緑の街の水先案内人

都城市で緑の街の水先案内人として移る日々を写真と日記で綴ります。

衣服を着替えるようなもの

2011年12月19日 18時30分41秒 | 宗教
12月19日(月) 

 年末の月曜日、仕事に追われる日、あれこれと考える事が浮かぶかな!自分でも考え事まで単純になったかと少しがっかりします。そんな少ない考え事の一つが、本日は昨日に引き続きダライ・ラマ十四世著「ゆるす言葉」の第四章・再生、平和への道「死について常に意識しているなら、死が訪れても驚くことはありません。心配もいりません。死とは衣服を着替えるようなものです。したがって、死を迎えたとき心の平安を保ち続けることができるのです。」に有る「死とは衣服を着替えるようなものです。」と。


夜明け前の散歩道

 人間の死を「衣服を着替えるようなもの」と例えるダライ・ラマ十四世の言葉に、チベットの人々は日々を心の開放感に満ちた暮らしをしていると感じました。現実にはチベットは高原の国、標高四千メートル続く原野が広がる世界の尾根地帯、人の暮らしはヤクの放牧に依存した過酷な生活が著書の写真集からも伺えます。同じモンゴロイド系でも、海に周囲を囲まれた日本人とでは、生活基盤が大きく事なると思いますが、信じる宗教は仏教でも、チベット仏教は輪廻転生を宗教活動の中にしっかりと取り入れています。


下弦の月

 心の開放感とは深い瞑想の中から勝ち得て悟るのでしょうが、深い瞑想をするなんて、われながらも半世紀の中でも無かったこと。よしんば瞑想をしたとて、手足は何かしら動いていたはずです。これ古希を迎えた人間の吐く言葉かと思います。しかし、それがよしんばチベットでも日本でも庶民の日常生活です。人間の死を「衣服を着替えるようなもの」と説くチベット仏教、地球の何かを見つめる視点が有るのでしょう。

 一つの人生観に拘らないことは、心を何処かの時点で自由にさせるものが有るのでしょうか!一九五〇年代から続く中国によるチベット侵略、インドへの亡命を除けば、大半の人々は国内で生涯を暮らしているとみます。海外旅行なんて限られた人だけのも。死を「衣服を着替えるようなもの」と例えるとは、そのようなチベットの人々にこれ以上の幸福が有るでしょうか!とても、経済活動に主力を四〇年近くも置いてきた者には、辿り着けそうな心境ではありません。しかし、目を見開かせる大きな力の有る言葉です。

 汲々として余命を延ばそうとする日々の生活、先進国に広がる高齢化社会、それはそれで一つの世界の潮流でもあります。なろう事ならば、何処かの時点で、まだ元気な力が残っている内に生活スタイルを変えるのも残された人生の生き方かもしれません。どの様な生き方ですかと問われますと、実行しての話ですが、「二分は天へ」この言葉がまず浮かびます。

 こうしてみますと、自分を自分で拘束しているのは「わだかまり」だと気づきます。わだかまりとは些事に拘る心。ここまでたどり着いて、これから先の言葉が急には続きません。著書を追いますと、今まで気づかなかった厳しい世界の状況が広がっています。この世の悲劇と心の開放感は裏腹に有ると説いています。

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