●「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」2/2
★水野久右衛門尉 ≪考証≫
1.水野久右衛門尉に関する史料
『戦国人名辞典』増訂版 高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館 には、「水野久右衛門(みずのきゅうえもん) 秀吉に仕え金切裂指物使番(武家事紀)。」と、短いながらも項目が設けられているが、生没年は未詳。『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社では、「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉)生没年不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の警衛にあたる。」とある。
また、『今治郷土史 資料編 古代・中世 (第二巻)』「久留島家文書」には、「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)には福島正則の家臣となった。」と記されている。しかし、山鹿素行『武家事紀』上巻 武家事紀巻十八 續集「福島正則」項には、家臣として水野久右衛門尉の名は見えない。
2.来島長親の経歴
玄興院の夫・来島長親(のち康親)は、来島通総の次男。天正十年(1582)~ 慶長十七年(1612)。瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔であり、伊予国来島(愛媛県今治市)に一万四千石を領した。慶長二年(1597)、父通総が慶長の役で戦死、家督を継ぐ。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍に属したことから所領を没収された。
しかし妻が養父福島正則に取り成しを頼み、正則から本多正信を通じて幕府に働きかけたことで、慶長六年(1601)、豊後森に旧領と同高で森藩成立。二代通春は元和二年(1616)姓を久留島と改めた。
3.玄興院について
現在も元城下にある「玄興院」(大分県玖珠郡玖珠町大字森580)という寺は、玄興院の国許菩提寺である。当寺に電話取材したところ、御住持から寺の口伝では「小野忠正」であると聞かれたが、「水野」と「小野」は文字的に間違って伝えられる可能性は高いと考えられる。また玄興院は、森藩の正室として江戸屋敷に居住したことから、没後は青松寺(東京都港区愛宕2丁目4番7号)に葬られた。
尚、一説(Wikipedia)では、玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」とも記載されているが、その典拠は記載されず不明。
しかし「正則の姪で水野忠正の娘」に注目すると、水野久右衛門尉と福島正則は、共に母が姉妹であった可能性もある。正則の母は、豊臣秀吉の叔母であったことから、水野久右衛門尉の母も豊臣秀吉の伯母または叔母であった可能性も考えられる。であるならば、玄興院は秀吉の姪ということになる。玄興院についても、今後更なる研究の必要がある。
4.「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」の「熊半と水久」
熊谷半次と水野久右衛門尉については、史料の各「家御内書」では、名前の序列が全て「熊谷半次、水野久右衛門尉」と記されているが、「金切裂指物使番」名簿順では、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉の名が記されている。
「金切裂指物使番」名簿順の一部の人名については前記の通り概括したが、名簿の二番目の石川兵藏[貞]は、尾張犬山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣直領信濃木曽の代官。六番目の水原石見守[吉一]は、妙楽寺村百石。八番目の熊谷直盛は、一旦は三万二千九百八十九石余を支配するも、後に一万五千石。十一番目の瀧川豊前守[忠征]は二千石。
十八番目の新庄越前守[直定]は、当時一万二千石であり、以降の人物は省略したものの、詳細は記されていない。この名簿順序は、必ずしも身分に応じて配列されたものではないと推察されることから、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉の名が記されていても、水野久右衛門尉が熊谷内蔵允よりも身分が高かったとはいえない。むしろ各家文書の秀吉発給文書の書札礼や知行から見て、熊谷内蔵允が上役、あるいは同格であったと見るべきであろう。
両人の知行についての記述を、次の二書から抽出すると――
『戦国人名辞典』では、「熊谷直盛は、文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なおりのこおり)三万二千九百八十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所で其代官を命ぜられたので、被個人の所領はこの内にあっても僅少だったろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城一万五千石に就領(豊後旧記・桃山末分限帳)。」とある。
『久留島家文書』では、「水野久右衛門尉は、文禄三年(1594)三月廿一日に秀吉から、兵庫県南部に百石二斗を与えられており、僅か七ヶ月後の十月十六日には、兵庫県芦屋市打出で二百五十二石三斗七升の加増を受けており、これを合わせると、三百五十四石三斗七升となり、さらに十ヶ月後の翌年八月三日は、二百石の加増があり、締めて五百五十四石三斗七升となった。」と、あり、文禄三年時点での二人の給知を比較すると、熊谷直盛は一万五千石、水野久右衛門尉は三百五十四石余で、圧倒的に熊谷直盛の方が上回っており、翌四年の時点でも、五百五十四石余と、格差を縮める程の大きな変動は見られない。しかし、これらの使番の職務を通して二人は懇意になっていったと推察される。
天下を統一した豊臣秀吉が、32名の使番を2名ずつに組ませ、肥前名護屋から海を隔てた朝鮮にまで、何度も使番を遣わしていたことに、その時代のコミュニケーションの一部が垣間見えて興味深い。使番と聞けば、現代では使い走り的な意味合いが強いと思うが、古くは使役(つかいやく)とも称した役職で、「天下人からの使者」であった訳である。近世の旗本は一万石未満であり、一万石を少しでも上回れば最下級でも大名の列に入った。このことから、宛所に応じて、熊谷直盛のような万石クラスの使番を遣わしていたことが判る。また、これらの
金切裂指物使番は、奥村半平のように金切裂指物使番として慶長三年(1597)正月、朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈って慰問(浅野家文書)したり、また朝鮮に渡り、在陣の武将に秀吉の御内書と自らの副状を手渡し、上意を詳しく口上していた事がわかる。
水野久右衛門尉は、管見では前述のように、文禄二年以前にしか使番として文書に登場しておらず、また同三年、四年には、両名共に秀吉から領地を安堵されていることから、二人は金切裂指物使番として、文禄二年まで配されていたと考えられる。慶長四年(1599)五月には、熊谷直盛が太田一吉等と外地目付として渡鮮していることから、この頃には久右衛門は別の役目を担っていたと思われる。 なぜならば、豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」がいつ頃記されたものかは不明であるが、名簿に書かれた「三上與四郎[季直]が、文禄元年(1592)九月肥後名護屋駐屯中に病死。」と『戦国人名辞典』に記載されていることから、少なくともそれ以前の名簿であろうと推測される。
5.「慶長の役」後の水野久右衛門尉と、熊谷半次との関係
「熊谷直盛が外地目付時代のことで、太田一吉等と共に蟄居。さらに慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に斬り殺された」との記述が諸家の文書にある。
一方、『ウィキペディア(Wikipedia)』「熊谷直盛」の項には――
「直盛は慶長2年(1597年)の慶長の役で朝鮮半島に在陣中、秀吉の訃報を知り、兵を撤収する直後、加藤清正や黒田長政に私曲を訴えられ、同4年(1599年)10月に国を除かれる。直盛は石田三成の妹婿にあたるため、その後は密かに佐和山城に居過ごす。」 とあるが、秀吉は慶長三年八月に死去していることから、この記事に対する信憑性は低く、また典拠は示されていないものの、他に散見されない資料として、「直盛は石田三成の妹婿」の語句に注目してみたい。
水野久右衛門尉は、加藤清正と親交のある福島正則と密接な関係にあり(後に家臣)、清正・正則が、共に三成と諍いを起こしたことから、水野久右衛門尉と石田三成の妹婿である熊谷直盛との間に、不慮の亀裂が生じたと推察されることから、慶長三年以降は行動を共にしなかった可能性は高い。
6.「秀吉没後」の水野久右衛門尉と福島正則
熊谷直盛については、『戦国人名辞典』に詳しいが、度々同道していた水野久右衛門尉については、同辞典等に詳細が書かれておらず、また現時点では、上述の『久留島家文書』以外には、残念ながら確実な史料は散見されない。
前述の「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)には福島正則の家臣となった『今治郷土史』。」からは、慶長元(1596)年から、慶長五年(1600)頃までの約五年間の消息が曖昧であり、さらには「慶長六年(1601)“には”福島正則の家臣となった」とあり、これは「遅くとも慶長六年(1601)“には”」と読めることから、慶長五年(1600)以前の可能性もあるということになる。この間、慶長三(1598)年八月に秀吉が没していることから、おそらくは、この時点までは秀吉の家臣であったろうと考えられる。されば、その後約二、三年間に福島正則の配下に組み入れられたことになる。久右衛門と正則の関係は、自分の娘を養女に出していることから、何らかの縁戚関係があるか、または以前から親しい間柄にあったとみるべきであろう。両名の主従関係に至る背景を、正則の経歴からたどり仮想してみよう。
福島正則は、文禄四年(1595)、秀吉から尾張国清洲二十四万石の所領を与えられていたが、武断派である加藤清正、福島正則などを中心とした武将達は、文禄・慶長の役においても、大きな戦功を立てたが、その功績に見合う重要ポストを占めていなかった。それに対し、戦功は少ないが文治派で五奉行の一人として政権中枢で権力を振るっていた石田三成らとの関係が、急速に険悪となり、慶長四年(1599)、前田利家が死去したことから睨みが利かず、正則は朋友加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件を起こしたが、徳川家康に慰留され襲撃を翻意した。それを契機に家康の大名となる。慶長五年(1600)、会津上杉討伐には六千人を率いて従軍。関ヶ原の戦いでは、宇喜多勢を打ち破り東軍の勝利に大いに貢献し、安芸広島と備後鞆四十九万八千二百石を得た。
ここで、文禄・慶長の役後の、水野久右衛門尉をめぐる正則、三成、直盛との相関関係について――
福島正則と水野久右衛門尉――◎
福島正則と石田三成―――――×
福島正則と熊谷直盛―――――×
石田三成と熊谷直盛―――――◎
石田三成と水野久右衛門尉――-
熊谷直盛と水野久右衛門尉――?
この関係から見て、水野久右衛門尉は、やはり福島正則を頼り、家臣となったと考えて良さそうである。
7.水野久右衛門尉の出自を究明
水野氏の中で「水野久右衛門尉」に比定できそうな候補者は複数居る。拙ブログ、∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に既投稿の「「愛知県姓氏歴史人物」にみえる水野氏 2/2」に、
次のように書いているので少し長いが引用する――
(7-1)
『大口町史』第3章 近世
「二ツ屋新田」の項には、「この地は往古は、木曽川の支流であった所で、木曽川の築堤後、沼地となり原野であった所を、元和元年(1615)、今から約三百六十五年前(現392年前)、春日井郡水野村の権右衛門、久右衛門の兄弟が移住し開拓したところから、二家(二ツ屋)とよんだという。[中略]同所は現在の愛知県丹羽郡大口町二ツ屋にあたり兄弟を租とする家がある。
(7-2)
『瀬戸市史 通史編 上』の「水野家系譜下書」によると、権右衛門は、水野致勝の三男で初代御林方奉行水野権平正勝の叔父にあたるが、久右衛門については致勝の子としては系圖にはなく、権右衛門の弟は文右衛門雅勝があり、水野文右衛門の租である。但し致勝は二男でありながら家督を継いでおり、嫡男が「某 実名相分不申候 久右ヱ門」と記載されており、権右衛門の伯父に当たる人が久右ヱ門となっている。これらのことから勘案してみると、権右衛門の父致勝が家督相続し宗家となり、その三男であることから年若ではあるが、権右衛門を兄とし、伯父の久右衛門を弟としたものか、または久右衛門は精神遅滞であったことで家督が継げず、更には移住者の長をも甥の権右衛門としたとも仮想されるが真相は不詳である。大口町史担当部署に問い合わせてみたが、二十数年前の発行で各記事の出典は残念ながら不明とのことであった。
また第1節村の支配の表に、「御供所村 水野与兵衛 二九石五斗」「余野村 水野彦四郎 五〇石」とあるが、両者ともに権右衛門、久右衛門の兄弟の末裔であろうか。
ここに登場する水野久右衛門は、年代と「春日井郡水野村」の出身であるということから、水野致正の長男ではないかと考えられる。(7-1)の人物については、元和五年(1619)時点で、水野久右衛門尉の主君福島正則が、広島城の領主であったことから、元和元年(1615)に、二ツ屋新田となる原野に移住した可能性は極めて低い。
次の(7-2)の人物は、これを投稿当時は、(7-1)と同一人物ではないかとみたが、今年(2009)になり、新たな史料から「水野三郎左衛門家」の祖である、水野久右衛門と判り、後裔の系譜も入手できたことから、別人と判明した。
だが、(7-2)の人物は、家督を弟の致勝に譲っており、その経緯も不明であることから、年少から福島正則と共に秀吉に仕えていた可能性は否定できない。
(7-3)
上述「3.玄興院について」の、「玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」(典拠は記載されず不明)である事と、また玄興院の寺に口伝された「小野忠正」から、水野久右衛門尉の諱は「忠正」であった可能性も否定できない。つまり「水野久右衛門尉忠正」となるのかも知れない。
水野氏史研究会ブログに投稿の「水野氏史研究 分類表」の「A-3>景家系水野氏」の景家の子、右京の進清忠は、川村南城主で、織田信長に仕えており、その子清忠の子として「右衛門佐忠正」が居る。詳しくは、「平氏系 桓武平氏水野譜」の「影家」以降に記している。
この系図との照合から、現時点では「右衛門佐忠正」なる人物が、「水野久右衛門尉」と同一人物では無かろうかと推定されるが、残念ながら比定される段階までには至っていない。
尚 末筆になったが、この「水野忠正」については、水野氏史研究会々員で、水野久右衛門尉の共同研究をしている研究員から、この人物が、水野久右衛門尉に比定されるのではないかと、以前からご提言をいただいており、研究をここまで進めることが出来た。経緯を記して謝意を表したい。
水野久右衛門尉研究については、不十分な内容ながらも、現状において知り得た史料を編集し、先ずは「叩き台」として中間報告するものである。今後は、大方、会員各位のご教示、ご批判をいただき補訂を重ね、更なる研究に努めたいと考えている。見読いただいている各位からの、様々な情報をお寄せ下さるようお願いする次第である。
《了》
E-1>「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)
★水野久右衛門尉 ≪考証≫
1.水野久右衛門尉に関する史料
『戦国人名辞典』増訂版 高柳光壽・松平年一著 吉川弘文館 には、「水野久右衛門(みずのきゅうえもん) 秀吉に仕え金切裂指物使番(武家事紀)。」と、短いながらも項目が設けられているが、生没年は未詳。『戦国人名事典』阿部猛・西村圭子編 新人物往来社では、「みずのきゅうえもん(のじょう)水野久右衛門(尉)生没年不詳 豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番の一人。文禄元年(1592)朝鮮派兵に際して肥前名護屋に駐留、同城の警衛にあたる。」とある。
また、『今治郷土史 資料編 古代・中世 (第二巻)』「久留島家文書」には、「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)には福島正則の家臣となった。」と記されている。しかし、山鹿素行『武家事紀』上巻 武家事紀巻十八 續集「福島正則」項には、家臣として水野久右衛門尉の名は見えない。
2.来島長親の経歴
玄興院の夫・来島長親(のち康親)は、来島通総の次男。天正十年(1582)~ 慶長十七年(1612)。瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔であり、伊予国来島(愛媛県今治市)に一万四千石を領した。慶長二年(1597)、父通総が慶長の役で戦死、家督を継ぐ。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍に属したことから所領を没収された。
しかし妻が養父福島正則に取り成しを頼み、正則から本多正信を通じて幕府に働きかけたことで、慶長六年(1601)、豊後森に旧領と同高で森藩成立。二代通春は元和二年(1616)姓を久留島と改めた。
3.玄興院について
現在も元城下にある「玄興院」(大分県玖珠郡玖珠町大字森580)という寺は、玄興院の国許菩提寺である。当寺に電話取材したところ、御住持から寺の口伝では「小野忠正」であると聞かれたが、「水野」と「小野」は文字的に間違って伝えられる可能性は高いと考えられる。また玄興院は、森藩の正室として江戸屋敷に居住したことから、没後は青松寺(東京都港区愛宕2丁目4番7号)に葬られた。
尚、一説(Wikipedia)では、玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」とも記載されているが、その典拠は記載されず不明。
しかし「正則の姪で水野忠正の娘」に注目すると、水野久右衛門尉と福島正則は、共に母が姉妹であった可能性もある。正則の母は、豊臣秀吉の叔母であったことから、水野久右衛門尉の母も豊臣秀吉の伯母または叔母であった可能性も考えられる。であるならば、玄興院は秀吉の姪ということになる。玄興院についても、今後更なる研究の必要がある。
4.「金切裂指物使番(きんの きりさき さしもの つかいばん)」の「熊半と水久」
熊谷半次と水野久右衛門尉については、史料の各「家御内書」では、名前の序列が全て「熊谷半次、水野久右衛門尉」と記されているが、「金切裂指物使番」名簿順では、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉の名が記されている。
「金切裂指物使番」名簿順の一部の人名については前記の通り概括したが、名簿の二番目の石川兵藏[貞]は、尾張犬山城一万二千石を与えられ、同時に豊臣直領信濃木曽の代官。六番目の水原石見守[吉一]は、妙楽寺村百石。八番目の熊谷直盛は、一旦は三万二千九百八十九石余を支配するも、後に一万五千石。十一番目の瀧川豊前守[忠征]は二千石。
十八番目の新庄越前守[直定]は、当時一万二千石であり、以降の人物は省略したものの、詳細は記されていない。この名簿順序は、必ずしも身分に応じて配列されたものではないと推察されることから、熊谷内蔵允の前に水野久右衛門尉の名が記されていても、水野久右衛門尉が熊谷内蔵允よりも身分が高かったとはいえない。むしろ各家文書の秀吉発給文書の書札礼や知行から見て、熊谷内蔵允が上役、あるいは同格であったと見るべきであろう。
両人の知行についての記述を、次の二書から抽出すると――
『戦国人名辞典』では、「熊谷直盛は、文禄二年(1593)閏九月、豊臣直領豊後直入郡(なおりのこおり)三万二千九百八十九石余を支配(駒井日記)、大友吉統の欠所で其代官を命ぜられたので、被個人の所領はこの内にあっても僅少だったろう(貝原益軒の朝野雑載に八万石とあるのは誤り)。文禄三年(1594)春、豊後安岐城一万五千石に就領(豊後旧記・桃山末分限帳)。」とある。
『久留島家文書』では、「水野久右衛門尉は、文禄三年(1594)三月廿一日に秀吉から、兵庫県南部に百石二斗を与えられており、僅か七ヶ月後の十月十六日には、兵庫県芦屋市打出で二百五十二石三斗七升の加増を受けており、これを合わせると、三百五十四石三斗七升となり、さらに十ヶ月後の翌年八月三日は、二百石の加増があり、締めて五百五十四石三斗七升となった。」と、あり、文禄三年時点での二人の給知を比較すると、熊谷直盛は一万五千石、水野久右衛門尉は三百五十四石余で、圧倒的に熊谷直盛の方が上回っており、翌四年の時点でも、五百五十四石余と、格差を縮める程の大きな変動は見られない。しかし、これらの使番の職務を通して二人は懇意になっていったと推察される。
天下を統一した豊臣秀吉が、32名の使番を2名ずつに組ませ、肥前名護屋から海を隔てた朝鮮にまで、何度も使番を遣わしていたことに、その時代のコミュニケーションの一部が垣間見えて興味深い。使番と聞けば、現代では使い走り的な意味合いが強いと思うが、古くは使役(つかいやく)とも称した役職で、「天下人からの使者」であった訳である。近世の旗本は一万石未満であり、一万石を少しでも上回れば最下級でも大名の列に入った。このことから、宛所に応じて、熊谷直盛のような万石クラスの使番を遣わしていたことが判る。また、これらの
金切裂指物使番は、奥村半平のように金切裂指物使番として慶長三年(1597)正月、朝鮮蔚山に在陣の浅野行長に書を贈って慰問(浅野家文書)したり、また朝鮮に渡り、在陣の武将に秀吉の御内書と自らの副状を手渡し、上意を詳しく口上していた事がわかる。
水野久右衛門尉は、管見では前述のように、文禄二年以前にしか使番として文書に登場しておらず、また同三年、四年には、両名共に秀吉から領地を安堵されていることから、二人は金切裂指物使番として、文禄二年まで配されていたと考えられる。慶長四年(1599)五月には、熊谷直盛が太田一吉等と外地目付として渡鮮していることから、この頃には久右衛門は別の役目を担っていたと思われる。 なぜならば、豊臣秀吉家臣「金切裂指物使番」がいつ頃記されたものかは不明であるが、名簿に書かれた「三上與四郎[季直]が、文禄元年(1592)九月肥後名護屋駐屯中に病死。」と『戦国人名辞典』に記載されていることから、少なくともそれ以前の名簿であろうと推測される。
5.「慶長の役」後の水野久右衛門尉と、熊谷半次との関係
「熊谷直盛が外地目付時代のことで、太田一吉等と共に蟄居。さらに慶長五年(1600)、関ヶ原の戦乱時西軍に投じ、兵四百五十人で近江瀬田橋を警固、ついで諸將と美濃大垣城を守ったが、九月十八日、熊谷直盛は、同志相良長毎と秋月種長等が共謀し寝返ったことから彼等に斬り殺された」との記述が諸家の文書にある。
一方、『ウィキペディア(Wikipedia)』「熊谷直盛」の項には――
「直盛は慶長2年(1597年)の慶長の役で朝鮮半島に在陣中、秀吉の訃報を知り、兵を撤収する直後、加藤清正や黒田長政に私曲を訴えられ、同4年(1599年)10月に国を除かれる。直盛は石田三成の妹婿にあたるため、その後は密かに佐和山城に居過ごす。」 とあるが、秀吉は慶長三年八月に死去していることから、この記事に対する信憑性は低く、また典拠は示されていないものの、他に散見されない資料として、「直盛は石田三成の妹婿」の語句に注目してみたい。
水野久右衛門尉は、加藤清正と親交のある福島正則と密接な関係にあり(後に家臣)、清正・正則が、共に三成と諍いを起こしたことから、水野久右衛門尉と石田三成の妹婿である熊谷直盛との間に、不慮の亀裂が生じたと推察されることから、慶長三年以降は行動を共にしなかった可能性は高い。
6.「秀吉没後」の水野久右衛門尉と福島正則
熊谷直盛については、『戦国人名辞典』に詳しいが、度々同道していた水野久右衛門尉については、同辞典等に詳細が書かれておらず、また現時点では、上述の『久留島家文書』以外には、残念ながら確実な史料は散見されない。
前述の「水野久右衛門は、福島正則の養女となり、後に久留島康親の妻となった玄興院の実父。水野久右衛門は、天正・文禄期は秀吉に仕えているが、慶長六年(1601)には福島正則の家臣となった『今治郷土史』。」からは、慶長元(1596)年から、慶長五年(1600)頃までの約五年間の消息が曖昧であり、さらには「慶長六年(1601)“には”福島正則の家臣となった」とあり、これは「遅くとも慶長六年(1601)“には”」と読めることから、慶長五年(1600)以前の可能性もあるということになる。この間、慶長三(1598)年八月に秀吉が没していることから、おそらくは、この時点までは秀吉の家臣であったろうと考えられる。されば、その後約二、三年間に福島正則の配下に組み入れられたことになる。久右衛門と正則の関係は、自分の娘を養女に出していることから、何らかの縁戚関係があるか、または以前から親しい間柄にあったとみるべきであろう。両名の主従関係に至る背景を、正則の経歴からたどり仮想してみよう。
福島正則は、文禄四年(1595)、秀吉から尾張国清洲二十四万石の所領を与えられていたが、武断派である加藤清正、福島正則などを中心とした武将達は、文禄・慶長の役においても、大きな戦功を立てたが、その功績に見合う重要ポストを占めていなかった。それに対し、戦功は少ないが文治派で五奉行の一人として政権中枢で権力を振るっていた石田三成らとの関係が、急速に険悪となり、慶長四年(1599)、前田利家が死去したことから睨みが利かず、正則は朋友加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件を起こしたが、徳川家康に慰留され襲撃を翻意した。それを契機に家康の大名となる。慶長五年(1600)、会津上杉討伐には六千人を率いて従軍。関ヶ原の戦いでは、宇喜多勢を打ち破り東軍の勝利に大いに貢献し、安芸広島と備後鞆四十九万八千二百石を得た。
ここで、文禄・慶長の役後の、水野久右衛門尉をめぐる正則、三成、直盛との相関関係について――
福島正則と水野久右衛門尉――◎
福島正則と石田三成―――――×
福島正則と熊谷直盛―――――×
石田三成と熊谷直盛―――――◎
石田三成と水野久右衛門尉――-
熊谷直盛と水野久右衛門尉――?
この関係から見て、水野久右衛門尉は、やはり福島正則を頼り、家臣となったと考えて良さそうである。
7.水野久右衛門尉の出自を究明
水野氏の中で「水野久右衛門尉」に比定できそうな候補者は複数居る。拙ブログ、∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」に既投稿の「「愛知県姓氏歴史人物」にみえる水野氏 2/2」に、
次のように書いているので少し長いが引用する――
(7-1)
『大口町史』第3章 近世
「二ツ屋新田」の項には、「この地は往古は、木曽川の支流であった所で、木曽川の築堤後、沼地となり原野であった所を、元和元年(1615)、今から約三百六十五年前(現392年前)、春日井郡水野村の権右衛門、久右衛門の兄弟が移住し開拓したところから、二家(二ツ屋)とよんだという。[中略]同所は現在の愛知県丹羽郡大口町二ツ屋にあたり兄弟を租とする家がある。
(7-2)
『瀬戸市史 通史編 上』の「水野家系譜下書」によると、権右衛門は、水野致勝の三男で初代御林方奉行水野権平正勝の叔父にあたるが、久右衛門については致勝の子としては系圖にはなく、権右衛門の弟は文右衛門雅勝があり、水野文右衛門の租である。但し致勝は二男でありながら家督を継いでおり、嫡男が「某 実名相分不申候 久右ヱ門」と記載されており、権右衛門の伯父に当たる人が久右ヱ門となっている。これらのことから勘案してみると、権右衛門の父致勝が家督相続し宗家となり、その三男であることから年若ではあるが、権右衛門を兄とし、伯父の久右衛門を弟としたものか、または久右衛門は精神遅滞であったことで家督が継げず、更には移住者の長をも甥の権右衛門としたとも仮想されるが真相は不詳である。大口町史担当部署に問い合わせてみたが、二十数年前の発行で各記事の出典は残念ながら不明とのことであった。
また第1節村の支配の表に、「御供所村 水野与兵衛 二九石五斗」「余野村 水野彦四郎 五〇石」とあるが、両者ともに権右衛門、久右衛門の兄弟の末裔であろうか。
ここに登場する水野久右衛門は、年代と「春日井郡水野村」の出身であるということから、水野致正の長男ではないかと考えられる。(7-1)の人物については、元和五年(1619)時点で、水野久右衛門尉の主君福島正則が、広島城の領主であったことから、元和元年(1615)に、二ツ屋新田となる原野に移住した可能性は極めて低い。
次の(7-2)の人物は、これを投稿当時は、(7-1)と同一人物ではないかとみたが、今年(2009)になり、新たな史料から「水野三郎左衛門家」の祖である、水野久右衛門と判り、後裔の系譜も入手できたことから、別人と判明した。
だが、(7-2)の人物は、家督を弟の致勝に譲っており、その経緯も不明であることから、年少から福島正則と共に秀吉に仕えていた可能性は否定できない。
(7-3)
上述「3.玄興院について」の、「玄興院は「福島正則の弟・高晴の娘」とも、また「正則の姪で水野忠正の娘」(典拠は記載されず不明)である事と、また玄興院の寺に口伝された「小野忠正」から、水野久右衛門尉の諱は「忠正」であった可能性も否定できない。つまり「水野久右衛門尉忠正」となるのかも知れない。
水野氏史研究会ブログに投稿の「水野氏史研究 分類表」の「A-3>景家系水野氏」の景家の子、右京の進清忠は、川村南城主で、織田信長に仕えており、その子清忠の子として「右衛門佐忠正」が居る。詳しくは、「平氏系 桓武平氏水野譜」の「影家」以降に記している。
この系図との照合から、現時点では「右衛門佐忠正」なる人物が、「水野久右衛門尉」と同一人物では無かろうかと推定されるが、残念ながら比定される段階までには至っていない。
尚 末筆になったが、この「水野忠正」については、水野氏史研究会々員で、水野久右衛門尉の共同研究をしている研究員から、この人物が、水野久右衛門尉に比定されるのではないかと、以前からご提言をいただいており、研究をここまで進めることが出来た。経緯を記して謝意を表したい。
水野久右衛門尉研究については、不十分な内容ながらも、現状において知り得た史料を編集し、先ずは「叩き台」として中間報告するものである。今後は、大方、会員各位のご教示、ご批判をいただき補訂を重ね、更なる研究に努めたいと考えている。見読いただいている各位からの、様々な情報をお寄せ下さるようお願いする次第である。
《了》
E-1>「金切裂指物使番」にみえる「水野久右衛門尉」(補遺1)