はれっとの旅路具

(はれっとのたびろぐ)田舎暮らしと旅日記
金沢・能登発 きまぐれ便

写真部だった頃:亡き先輩に寄せて

2006-05-07 23:17:01 | 旅日記
ブログを始めて未だ日が浅いのですが、ご縁が広がるものですね。

ひょんな事から庭花さんのブログと行き来をさせて頂いて、今から30年近く前、中学・高校と6年間写真部に在籍していたことを懐かしく思い出しています。

当時北海道にいました。
中学の時は、大好きな蒸気機関車が現役で、単身外泊禁止という校則を完全に無視してカメラバックを担ぎ、無人駅に野宿したり、夜行列車の上下行き違いを利用したりして、道内を撮影行脚していました。

昭和50年頃だったと思います。蒸気機関車C57 135が最後の列車を引いて室蘭本線を走り抜けのたは。
大人に混じって、やはり徹夜で撮影ポイントを確保しました。
その罐(かま:蒸機のこと)は今、東京神田の交通博物館に展示されています。

進学した高校は、学年10クラスある大きな学校でしたが、写真部は極少数。
蒸機にかわって撮りたい被写体も見つからず、過去に撮ったネガから印画紙に色々な技術を使って焼き直す事ばかりやっていたように記憶しています。

一年先輩のAさんも蒸機が好きでした。

私が二年、先輩が三年の年の文化祭。
二人だけの写真展をしようということになって教室を借り切り、パネルに思い思いの自称「傑作」を焼いていきました。

二人展のタイトルは「仄(ほの)かなる煙のにほい」

賑やかな文化祭の陰で、二人の地味な出展には極ささやかなご来客だったと記憶してます。
その中に、眼鏡を掛けた女性がゆっくりと見ていかれたのを今でも覚えています。
記名簿を見ると、一学年上の方です。先輩は何故か判りませんが不在だったはずです。蒸気機関車の写真など女性の趣味とは思えないので不思議に思い、記憶に残っていました。

やがて春。先輩は卒業して行かれました。
確か東北の大学だったと思います。

一ヵ月後、写真部の部長をして頂いていた先生から、思いがけないことを伺いました。
大学でワンダーフォーゲル部に入部した先輩が、山で亡くなった、と。
ショックでした。つい一月まで元気だったのに…。

その後の詳しいいきさつは覚えていません。
ただ、写真部長の先生から強く勧められて二人写真展での展示作品を集めた写真集を作ることになったことだけは覚えています。

印刷など及びもつきませんから、全て手作りです。
先輩のご自宅に伺い、ネガをお借りして、記憶を辿って一枚一枚印画紙に焼いていきました。手製による製本の仕方は部長先生から教えてもらいました。

見開きには、先輩の遺影と私の顔写真。二人展に寄せた二人の思いを書いた模造紙の写真も見つかり、載せました。

問題は、表紙でした。
今思えば、もう少し気の利いたデザインにするべきでしたが、写真が全てモノクロだったためもあり、黒地にやや黄色味を帯びた二人展のタイトル文字だけで構成しました。
部長にも了解を得て、刺繍が得意だった母に頼んで3枚作ってもらいました。

製本したのは全部で三部。
先輩のご遺族と、部長先生と、私の分です。
表紙をつけたのは、そのうちの二部。
かなり手間を要したことと、何故か気ぜわしかったため、自分の分の表紙は後回しにしていました。

完成して写真部長に持っていったとき、あの時の女性がいました。一年上の眼鏡の人。
何を話したかは覚えていません。彼女もあまり多くを話されなかったように思います。
それより刻まれているのは、彼女が先輩のことをどれほど想っていたか、ということです。
今更ながら悔やまれるのは、三部とも完成させて三部目は彼女に差し上げるべきだったこと。

表紙だけが無い手製二人の写真集が、今でも押入れのどこかにあるはずです。