緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

八月の休日に思い浮かぶこと

2010年08月29日 18時10分48秒 | 宗教
8月29日(日) 

 どうやら夏の疲れが出て来たようで、終日を自宅休養に充てて静かな一日を過ごしました。さすがに思い浮かぶ事もなくて雲の流れが一日の慰め相手で、内之浦のえっがね(伊勢エビ)祭りも来週へ持ち越しとなります。八月の終わりはこんなものと、つまり、体力消耗に気をつけて無理を持ち込まない事であります。体に無茶をしますと内蔵に負担をかけて秋冬へ発病の原因を抱え込む事になります。無茶とは判断を迷うほど夢中になる事であります。


東串良漁港の光景(撮影:2010.8.28)

田舎暮らしの良さは人様の意向をあまり気にせずに生活出来る事でしょうか。マイペースを比較的に多く保てます。この辺が長寿への分かれ目でも有りましょう。どなたかも申しておりましたが、善悪の判断など所詮は人間の取り決め事にしか過ぎず、ところ変われば神様まで替わります。人間の行う事などその時代の都合次第か。余談ですが、雲の流れが目に染みるとは少年の日を思い出す光景です。



開聞岳登山の感想を、この際に、申して見ましょう。つまり、開聞岳に神が鎮座されておわすのかどうか?です。感想ですから答えを先に申しますと、神はおわします。それが登山後二週間での感想であります。神がおわす証明をどのようにしたら良いか?答えは開聞岳登山に挑戦されてみる事です。至って簡単でありますが、筆者にも若さが有るならば開聞岳登山百回に挑戦してみたいものです。



まだ、登山後二週間ですから、神が居りますという答えの本質まで説明がたどり着くかどうかですが、開聞岳登山の五時間半は登るにしろ降るにしろ脚力を求められます。それに登山道の行程は大半が無風状態ですから、体力の消耗が著しく激しいものです。水分補給が無ければ脱脂状態間違い無しです。あのように激しい運動で体力を著しく消耗する機会など日常生活には滅多にありません。霧島縦走登山にしても、行程に要する時間は同じ五時間半ほどでありますが、救われる事は風が有りますし大半の箇所で周囲の風景が見えます。



前期高齢者ならずとも、開聞岳登山とは、比較対象でないかもしれませんが、霧島登山より遙かに危険が伴うとみました。しかし、登山中はどの登山者も必死であります。まさに登山者が必死とは危険が近寄り難い状況にあります。あの必死で登山する状況とは、つまりは何かに念じている状況と同じだなとみました。夫婦して我が子二人をそれぞれの肩に背負った登るさまなど、これこそ、何かに念じているさまそのものであります。



神とは念じる者に救いの手を差し伸べん。何処かで記憶した言葉です。開聞岳の麓に出向きこの山にあの男が申した如く神がおわすかどうか?自問自答するのも夏の日ならではの行事になります。神様を装飾品に見立てるのも如何と考えますが、開聞岳と開聞岳大神とを重ね合わせて思い起こしますと、これは一段と山容が栄えて見えるものです。

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