伊弉諾尊と伊弉冉尊が生んだ国々について、書紀では本編と一書を含めて6通りの組み合わせが記されており、古事記と合わせると全部で7通りの組み合わせがある。表にまとめると下のようになる。古事記の吉備児嶋以降の6つの嶋は大八嶋国を生んだ後に追加で生んだ国である。
淡路の重要性については先述したが、淡路以外の国についても重要な国であったからこそ、あるいは当時の天皇家に意味があったからこそ、ここに登場させたのだと思う。一書を含めた書紀においては、淡路洲=淡路、大日本豊秋津洲=大和(または畿内)、伊予二名洲=四国、筑紫洲=九州、億岐洲(億岐三子洲)=隠岐、佐度洲=佐渡、越洲=越、吉備子洲(子洲)=吉備児島、壹岐洲=壱岐、對馬洲=対馬、と大半が無理なくその国を特定できるが、大洲だけがどうも不明である。周防の大島(屋代島)とするのが通説であるが、周防大島を登場させる意味があるとするとただひとつ、瀬戸内海の西端にある島であるということ。東端に淡路島、それとの対比で西端の周防大島。付近の潮が速いのは淡路と同じだから、瀬戸内海の西の要衝であることには違いない。しかし、淡路島はそれ以上に天皇家にとって大きな意味があった。すなわち、領有地を持ち、海人族を住まわせ、兵器生産を行っていた、ということだ。周防大島にはそういうものがない。だから私は周防大島ではないと思う。
あらためて列挙された国を眺めてみると、重要な国がひとつ抜けていることに気がつく。それは「出雲」だ。先に書いたとおり、私の考えでは出雲は第10代崇神天皇の故郷である。また魏志倭人伝に5万余戸の規模を誇る「投馬国」と記された国である。記紀神話においても素戔嗚尊が高天原から追放されて向かった国であり、葦原中国平定の最終局面である国譲りの場面で登場する重要な国である。それが国生みに出てこないのはおかしい。いや、国生みに登場しているからこそ、素戔嗚尊の向かう国としても、国譲りの対象としても登場させることができるのだ。そう考えると「大洲」は「出雲」であると考えるのが最も合理的だと思う。「洲=国」と考えると「大洲=大国」となり、大国主命の名もここに由来しているのかも知れない。中国山地を挟んで山陽側に吉備の小島(児島)、山陰側に出雲の大島、という対比で描いたとも言えるだろう。
島根半島は今でこそ出雲平野で本州とつながる半島になっているが、その昔は出雲平野はなく沖合に浮かぶ島であった。中国山地から流れる斐伊川や神門川が運ぶ土砂が出雲平野を形成した。とくに斐伊川流域では古代より鉄穴(かんな)流しによる砂鉄採取とたたら製鉄が盛んに行われ、それに伴う排土が平野を急速に拡大させた。その結果、本州と沖合の島がつながって現在の島根半島になった。島根県出雲市の出雲大社にほど近いところに大島町というところがある。島根半島が島であった頃の名残りなのかもしれない。
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淡路の重要性については先述したが、淡路以外の国についても重要な国であったからこそ、あるいは当時の天皇家に意味があったからこそ、ここに登場させたのだと思う。一書を含めた書紀においては、淡路洲=淡路、大日本豊秋津洲=大和(または畿内)、伊予二名洲=四国、筑紫洲=九州、億岐洲(億岐三子洲)=隠岐、佐度洲=佐渡、越洲=越、吉備子洲(子洲)=吉備児島、壹岐洲=壱岐、對馬洲=対馬、と大半が無理なくその国を特定できるが、大洲だけがどうも不明である。周防の大島(屋代島)とするのが通説であるが、周防大島を登場させる意味があるとするとただひとつ、瀬戸内海の西端にある島であるということ。東端に淡路島、それとの対比で西端の周防大島。付近の潮が速いのは淡路と同じだから、瀬戸内海の西の要衝であることには違いない。しかし、淡路島はそれ以上に天皇家にとって大きな意味があった。すなわち、領有地を持ち、海人族を住まわせ、兵器生産を行っていた、ということだ。周防大島にはそういうものがない。だから私は周防大島ではないと思う。
あらためて列挙された国を眺めてみると、重要な国がひとつ抜けていることに気がつく。それは「出雲」だ。先に書いたとおり、私の考えでは出雲は第10代崇神天皇の故郷である。また魏志倭人伝に5万余戸の規模を誇る「投馬国」と記された国である。記紀神話においても素戔嗚尊が高天原から追放されて向かった国であり、葦原中国平定の最終局面である国譲りの場面で登場する重要な国である。それが国生みに出てこないのはおかしい。いや、国生みに登場しているからこそ、素戔嗚尊の向かう国としても、国譲りの対象としても登場させることができるのだ。そう考えると「大洲」は「出雲」であると考えるのが最も合理的だと思う。「洲=国」と考えると「大洲=大国」となり、大国主命の名もここに由来しているのかも知れない。中国山地を挟んで山陽側に吉備の小島(児島)、山陰側に出雲の大島、という対比で描いたとも言えるだろう。
島根半島は今でこそ出雲平野で本州とつながる半島になっているが、その昔は出雲平野はなく沖合に浮かぶ島であった。中国山地から流れる斐伊川や神門川が運ぶ土砂が出雲平野を形成した。とくに斐伊川流域では古代より鉄穴(かんな)流しによる砂鉄採取とたたら製鉄が盛んに行われ、それに伴う排土が平野を急速に拡大させた。その結果、本州と沖合の島がつながって現在の島根半島になった。島根県出雲市の出雲大社にほど近いところに大島町というところがある。島根半島が島であった頃の名残りなのかもしれない。
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