平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

内閣総理大臣

2007年09月13日 | Weblog
今年の8月に、来年G8サミットが開かれる、ウィンザーホテル洞爺に行って、サミットの成功を霊的次元に刻印する行事を行ないました。そのとき、各国首脳の顔ぶれをイメージしたのですが、どういうわけかそこには安倍さんの姿がありませんでした。

安倍さんは結局、日本の総理となるべき器ではなかった、ということなのでしょう。

清水勇著『ある日の五井先生』に次のような一節があります。

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 あるとき五井先生が、「総理大臣は神様が決めるんだよ」とおっしゃったことがありました。この世の決まりからいえば、国会議員の中から国会の議決により指名され(首班指名)、天皇によって任命されます。衆議院において最大勢力を占める政党の党首がその責に任ずる例がほとんどで、多くの場合、自民党の総裁が総理大臣になっています。

 この世の仕組みで選ばれた総理大臣が初めて国会の壇上に立った時、その背後に神様がつくのだということです。ある期間、総理大臣に日本の運命を託すわけですから、神様が背後から総理大臣を護り導いて下さるのです。

 それゆえに、背後の導きを感受して国民の負託にこたえ、国の繁栄と世界の平和を祈り、私心をなくし、不惜身命の覚悟で職務を遂行する総理大臣こそが、二十一世紀に最も望まれる器と言えます。何よりも日本の神様がそれを望んでおられます。

 かつて五井先生が中曽根康弘さん(第七十代~七十三代)に会った時、「あんたは次の次の総理大臣になるんだよ、と教えてあげたら中曽根さんが嬉しそうな顔してたよ」とおっしゃったことがありました。

・・・

 ある時、「総理大臣なんかになるもんじゃないよ」と五井先生がおっしゃいました。五井先生のお言葉を裏付けるように、かつて総理大臣を務めたことのある村山富市さん(第八十一代)は、「独りでいられるのはトイレだけだった」と激務のすさまじさを語っていました。批判に耐えて総理大臣という職務に精励している姿に同情されながらも、五井先生は『老子講義』の中で次のように、上に立つ者のあるべき姿を示しておられます。

「政治家ほどむずかしい仕事はないと、しみじみ思い、政治家諸公の働きに感謝しながらも、どうもその行き方が危っかしくてみていられないような、心落ち着かぬものを感じます。老子など、中国の昔に生活していて、常に中国の政治家たちの行いをみつめながら、やはり危っかしくてみていられず、老子道徳経を残してゆかれたのであろうと思われます。

 要は政治家でも宗教家でも、教育者でも人の上に立ってゆく天命を持った人は、普通人の何増倍も、自己をみつめることをしなければならぬので、少しでも天意にそむく想いをもたぬよう、行わぬようにしなければなりません。そういう態度が祈りなのであり、その方法として、祈り言葉が生まれたのであります」(第四十二講・老子道徳経第七十四章)
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五井先生は、「総理大臣というのは本当は大犠牲者なんだよ」とおっしゃったこともありました。国民の幸福のために一身を投げ出す覚悟のある人のみが、首相を務める資格があるのです。

権力欲や自我欲望で首相になることほど、恐ろしいことはありません。それは自他ともに誤らせ、国民を不幸に導きかねません。自我を無にして、国家と世界人類の平和のために働く真に偉大な政治家の登場が待たれます。



地球意識プロジェクト(2007年6月号)

2007年09月03日 | バックナンバー
地球意識プロジェクト(2007年6月号)

 人間の心(意識)と物質とはどのように関係しているのだろうか。私たちは手足を動かそうと意識することによって、物質である肉体を動かすことができる。意識と物質がどこかでつながっていることはたしかである。

 アメリカ・デューク大学のライン博士は、人間の思念の力がサイコロに影響を与えることができるか(念力)、また、伏せたカードの紋様を透視できるか(ESP)、などの実験を行なった。長年にわたる実験は、一部の特殊な人には念力や透視能力が備わっているらしいことを示した。しかし、博士の研究は超心理学という特殊な領域のデータとして「疑似科学」扱いを受け、一般の科学界に受けいれられるところまではいかなかった。

 コンピュータ時代に入り、ライン博士の研究はさらに精緻に改良された。プリンストン大学工学部・変則現象研究所のロバート・ジャンは、ランダム事象生成装置(REG)という装置を製作した。この装置は、電子的な雑音を0と1の数字に変換する。通常、0と1の比率は同じになる。もし人間の思念がこの比率を変えることができれば、それは思念が電子の動きに影響を及ぼしたことになる。ジャンの実験は、思念が電子に影響を及ぼすことを統計的に明らかにした。

 プリンストン大学のロジャー・ネルソンとディーン・ラディンは、個人ではなく、集団の意識もREGに影響を与えるかどうかを研究し始めた。その結果、集団の心が一つになり高揚したときには、REGに影響を及ぼそうとしなくても、REGに顕著な変化が出ることがわかった。このことは、個人の意識が他の個人の意識と同調したとき(コヒーレンス)、強い意識フィールド(場)が形成されることを示している。

 現在、世界各地にREGが設置され、インターネットで結ばれ、地球全体の意識場を測定するシステムが構築されている。この「地球意識プロジェクト」は、新年の祝賀、大きな災害や悲劇などの出来事が、人類の意識を一つに集め、大きくふるわせていることを示唆している。

 五月二〇日に、日本、インド、ヨーロッパ、アメリカ合衆国のスピリチュアル・グループがともに世界平和を祈る「グローバルピースメディテーション&プレヤーデー」が開催された。これは、文化も伝統も異なる数十万人の人々が、世界平和という唯一の目的のために、各地でともに瞑想と祈りを行なうという世界で初めての行事である。ネルソンらのグループはこの行事中の波動変化を測定し、現在そのデータを解析している。

 人々の意識が、そして祈りや瞑想が、地球全体に対して大きな影響を及ぼすことが科学的常識となる日は、そう遠い将来ではないだろう。

均衡ある発展

2007年08月23日 | 世界平和瞑想デー
いま北海道の小樽に来ています。

テレビのニュースを見ていたら、8月22日には東京では最高気温が37度にのぼり、電力需要が今年最大になったとのことです。柏崎・刈羽原発の停止もあり、停電が危惧されましたが、大企業や官公庁の節電によって、なんとか停電は回避されたとのことです。

今年の北海道も例年に比べるとかなり暑いですが、首都圏とは比べものにはなりません。どんなに暑くても、夜、寝苦しいということはありません。エアコンを使う必要もありません(そもそも持っていません)。

北海道のニュースでは、景気の悪い話が多いです。例の「白い恋人」の賞味期限ごまかし問題については、すでによくご存じでしょうが、それ以外の話題では、北海道の大学生の就職率が全国平均よりも5%低いそうです。それは、大学生の地元志向と、企業の求める能力と学生の希望職種のミスマッチが原因だ、という分析でした。

小樽の人口は、私がこの町で高校まで通っていた昭和40年ころには20万人でした。それが現在は13万人です。町を歩くと、あちこちに空き店舗、空き事務所、空き家、空き地が目立ちます。北海道でまずまず景気がいいのは札幌だけで、あとの都市は沈滞気味です。北見では東急デパートが閉鎖され、500人の従業員が職場を失うというニュースがありました。

日本経済が回復基調にあるといっても、それは東京だけの話で、地方は疲弊しています。先の参議院選挙では、そういう地方の不満が爆発したのではないでしょうか。

東京に権力、お金、情報、人間が集中することは、ある意味では効率的ですが、一極集中は様々な歪みも生み出します。それは結局、東京にもはね返ってくるのです。

今回の電力危機はその一例です。地球温暖化が加速し、しかも新たな原発も作れないということになれば、毎年のように夏には電力危機を迎えることになるのかもしれません。

東京で使う電力は、みな地方で作られています。新潟県や福島県は原発を引き受けて、東京のために電気を供給しているのです。電力会社がいうように、原発がそんなにクリーンで安全な電力源だというのなら、東京に原発を作ればいいわけですが、それに賛成する都民はいるでしょうか? 東京は地方の犠牲の上に、繁栄と便利な生活を享受しているのですが、それも限界に達しています。

東京の権力、お金、情報、人間を一部、地方にゆずり、地方の均衡ある発展をはかることは、政治の急務だと思います。


パール博士と東京裁判

2007年08月16日 | Weblog
8月15日に北海道に来ました。この日は釧路で35度になるという猛暑日で、首都圏そのままの暑さでした。しかし、今日16日は雨が降り、気温も30度以下に下がりました。寒暖の差が激しいですが、このまま涼しい日が続くことを期待します。

8月14日にNHKで東京裁判の判事を務めたインドのパール博士の番組を見ました。

東京裁判というのは、第二次世界大戦の終結後、東京で開かれた「極東国際軍事裁判」の通称です。これは、ナチス・ドイツを裁くために開かれたニュルンベルク裁判とセットで開かれた国際軍事法廷でした。

東京裁判には様々な問題があり、日本人はこの裁判をどのように受けとめるべきか、一致した見解をもっていません。

東京裁判の最大の問題は、戦争の勝者が敗者を裁いたという点にありました。勝者はまず強かったから戦争に勝ったのであって、必ずしも正しかったから勝ったのではありません。一寸の虫にも五分の魂といいますが、敗戦国側にも戦争をせざるをえなかった事情がありました。戦勝国側の主張がそのまま正義ではありません。ところが、東京裁判では勝者が法の名、正義の名において敗者を裁いたのです。

東京裁判の判事団は、イギリス、オーストラリア、オランダ、アメリカ、中国、フィリピンなど、戦勝国、あるいは日本によって被害をこうむった国々の出身者によって構成されていました。つまり、事件の当事者の一方が判事になったわけで、これではとうてい公正な裁判などありえないことは、誰にでもすぐにわかります。もし正義の名において公正な裁判をするのであれば、日本人や、戦争に関係のなかった国々出身の裁判官も選ばなければならなかったはずです。

ニュルンベルク裁判では、戦勝国側の裁判官と並んで、ドイツ人の裁判官も裁きの場に加わりました。ナチスのホロコーストは、ドイツ人から見ても犯罪として裁くしかない行為であったのです。

もし日本の戦争がナチスのホロコーストと同じ犯罪であるというのであれば、日本人の裁判官も判事団に加えればよかったはずです。

日本軍が戦争中に「戦争犯罪」の名に値するいくつかの残虐行為を行なったことは事実だろうと思います。もしそれらを犯罪として裁くのであれば、戦勝国側の同種の行為に対しても同じ基準が当てはめられてこそ、それははじめて普遍的な正義となります。たとえば、広島・長崎に対する原爆投下は、ナチスのホロコーストに匹敵する非戦闘員に対する無差別虐殺であり、これが戦争犯罪でなければ、戦争犯罪などというものは存在しません。

日本人を判事団に加えれば、必ず原爆投下の問題が議論になったはずです。それを避けるために、アメリカは日本人を判事団に加えなかったのです。この史上まれな戦争犯罪を行なったアメリカの大統領も軍人も処罰・処刑されませんでした。

この一事を見ても、東京裁判が、裁判に名を借りた勝者の復讐劇であり、インチキ裁判であったことがよくわかります。

東京裁判の欺瞞性に勇気をもって異議を唱えたのがインドのパール博士でした。

インドはイギリスの植民地であり、インドの裁判官はもともと戦勝国側の一員として選ばれたのです。それは、東京裁判を国際的な軍事法廷としての体裁を整えるための選出にすぎませんでした。ところが、イギリスの植民地支配に苦しんだインド人であるパール博士は、イギリスら欧米諸国の欺瞞を見抜いたのです。

法律家としてのパール博士が東京裁判を批判したのは、「裁判憲章の<平和に対する罪>、<人道に対する罪>は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない」という判断によるものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB

第二次世界大戦が開始された当時、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という概念は存在しませんでした。これは、ニュルンベルク裁判でナチスを裁くために作られた新しい概念です。

事後法というのは、そういう罪の概念がなかったのに、出来事のあとから、ある行為を罪とする法律を作ることです。いわば、ゲームの途中でルールを変更するようなもので、それまでのゲームでは手を使うことは問題なかったのに、途中から手を使うのは犯則だ、と言うようなものです。

「平和に対する罪」と「人道に対する罪」というのはこういう内容です。

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〈平和に対する罪〉とは,〈侵略戦争を,または国際条約,協定,誓約に違反する戦争を計画し,準備し,開始し,実行したこと,またはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参加したこと〉であり,その責任は国家機関の地位にある者であっても個人に負わされる。〈人道に対する罪〉とは,〈犯罪の行われた国の国内法に違反すると否とにかかわらず,これらの裁判所のいずれかの犯罪の遂行としてまたはこれに関連して行われるところの,戦前または戦争中における,あらゆる一般住民に対して犯された殺人,殲滅(せんめつ),奴隷化,強制的移送およびその他の非人道的行為,もしくは政治的・人種的または宗教的理由に基づく迫害〉である。ここにいう〈人道に対する罪〉は,戦争中のみならず戦争前の行為(とくに迫害)を含み,その国籍を問わず一般住民に対する行為によるものであるが,自国民に対する犯罪行為や迫害を主たる対象としている。
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平凡社大百科事典より

NHKの番組でも述べられていましたが、〈平和に対する罪〉の「共同謀議」というのはイギリスの法概念で、国際的な認知をうけた概念ではありませんでした。ましてや、ナチスに対してはこれが当てはまるとしても、いわば行き当たりばったりに戦争を拡大していった日本に対してはとうてい適用不可能な概念でした。

〈人道に対する罪〉に含まれる「一般住民に対して犯された殺人,殲滅」ということであれば、原爆の使用がまさにそれに妥当します。原爆という「人道に対する罪」を不問にしたことは、この裁判の正当性を根底からくつがえしました。

パール博士は、親日家であったから東京裁判を批判したのではなく、純法理論的に批判したのであり、彼の批判は現在でも反駁不能です。最初、戦勝国側判事として日本を裁こうとしていたオランダのレーリンク判事も、パール博士の正しさを認めざるをえなくなりました。

パール博士はガンジーを尊敬する敬虔なヒンズー教徒でした。その根底にあるのは、ガンジーと同じ非暴力平和主義でした。そういう立場からすれば、戦争そのものが許されない行為でした。ですから、パール博士は日本を全面的に弁護したのではなく、日本の戦争犯罪を厳しく批判もしています。ただし、「バターン死の行進」や「南京虐殺」について日本を断罪するパール博士の判断は、当時の戦勝国側の証言に基づくところが大きく、必ずしも公平なものとは思えません。

日本を裁くことができるものが存在するとしたら、東京裁判のような勝者の裁きではなく、絶対的な平和を求める神の視点のみであり、それは同時に戦勝国側をも裁かずにはいないのです。日本が東京裁判を受け入れたということは、戦勝国側の歴史観や論理を受け入れたということではなく、神の立場に立って、明治以降の軍国主義の歴史を否定し、平和主義を国是としたということ意味するのです。

東京裁判は、侵略戦争は犯罪である、として日本を裁いた裁判でした。事後法によるこの裁きは不当でしたが、侵略戦争が犯罪である、という法概念がいったん確立した以上、今後はこの法で裁くことは事後法にはなりません。しかし、その後、朝鮮戦争、チベット侵略、中東戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など、数多くの戦争が起こされましたが、毛沢東にせよ、金日成にせよ、アメリカ大統領にせよ、戦争指導者が戦争犯罪人として国際法廷で裁かれたことはありません。セルビアのミロシェビッチが唯一の例外だと思いますが、それはセルビアが戦争に負けた弱小国であったからであって、勝者あるいは強国の指導者が法と正義の名において裁かれたことは一度もありません。

神の裁きを受け入れた日本は、世界で唯一、戦争を犯罪として否定する権利を有している国なのです。


映画『ヒロシマナガサキ』

2007年08月09日 | Weblog
今日は8月9日の長崎原爆忌です。8月6日は広島で過ごしましたが、今日は自宅で11時2分の黙祷に参加しました。黙祷の中でなぜか涙が流れました。

そのあと、神保町の岩波ホールで『ヒロシマナガサキ』というドキュメンタリー映画を見ました。

これは日系3世のスティーヴン・オカザキ監督が作った映画で、英語の題名は「White Light/Black Rain」です。

被爆者の証言を主体に、映像と、被爆者の方の描いた絵で、広島・長崎の原爆の被災の実態を物語る映画です。映像の中には、当時アメリカ軍が撮影したカラーのものもあり、その悲惨さは目を覆うものがあります。

映画の導入は、渋谷で若者たちに、1945年8月6日に何が起こったか知っていますか、と尋ねる場面です。映画の登場したすべての若者がそれを知りませんでした。これは、編集でそういう無知な若者だけを集めたのか、それとも今日の日本の若者の大部分がそうなのか、ちょっとわかりません。日本でもそういう状態なら、まして世界では広島・長崎のことを知っている人は少ないでしょう。

知識としては原爆のことを知っていても、その被害の実態を写真や絵でもいいからかすかに知っている人となると、さらに少ないでしょう。そういう無知を啓蒙する意味で、こういう映画は必要だと思います。とくに、アメリカをはじめ、核保有国の国民に観てほしいと思います。いや、日本の中でも、平気で核武装論を唱える人々が増えていますから、日本人も観る必要があります。

映画の中には原爆の開発や投下に関わったアメリカ人も数人登場します。彼らはすべて、国のために当然のことをしたまでで、罪の意識も後悔の念も感じていない、と言います。しかし、最後に、カークという人が、

「何人か集まると、必ずバカな奴がこう言う。「イラクに原爆落としゃいいんだ!」 核兵器が何なのかまるでわかちゃいない。わかっていたら言えないことだ」

と言います。カークは、やはり心の痛みを感じているのです。

映画では、原爆の投下と日本への勝利を誇るトルーマンの姿もありました。そのトルーマンも本当は罪の意識にさいなまれていたのです。彼は朝鮮戦争のときには、原爆を使いませんでした。そういう良心のかけらが残っているかぎり、人類は同じ過ちを繰り返すことはないでしょう。

しかし、指導者の良心が麻痺して、他者の痛みが感じられなくなると、危険です。昨日のブログで紹介したリーパーさんが、「戦争文化に侵されている人たちが退場する前に小型核兵器を使うかもしれない」と危惧しているとおりです。世界平和の祈りは、そういう指導者の良心を目覚めさせ、彼らの狂気をはらう働きがあります。

映画のあとに、ソプラノ歌手のコロンえりかさんが、「被爆のマリアに捧げる賛歌」を歌いました。これは、お父様のベルギー人作曲家エリック・コロンさんが作曲した歌です。とても心打たれました。

被爆マリア像については、こちらをご覧下さい。

もともと浦上天主堂に安置されていたものですが、瓦礫の中から奇跡的に発見されました。この像は、原爆によってその生命と美と健康を奪われたすべての被爆女性の苦悩と、それにもかかわらず、平和を祈る無限なる愛と慈しみを象徴しているように思えます。

広島原爆ドームと並んで世界遺産に登録されるべき像です。

リーパーさんのインタビュー

2007年08月08日 | Weblog
毎日新聞2007年8月6日にリーパーさんのインタビューが載っていました。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/heiwa/ima/news/20070806ddf012070007000c.html

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今、平和を語る:広島平和文化センター理事長、スティーブン・リーパーさん
 ◇世界を後ろ盾に「核兵器廃絶」を

 広島市の平和行政の一翼を担う財団法人・広島平和文化センターの理事長に今春、米国籍のスティーブン・リーパーさん(59)が外国人として初めて就任した。母国の戦争文化に厳しい目を向けるリーパーさんに、平和をいかにして紡ぐかを語ってもらった。<聞き手・広岩近広>

 ◇自分のことばかり考えるリーダーは、弱者に本気で強烈に反発されると、暴力的な解決法を選ぶ危険性が高い

 ◇競争原理より協力原理を、都市が結束しよう

 --被爆62年の「8・6」が巡ってきましたが、核兵器廃絶の道は遠のいているようでなりません。日本政府にしても米国の核の傘の下にいるため、はっきりもの申せていません。22年前から広島を拠点にして日米両国で平和運動をしてきたリーパーさんは、この点をどう思われますか。

 リーパー 日本が本気になってアメリカに「絶対に核兵器を使うな」と言えば、アメリカは使えないはずです。日本が本当にそういう態度をとったら、他の国はすべて日本を支持すると思います。日本の後ろに世界が立っていれば、アメリカは無視できません。もっともアメリカだって、本当に核兵器を使おうとする人たちはほんの一握りです。

 --それはいかなる人たちですか。

 リーパー 核兵器がなくなると、とても損をするグループがアメリカには存在しているのです。そのグループは「核兵器は使うものだ」と世界に示したがっており、政府に影響力を持っているからとても危ない。つまり、今のアメリカ政府は軍事産業とつながりが深いのです。大きな力をもっているグループが核兵器を使いたがっているのだから、これは危険です。

 --核兵器を使えば地球環境がどうなるかわかっているのではないでしょうか。

 リーパー 私が心配しているのは小型核兵器です。大都市を破壊するためではなく、たとえばアフガニスタンでウサマ・ビンラディンを殺すために限定的に使う。あるいはイランが核兵器をつくるかもしれないので、事前にその種の施設だけを破壊する目的で、小型核兵器を使うのです。私はこの5年間がもっとも危ないとみています。

 --5年以内とは切迫しています。もう少し説明していただけますか。

 リーパー 現在の世界のリーダーたちはアメリカを筆頭に戦争文化に浸っている人たちがほとんどです。極端に自分のことばかり考える人間、あるいは非常に攻撃的とか、非常に競争的な人間ですね。そうしたリーダーが自分の富や地位や成功ばかり考えていると、貧富の差が大きくなっていきます。その結果、弱い者が反発します。本気で彼らが反発したら、その人数はあまりにも多いので、トップを倒す力が生まれます。そうなると戦争文化のリーダーは暴力的な解決方法を選びます。だから私は戦争文化に侵されている人たちが退場する前に小型核兵器を使うかもしれない、そういう危機感をもっているのです。それでも--この5年の間に小型核兵器が使われなければ、だんだんリーダーの質が変わってくると信じています。というのは地球温暖化の問題など、お互いの協力がないと解決できない人類の課題が迫ってきているからです。悲惨な将来にしないために、次のリーダーは協力しあうことを避けては通れません。

 --その協力関係を築くためには。

 リーパー 平和文化を構築することです。平和文化とは何かというと、勝ち負けの競争原理ではなく、みんなが幸せになれるように協力原理を働かせることです。私は都市の役割が大きいと思います。都市と都市の関係は国と国の関係より現実的で平和的ですからね。なかでも広島と長崎は平和文化の原点ではないでしょうか。スペインのゲルニカや中国の重慶もそうですね。戦争でダメージを受けた都市は、戦争のない平和な世界をつくろうと発信しています。まず、こうした都市が協力しあっていくのです。広島市長が会長を務める「平和市長会議」(8月3日現在、122カ国・地域の1698都市)を拡充、強化していくことも大事です。戦争文化から平和文化へ切り替えていかないと人類の明日はありません。

 --ところで、リーパーさんのお父さんはある日本人少女の命の恩人として語り継がれています。1954年9月に起きた死者1155人を出した青函連絡船「洞爺丸」の海難事故で、乗船していた青年牧師のディーン・リーパーさん(当時33歳)が救命胴衣のヒモの切れた少女に自分の胴衣を与えて、自らの命と引き換えに少女を助けました。このとき6歳の長男だったリーパーさんら4人の子どもと妻であるリーパーさんのお母さんが残されました。人類愛というのでしょうか、お父さんの影響をうけていますか。

 リーパー 連絡船は岸壁からあまり離れていなかったし、父は泳ぎが得意だったので、自分が死ぬとは思わなかったはずです。ただ、自分だけが助かろうと思えば真っ先に海に飛び込めたのに、父は船が転覆するまで女性や子どもたちの救助に当たっていたそうです。自己を犠牲にしてでも、他の人を手伝う態度ですね。自分のために何かをつかむより、人のため世界のために何かをするほうが大事だという教えは、私たち家族のなかに残っていると思います。

 --世界がリーパーさんのお父さんのようになれば核兵器はなくなるのでは。

 リーパー (笑って)パラダイスになります。

 --全米50州での原爆展を計画するなど、息子のリーパーさんへの期待も高まっています。

 リーパー 来年秋の大統領選に向けて、核兵器廃絶の運動をアメリカで盛り上げたいのです。そのためには向こうの活動家たちの協力が必要ですし、一過性のイベントにしないためにはどう発展させていくか、そうしたことを考えて推し進めたい。大事なことは我々が、どうやって世界の反核運動を手伝うことができるか、大きなグローバルなうねりをつくるかです。

 --平和は地球レベルでみないといけないですね。

 リーパー もちろんです。平和な世界をつくろうとしたら、お金持ちの日本やアメリカが、飢えて死んでいく人たちのいる貧しい国をなくすために膨大な援助をしなければいけません。そのためには今、使っている消費エネルギーをぐんと減らさないと、温暖化の問題を含めて、みんなが幸せになれる世界はつくれないと私は思います。暮らしを質素にすることなので、それは抵抗が大きいでしょうが、世界の平和を考えるには、そうした視点が大切ではないでしょうか。(専門編集委員)


昭和天皇の大御心

2007年08月04日 | 世界平和瞑想デー
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070804-00000025-mai-soci
より

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<A級戦犯合祀>昭和天皇が懸念 元侍従長が歌人に語る
8月4日11時11分配信 毎日新聞

 靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の「戦死した人々のみ魂を鎮め祭る社であるのに、その性格が変わる」「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残す」との懸念を元侍従長の故徳川義寛氏が歌会始の選者を長く務める歌人の岡野弘彦さん(83)に語っていたことが分かった。A級戦犯合祀については、元宮内庁長官の故冨田朝彦氏のメモなどに昭和天皇が強い不快感を示していたことが記録されていたが、具体的な理由の一端が浮かび上がったのは初めて。
 岡野さんの著書「四季の歌」によると、皇室で短歌の指導をしていた岡野さんのもとに、当時侍従長の徳川氏が3、4カ月に1回、30~40首の昭和天皇の歌を持ってきていた。86年秋ごろ「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という歌を初めて見た。岡野さんが昭和天皇の憂いの理由を尋ねると、徳川氏が明かしたという。
 徳川氏はさらに「はっきりお歌いになっては、さしつかえがあるので、少し婉曲(えんきょく)にしていただいた。筑波(藤麿(ふじまろ))宮司は合祀を押さえてこられたが、松平(永芳)宮司になると、お上のお耳に入れることなく合祀を決定してしまった。それからお上は、靖国神社へ参拝なさることもなくなりました」と述べたという。
 昭和天皇は75年まで同神社に参拝していたが、A級戦犯合祀が明らかになる前の76年以降、参拝はしなかった。【大久保和夫】
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昭和天皇は実に公平、客観的にものが見えるお方でした。ところが、右翼的な人々の間には、いまだに「富田メモは謀略だ」と言っている人たちが少なくありません。そういう人たちは、まさに親の心子知らずで、昭和天皇を悲しませるだけです。

終戦の詔勅を録音した録音盤を奪ってクーデターを起こそうとした軍人は、真に日本を愛し、天皇を愛していたのでしょうか? 彼らは自分たちの手前勝手な神国思想を天皇に投影していただけでした。松平永芳宮司もそれと同じようなことをしたのでした。

日本人が一日も早く、日本の平和と世界平和を祈り続けられた昭和天皇の大御心に目覚めることを祈らずにはいられません。


リーパー氏の父上

2007年08月03日 | 世界平和瞑想デー
以前に広島平和文化財団理事長のスティーブン・リーパー氏について紹介しましたが、リーパー氏の父上であるディーン・リーパー氏はたいへん立派な方でした。

1954年9月26日に青函連絡船の洞爺丸が台風によって座礁・沈没し、1100名以上の乗客が死亡するという大事故がありました。そのとき、その船に乗り合わせていたカナダ人とアメリカ人の2人のキリスト教関係者が、救命具をほかの日本人に譲って亡くなりました。

この無償の愛の行為は多くの人々の感動を呼びました。三浦綾子の『氷点』の中でも描かれています。

その亡くなったアメリカ人というのが、スティーブン・リーパー氏の父上のディーンさんで、その当時33歳という若さでした。

このエピソードは、http://www.seiai.net/0410seisyo.html に出ておりますので、ぜひお読み下さい。

そこに、「リーパー夫人と長男(=スティーブさん)は世界平和実現に向けて現在も精力的に活動しています。遺族に共通しているのは、キリストの愛に生きていることと大の日本びいきということです」とあります。

ディーンさんは今スティーブさんと一緒になって、広島から世界平和のために働いてくれているのでしょう。







人類が心を一つに平和を祈る日

2007年07月31日 | 世界平和瞑想デー
毎年8月になると、日本人は平和の問題について否応なしに考えさせられます。8月6日の広島原爆記念日、9日の長崎原爆記念日、15日の終戦記念日があるからです。

これらの日々は、また祈りの日々でもあります。

8月6日の広島原爆の日には、8時15分から1分間黙祷が捧げられます。
8月9日の長崎原爆の日には、11時2分から1分間黙祷が捧げられます。
8月15日の終戦記念日には、正午から1分間黙祷が捧げられます。

今年の5月20日には「世界平和瞑想デー(Global Peace Meditation Day)」という行事があり、7月7日に「ライブアース」という行事があり、7月17日に「ファイアー・ザ・グリッド」という行事がありました。誰がどういうきっかけで呼びかけたにせよ、人類が心を一つに平和を祈ることは尊いことです。平和を祈る心の波動が一つに共鳴して、大きな力を発揮するからです。

そのエネルギーはおそらく「強さ(参加者の意識の高さ)×量(参加者の数)」によって決まるでしょう。平和を祈る人が一人でも多いほうが望ましいに違いありません。

しかし、その祈りを呼びかけるために「光の存在」だとか「宇宙存在」だとかの「お告げ」は必要ありません。まあ、そういうものが好きな精神世界系のオタクもいるのでしょうが、そういう怪しげなものから引いてしまう良識的な人々も多いわけです。

しかし、そんな「お告げ」がなくても、すでに

8月6日の8時15分
8月9日の11時2分
8月15日の正午

は過去60年間、毎年何千万人の日本人がともに祈りを捧げてきた日です。支持する政党が違い、信ずる宗教が違っても、この日に一度も平和の祈りをしなかったという日本人はいないのではないでしょうか。それができる日本人はやはりすごい民族だと思います。

一人ひとりの祈りは小さいかもしれないが、それが集まれば大きな力になります。

とくに8月6日、8月9日は、人類がこぞって祈りを捧げるべき日であると思います。それは、原爆犠牲者の冥福を祈る祈りでもよいし、世界平和の祈りでもよいでしょう。この日が、日本人だけの祈りの日にとどまるのではなく、全人類が世界平和を祈る日にならなければなりません。

今年はWorld Peace Prayer Societyが全世界の人々に、広島平和公園で行なわれる1分間の黙祷に全世界で同時に参加してくれるように呼びかけています。8月6日と8月9日が人類全体の祈りの日になる第一歩が踏み出されました。

世界人類が平和でありますように
May Peace Prevail on Earth



プレイバック・シアターin長崎

2007年07月27日 | Weblog
プレイバック・シアターとは――

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その場にいる一人が語り手となり、自分のストーリー(自分自身の出来事)を語ります。心に強く残っている場面や長い間とらわれている出来事、なにげない日常生活の中のひとこまなど、ストーリーとして語られることは様々です。語られたストーリーは役者(アクター)によって、即興の劇で表現されます。表現されたストーリーはその場の皆に分かち合われ、そしてまた語った本人に戻されます。実際には、この即興劇に至るまでのグループの一体感をつくるエクササイズや、役者(アクター)として自発的に表現する為のウォーミングアップ、即興劇の後のクロージングを含めた全体をプレイバック・シアターと呼んでいます。
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http://playbacktheatre.jp/index-1.html

ある人が、自分の心にかかっている自分の人生の一コマを語ります。それは愛する人を喪った悲しい出来事かもしれないし、人に裏切られたり虐待されたりというつらい出来事かもしれない。

役者はその話を即興劇にして演じます。その劇は語り手にフィードバックされ、修正されるかもしれない。そうやって、劇が進行し、語り手は自分の人生がそこにプレイバックされるのを見ます。そのプレイバックの中に、様々な気づきや癒しが生じます。

今度、8月4日に長崎でプレイバック・シアターが「愛と平和」をテーマにして開かれます。

[長崎] Summer Peace Gift 2007 ~長崎から~
日時:2007年8月4日
出演:NPO法人プレイバック・シアターらしんばん TATSUMAKI
会場:長崎市 メルカつきまち
住所:長崎市築町3-18 駐車場あり
入場料:500円

「愛と平和を私たちの身近なものとして感じ、そして音楽とプライバック・シアターで分かち合う」という主旨です。



原爆が戦争を終わらせたのか(10)

2007年07月24日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【広島・長崎の犠牲は人類を救った】

アメリカは国体護持の約束、昭和天皇の身柄保証を最後まで行ないませんでしたが、日本の降伏後、結局、この両方を認めざるをえませんでした。天皇という安定化の中心がなければ、日本には共産主義が浸透し、各地で革命暴動が起こったことでしょう。そして、日本がソ連の勢力下に入ることを阻止するために、アメリカは膨大な軍隊を追加派遣しなければならなかったことでしょう。

結局、終戦後、トルーマンは天皇問題についてグルーらの知日派の主張通りにせざるをえなかったのです。それならば、なぜグルーの建言を入れて、天皇制の承認と引き替えに早期に日本の降伏をかちとらなかったのか、ということになります。それはすでに沖縄戦以前に可能だった、という説まであります。沖縄では多くの日本人が悲惨な死を迎えましたが、米軍にも甚大な被害が出ました。天皇制を認めることにより、沖縄戦を回避していたら、米軍は多くの米兵の命を救うことができたはずです。原爆で数十万人の民間人を虐殺しても救わなければならないほど、一人の米兵の命が大切だというのであれば、なぜ沖縄戦を始める前に、日本と有条件降伏の交渉をしなかったのでしょう。

トルーマンは、日本の文化と国民性への無知のために間違ったのです。彼の誤り(その背後にあったのは無条件降伏を求めるアメリカの世論ですが)のために、広島・長崎に原爆が投下されました。その間違った政策決定を、「しょうがなかった」というあきらめや、「原爆のおかげで100万人の米兵の命が救われた」という偽りの神話でごまかすことは、歴史を直視しないことであり、また同じ過ちを繰り返すことにつながります。事実、その誤りは現在イラクでも繰り返されているのではないでしょうか? 相手の文化と国民性への理解と尊敬を欠いた、自分たちのやり方だけを正しいとする独善が、アメリカを泥沼に引きずり込み、イラクの国民に恐ろしい苦難をもたらしているのです。

多くのアメリカ国民は、今でも日本に対して行なった民間人の大量殺戮という戦争犯罪を直視しようとしません。そのために、広島・長崎への原爆投下を正当化することにつとめるだけではなく、原爆という兵器そのものを、核抑止力として正当化しています。

しかし、広島・長崎の大量殺戮についての、放射能の恐ろしさについての情報が漏れ伝わってきたとき、トルーマンは罪の意識を感じ、深く動揺したのです。それは一方においては、自分の原爆投下決定の事後的正当化の試みとなり、彼は徐々に「原爆100万人米兵救済神話」をつくり出していきます。他方、彼はこの悪魔の兵器の実戦使用に躊躇を感じはじめます。

朝鮮戦争のとき、劣勢に陥ったマッカーサーは、朝鮮と中国に原爆を投下して戦争を早期に勝利することを主張しましたが、トルーマンはマッカーサーを解任しました。この決定はトルーマンの人気を下げ、彼は次の大統領選挙に出馬することを断念せざるをえませんでした。

トルーマンがアメリカの世論に逆らってまで原爆の使用を断念したのは、明らかに広島・長崎の記憶のためです。広島・長崎の犠牲者の悲惨な姿が、彼に朝鮮戦争のときに原爆使用を思いとどめさせたのです。言い換えれば、朝鮮の人々、中国の人々は、広島・長崎の犠牲者によって救われたのです。

その後の東西冷戦の最中にも、核保有国の首脳は、何度か核ミサイルの発射ボタンに手をかけたことがあります。核を使うことを最後のところで躊躇させたのは、やはり広島・長崎をもっと大規模な形で繰り返すことへの恐怖でした。人類が核による破滅をまぬがれたのは、広島・長崎の犠牲者のおかげだと言っても過言ではありません。私たちは、8月6日、9日には、原爆犠牲者の冥福を祈るばかりではなく、彼らの尊い犠牲に感謝しつつ、心から世界平和を祈らなければなりません。

たいへん長くなりましたが、このテーマはこれで終えたいと思います。

原爆が戦争を終わらせたのか(9)

2007年07月22日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【昭和天皇の役割】

経済力、軍事力、科学力で圧倒的な力を誇るアメリカと戦って日本が勝てる見込みは、最初からほぼゼロでした。

連合艦隊司令長官であった山本五十六は、アメリカを視察して、日米の国力を差を知悉していました。彼は近衛文麿首相に、

「〔日米戦を〕是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません」

と述べていました。「初めの半年や一年暴れる」ために生まれたのが、真珠湾奇襲作戦でしたが、そんな勝利がいずれ雲散霧消することは時間の問題でした。

負けるに決まっているこんな無謀な戦争をどうして始めたのか、と後年の人々は考えるかもしれませんが、明治開国以降の日米の確執は、どうしても戦争という形でしか決着できない歴史的潮流に流されていたのです。伊藤整など、日米開戦当時の知識人の日記を読むと、戦争が始まったとき、多くの日本人が、頭上の暗雲が晴れたような爽快感を味わっていたことがわかります。

緒戦の大勝利が、ひょっとしたらアメリカに勝てるかもしれないという錯覚を日本人に与えてしまいました。戦局が悪化してきても、軍部は、天皇にも国民にも「大本営発表」という嘘の情報を流し続け、戦況の実態を隠蔽し続けました。(こういう情報隠蔽は現代でも続いています)

物量的に見たら、日本がアメリカに勝てるわけがないのに、軍部指導者はそれを精神力で補えると宣伝し、最後まで「神国日本」の敗北という考えを受け入れることができませんでした。沖縄が陥落したあとでも、本土決戦によってアメリカに一矢を報い、アメリカに国体護持を認めさせ、名誉ある停戦をしなければ、というのが軍首脳部の考え方でした。しかし、本土決戦などしていたら、日本はドイツ以上の悲惨な状況になっていたでしょう。

ヒトラーは自分の身を守るために、最後までドイツの降伏を許しませんでした。ようやく敗北が不可避になったとき、彼は、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と言い、ドイツの全土を焦土と化すことを命じました。つまり、彼はドイツの全国民を地獄への道連れにしようとしたのです。

ソ連軍がベルリン市内に殺到し、市街戦になり、逃げ場を失ってもうどうしようもない状況になって、ヒトラーは4月30日に自殺しました。ヒトラーという最高権力者がいなくなったので、誰が代表になって連合軍に降伏するかもしばらく決められない混乱状態の中で、各地の軍がばらばらに降伏し、5月8日「頃」に戦争が終わったのです。無条件降伏するにも、降伏を命令する中心者が必要なのです。ドイツは日本のような整然とした降伏ができませんでした。

もし日本でも、天皇陛下がヒトラーと同じように、日本人は最後の一人まで戦え、と命じていたならば、日本人は本当に戦ったでしょう。日本人の多くは、天皇陛下の命令とあらば、死ぬ覚悟でいたからです。私の母は大正12年生まれでしたが、動員先の工場で8月15日の玉音放送を聴いたとき、ラジオの音が悪くて内容がよくわからず、最後まで頑張って戦うように、という内容だと思い、これで自分もまもなく死ぬのだ、と考えたといいます。

天皇陛下の命令がなければ、日本軍人は戦争をやめることができなかったのです。そのことは、戦後になっても、横井庄一さんや小野田寛郎さんなどが、ジャングルの中に潜んで戦い続けていたことを見ればわかります。

しかし、戦争を継続していたら、大空襲と原爆によってすでに大きく破壊されていた日本は、さらに破壊され、あと数発の原爆を投下され、ソ連に北海道だけではなく本州の一部までも占領され、戦後の東西ドイツ以上の悲惨な運命に見舞われていたことでしょう。

軍部が戦争という自分たちが敷いた軌道から自力で抜け出せない中にあって、これ以上戦うことの愚をはっきりと見抜いていたのが昭和天皇でした。

ポツダム宣言には天皇の身柄を保証する文言は何ひとつ入っていませんでした。もし日本が無条件降伏すれば、天皇が戦犯として処刑される可能性もあったのです。それを恐れるがゆえに、軍部はアメリカから国体護持の保証が得られるまでは徹底抗戦すべきだと主張したのです。それはそれなりに天皇を思う心ではありました。もし昭和天皇がヒトラーのような自己顕示欲と世界征服への欲望をいだいていた独裁者であれば、天皇もまた、軍部の方針に従い、自分の身柄の保証が得られるまでは国民に戦うことを命じ、最後はヒトラーと同じ運命を選んだはずです。

しかし、昭和天皇はご自分の身の安全よりも国民の生き残りを優先し、戦争をやめることを決断したのです。このことは実に偉大なことであって、昭和天皇の御聖断のおかげで、日本はさらなる荒廃をまぬがれ、ソ連の北海道への侵攻を防ぎ、ドイツのような分裂国家となる運命をまぬがれたのです。

8月14日の昭和天皇の第2回目の御聖断のあとも、一部の軍人は天皇の意志に逆らっても戦争を続けようとしました。彼らはクーデターを起こし、天皇の終戦の詔勅を録音した録音盤を奪おうとしました。彼らにとっては、天皇も、自分たちの思想を貫くための御神輿、看板にすぎないのであって、自分たちに都合が悪ければ、現天皇を廃して、自分たちの思うままになる天皇を即位させればよいと考えていたのです。

それは何も終戦の時だけの話ではなく、日本の歴史上、何回も起こっていたことでしたし、明治以降の近代史でもそうでした。

昭和天皇がいなければ、日本は原爆を落とされても、ソ連に侵略されても、戦争をやめることができなかったでしょう。その先に待ちうけていたのは、日本全体の玉砕でした。しかし、そんな玉砕は軍部の自己満足にすぎません。その軍部を押さえることができたのは、昭和天皇しかいませんでした。日本がドイツのような状態にならないで、整然と戦争をやめることができたのは、国民の幸福を思う昭和天皇のおかげだったのです。



原爆が戦争を終わらせたのか(8)

2007年07月20日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【ソ連の役割】

アメリカが広島・長崎に原爆を投下した背後に、日本の無条件降伏を求める強い反日憎悪があったことはすでに述べました。それともう一つ大きな役割を演じたのは、ソ連の存在です。

ルーズベルト、チャーチル、スターリンの3巨頭は、1945年2月、大戦終了後の世界を見すえて、クリミア半島のヤルタで会談しました。すでにナチス・ドイツの敗北と降伏が確実になっていたころです。この会談では、米英側とソ連の間で、戦後のヨーロッパと極東での勢力圏の線引きが行なわれました。

ヨーロッパで最も重要であったのは、ドイツとポーランドの扱いです。ドイツを米英とソ連で分割占領することは合意されました。問題はドイツとソ連の間に位置するポーランドでした。米英はポーランドに自由主義的な政権を作りたかったのですが、結局、ソ連の謀略によって、ポーランドにはソ連の傀儡政権が作られました。

1945年2月にはアメリカの対日勝利は明白でしたが、長引く戦争に、アメリカではルーズベルトに対する批判も出はじめていました。ストも起こりはじめていました。厭戦気分が広がってきたのです。このころには、原爆は開発中でしたが、完成できるかどうか、実戦で使用可能かどうか、まだまったくわかりませんでした。米軍の損害をなるべく少なくし、対日戦争をなるべく早く終えるためには、ルーズベルトはソ連の協力を必要としました。彼は、千島列島をソ連に渡す代わりに、ソ連が日本との中立条約を破り、対日参戦することを求めました。そのほかにも、中国の代表がいないところで、満州に対するソ連の権益も認めました。たいへん卑劣な取引です。これがヤルタの密約と呼ばれるものです。

ルーズベルトは、自国の損害を少なくして早く戦争に勝利するために、ソ連にあまりにも多くの譲歩をしてしまったのです。

ソ連は、東ヨーロッパからナチス・ドイツを駆逐すると同時に、そこに次々と共産党の傀儡政権を作っていきました。これは米英の怒りと疑念を招きました。大戦終了後には、米英側とソ連側の対立が起こることは明らかでした。すなわち、のちに冷戦と呼ばれる対立構造が始まっていたのです。

ルーズベルトの死によって大統領に昇格したトルーマンは、最初、ルーズベルトと同じように、ソ連の対日参戦による戦争の早期終結を期待していました。しかし、共産圏を拡大するソ連の出方に強い警戒感もいだいていたのです。極東におけるソ連の影響をできるだけ排除するためには、ソ連が参戦する前に対日戦争を終え、日本をアメリカだけで単独占領することが必要です。

グルーらのアメリカ政府内の知日派は当初から、天皇制の承認によって日本を早期に降伏させることができる、と主張していました。アメリカ政府は、日本の無線を傍受・解読して(マジック作戦)、日本政府が「国体護持」を唯一の条件として、ソ連にアメリカとの仲介を依頼することを検討していることも知っていました。ですから、ポツダム宣言に天皇制保持のことをはっきりと打ち出せば、日本は降伏交渉に応ずるだろう、ということもわかっていました。しかし、トルーマンとバーンズは、日本への憎悪に燃え、無条件降伏を主張するアメリカ世論に押されて、天皇条項を決して認めないで、あえて日本側にポツダム宣言を拒否させたのです。

なぜなら、ソ連の助けも借りないでも、天皇の問題で日本に譲歩しないでも、日本を無条件降伏させる新しい手段が手に入ったからです。それが原爆でした。それは、いかなる「悪」(日本、ソ連)にも譲歩しない強いアメリカという、自尊心を満足させてくれる武器でした。

トルーマンはポツダム会談の日程を7月半ばに設定しましたが、これは近づいてきた原爆の実験のスケジュールにしたがって設定されたものです。7月16日、ニューメキシコ州のトリニティで史上初の原爆実験が成功しました。翌17日からポツダム会談が始まりました。トルーマンは原爆という最強のカードをもってスターリンとの会談に臨んだのです。

この会談で、トルーマンはソ連の影響をできるだけ排除しようとしました。会談はトルーマン、チャーチル、スターリンの3者(3国)の間で行なわれたにもかかわらず、トルーマンは日ソ中立条約を理由に、スターリンをポツダム宣言に署名させませんでした。ポツダム宣言にソ連が参加していないことを知った日本は、ソ連が日ソ中立条約を守り、日米の間を仲介してくれるだろうという、誤った期待感を高めました。このことが日本の降伏を遅らせた原因の一つになりました。もしポツダム宣言にソ連の名があれば、日本は米ソという二大国と両面で戦争を続けることは不可能だ、ということを早期に悟ったかもしれないからです。

ソ連を排除し、アメリカだけで日本を早期に降伏させるためには、原爆の投下はトルーマンにとって既定の道だったのです。

ソ連の参戦が予想されなければ、沖縄を陥落させたあと、アメリカは日本をじっくり兵糧攻めにすれば、ほとんど損害なく日本を降伏に追い込むことができました。しかし、時間をかければ、そのうち、欧州戦線のソ連軍が極東に配備されます。ソ連の参戦は一度はアメリカが要請したものです。スターリンはその約束を忘れてはいません。ソ連の参戦を防ぎ、極東におけるソ連の影響をできるだけ抑え込むには、早期の日本の降伏が必要だったのです。アメリカは焦りました。

米ソの角逐が原爆投下の引き金になったと言えます。日本は、東西に分断されたドイツと並んで、米ソ対立の最初の痛ましい犠牲者になりました。

8月6日に広島に原爆が投下されたあと、ソ連は9日、ヤルタの密約をたてに、日本に侵攻しました。これは、日本が降伏する前に参戦して、自分の取り分をできるだけ多く確保しようという駆け込み的、火事場泥棒的な行為でした。8月15日に日本がポツダム宣言の受諾を発表すると、翌16日、スターリンはトルーマンに電報を打ち、千島列島だけではなく、北海道の釧路と留萌を結ぶ線の北半分をソ連に占領させろ、と要求しました。トルーマンはこのあつかましい要求を即座に拒否しました。

ここで、久間前防衛相の

「(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。これなら必ず日本も降参し、ソ連の参戦を食い止めることができる、という考えだった。間違えば北海道まではソ連に取られてしまった」

という発言を考えてみます。

これまで私のブログをお読みいただいた方には、この発言の内容自体はかなり真実であることがおわかりでしょう。

しかし、この発言にはいくつかの歴史的前提が欠如しています。それは、

(1)アメリカ世論は対日憎悪の復讐心に凝り固まっていた。
(2)そのため、アメリカ政権内には、天皇制存続を認めれば、日本を早期に降伏させることができる、という知日派の意見が強く存在していたにもかかわらず、トルーマンとバーンズは世論に迎合する形で無条件降伏にこだわった。
(3)米ソ対立(冷戦)の開始。
(4)きざしはじめたアメリカの厭戦気分が広がらないうちに戦争を終えるために、ルーズベルトがソ連に譲歩しすぎた。

という歴史的文脈です。

そして何よりも忘れてはならないのは、必ずしも「原爆が落とされたから日本が降伏した」というわけではない、という事実です。なぜなら、日本の軍部は広島・長崎とソ連参戦のあとも、本土決戦を叫んでいたからです。戦争終結は昭和天皇の強い意志と決断がなければ不可能だったのです。


原発危機一髪

2007年07月18日 | Weblog
7月16日に起こった中越沖地震の被災者の皆様には心よりお見舞いを申し上げます。

赤十字を通して義援金を送ることができます。
http://www.jrc.or.jp/sanka/help/news/1247.html

郵便局の口座番号は 00510-5-26 です。

現在わかっている範囲で、この地震では343戸以上が全壊し、9人が死亡しました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070718-00000008-mai-soci

マグニチュード6.8で343戸の全壊にもかかわらず、9人という死者は、驚くほど少ない数です。亡くなった方、被災した方には申し訳ないのですが、本当に大難を小難にしていただいたという感が強くします。

今回の柏崎刈羽原発の事故について知ると、ますますその感を深くします。実は、今回の地震では、巨大な原発事故が起こる可能性がありました。

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原発の耐震安全性は根底から崩れた

2007年7月17日 原子力資料情報室

7月16日午前10時13分ごろ中越沖地震が起きた。この地震の揺れによって稼働中の柏崎刈羽原発4基が自動停止した。停止したのは2号炉、3号炉、4号炉、7号炉で、うち2号炉は定期検査の最終段階の調整運転のために原子炉を起動中だった。他は定期検査中で原子炉を停止していた。

震災にあわれた方々の苦痛はさらに続くだろうが、原子炉が緊急停止したのは不幸中の幸いというほかない。仮に停止に失敗していたら、放射能が大量に放出される原発震災に至る怖れもあった。

停止に続いて3号炉では外部電源を取り込む変圧器で火災が起きた。絶縁油が漏れ、何らかの理由で引火したためだろう。原因について詳細な発表はないが、漏れは地震により機器・配管に亀裂が入ったことで起きた可能性が高い。鎮火までに2時間近くもかかったのは、消火剤の調達に時間がかかったからといわれている。油火災への備えがなかったことは深刻な不備と言わざるを得ない。

変圧器が機能しなければ、外部電源喪失事故という特に沸騰水型原発では恐れられている事故となる。直ちに非常用のディーゼル発電機が起動することになっているが、この起動の信頼性は必ずしも高くなく、地震により起動しない恐れもある。炉心燃料は自動停止した後も高熱を発しているため冷却を続ける必要があり、これに失敗すると燃料は溶融して高濃度の放射能が環境に放出されることになる。場合によってはその後に爆発を伴うこともあり得る。それほど重要なことを内包する火災だったが、東京電力は変圧器が機能し続けていたか、非常用電源が起動したかなどの重要な情報を発表していない。

さらに東電は6号炉で放射能を含んだ水が放水口から海に放出されたと発表した。発表では6万ベクレルである。この発表がそのとおりとすれば、放射能による環境や人体への影響はほとんどないと言えるかもしれないが、そう言うには放射能の種類ごとのデータが不可欠だ。

また、漏れの原因については十分に調査されるべきである。使用済燃料プール水が揺れで溢れだした可能性は高いが、例えば、プールに亀裂が入っていることも、プール水循環装置からの漏えいも考えられる。このような場合、漏えいは止まらず、早急な対策が取られなければならない。水漏れから放射能の確認まで6時間近くたっており、原因究明が急がれる。使用済燃料プール水の溢れだしは地震のたびにおきていることからすれば、海への放出にまで至ったのは明らかな対策の不備である。

建屋内の情報が公表されないので被害状況が分からないが、機器や壁などがさまざまな影響をうけているに違いない。今回の地震の揺れは設計用限界地震(実際には起こらないが念のために想定する地震動)として想定した値を超えていた。東電の発表によれば、最も厳しい場合が1号炉でおよそ2.5倍に達している。今回の地震は東西30㎞、深さ25㎞の断層が破壊されたという。そして、原発建設時にはこの断層は検討されなかった。検討されていたのは20㎞も先の中越地震を起こした断層の一部だ。耐震設計の甘さが否めない。想定外の場所で想定を超える地震が発生したことから、陸域・海域を含め周辺の地盤や地層の十分かつ厳密な調査を欠くことはできない。東電はまずこれを進めるべきである。

2005年8月16日の宮城県沖地震、07年3月25日の能登半島地震、そして今回の中越沖地震、わずか2年ほどの間に3回もそれぞれの原発での設計用限界地震を上回った地震が発生している。原子力安全委員会は06年9月に耐震設計審査指針を28年ぶりに改定し、電力各社は既存原発に対して新指針に基づく耐震安全性チェックを進めているが、ほんらいはすべての原発を止めておこなうべきことであろう。原発を稼働しながら数年内にチェックを終えればよしとしている原子力安全・保安院の現在の姿勢は根本的に見直されるべきである。
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http://cnic.jp/modules/news/article.php?storyid=550

原発事故でいちばん恐ろしいのは、原発の停電です。

「変圧器が機能しなければ、外部電源喪失事故という特に沸騰水型原発では恐れられている事故となる」。

「炉心燃料は自動停止した後も高熱を発しているため冷却を続ける必要があり、これに失敗すると燃料は溶融して高濃度の放射能が環境に放出されることになる。場合によってはその後に爆発を伴うこともあり得る」。

おかしな話に思えるかもしれませんが、電気を作っている原発は、他の電源によって動いているのです。地震で原発が停電すると、炉心の冷却ができなくなります。そうなると、これはチェルノブイリ原発事故のような大規模な爆発事故につながります。柏崎刈羽原発は世界最大の原発基地で、そこに蓄積されている放射性物質は、チェルノブイリ原発の数倍、広島・長崎の原爆の数百倍と思われます。今回、火災にまでなりながら、そのような大規模災害にいたらなかったのは、まさに「不幸中の幸い」、僥倖以外の何ものでもありませんでした。

想定最大震度6.5で耐震設計をしているところに、6.8の地震が起こりました。よくもこれだけの被害ですんだものです。これが7.5の地震だったら? 東電や政府首脳、そして日本国民は、自分たちが今回、「偶然」によって救われたのだ、ということを認識しなければなりません。でも本当は「偶然」などないのです。その背後には目に見えない「大いなる力」が働いているのです。その「大いなる力」が日本を救ってくれたのです。

しかし、貧弱な耐震設計で、いつまでも「偶然」に安全を頼っているわけにはいきません。

いくつもの断層が走っているこの地域には、過去から何度も大きな地震が起こっていますが、それは大自然からの警告ではないでしょうか。このような場所に原発を設置していてよいのでしょうか。柏崎刈羽原発は全面停止・廃棄したほうがよいと思います。

各電力会社は、今回の事故を徹底的に検証し、すべての原発の安全性を高めなければなりません。想定最大震度を大幅にアップしなければなりません。これまでもたびたび事故情報の隠蔽を行なってきた東電は、すべての情報を開示しなければなりません。

最終的には、原発というエネルギー源は放棄されねばなりません。放射性廃棄物の処理方法が確立されていないからです。省エネを進める必要があります。太陽光や風力や地熱や潮力などの自然エネルギーやバイオ・エネルギーなどの利用をできるだけ拡大する必要があります。ただし、こうしたエネルギー源には限界があります。いずれ宇宙空間のゼロ・ポイントフィールドから無尽蔵のエネルギーを取り出す科学・技術が生まれることでしょうが、それまでは現在の技術を改善して、大規模原発震災が起こらないように、原発の安全性を高めて利用するしかありません。

柏崎刈羽原発がこのまま長期間停止したら、冷房によって電力消費が増える夏場には、首都圏では電力不足が起こる可能性があります。原発は危険ですが、すぐに全廃することもできないのです。

完全に自然調和型ではないけれど、現在の原発の代替案として私が関心を持っているのは、古川和男博士が提唱するトリウム型「原発」です。この「原発」は、小規模で安全に運行でき、しかも環境中に放射性物質を放出する危険性がないし、核兵器の原料となるプルトニウムも作れません。理論も基本技術も完成していると言われています。政府や電力会社は、過去の行きがかりにとらわれず、この新しい「原発」の可能性を検証してもらいたいものです。


原爆が戦争を終わらせたのか(7)

2007年07月17日 | 原爆が戦争を終わらせたのか
【日本国民の自由に表明する意思】

8月9日には長崎に原爆が投下され、同時に、ソ連が中立条約を破って満州に侵攻しました。ソ連の参戦は日本に大きな衝撃を与えました。というのは、それまで日本はソ連に、国体護持を条件としてアメリカとの停戦交渉を仲介してくれることを依頼していたからです。ところがソ連はアメリカとの間で、1945年2月に開かれたヤルタ会談で、ドイツの降伏後、中立条約を破って対日戦に参加することを密約していたのです。

そもそも、日露戦争の恨みを持ち、ナチス・ドイツと戦っているソ連が、日米の間を取りなしてくれるだろう、などという期待が甘かったのですが、当時の日本の指導者はそんなことにさえ考えが及びませんでした。

8月9日に開かれた最高戦争指導会議では、国体護持だけを条件にポツダム宣言を受諾すべきだとする鈴木貫太郎首相・東郷茂徳外相側と、そのほかに、戦争犯罪人の処罰は日本側で行なう、などの3条件を付け加えた阿南陸相らの軍部側の意見が対立して、最後まで結論が出ませんでした。この議論は、10日の深夜にもつれ込み、結局、昭和天皇の御聖断を仰ぐことになりました。昭和天皇は、

「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、これが充実は九月中旬以降となると云う。・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか。・・・しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)

と述べ、結局、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾することが決定されました。

「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、これが充実は九月中旬以降となると云う。・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか」という昭和天皇のお言葉は痛烈です。ここには、天皇に正しい情報を伝えず、天皇の意志に反していたずらに中国大陸で戦線を拡大し、ついには日米戦に突入し、日本を破滅の淵にまで導いた軍部に対する厳しい批判が出ています。このような昭和天皇が、A級戦犯の靖国神社合祀に不快感をいだいたのは当然ですが、この問題については「富田メモと昭和天皇」で詳しく述べました。

「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおざることの了解の下に」というのは、日本側がポツダム宣言に条件を付けたわけです。

日本の返答は、米政府内で議論を呼び起こしました。スティムソンは降伏に際して天皇の権威を利用すべきだ、と主張しましたが、バーンズは無条件降伏にこだわりました。最終的には、

・降伏の瞬間から、天皇および日本政府の国家統治権は、連合国最高司令官に従属する(subject to)。
・日本政府の最終的形態は、ポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定される。

という回答(バーンズ回答)が作られました。つまり、バーンズ回答は天皇制保証の言質を最後まで与えなかったのです。

日本側がこの回答を受けとったのは、8月12日の午前1時ですが、天皇制の保証について言及せず、しかも天皇が「連合国最高司令官に従属する」と述べているこの回答は、日本側に多大の議論を引き起こしました。これでは国体護持にならない、と軍部が激しく抵抗したのです。そのためにポツダム宣言の受諾がまたまた遅れ、その間にも多くの日本人が死にました。

木戸幸一内大臣がバーンズ回答について昭和天皇に報告すると、天皇は、

「それで少しも差支えないではないか。たとえ連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って少しも差支えないと思う」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』下)

と答えました。昭和天皇は、百尺竿頭一歩を踏み出し、ご自分の身柄を国民の「自由意思」にゆだねることを覚悟したのです。

鈴木貫太郎首相は、8月14日に第2回目の御前会議を開きました。ここでも議論は紛糾し、天皇の御聖断を仰ぐことになりました。天皇陛下は、

「このまま戦争を継続しては、国土も、民族も、国体も破壊し、ただ単に玉砕に終わるばかりである。多少の不安があったとしても、今戦争を中止すれば、また国家として復活する力があるであろう。どうか反対の者も、私の意見に同意してくれ。忠良な軍隊の武装解除や、戦争犯罪人の処罰のことを考えるならば、私は情においてはどうしてもできないのであるが、国家のためにやむを得ないのである」(同)

と涙ながらに語り、居並ぶ者たちはみな嗚咽しました。昭和天皇は、ご自分の身の安全の保証よりも、国民、国家の存続のほうを優先したのです。

この御聖断によってようやく日本のポツダム宣言の受諾と降伏が決定しました。