∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その2)

2006-07-01 13:31:13 | C-3 >山川山形水野
                          旧水野三郎右衛門元宣銅像


水野三郎右衛門元宣(その2)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版

上記を基に筆者が現代文に訳したものである。


1.家系および家格
 水野三郎右衛門の祖先は、水野守信と称し、山形藩主水野家とその系統は同じである。水野家は、鎮守府将軍源満政(満仲の子)から出て、満政五世の孫重遠は、尾州浦野に住み浦野四郎と称した。その子重房は尾州知多郡に移住し、小河氏(緒川とも書く)を称して、小河三郎と号した。その子重は尾州春日井郡山田荘水野に移り、初めて水野氏と称した。その後、貞守に至り、三河刈谷城を築き緒川城を併有した。守信は、織部正忠守の第二子で、忠政の孫にあたり、尾州知多郡緒川城で生まれた。守信の兄水野監物忠元は、言い換えれば萬松寺侯のことである。この時、守信は五百石を領した。慶長五年(1600)九月、関ヶ原の役で江州伊吹山において島津勢との戦功により、さらに五百石が加増された。寛永二十年(1643)六月二日、名古屋において六十六歳で死去し、その子信英(可勝)が家督を嗣いだ。元和元年(1615)九月、忠元は大阪の陣の戦功により、下総山川の城主となると、信英もまたこれに従って一千石を領し、以来代々家老職となった。元和六年(1620)十月六日、忠元の死去により、嫡男忠善が藩主を嗣ぎ、後に三州岡崎城に転封した。信英三郎は三百石加増され右衛門と号し、五十七歳で没した。嫡男元貞がこれを嗣ぎ以降、元英、元亮、元、元彭、元龜、元永、そして元宣と代々続く。通称三郎右衛門または平馬、治部もしくは治郎右衛門と称した。“元の時、八代藩主忠任が肥前唐津に転封となる。元珍が家督を継ぐが、故あって減禄され、元珍の子元彭(*2)”の代に至り、文化十四年(1817)、藩主忠邦が画策し遠州浜松に転封となる。“元彭の子元龜、元龜の子元永、そして元宣へと続く(*3)”。元永は幼少にして家督を継ぎ千三百石を保領し、外に家老役料として三百石を有した。また藩主忠邦が老中職筆頭となって二万石の加増があったことに伴い、元永もさらに百石加増された。後に忠邦が老中を辞して加俸を返納すると、元永もこれに従い百石を上地(*4)された。弘化元年(1844)二月、藩主が甲州流の兵学を廃し長沼流を採用したことに伴い、元永は軍事取調係、兵学修行総司を仰せつけられる。弘化二年(1845)、忠邦の隠居により忠精が家督を相続し、五百石雁の間詰を仰せつけられる。同年十一月、山形藩へ転封になると、元永は翌三年(1846)、領地受取として山形に来る。元治元年(1864)三月二十三日、思し召しにより四十二歳で役儀御免、隠居を仰せつけられる旨の罷免通知があった。元永には何ら落度もないのにこの命が下された。推し測ってみると連年世相は騒がしく、家茂将軍の上洛があり、藩主忠精も将軍に随従して在京中である。慶応二年(1866)九月、忠精が退官し嫡子忠弘が家督を相続する。同四年(1868)二月十七日、元永の子元宣に対し、父元永はおとなしく蟄居していたことを評価され、格別の思し召しにより謹慎を解かれ、隠居料二百俵賜る旨仰せつかる。元永は即日名前を括囊齊と改める。後に老職会議の折々には御召があり、しばしば参殿したものの、その後持病のためこれを辞した。廃藩置県の後、士族副長、徴兵所員、戸長、区長を勤めたが、明治二十一年(1888)に病没した。元永は通称平馬で、家老職は二十余年であるが、明治維新の変に遭遇し、その子元宣が一藩の犠牲となって厳刑に処せられ、一旦家名断絶、財産没収の悲運に陥ったことで、あらゆる困難に悩み苦しんだが、晩年には一日八銭の写字や清書によって報酬を受け、生計をたてながら一家の歴史書三冊を作り、祖先および元宣の事蹟等を詳細に記録した。この書類は水野子爵家において、ことごとく謄写したという。

2.三郎右衛門元宣
 三郎右衛門元宣は、天保十四閏年(1843)九月二十二日、遠州浜松に生まれる。初め龜太郎と呼び、治部と称し、字は伯智、恕堂と号州した。弘化三年(1846)五月、藩主忠精が山形へ入部されると父忠永と共に山形に移住した。嘉永三年(1850)正月十五日、父元永の願いにより、御居間において改めて御目見得し、同五年二月文学の会に出席することが多いことがお耳に達し、文学係から学に励むようにとお達しがあった。安政四年(1857)九月二十四日に元服し名を治部と改める。同五年四月、御合力米(*5)二百俵下され御近習に召し出される。文久二年(1862)正月、年寄共勤方見習を仰せつけられる。元治元年(1864)三月二十三日、父元永の隠居に伴い、元宣は二十二歳で千三百石の家督を相続し、家老を仰せつけられる。邸宅は父元永の時代から七日町口(現在の山形県山形市大手町1)にあった。家臣としては天野友十郎(五十石)、神谷孫兵衛(四十石)が居り、御家老上席で家格知行ともに藩中で他家を超えていた。元宣は幼くして剣を呼子貞雄(作子刀自の息子)、槍を大場勘左衛門(大場利の祖父)、漢籍を川澄明憲に学び、出藍の誉れあり、性格は温厚で落ち着きがあり物事に動じない大人の風格を備え、藩中の皆は三郎右衛門の部下となり、よく言うことを聞いた。家老となり千三百石の外に三百俵賜った。慶応二年(1866)十一月、藩主忠精が隠居し、世継ぎの忠弘が家督を相続する際、忠精から書面でもって、藤原則光作の刀一腰(刀一本)を白鞘で拝領した。慶応三年(1867)四月、藩学経誼館へ随時出向き、諸士に文武などを世話したいと仰せになった。同年六月、軍事改正に伴い、取調御用向き取扱を仰せつけられ、同年七月十日、銃隊の稽古に精を出し上達したことから懐中時計を拝領した。同年八月、農兵取立方を引き受け取扱う旨仰せになり、同年十二月、銃隊稽古は同年夏以来、とくに骨折りであったことから銀三枚拝領した。
 慶應戊辰の政変の時には、元宣は弱冠二十六歳であり、これより先安政以来、外国船がしばしば来港し開国を促し、国中の人々は恐れおののき今にも大乱が突発するという取沙汰があり、こういった中、孝明天皇の崩御、家茂将軍の薨去があり、明治大帝の即位、徳川慶喜の大政奉還があった。次いで慶喜が将軍職を辞したことで、皇居は薩摩長州二藩の兵で守護することとなり、、慶応四年(1868)戊辰正月三日、徳川慶喜は会津桑名二藩の兵を率いて、大阪から京都に入ろうとする際に、伏見鳥羽の戦いとなり、慶喜は汽船で江戸城に帰ると間もなく、朝廷会議で議論が慶喜征伐に一決した。しかし慶喜は恭順を表して江戸城を開いたことから、幕臣の一部は上野東叡山を拠り所とし、官軍と戦端を開き、江戸においてもまた戦争となった。朝廷は会津庄内二藩追討の命を下し、奥羽の乱を鎮め人心を安定させるため、九条鎮撫総督、澤副鎮撫総督の両卿を奥羽地方に遣わされ、仙台藩に会津征伐を命じ、米沢藩にその援軍を、また秋田藩に庄内征伐を命じ、近在の諸藩に援助をさせた。これに伴い仙台藩は兵を会津国境に出し、数回の小戦を開いた後、会津藩は降伏を申し出た。隣境の仙台米沢は会津を打ち懲らしめる意思はなく、決断をためらい、遂には白石に各藩集会所を設け、奥羽各小藩を会して種々協議を重ねたが、戦いは一向に進捗しなかった。澤副総督は、参謀大山格之助と共に薩長兵二百余名を引率して、庄内征伐を指揮するため仙台から笹谷峠を越して羽前に入ったが、山形藩主は父子共に在藩しなかったことで、執政水野三郎右衛門は非常に困難な立場に立たされざるを得なかった。 <つづく>


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=当書では、『水野三郎右衛門家系圖』と異なり、元英の子を元亮ではなく、元としているものと思われる。また元の子は元彭であるが、元英の長兄元珍としており、家譜に混乱がみられる。
*3=この部分では、家系が系圖と整合する。
*4=あげち。江戸時代、幕府が大名・旗本・御家人から、また大名が家臣から、それぞれの知行地を没収すること。また、その土地。じょうち。
*5=こうりょくまい、または、ごうりょくまい。貧しい人を救うために、ほどこし与える米。この場合は給与であろう。


小河水野家譜 http://blog.goo.ne.jp/heron_goo/e/694986f5283c9212e7114538de019f95

●2007年3月22日、川瀬同先生からのご指摘により「囊齊」を「括囊齊」、「経義館」を「経誼館」と書き改めました。





                  写真提供:☆∞ツチノコ柏崎乗継さん







                                     笹谷峠 から 山形市を望む  (2005.06.12 8:14)






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8 コメント

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元宣の第二弾 (∞ヘロン)
2006-07-01 13:40:46
FFTさん・蓮花さん



 長らく手つかずにいました水野三郎右衛門元宣の「続編」をようやく執筆し始めました。少しずつゆっくりと書いていきますので、気長にお付き合い下さいね。(^^;

 お二人にお願いなのですが、ある程度纏まりましたら、先日お会いになった香澄倶楽部のみなさんにブログを観ていただけるようご連絡いただけたら嬉しく思います。

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水野三郎右衛門元宣「続編」 (FFT)
2006-07-02 22:23:11
ヘロンさん水野三郎右衛門元宣の「続編」編集お疲れ様でした。

時間をかけ拝見いたしました。

私も水野忠精まではある程度チェックはしていましたが、三郎右衛門元宣については山形にとっては大恩人のはずですがほとんど調査確認ができていませんでしたので大変参考となりました、続編を楽しみにしたいと思います。



香澄倶楽部の方へは、前回のお礼もありますので私の方から、連絡させていただきます。

参考としてヘロンさんが作成したC-3>水野三郎右衛門元宣と今回の続編の同(その2)をコピーし併せ送付したいと思っています。



水野三郎右衛門元宣の邸宅は実は、私の実家と同じ大手町の近所でして昔よく遊んだ所です。(昔、山形刑務所があった所で移転後にあのような公園となりました)
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香澄倶楽部 (∞ヘロン)
2006-07-04 01:43:49
FFTさん

拙訳を御覧いただきまして、どうもありがとうございました。このシリーズは、この投稿では2までですが、全部で17までありますので、楽しみにしていてくださいね。

 それから、香澄倶楽部様へは、拙訳をご送付いただけるそうで、まことにありがたく存じます。どうかよろしくお願いいたします。m(__)m

 水野三郎右衛門元宣の邸宅址へは、昨年残念ながら訪ねることは出来ませんでしたが、直ぐ近くの「最上義光記念館」へは、☆∞ツチノコ柏崎乗継さんに案内していただいて行ってきました。しかしご実家が大手町とはかなりのお家柄なのですね。

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屯田兵 (∞ヘロン)
2006-07-04 02:01:15
蓮花さん



 当史料を読んでいて、「あとがき」に、発行者:松野尾繁雄氏(元永公の五男元明氏で松野尾政右衛門子の養子となったその息子)が、祖父母政右衛門様、父母元明氏夫妻らと共に、明治二十三年(1890)、屯田兵として北海道滝川市に移住し、原野で鋤鍬を初めて握り酷寒困窮の日々を過ごされたとか、当時の御苦労が偲ばれますが、蓮花さんのご先祖様もご一緒に行かれたのでしょうかね。

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あしあと。 (蓮花)
2006-07-08 08:49:11
父が住んでいた場所に2年ほど前に行きましたが、天塩郡という、稚内の近くの場所でした。

滝川市からはもっと北になります。



父に聞いてみましたら、曽祖父が北海道に行っていた可能性があるかもしれないとの事でした。

戸籍で判ればなと思い、役所に連絡してみようかと思っています。



祖父の兄弟も北海道に移住していたようです。





香澄倶楽部には私も近いうちにご連絡して、正式に倶楽部の会員にさせていただきたいなと思っています^^
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Unknown (∞ヘロン)
2006-07-09 17:53:54
蓮花さん

 天塩郡を地図で調べましたら、なんと日本の頭頂部にあって、しかも利尻島を近くに望む地なのですね。

明治維新後は、実に沢山の方々が御苦労をなさったことで、今日の繁栄の基が築かれたことに、改めて感謝しなければなりませんね。

現在、水野三郎右衛門のシリーズを翻訳していて、当時の八方塞がりの状況に切ない思いがいたします。



 蓮花さんも正式に香澄倶楽部の会員になられるようで、わたしも嬉しく思います。この史実をいつまでも引き継いでいっていだきたいものですね。



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香澄倶楽部 ()
2008-07-25 00:59:03
香澄倶楽部の入会資格は藩士の子孫であればよいのでしょうか?
私の母方の祖父は明治23年7月に山形市の香澄町から南滝の川に屯田兵として移住しています。
除籍謄本から兄が戸主で士族となっています。また移住前に士族の養子となり戸主となっています。
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歓迎>蚊さん (∞ヘロン)
2008-07-25 07:15:04
 蚊さん、いらっしゃいませ、ようこそマイ・ブログにお越し下さいました。
 香澄倶楽部の入会資格についてのお尋ねですが、この件については、FFTさんがお詳しいようですが――

豊烈神社社務所
TEL : 023-642-7108
住所 : 〒 990-0045 山形県山形市桜町7-47

にご連絡されると、詳細が判るかと思いますので、よろしくお願いいたします。
これを機会にまた拙ブログをお尋ね下さいね。


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