倭人伝からは倭国と狗奴国の戦いがあったことは読み取ることはできるが、その結果については何も触れられていない。倭人伝の最後の部分、卑弥呼が親魏倭王の称号を得て魏と朝貢外交を展開し、狗奴国との戦いを告げたくだりの直前から最終部分までの読み下し文を記載する。
「その六年、詔して倭の難升米に黄憧を賜い、郡に付して仮授せしむ。その八年、太守王き(斤+頁)、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄憧を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て台与を告喩す。台与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。」
行間を含めて内容を理解してみよう。景初3年(2年は間違いとの通説に従う)の239年、魏より親魏倭王の称号を得た卑弥呼はその後、魏に対して積極的な朝貢外交を展開し、魏もそれに応えた。その流れの中で正始6年(245年)に魏は倭の大夫である難升米に対して詔を以て黄幢を下賜し、帯方郡に託して授けた。その後、正始8年(247年)に帯方郡太守の王きが着任した。このとき倭国はおそらく狗奴国との戦いにおいて劣勢に陥っていたのであろう。倭国は魏の支援を得んがために載斯烏越等を帯方郡に送り、その窮状を訴えた。この派遣は卑弥呼によるものではなく北九州倭国が独断で行ったことかも知れない。いずれにしても訴えを聞いた魏側は張政らを倭国に派遣し、詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を作って激励した。2年前に帯方郡に託していた詔書・黄幢が張政によってようやく難升米の手元に渡った。(しかし、これらの詔書・黄幢あるいは檄文が卑弥呼のもとに届いたかどうかは不明である。)その後、大和にいる卑弥呼が死去したため墓を設けて手厚く葬った。おそらく、この卑弥呼の死をもって倭国の敗戦は濃厚となった。
卑弥呼の死後、男王が立った。この男王に関する具体的な記述はないが、卑弥呼を補佐していた男弟が代理として王になったのではないだろうか。しかし、この王は倭国をまとめることができず倭国内が内戦状態に陥った。倭の各国は卑弥呼の宗女である台与を王に立てて改めて結束することができ、その結果、狗奴国に対して反撃に出たのではないか。魏の遣い張政らが台与を激励したことは完全な終戦に至っていなかったことを物語っている。台与は掖邪狗らを派遣し張政らが魏に帰るのに随行させた。そして掖邪狗らは皇帝の居場所である台に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔の開いた大きな勾玉を二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。台与は魏に対して継続的な支援を求めたのだろう。
そして倭人伝の記述はここで終わっている。魏はその後265年に元帝が司馬炎に政権を譲って終焉を迎えた。そして魏に代わって晋が成立した。したがって三国志魏書は265年までの記述となるのだが倭人伝は247年で終わっている。248年から265年の17年間の事象は記述されていない。倭国と狗奴国との戦闘がどうなったのか、その後の日本列島で何が起こっていたのか。少なくとも倭国が狗奴国に勝利したとすればそのことは記録として残されるべき出来事であったはずだ。魏の属国である倭国がその敵国を退けたこと、そしてその勝利は魏の支援の結果であるのだから当然にそのことを喧伝しようとするはずだ。逆に倭国が負けたのであればその事実を伏せようとするだろう。魏の威信低下につながる話だから。このように考えると、倭国は狗奴国に敗れた、あるいはそれに近い状態になったと考えるのが蓋然性が高い。
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「その六年、詔して倭の難升米に黄憧を賜い、郡に付して仮授せしむ。その八年、太守王き(斤+頁)、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄憧を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩、殉葬する者、百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て台与を告喩す。台与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。」
行間を含めて内容を理解してみよう。景初3年(2年は間違いとの通説に従う)の239年、魏より親魏倭王の称号を得た卑弥呼はその後、魏に対して積極的な朝貢外交を展開し、魏もそれに応えた。その流れの中で正始6年(245年)に魏は倭の大夫である難升米に対して詔を以て黄幢を下賜し、帯方郡に託して授けた。その後、正始8年(247年)に帯方郡太守の王きが着任した。このとき倭国はおそらく狗奴国との戦いにおいて劣勢に陥っていたのであろう。倭国は魏の支援を得んがために載斯烏越等を帯方郡に送り、その窮状を訴えた。この派遣は卑弥呼によるものではなく北九州倭国が独断で行ったことかも知れない。いずれにしても訴えを聞いた魏側は張政らを倭国に派遣し、詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を作って激励した。2年前に帯方郡に託していた詔書・黄幢が張政によってようやく難升米の手元に渡った。(しかし、これらの詔書・黄幢あるいは檄文が卑弥呼のもとに届いたかどうかは不明である。)その後、大和にいる卑弥呼が死去したため墓を設けて手厚く葬った。おそらく、この卑弥呼の死をもって倭国の敗戦は濃厚となった。
卑弥呼の死後、男王が立った。この男王に関する具体的な記述はないが、卑弥呼を補佐していた男弟が代理として王になったのではないだろうか。しかし、この王は倭国をまとめることができず倭国内が内戦状態に陥った。倭の各国は卑弥呼の宗女である台与を王に立てて改めて結束することができ、その結果、狗奴国に対して反撃に出たのではないか。魏の遣い張政らが台与を激励したことは完全な終戦に至っていなかったことを物語っている。台与は掖邪狗らを派遣し張政らが魏に帰るのに随行させた。そして掖邪狗らは皇帝の居場所である台に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔の開いた大きな勾玉を二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。台与は魏に対して継続的な支援を求めたのだろう。
そして倭人伝の記述はここで終わっている。魏はその後265年に元帝が司馬炎に政権を譲って終焉を迎えた。そして魏に代わって晋が成立した。したがって三国志魏書は265年までの記述となるのだが倭人伝は247年で終わっている。248年から265年の17年間の事象は記述されていない。倭国と狗奴国との戦闘がどうなったのか、その後の日本列島で何が起こっていたのか。少なくとも倭国が狗奴国に勝利したとすればそのことは記録として残されるべき出来事であったはずだ。魏の属国である倭国がその敵国を退けたこと、そしてその勝利は魏の支援の結果であるのだから当然にそのことを喧伝しようとするはずだ。逆に倭国が負けたのであればその事実を伏せようとするだろう。魏の威信低下につながる話だから。このように考えると、倭国は狗奴国に敗れた、あるいはそれに近い状態になったと考えるのが蓋然性が高い。
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