∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その3)

2006-07-06 06:06:18 | C-3 >山川山形水野

                        山形城      写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん



水野三郎右衛門元宣(その3)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門   元宣略傳』の復刻版
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

3.戊辰当時の藩政
 慶應戊辰当時の山形藩主は、天保年代の改革で有名な老中水野越前守忠邦の孫忠弘(*2)であり、藩政の枢軸は次のごとくで、三郎右衛門はやはり主脳であった。
  水野三郎右衛門__________水野式膳
   二本松大炊______________鈴木文右衛門
   大道寺舎人______________志賀淺右衛門
   拝郷五左衛門____________水野小河三郎
   友松彌五左衛門__________石原平治右衛門
   水野雅楽之助
 藩政は、これら老職などの評議の下に行われたが、老職中の主席である三郎右衛門は若年ながら寛弘敏識(*3)の人であったことから、決裁の多くは自分一人で行い、三郎右衛門に次ぐ者は、志賀淺右衛門で、その他の大道寺、二本松、鈴木は“員に備えるのみ”の老職であったと記されている。外には郡奉行が数名居り、嶺岸勘解由、秋元鐵輔、神谷四方之助が重臣であり、雄倉源右衛門、大久保傳平、笹本籐馬、川澄憲治、水野文平太は主として軍務の役目で、吉村善次郎、井上宇兵衛、北城漣之介、關善左衛門、渡邊半助、鈴木竹治、志賀幸内、水野好太郎、矢島一蔵、稲垣惣右衛門、値賀又蔵は、内外の要務を果たしていたが、藩主の実収入は表高五万三千石に達しないことから、藩士の俸禄も従って少なかった。御納戸方(*4)は転封に伴う減禄の余波を受けて、財政は極めて困難な状況にあり、また突如として戊辰の事変が興ったことで、藩の財政はいよいよ困窮し、三郎右衛門が家老職就任の際、加役三百表があったが、これまでも返上したほどの窮状にあった。

4.山形藩の出戦
 九條奥羽鎮撫総督の一行が、仙台に到着すると、山形藩は藩主父子ともに国元には不在であったことから老職大道寺源内を仙台に遣わし、総督のご機嫌伺いに上がった。この時総督から藩主に対し「今般の羽前庄内征伐に付いて、応援出兵の手当はついているであろう。期限については追って通達する」との命が下された。
慶応四年(1868)四月十六日(新暦5月8日)、副総督澤爲量は、参謀大山格之助および薩長両藩の兵二百余名を率いて仙台を出発し、笹谷峠を越え、山形領笹谷口の新山村(*5)に宿営したことで、藩老水野三郎右衛門は藩士を従えて、新山村に迎えに上がり、翌十七日は山形に案内し、この夜は上の山(*6)に着き宿陣した。十八日は上の山において、山形、上の山および薩長兵の訓練をした。副総督の検閲があり、各兵士に慰労の酒肴が饗され同夜はそこで一泊した。十九日上の山を出発し、北上を続け、山形を経て天童に至り三日間滞在したが、天童は土地が小さく狭く不便であることから、二十三日に天童を出発し、新庄へ転陣した。この時山形藩に対して庄内征伐の応援のため、二十四日に新庄に出兵するようにとの命令が出たことで、分隊一番手は、隊長友松彌五右衛門が引率し新庄に向け出発した。次いで大山参謀の命により、同二十六日、水野三郎右衛門は、御馬廻一小隊、御手先二小隊、大砲二門、その他職員を引率して山形を出発し、同夜天童宿陣の予定であったが、庄内勢は六十里越(*7)をして一気に南下東進し、あわただしく白岩村(*8)まで繰り出し、まさに天童に迫ろうとする形勢であるとの急報を受け、やむなく途中の長町村(*9)に留まり転営した。翌二十七日、三郎右衛門は単身で山形に帰り評議一決の後、再び長町村に取って返したが、この時、庄内勢は柴橋、寒河江、白岩付近(*10)に寄り集まりたむろしているとの情報があり、なお益々人数を集めて最上川の向こう岸に砲台を築造したとの事で、薩長軍との協議の結果、最上川沿岸を坊守することを決定した。天童には山形藩から大久保傳平、川澄憲治の両人を遣わし、最上川筋のあちこちの出入口は、長崎(*11)から野田口(*12)までを山形・天童の二藩および東根(*13)、漆山(*14)、北目(*15)、柏倉門傳(*16)の各陣屋から差し遣わした兵と共に坊守し、山形藩は長崎口にある達摩寺(*17)、落合(*18)の二箇所を守衛する事となった。それに伴い大久保傳平に一隊を付けて落合口を守らせ、三郎右衛門は自ら残兵を率いて達摩寺に陣を敷き、原田與惣右衛門を本陣とした。二十九日には、河を隔てて寺津口(*19)で暫時砲戦を開いた。
 翌閏四月一日、副総督府から庄内勢が白岩に集結しており、これを天童藩と協議して打ち払えとの命が下された。翌二日は参謀局の召令によって、三郎右衛門と傳平は天童に行き、薩藩川路七次郎、篠崎東次郎等と軍議の結果、翌三日に川を渡って進軍に決定としたが、外の出入口の守備隊には通知をしなかったため、進撃は追って達しがあるものと差し控えていたが、四日未明に左澤口(*20)の庄内勢の一隊は本盾(*21)から、もう一隊は長崎から川を渡り、五六百人の密集部隊は突如として落合、達摩寺の両口に殺到したことから、落合口の守兵は特に狼狽し隊長大久保傳平外十数名の死傷者を出し、戦いに負けて秩序なく逃げた。達摩寺口の三郎右衛門の一隊も多少は交戦したものの、不意の襲撃に損害を蒙りまたちりぢりに逃げ、内表村(*22)でようやく敗兵を集めて即日山形へ帰着した。この日の死傷者は以下の如くであった。
△落合口での戦死
  隊 長 大久保傳平     司 令 赤星守人
      松崎竹四郎     武器方 加藤雅蔵
  大砲組 稲葉半兵衛     小銃組 原田喜平太 
△同 負傷者
     築井健九郎  岩永郷太郎    医 中根宗信
△達摩寺口での戦死者
  大砲組 前田庄助
 △同 負傷者
  稲垣道右衛門
 山形藩はこれらの如く、庄内勢のために散々敗北したにもかかわらず、庄内藩がこれを追撃しなかったのは、山形市民としては実に思いがけない幸運というべきであり、もし庄内勢が天童城を焼討したような猛烈な行動を取っていたら、山形もまた天童のように、城は焼け落ち焦土となっていたことであろう。しかし三郎右衛門は山形を、兵火による罹災からあくまでも避けたいと、実に苦心惨憺をしたその成果によるところなのである。これは三郎右衛門が敗戦の後、直ちに藩士豊嶋彦太郎を使者として、庄内勢に密書を送り「山形藩は庄内藩を敵とすることは喜ばしいことではなく、官軍の追求によりやむなく対戦に及んだものである。当藩の議論は決して貴藩を敵とするものではないことから、山形市内に討ち入ることはなにとぞ見合わせていただきたい」との意思を示した。このことについては、実は三郎右衛門が記した記録に「権謀を以て漸く鋭鉾を避け兵を引く(*23)」云々、また謝罪書を差し出した際に、友松彌五左衛門に送った書面中にも「被申越候趣きには盟會一條のみ小子より可書出儀にも可有之候得共過日達摩寺村落合戦争形情書出候處も此度の自筆に基づき處々添削致し差進申候此以末文の處に至り極秘は庄内勢へ密使の一件にて因循の處其儀は何分書顕し難き意味合實事と齟齬(*24)と相成り如何とも痛心致候、右故落合戦争も有之儀故何となく砲戦の形勢混同致し綴置き申候」とある。
また古老に聞くところによれば、この戦争は当初から庄内勢に書面を送って知らせておき、空砲を打つという約束があったが、味方に異論が出たことから、遂に実弾戦となったとも、また他藩が対陣した際実弾を発射したからとも云われている。要するに山形藩の戦力は微力であり、止むなく姑息な手段を取らざるをえなかったのではないかと推測されており、三郎右衛門の苦しく辛い心の内を追念することは困難であろう。
 庄内勢は、突如として川を渡り、山形勢を破り突破するという奇襲が功を奏し、その勢いに乗じて天童城を焼討し、勝ちどきを挙げ、楯岡(*25)、長瀞(*26)に宿営していたが、四月六日、庄内藩主の命によって谷地(*27)、白岩(*8)等に退陣し、酒井吉之丞の一隊は残留したものの、隊長酒井兵部は鶴岡(*28)に帰着した。一方、天童藩吉田大八は、密かに使者を新庄の総督府に遣わして仔細を陳情して出陣を乞うと、大山参議は薩長二藩の外に山形藩の一番手である上の山藩の一隊を率いて、急ぎ天童に駆けつけた。この時山形藩からは、三番手隊長雄蔵源右衛門の一小隊、築前藩大野與右衛門、大野宇太郎両人の二小隊を率いて会合に集まった。四月十日諸隊を進めて最上川を渡り、左澤に入り、同十一日に筑前二隊、山形四隊(友松、雄蔵隊)および天童隊等を合わせて、月山湖東の山深い本道寺村(*29)から、酒井吉之丞の陣所に向かって進撃した。庄内勢は水澤村(*30)に在って白岩川を隔てて激しく攻防したが、官軍は全くものともせず南下進軍し、入間村(*31)に入ったところ、敵は高所の林間から雨霰の如くに弾丸を注ぎ、味方は平地に在ったことで、たいへん苦戦を強いられた。白岩川は水の勢が強く渡ることができず、夕日はすでに西に傾き、夜戦は味方にとって最も不利であることから、筑前藩と共に後退しようとしたが、敵は川の傍から追撃してくることでさらに困難を極め、山形藩兵は、
筑前藩兵を先に逃がして退却させながら、自らは最後尾に残って迫り来る敵と戦いながら逃げていくという、戦いの中で最も難しい戦いといわれる、いわゆる“しんがり”を勤めつつ退却していくと、左澤村(*20)に在った長州兵が西進し川の南北から進撃したことで、さすがに勇壮な庄内勢も、長く対戦することは不利とし退却した。もっとも、この時はすでに庄内から退却の命があり、退陣の準備が完了していたとも云われている。このことから、庄内勢は水澤村に放火し、退いて沼山村(*32)に宿陣した。この日官軍の死傷者はことごとく山形藩兵であり、次のようであった。
△戦死 小林榮 高宮猪兵衛 柘植仲蔵
     永井熊次郎 鳥居吉次郎 
 △外に負傷者二人
 翌十二日、薩長二藩は先鋒として本導寺村(*29))に進んだところ、庄内勢はすでに六十里越(*7)を経て鶴岡に退却していた。そこで本道寺御堂(十間に五十間=18m×91m=1,638平米)を焼き、上の山藩が八聖山(*33)を守り、山形兵を分けて白岩村の要地を守らせ、その他は天童・新庄等に引き揚げた。山形藩が官軍として出陣したのは達摩寺、落合および今回の入間村のみではあるが、多少の犠牲を払うことにより、先ずは藩の面目を維持できたといえる。                    <つづく>


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=父は水野和泉守忠精で、弘化二年(1845)に遠州浜松から転封し、慶応二年(1866)まで藩主であったが、同年九月に退いた。
*3=心が広く素早く知ること。
*4=藩の金銀・衣服・調度の出納係。献上品、諸役人への下賜の金品の管理なども司った。
*5=山形県山形市新山(にいやま)
*6=山形県上山市(かみのやまし) 。同市元城内にある上山城辺りか。蔵王連峰の裾野に広がっており、奥羽三楽郷の一つで、上山温泉があることから、官軍の訓練と慰労接待のために遠方にもかかわらず、案内したものであろうか。
*7=山形と庄内を結ぶ当時の最短ルート六十里越街道を通行することであり、現在の国道112号とほぼ同じルートを辿っていたと云われている。途中は出羽三山山麓の極めて険しい道程である。
*8=山形県寒河江市(さがえし)白岩。
*9=山形県山形市長町。
*10=山形県寒河江市柴橋、寒河江、白岩の最上川と寒河江川に三方を囲まれた天童の対岸一帯。
*11=山形県東村山郡中山町長崎。
*12=山形県東根市野田。
*13=山形県東根市東根。
*14=山形県山形市漆山。
*15=山形県天童市北目。
*16=山形県山形市門伝および柏倉。旧称柏倉門伝。
*17=山形県東村山郡中山町達磨寺。
*18=山形県天童市寺津。
*19=山形県天童市寺津。
*20=山形県西村山郡大江町左沢(あてらざわ)。
*21=山形県寒河江市寒河江本盾(ほんだて)。
*22=山形県山形市内表。
*23=時に応じた策略をもって、はじめて戦闘を避け敵の兵を引かせることができる。
*24=そご。物事がくいちがって、意図した通りに進まないこと。その「くいちがい」。
*25=山形県村山市楯岡。
*26=山形県東根市長瀞。
*27=山形県西村山郡河北町谷地。
*28=山形県鶴岡市。
*29=山形県西村山郡西川町本道寺。
*30=山形県西村山郡西川町水沢。
*31=山形県西村山郡西川町入間。
*32=山形県西村山郡西川町沼山。
*33=山形県西村山郡西川町横岫地内の修験道の神域とされた地域。霊域内には鉱山を司る神として全国的に信者をもつ金山神社がある。




山形県全体図 ( ピンの色分:緑=官軍、青=庄内勢、赤=交戦地 )



<山形図2>


<山形図3>









                                        鶴岡城址(2005.06.10 10:26)



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5 コメント

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暑中見舞い (FFT)
2006-07-22 11:32:53
大雨で長野・九州などは大変な様ですが大丈夫でしたか・・・。

学校も夏休みに入ったようで子供達が朝から遊んでいる声が一段ち大きくなってきました。



ヘロンさんの水野三郎右衛門元宣略傳ゆっくりと楽しんで読みました。

特に個人名は私のデータベースに取り込ませていただきました、分限帳にも無い名前があり参考となります。感謝。



一つ気になったのがあります、私のデータが間違っているかもしれませんが、落合口で戦死した7名の中で稲葉平兵衛とありますが、私のデータでは稲葉半兵衛

となっていました、又、原田平太は原田喜平太となっていました・・・・。



文の内容から自分の知っている地名が多いので改めて戊辰戦争で戦った藩士たちの行動を連想していました。続編を楽しみにしています。







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ご指摘感謝! (∞ヘロン)
2006-07-22 16:23:30
FFTさん

夏休みになったのに、こんなぐずついたお天気では子供達がかわいそうですね。今日は窓を開けて執筆していますので、直ぐ側の公園から幼い喚声が聞こえてきます。(^^)

 ところで、落合口で戦死した「原田平太」はご指摘の通り小生の転記違いでして「原田喜平太」が正しい名前でした。早速本文を訂正いたしました。ご指摘ほんとうにありがとうございました。

また「稲葉平兵衛」を確認しましたが、こちらは原文通りでした。ただし、著者が活字に起こす際、毛筆書の「半」をよく似た「平」と読み誤ったとも考えられます。この名簿の原書を見てみる必要がありそうです。FFTさんのデータベースは、何を元に入力されたものなのでしょうかね。

 これから益々暑くなり、小生の脳のトランジスタは誤動作を起こしやすくなりますので、今後もご指摘いただけたら嬉しいです。
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調べました (FFT)
2006-07-23 12:58:03
毎日の雨、湿気で私の脳も異常をきたしています、昨日もあるデパートへ行き電話番号を書いた所、ワイフに番号の間違いを指摘されガッカリでした、年なのか暑さボケなのかは不明ですが・・・。余計なことでした。



私のデータベースの基を調べて見ました、①つは分限帳で②は小学館発行の日本名城紀行1"東北・北関東"編の中の井上ひさしが書いた山形城P104をデータとしていました。



ヘロンさん暑い中大変でしょうが執筆頑張ってください。
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再調査しました (∞ヘロン)
2006-07-23 13:49:30
FFTさん

 データーベースをお知らせいただきありがとうございました。

わたしも、もう一度調べ直しました。

山形県博物館 元専属嘱託 川瀬同氏著の

博物館主催の講座「第二回 郷土と歴史講座」平成8年9月20日 同講堂において

「山形水野半家老 水野三郎右衛門元宣」の中に書かれている「山形藩 戊辰戦争殉教者」には「稲葉半兵衛 信賢 四十一歳 七日町来迎寺 良山賢譽忠道居士」<市P33>となっていました。この「市」は参考文献表から『山形市史』下巻 近代編 昭和50年2月 

だと思われます。この書は名古屋では閲覧が困難ですので、山形に帰られたときに確認していただけたら有難いです。

それで、先ほど本文を「稲葉半兵衛」と改訂しました。

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追記 (∞ヘロン)
2006-07-23 16:11:12
もう一つ判明しました。

☆∞ツチノコ柏崎乗継さんが撮影して贈って下さった写真の中に、豊烈神社の元宣公の像近くにある「戊辰殉難之士」の碑文に「稲葉半兵衛」の名が陰刻されていました。

ただし「半」の字が「土」の上に「\ /」の難しい文字でした。

 
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