生前、一顧だにされず、失意のうちに亡くなった芸術家の作品が、死後、評価されるということがありますね。時代の先を行っていた作品に、作者の死後、ようやく時代が追いついた、ということなのでしょうか。例えば、ゴッホ(Vincent van Gogh)。今でこそ美の巨匠ですが、生前は赤貧の中で絵を描き続ける日々でした。
また、生きた時代にそれなりの評価を受けていたものの、時の波間にいつの間に消えてしまった作品が、数世紀を経て再び脚光を浴びるという場合もあります。例えば、17世紀前半に活躍した光と影の画家、ラ・トゥール(Georges de La Tour)。「国王付画家」の称号を得た有名画家でしたが、死後すっかり忘れ去られてしまった。それが20世紀初頭に突如、再発見された。時代の振り子が再び、ラ・トゥールの美に合致したのでしょうね。
私の作品を理解してくれる人たちは、今、ここにはいない。私の死後、100年とか200年経ってから理解されればそれでいい。そのとき、未来の人々は21世紀のエッセンスを感じる取ることができるだろう。私たちが織り上げることのできないタピスリーの織糸を受け継いでくれることになるだろう・・・こう述べるアーティストの作品が、今、ベルサイユ宮殿で公開されています、賛否両論、かまびすしい中で。
ご存知ですね、村上隆氏の作品展です。上記の村上氏の言葉も含めて、10月1日の『ル・モンド』(電子版)が簡略に紹介しています。
『ル・モンド』曰くは、「古い」、「新しい」という論争を超えて、古典主義の殿堂で行われている日本人アーティストの作品展は、現代アートの非常識と行き詰まりを仮借なきまでに白日の下に晒している!
もちろん、哲学者で美学にも造詣の深い、パリ第1大学教授のヒメネス氏(Marc Jimenez)のように、「厳格さや純粋さへの信奉に異を唱える傲慢さや奇抜さよ、永遠なれ。ベルサイユ宮殿での一時的な冒涜は、いちいち目くじらを立てるようなことではない」、と述べる人もいますが、村上隆展に懐疑的な眼差しを向ける知識人が多いようです。
歴史家・エッセイストにしてアカデミー会員でもあるフュマロリ氏(Marc Fumaroli)は、「国家とその公僕、国の文化遺産とその維持管理者に対して私たちが抱いていたイメージを揺さぶるとともに、民間部門やマス・カルチャーのマーケットと我々との関係に一撃を与えた」、と語っています。
また、画家の自伝をよく書いている作家のワット氏(Pierre Wat)は、「この作品展に関するもっとも残酷なパラドクスは、文化施設が自らの首を絞めているという印象を多くの人に与えていることだ。考慮よりも大騒ぎを、永遠よりも瞬間を大切にすることにより、自らの首に死のロープを巻いている。市場価値が尊重される世界に美術も生きているとは言え、こうした態度は、美の実践やその実践が求める美の鑑識眼を育成することに反している」、と述べています。
なぜ村上作品の展示場所がベルサイユ宮殿なのか・・・かつて『ル・モンド』のインタビューに、池田理代子作の『ベルサイユのばら』との関連性を絡めて語っていた村上氏ですが、日本のマンガに詳しくない記者や読者のためには、『ベルばら』の説明から始めなくてはならず、どこまで理解されたのやら・・・今回は、「自分の作品が伝統を愚弄しているなんていうことは、まったくない。伝統的技法と現代的イメージを結びつけて、過去と未来に橋をかけるものなのだ」と語っています。
古典主義の殿堂とも言われるベルサイユ宮殿での現代アート展。実は、今回が3回目。2008年にはキッチュな作風で知られるアメリカ人アーティスト、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)の作品展が行われましたが、この時も反対派が開催中止を行政裁判所に提訴したほどの騒ぎになりました。昨年は、フランス人のグザビエ・ベイヤン(Xavier Veilhan)の作品がベルサイユ宮殿を飾ったのですが、2年前や今回ほどの騒ぎにはなりませんでした。従って、一部には、人種差別を懸念する声も出ているそうです。
こうした騒ぎや批判にもかかわらず現代アート展を実施するベルサイユ宮殿側の狙いとは・・・思うに、「過去」を守るだけでは、新しいものは生まれてこない。「過去」に新しいものを衝突させることにより、新たなエネルギーが生まれてくる。新しいページを繰るチカラが生まれてくる。そうしたことを理解しているからではないでしょうか。こうしたことを理解し、しかも実践しているからこそ、フランスは常に文化の中心の一つでいることができるのではないでしょうか。エッフェル塔をはじめ、いくつもの建築物が、建設当時は非難や罵声を浴びました。しかし、いつしかパリの街に溶け込み、今やなくてはならないものに。伝統をしっかりと守りながら、それだけに拘泥せず、常に改革を目指して新しいものを受け入れる・・・なかなかできそうで、できません。
日本では、氏自ら認めるように、アーティストとしてよりも辛辣な評論家・コメンテーターとして知られている村上隆氏。ベルサイユ宮殿を訪れた日本人観光客たちも、作者のことは知らないけれど、日本人の作品があって、いい記念になった、と喜んでいるそうです。
未来の美術愛好家たちから絶賛される作品になるのか、サブカルチャーがもてはやされた21世紀初頭の徒花で終わってしまうのか。その作品の価値は、時の流れという冷徹な批評家の手に委ねられています。
また、生きた時代にそれなりの評価を受けていたものの、時の波間にいつの間に消えてしまった作品が、数世紀を経て再び脚光を浴びるという場合もあります。例えば、17世紀前半に活躍した光と影の画家、ラ・トゥール(Georges de La Tour)。「国王付画家」の称号を得た有名画家でしたが、死後すっかり忘れ去られてしまった。それが20世紀初頭に突如、再発見された。時代の振り子が再び、ラ・トゥールの美に合致したのでしょうね。
私の作品を理解してくれる人たちは、今、ここにはいない。私の死後、100年とか200年経ってから理解されればそれでいい。そのとき、未来の人々は21世紀のエッセンスを感じる取ることができるだろう。私たちが織り上げることのできないタピスリーの織糸を受け継いでくれることになるだろう・・・こう述べるアーティストの作品が、今、ベルサイユ宮殿で公開されています、賛否両論、かまびすしい中で。
ご存知ですね、村上隆氏の作品展です。上記の村上氏の言葉も含めて、10月1日の『ル・モンド』(電子版)が簡略に紹介しています。
『ル・モンド』曰くは、「古い」、「新しい」という論争を超えて、古典主義の殿堂で行われている日本人アーティストの作品展は、現代アートの非常識と行き詰まりを仮借なきまでに白日の下に晒している!
もちろん、哲学者で美学にも造詣の深い、パリ第1大学教授のヒメネス氏(Marc Jimenez)のように、「厳格さや純粋さへの信奉に異を唱える傲慢さや奇抜さよ、永遠なれ。ベルサイユ宮殿での一時的な冒涜は、いちいち目くじらを立てるようなことではない」、と述べる人もいますが、村上隆展に懐疑的な眼差しを向ける知識人が多いようです。
歴史家・エッセイストにしてアカデミー会員でもあるフュマロリ氏(Marc Fumaroli)は、「国家とその公僕、国の文化遺産とその維持管理者に対して私たちが抱いていたイメージを揺さぶるとともに、民間部門やマス・カルチャーのマーケットと我々との関係に一撃を与えた」、と語っています。
また、画家の自伝をよく書いている作家のワット氏(Pierre Wat)は、「この作品展に関するもっとも残酷なパラドクスは、文化施設が自らの首を絞めているという印象を多くの人に与えていることだ。考慮よりも大騒ぎを、永遠よりも瞬間を大切にすることにより、自らの首に死のロープを巻いている。市場価値が尊重される世界に美術も生きているとは言え、こうした態度は、美の実践やその実践が求める美の鑑識眼を育成することに反している」、と述べています。
なぜ村上作品の展示場所がベルサイユ宮殿なのか・・・かつて『ル・モンド』のインタビューに、池田理代子作の『ベルサイユのばら』との関連性を絡めて語っていた村上氏ですが、日本のマンガに詳しくない記者や読者のためには、『ベルばら』の説明から始めなくてはならず、どこまで理解されたのやら・・・今回は、「自分の作品が伝統を愚弄しているなんていうことは、まったくない。伝統的技法と現代的イメージを結びつけて、過去と未来に橋をかけるものなのだ」と語っています。
古典主義の殿堂とも言われるベルサイユ宮殿での現代アート展。実は、今回が3回目。2008年にはキッチュな作風で知られるアメリカ人アーティスト、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)の作品展が行われましたが、この時も反対派が開催中止を行政裁判所に提訴したほどの騒ぎになりました。昨年は、フランス人のグザビエ・ベイヤン(Xavier Veilhan)の作品がベルサイユ宮殿を飾ったのですが、2年前や今回ほどの騒ぎにはなりませんでした。従って、一部には、人種差別を懸念する声も出ているそうです。
こうした騒ぎや批判にもかかわらず現代アート展を実施するベルサイユ宮殿側の狙いとは・・・思うに、「過去」を守るだけでは、新しいものは生まれてこない。「過去」に新しいものを衝突させることにより、新たなエネルギーが生まれてくる。新しいページを繰るチカラが生まれてくる。そうしたことを理解しているからではないでしょうか。こうしたことを理解し、しかも実践しているからこそ、フランスは常に文化の中心の一つでいることができるのではないでしょうか。エッフェル塔をはじめ、いくつもの建築物が、建設当時は非難や罵声を浴びました。しかし、いつしかパリの街に溶け込み、今やなくてはならないものに。伝統をしっかりと守りながら、それだけに拘泥せず、常に改革を目指して新しいものを受け入れる・・・なかなかできそうで、できません。
日本では、氏自ら認めるように、アーティストとしてよりも辛辣な評論家・コメンテーターとして知られている村上隆氏。ベルサイユ宮殿を訪れた日本人観光客たちも、作者のことは知らないけれど、日本人の作品があって、いい記念になった、と喜んでいるそうです。
未来の美術愛好家たちから絶賛される作品になるのか、サブカルチャーがもてはやされた21世紀初頭の徒花で終わってしまうのか。その作品の価値は、時の流れという冷徹な批評家の手に委ねられています。