧巻です。時々刻々、光の変化で表情が変わっていき、飽きることがありません。なにせお客さんがほとんどいないので、しばしほけーーっと眺めていました。水音だけが響きます。

建物の中を進み、小御所の裏に回ると国宝の青不動明王の絵が祭られた御堂に。薄暗い御堂でしばし不動明王の迫力あるお姿に向き合います。飲み込まれるような迫力です。思わず手が自然と合わさります。

さらに宸殿がよかった。右近の橘、左近の桜を正面に、楠の大木を見る。縁側のような部分(学がないのでなんと呼ぶのかわからないのですけど…)に腰掛けて、またぞろ、ぼーーっと眺めます。庭を眺めときおり振り替えると、狩野派の描いた金地に松の襖絵。冬とはいえ庭の生き生きとした生命感、うす暗がりの室内にぼーっと浮かび上がる老木の松並木の浜の絵。なんとも幽玄な雰囲気で、彼岸とこちらがわを瞬時に行き来するかのような感覚です。菊の御紋入りの御簾が空間を隔てている室内は時空を越えます。さすがに冷え込みが厳しく、体が冷えてきたので、1時間ほどで室内を後にして今度は、建物から眺めていた庭の散策に移ります。

お庭からみる建物の調和感が絶妙です。質素でいながら荘厳。荘厳でいながら雅。高低差があるので特に、竹林を背にした境内の中の日吉神社という高台からの眺めは京の街まで視野にいれ、眼下には庭園と建物がまとまりよく配置されていて、お見事! けっして広くはない空間を、高低まで生かした見事なつくりだと思いました。寒くなければもう少しいたかったなあ。まさに気分は「そうだ、京都行こう」でした。

「お隣」の知恩院はあいかわらず、さすがに徳川幕府のお寺。どかん、という重量級寺院とでもいいましょうか。いかにも武家の頭領のお寺ですね。青蓮院が天皇家を中心とする貴族文化の伝承を感じるとすれば、知恩院は武家の力と、どこか庶民向けの開放性を感じます。今年は法然上人の800年忌ということで、いろいろなイベント布教活動に力をいれているようです。ちなみにてのは浄土宗宗歌「月影」がなぜか歌えるのです。甲子園にもたまにこれを校歌とする学校が出場して、あの歌が流れることがありますけど、どれくらいの人が分かるのかなあ、「作詞・法然」と出るんですよ。ちなみに歌詞は「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」。これで全てです。どうです? けっこうしみじみとしません?

午後は京都精華大学が開設した「国際マンガミュージアム」を訪れ、日本のマンガの歴史、広がりを目の当たりにしてきました。なつかしい作品もたくさんあって、これまたしばし読みふけってしまいましたよ。

久しぶりの京都にて(上)

2011-02-27 | つれづれ
わけあって、冬の京都に2泊3日することに。しかも目的の仕事はほとんど時間がかかりません。けっこう自由時間があります。いつもは出張の合間をぬってあわただしく観光するのですが、久しぶりにゆっくりと京の街を歩くことが出来ました。

初日はお仕事のみ。時間がまとまってあるのだからと、2日目は市街地を離れて朝から大原に向かいます。冬の平日のこと、静かなものです。大原は思い返せば30年ぶりぐらいでしょうか。バスではあいかわらず「京都大原三千院、恋に疲れた女が一人~」が流れています。うーん、ほかにあたりの歌がないのかなあ

三千院にはところどころ雪が残ります。今回一番の感動は、「虹の間」とよばれる、下村観山が描いた淡い青色が印象的な虹の襖絵がある宸殿の一室から、向かいの往生極楽院を静かに眺める時間のあったこと。なにせお客さんが少ないので。座る位置によって微妙に木立の間に見え隠れする往生極楽院の静かな佇まい。時折雲間から日が差すと、木立の合間から光の「道」が幾条も苔の庭園に刺さってきます。光の当たった苔と周囲との対比、深い緑が瞬時に生命の息吹を与えられたかのように新緑のような鮮やかな緑に輝きます。前日、雨が降っていたので、水気を帯びた苔が輝きます。光の中に舞う塵さえも、ここでは天女の舞もかくや、と思える美しさです。その苔の庭園を歩くと、苔むされた石の小さなお地蔵さんが何体かたたずんでいます。かわいらしい稚児の表情。思わず自分も表情が緩みます。

三千院を後にして寂光院に向かいます。まさに鄙。以前訪れたときはなんとも感じなかったのですが、私も人の親になって、寂光院の侘しい、言葉を選ぶなら「質素な」山門、そして御堂の佇まいに胸に迫るものがありました。29歳でこの寺に入った建礼門院の心持を思うと、目頭が熱くなるのです。安徳天皇の実母となって我が世の春を謳歌したのもつかの間、源氏との戦いの中で、親兄弟、そしてわが子までも目の前で喪い、自らは命を断ち切れなかった。その心持は想像を超えます。寺に入って翌年、後白河法皇が突然訪れて二人で語らい、世の無常を感じて涙した話など、ぐっと来てしまいます。建礼門院のお墓は「皇族」の扱いとなるため、宮内庁管理の廟になっていました。ここで彼女が何を思いながら生涯を送ったのか。冬の風にふかれると侘しさが一層増しただけに、印象深い訪問になりました。京都は何回訪れても、そのつど、発見や感動があります。

きことわ

2011-02-20 | つれづれ
朝吹真理子さんの芥川賞受賞作品「きことわ」。一読しての感想は、「なんでこの作品が芥川賞?」というものでした。確かに美しい日本語、「私が妊娠されていた」といった不思議な、でもこの場の表現としては実に適切でしっくりとくるような言葉の使い方は、お見事だと感じました。

でも、それとても以前書いた「流跡」と比べると大人しい感じがします。日本語の美しさを最大限に引き出すような前の作品とは違うのです。「流跡」では、自分の立ち位置、時間、土台といったものがバラバラになるような不安定感、どこに連れ去られていくのかまったく予想の出来ない不安と同時に、喜びである感覚がありましたが、そうしたものも感じられません。そんな感覚、世界にもう少しで入りそうだな、と思ったところで、なぜかスッと引かれる感じで、物語世界に没入しきれないのです。腕の良い監督さんに映画に仕立てていただいたら、おもしろ脚本になるかもしれません。「かもめ食堂」の雰囲気で。

次回作に期待します。

==以下「BOOKデータベース」から==
永遠子は夢をみる。貴子は夢をみない。葉山の高台にある別荘で、幼い日をともに過ごした貴子と永遠子。ある夏、突然断ち切られたふたりの親密な時間が、25年後、別荘の解体を前にして、ふたたび流れはじめる―。第144回芥川賞受賞。