2012年8月25日、青森出張の機会に立ち寄った三内丸山遺跡。青森に行く機会なんて99%これで最後になると思い、団体での視察コースの最後に無理やり追加してもらって訪問。
<三内丸山遺跡の公式サイトより>
三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。
六本柱建物
復元された建物を見ても何のために建てられたものかよくわからない。少し無理のある復元だ。
大型竪穴式住居
大型竪穴式住居跡の中でも最大規模。長さ32m、幅10mにもおよぶ。共同生活の場、土器などの工房、それとも集会所?
掘立柱建物(高床式倉庫)
たくさんの高床式倉庫があるということは保管する食料がたくさんあったということ。栗などが計画的に栽培されていたとも言われている。
竪穴式住居
発掘時トレンチの復元
リアルに再現されていた。
日本列島(本州)最北端に想像以上に進んだ縄文人の生活が見出された意義は大きい。シベリア大陸と陸続きだった頃にやってきた大陸人が定着して縄文人になった。日本人の起源を考える上において鹿児島の上野原遺跡と並んで重要な遺跡である。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
<三内丸山遺跡の公式サイトより>
三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。
平成12年11月には国特別史跡に指定されました。
六本柱建物
復元された建物を見ても何のために建てられたものかよくわからない。少し無理のある復元だ。
大型竪穴式住居
大型竪穴式住居跡の中でも最大規模。長さ32m、幅10mにもおよぶ。共同生活の場、土器などの工房、それとも集会所?
掘立柱建物(高床式倉庫)
たくさんの高床式倉庫があるということは保管する食料がたくさんあったということ。栗などが計画的に栽培されていたとも言われている。
竪穴式住居
発掘時トレンチの復元
リアルに再現されていた。
日本列島(本州)最北端に想像以上に進んだ縄文人の生活が見出された意義は大きい。シベリア大陸と陸続きだった頃にやってきた大陸人が定着して縄文人になった。日本人の起源を考える上において鹿児島の上野原遺跡と並んで重要な遺跡である。
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小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |
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