古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆投馬国から邪馬台国への道程

2016年09月03日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 投馬国から邪馬台国への道程について倭人伝は「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。(南へ行けば邪馬台国に至る。女王の都があるところである。水行で十日、陸行でひと月である。)」と記している。投馬国を出雲として出雲から南方向、これまでと同様に30~90度ずらして東南東から東と読み替える。そしてまず水行、すなわち船で出航する。出雲を出て日本海を東へ向かうということである。その後にどこかで上陸してひと月の陸行となる。不弥国から投馬国までの水行を20日間で300~400kmと試算したので10日間ではこの半分と考えて150~200kmとすると、上陸地点は丹後半島の手前、現在の兵庫県の日本海沿岸のどこか、あるいは兵庫県まで行かずに鳥取県の東端、現在の鳥取市あたりかも知れない。いずれにしても上陸地点からは邪馬台国まで陸行でひと月を要した。仮に上陸地点を鳥取市とすると纒向までは250kmほどとなり、ひと月も要するのかと思うが、現代のような整備された道路ではなく、しかも銅鏡100枚など重い荷物を大量に運ぶのである。休息を取りながら、あるいは食料調達のために時間を要しながら、などと考えると、ひと月を要したとしても何ら不思議ではない。このように投馬国を出雲としたときに水行十日、陸行一月を要する先にある女王の都として纒向の地が相応しいと考える。

 ところで、水行の際にどうして丹後半島まで行かなかったのだろうか。できるだけ水行で進むのが楽なはずである。さらに言えば丹後半島を越えて敦賀あたりまで行って上陸し、琵琶湖を利用して瀬田川を下り巨椋池から木津川に入って大和を目指すのが最も楽な行程ではなかろうか。これについては改めて詳しく考えようと思うが丹後という地域の特殊性によるもの、つまり丹後が倭国に属していなかった、あるいは出雲と対立していたということではないかと考えている。



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