古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆纒向遺跡の特徴

2016年09月05日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 2008年の第162次調査以降、3世紀前半に建てられた4棟の大型建物跡が検出され纒向遺跡の居館域にあたると考えられているが、この4棟が東西に全軸をそろえて一直線に並んでいることがわかった。中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模である。第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されているという。要するにこの4棟の建物群は祭祀を行う場、すなわち祭殿であり、鬼道を使う卑弥呼の宮殿であったと考えられる。

 纒向遺跡から出土した土器には日本各地の土器(外来系土器)が混じっており、その比率が弥生時代の他の遺跡と比べて非常に高いことがわかっている。調査地点によって違いがあるが少なくとも15%、多い地点では30%を占めている。近くの唐古・鍵遺跡では3~5%と推定されていることと比較するとその比率の高さがわかる。そして時代的に見ると210年頃から280年~290年にかけての時期が外来系土器が最も多くなっている。卑弥呼・台与の時期に他の地域との交流あるいは交易がもっとも盛んであったことを示しており、倭国の各地域と都との間で人や物が行き交った様子が想像できる。
 その各地域とはどこであったか。東は静岡県の駿河、東海道沿いでは静岡から愛知、三重の各県、日本海沿岸では北陸の富山県から石川県、西へ行けば山陰の鳥取県から島根県出雲地方、瀬戸内海沿岸では山陽と四国北部の各県、さらには福岡県まで及ぶ。畿内では河内、丹後、播磨などの土器も纒向に来ていることがわかっている。外来系土器の地域別の比率は以下の通り。
     東海     49%
     山陰・北陸  17%
     河内     10%
     吉備      7%
     関東      5%
     近江      5%
     西部瀬戸内   3%
     播磨      3%
     紀伊      1%

 ほぼ半数が東海地方の土器であることが特徴と言えるが、石野氏は纒向遺跡が邪馬台国であるとすると狗奴国の有力候補地が尾張・伊勢であろうとして、その地域の土器が大量に纒向に入ってきていることを新たな課題として捉えている。狗奴国との戦争の結果をどう考えるか、という示唆であろう。私は邪馬台国が纒向にあり、狗奴国が南九州にあったと考えているのであるが、その立場からこの問題を考える必要性を感じているものの現時点ではその過程に至っていない。



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コメント (2)
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