2016年9月7日(水)、宮崎の生目古墳群を訪ねてきた。宮崎は過去に2回行ったことがあり、いずれのときも西都原古墳群を訪問した。当時はこの生目古墳群(いきめこふんぐん)の存在を知らなかったのだが、古代の南九州を学ぶ中でその存在を知り、機会があれば行ってみたいと思っていた。当日は台風13号が九州東岸をかすめるために雨の予報であったが、幸運なことに台風の影響は全くなくピーカンの快晴。逆に熱中症すら心配する状況だった。
生目古墳群は国指定の史跡公園として整備され、宮崎市の埋蔵文化財センターも併設しており、入場、入館は無料である。しかし、国指定の史跡公園というわりには管理が行き届いておらず、公園内は駐車場や芝生公園、メイン通路を除けばほぼ全域が雑草におおわれており、時には身長ほど高さの草を掻き分けて進まねばならない状況だったのは残念だった。
<生目古墳群の概要> (宮崎市ホームページより抜粋)
生目古墳群は、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた、古墳時代前期から中期(約1700年前から1500年前)の古墳群です。この丘陵は大淀川右岸に位置しており、東には宮崎平野を見渡すことができます。
生目古墳群は51基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基があります。その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言えます。当時、この生目古墳群に埋葬された人物は、かなり大きな力を持った人物であったと考えられます。また、南九州独特のお墓の形である地下式横穴墓も多く発見されています。その中で注目されるのは、地下式横穴墓が前方後円墳の下から見つかったことです。これは、近畿地方からの影響のもと築かれた前方後円墳と南九州独特の地下式横穴墓の関係を知る上で非常に貴重な発見であったと言えます。
<現地の様子>
埋蔵文化物センターと体験学習施設を併設する「生目の杜遊古館」
宮崎市内の遺跡の出土物を保管するに部屋に設けられた生目古墳群の展示施設
史跡公園の全体図
3号墳 3号墳は全長143メートル、高さ12.7メートルの前方後円墳。九州では西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次いで3番目の大きさである。歩いて登ることができるので、前方部手前の左角から登り、墳丘上を後円部頂上に向かって歩き、最後は前方部の急な斜面を降りた。墳丘全体が大きすぎて全景を撮ることができなかった。
5号墳 5号墳は全長57メートル、高さ4.4メートルの前方後円墳。葺石を復元した形で公開されており、ここも登ることができる。葺石は土に張り付けるように並べているのかと思ったらそうではなく、土に突き指すようにしていた。これだと必要な石の数は膨大になるけど崩れにくいという利点がある。この復元にはセメントで固めるなどの方法ではなく古墳築造時の工法が用いられているために実際に古墳そのものを感じることができる。この状態を何十年も継続するためにはしっかりしたメンテナンスが必要であろう。
7号墳
7号墳は全長46メートル、高さ3.9メートルの前方後円墳。生目古墳群は前方後円墳の周りに南九州独特の埋葬方法である地下式横穴墓が多数みられるが、この7号墳はそのうちの一つが後円部の右側面から中心部に届くような地下式横穴墓が設けられており、本体である前方後円墳の埋葬主体ではないかと言われている。もしそうだとしたら前代未聞の貴重な遺跡であるはずだが、その保存実態は見ての通り。いったんブルーシートで覆ったものの何年も放置されてシートが破れて草がぼうぼう。おそらく横穴も崩壊していることだろう。まことに残念である。
九州最大規模の前方後円墳である3号墳、葺石を築造時の工法で復元した5号墳、おそらく日本でここだけと思われる地下式横穴墓と前方後円墳が埋葬施設として合体した7号墳など、貴重な古墳が密集している。規模では西都原に負けるが内容では互角と言ってよい。それにもかかわらず、平成20年に生目古墳群史跡公園としてオープンし、まだ10年も経っていないとは思えないほどに荒れていた。入り口の芝生公園は綺麗に保たれているためにそのコントラストで余計に残念な気持ちになった。
<「生目」の由来>
当地に生目神社がある。第12代景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと。垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、当地の住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えたことによる。このほか諸説あるが、私はこの説に興味を持った。
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生目古墳群は国指定の史跡公園として整備され、宮崎市の埋蔵文化財センターも併設しており、入場、入館は無料である。しかし、国指定の史跡公園というわりには管理が行き届いておらず、公園内は駐車場や芝生公園、メイン通路を除けばほぼ全域が雑草におおわれており、時には身長ほど高さの草を掻き分けて進まねばならない状況だったのは残念だった。
<生目古墳群の概要> (宮崎市ホームページより抜粋)
生目古墳群は、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた、古墳時代前期から中期(約1700年前から1500年前)の古墳群です。この丘陵は大淀川右岸に位置しており、東には宮崎平野を見渡すことができます。
生目古墳群は51基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基があります。その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言えます。当時、この生目古墳群に埋葬された人物は、かなり大きな力を持った人物であったと考えられます。また、南九州独特のお墓の形である地下式横穴墓も多く発見されています。その中で注目されるのは、地下式横穴墓が前方後円墳の下から見つかったことです。これは、近畿地方からの影響のもと築かれた前方後円墳と南九州独特の地下式横穴墓の関係を知る上で非常に貴重な発見であったと言えます。
<現地の様子>
埋蔵文化物センターと体験学習施設を併設する「生目の杜遊古館」
宮崎市内の遺跡の出土物を保管するに部屋に設けられた生目古墳群の展示施設
史跡公園の全体図
3号墳 3号墳は全長143メートル、高さ12.7メートルの前方後円墳。九州では西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次いで3番目の大きさである。歩いて登ることができるので、前方部手前の左角から登り、墳丘上を後円部頂上に向かって歩き、最後は前方部の急な斜面を降りた。墳丘全体が大きすぎて全景を撮ることができなかった。
5号墳 5号墳は全長57メートル、高さ4.4メートルの前方後円墳。葺石を復元した形で公開されており、ここも登ることができる。葺石は土に張り付けるように並べているのかと思ったらそうではなく、土に突き指すようにしていた。これだと必要な石の数は膨大になるけど崩れにくいという利点がある。この復元にはセメントで固めるなどの方法ではなく古墳築造時の工法が用いられているために実際に古墳そのものを感じることができる。この状態を何十年も継続するためにはしっかりしたメンテナンスが必要であろう。
7号墳
7号墳は全長46メートル、高さ3.9メートルの前方後円墳。生目古墳群は前方後円墳の周りに南九州独特の埋葬方法である地下式横穴墓が多数みられるが、この7号墳はそのうちの一つが後円部の右側面から中心部に届くような地下式横穴墓が設けられており、本体である前方後円墳の埋葬主体ではないかと言われている。もしそうだとしたら前代未聞の貴重な遺跡であるはずだが、その保存実態は見ての通り。いったんブルーシートで覆ったものの何年も放置されてシートが破れて草がぼうぼう。おそらく横穴も崩壊していることだろう。まことに残念である。
九州最大規模の前方後円墳である3号墳、葺石を築造時の工法で復元した5号墳、おそらく日本でここだけと思われる地下式横穴墓と前方後円墳が埋葬施設として合体した7号墳など、貴重な古墳が密集している。規模では西都原に負けるが内容では互角と言ってよい。それにもかかわらず、平成20年に生目古墳群史跡公園としてオープンし、まだ10年も経っていないとは思えないほどに荒れていた。入り口の芝生公園は綺麗に保たれているためにそのコントラストで余計に残念な気持ちになった。
<「生目」の由来>
当地に生目神社がある。第12代景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと。垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、当地の住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えたことによる。このほか諸説あるが、私はこの説に興味を持った。
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |