ここからは石野博信氏の「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」を参考に纒向遺跡について見ていきたい。
纒向遺跡は奈良県桜井市にあり、奈良盆地の東南、三輪山の麓から大和川にかけて東西2キロ、南北2キロに広がる地域で180年頃に突然に現れ、350年頃に突然に消滅したと考えられている。石野氏は「自然発生の集落ではなく人工的に造られた政治都市である」と指摘している。また纒向遺跡の発生時期は魏志倭人伝にあるいわゆる倭国大乱の時期と重なっている。後漢書によると倭国大乱は桓霊の間(桓帝・霊帝の治世の間)つまり146年~ 189年、また梁書ではさらに時代が絞られ、後漢の霊帝の光和年間、つまり178年~184年となっている。魏志倭人伝は、倭国の各国は卑弥呼を共立することでこの大乱を収めたとしている。このことから卑弥呼は190年前後に王となったと考えられる。また倭人伝は卑弥呼の死についても触れている。247年に狗奴国との戦闘を報告し、魏から激励されたあとに「卑弥呼以死」と記されており、卑弥呼は250年前後に死去したと考えられる。つまり卑弥呼の時代は180年代から250年頃ということになる。
卑弥呼の死後、男王が立ったものの国中がこの王に服さず、更に戦いが続いた。卑弥呼の宗女「台与」を王として立てるとようやく国中が治まったという。つまり2世紀末から3世紀は卑弥呼・台与の時代であり、纒向は女王卑弥呼、その後の台与の都として建設された政治都市であると考えられる。
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纒向遺跡は奈良県桜井市にあり、奈良盆地の東南、三輪山の麓から大和川にかけて東西2キロ、南北2キロに広がる地域で180年頃に突然に現れ、350年頃に突然に消滅したと考えられている。石野氏は「自然発生の集落ではなく人工的に造られた政治都市である」と指摘している。また纒向遺跡の発生時期は魏志倭人伝にあるいわゆる倭国大乱の時期と重なっている。後漢書によると倭国大乱は桓霊の間(桓帝・霊帝の治世の間)つまり146年~ 189年、また梁書ではさらに時代が絞られ、後漢の霊帝の光和年間、つまり178年~184年となっている。魏志倭人伝は、倭国の各国は卑弥呼を共立することでこの大乱を収めたとしている。このことから卑弥呼は190年前後に王となったと考えられる。また倭人伝は卑弥呼の死についても触れている。247年に狗奴国との戦闘を報告し、魏から激励されたあとに「卑弥呼以死」と記されており、卑弥呼は250年前後に死去したと考えられる。つまり卑弥呼の時代は180年代から250年頃ということになる。
卑弥呼の死後、男王が立ったものの国中がこの王に服さず、更に戦いが続いた。卑弥呼の宗女「台与」を王として立てるとようやく国中が治まったという。つまり2世紀末から3世紀は卑弥呼・台与の時代であり、纒向は女王卑弥呼、その後の台与の都として建設された政治都市であると考えられる。
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